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黒く泣く

作者: 野中 すず

 吉沢由依は、事務机に押し付けた左手を睨みつけていた。

 左手の指は五本とも限界まで開かれていて、白い肌には青い血管がはっきりと浮かんでいる。

 顔の横に掲げられた右手には、ボールペンが握り締められている。

 今、彼女は強烈な衝動に襲われている。


 「自分の手をつらぬきたい」 

 

 右手が小さく震え始めた。

 そのとき、午前中の仕事の終わりを告げるチャイムが鳴り、彼女は我に返った。息をつき、ボールペンを机に転がす。

 この、自分でも全く理解出来ない衝動に取り憑かれたのはいつからだろう? 

 しかも突然やってくる。ストレスも天気も季節も関係ない。だから予測も出来ない。

 ただ、彼女は確信出来ていることもあった。さっきもそうだったが本当に「やってしまう」ことはない。そうじゃなきゃ、あたしの手のひらはとっくに穴だらけだ。

 彼女は昼食のため、席を立った。


 ほとんどの男性社員は社外に食べに行き、女性社員は弁当を持参しているため、社員食堂を利用する人は少ない。

 今日も空席ばかりの食堂で、彼女は目的の背中を見つけた。いつも彼は新聞を読んでいる。 

 十二月の日替わりメニューを注文し、彼のテーブルへ行き正面に立つ。

 緊張していることを悟られないために「ここに座るのが当たり前」のように座った。

「水元さん、お疲れ様です」

「ああ、吉沢さん、お疲れ様です」

 彼は声をかけられて、初めて彼女に気付いたかの様に新聞から顔を上げた。

 毎日のこのやり取りに、全く慣れない。「空席だらけなのに、なぜ同じテーブルに来るのか?」と思われてそうで怖い。

「ここ、いいですか?」なんて絶対に訊きたくない。断られたとき、あたしはどうなるんだろう。

 しかし彼は何も言わず、新聞に目を戻した。

 あたしがここに座るのを嫌がっていないと感じる。ただ、喜んでいないとも感じる。

「水元さん、やっぱりスマホじゃダメですか?」

 彼はまた顔を上げた。

「ええ、無駄なこだわりだとは思うんですけどね。何かこう、紙のほうが私にはしっくりきますね。吉沢さんは全く新聞読まないですか?」 

 新聞だけではない。この人があまりスマホを使いたがらないことを、あたしは知っている。時間はお気に入りの腕時計で確認するし、コンビニでも財布から現金で払っている。

「あたしは、スマホとテレビばっかりですね。ただあんまりキツい事件とかは、最後まで見れないときがあります。殺人事件とか特に」

 その言葉を聞き、彼は少しだけ下を向いた。


 「そうですね。……本当に。どんな感じなんでしょうね」 


 その返答に彼女は違和感を感じたが、彼が注文したメニューが来たため会話はそこで途切れた。


 食事を始めた彼を眺めながら、彼女は思い返していた。

 十八才で入社したとき、事務職で必要な知識、技術を指導したのはリーダー職をしていた5才年上の水元だった。

 彼は常に敬語で接してきて、「吉沢さん」と呼び、当然ながら指一本触れなかった。

 彼女はそんな彼に惹かれていった。一つだけ不思議なのは俗に言う「浮いた話」が全くないことだった。 


 あれから三年経ち、二十一才になった彼女は少しだけ理解していた。

 親切で丁寧な指導をしてくれたのは、優しさからじゃない。仕事だからだろう。

 「吉沢さん」呼びも、指一本触れなかったことも、余計なトラブルを避けたかっただけだろう。


 ……「だからあのとき抱いた恋心も若気の至り」では処理出来なかった。 


 あたしはこの人が好きだ。


 でも、この人はそんなこと知らない。あたしに興味がない。

 去年、違う部署に異動したとき、残されたあたしがどれだけ寂しかったかも分からないだろう。

 今は基本的に食堂でしか会えない。

 しかし食堂で会っても、何も進展しない。


 気持ちを伝えたら、この人は困るんだろうなあ。あたしが一番傷つかない断り方を必死で考えそう。 


 ため息をつく。彼女の予想以上に大きなため息だった。

 彼が箸を止め「どうかしましたか?」と訊いてきた。

 慌ててごまかしながら、彼女は「だいたい、たまに手をつらぬきたくなる女ってなによ?」と思っていた。


 金曜日、彼女は六回目の衝動を抑え込みパソコンに向き直った。定時まで三十分しかない。

 今日は、早めに片付けないといけないのに。こんな日に限って六回って、なんの嫌がらせよ。 

 今日は社内の忘年会がある。残業は出来ない。

 あたしはやっぱりおかしいのか。 

 やっと仕事を終え、パソコンをシャットダウンしたとき、定時を知らせるチャイムが鳴った。同時に七回目がやってきた。

 やっぱりおかしい。

 



 三時間後、彼女は帰路についていた。先輩たちの二次会の誘いを断るのに手間取ってしまった。

 お酒はあまり得意じゃない。今でも酔っているのが分かる。

 少し赤くなった顔で、いつものバス停近くまで来たとき、彼女は驚いて足を止めた。

 バス停に、白いコートを着た彼が立っている。

 慌てて駆け寄った。

「水元さん、どうしたんですか?」

「ああ吉沢さん、お疲れ様です。今日、ウチの部の飲み会だからバスで来たんですけど」

 「ウチもです。どのくらい待つんですか?」

 「確認してないです。どっちみちバスが来るまで待つしかないですから」

 「え!?」

 言ってることは分かるけど、時刻表くらいみたらいいのに。そもそもお店出たときにスマホで調べたら、こんな寒いとこで待たずにすむのに。

 彼は、彼女のそんな考えを察したらしい。

「酔いざましも兼ねてるんですよ。冷たい風が気持ちいいです」 

「でも今日は寒すぎですよ。どこ行きのバス待ってるんですか?」

 彼が言ったバスを調べる。来るのは四十分後だった。彼女が乗るバスは八分後だった。

 彼女はあるアイデアが浮かび、迷った。それは彼を騙すアイデアとも言える。

 こんなチャンス滅多にない。彼が待ってるバスがまだまだ来ないのは本当のことだし……。

 彼女は決めた。

「水元さんが待ってるバス、四十分来ませんよ。あたしが待ってるのは五十分です。近くに、たまに行く喫茶店があるんですけど、そこで時間つぶしませんか?」


 ……嘘をついてしまった。


 やはり罪悪感を感じる。

 しかし、彼はそんな彼女にあっさり賛同した。

 「そうしましょうか。正直やせ我慢してましたが寒いですね」

 彼は笑った。


 喫茶店に入ると彼女は紅茶を、彼はコーヒーを注文した。

 男性と来たのは初めてだったが、白髪頭の店主は普段と何も変わらない。いつもどおりの無愛想だ。

  

 そんな店主が持って来た紅茶は暖かく、優しかった。

「水元さん、その白いコート似合ってますね」

「そうですか。ありがとうございます」

「男の人でめずらしいですよ」

「あまりファッションとかよくわからないので……。褒めてもらうと嬉しいものですね」

 彼はまた笑顔を見せた。普段、あまり彼は笑わない。

 あたしと同じで、少し酔ってるのかもしれない。

 そう思った彼女は、普段訊けなかったことを訊いてみた。

 「食堂であたし、いつも水元さんのテーブル行ってますけど迷惑じゃないですか?」

 「まさか。私は吉沢さんと話をするの楽しいですよ」

 彼女はその言葉と、少しの酔いに背中を押された。もう、今、言えなかったら一生無理だと思った。


「あの……あたし今、すごく観たい映画があるんですけど、明日一緒に観に行ってくれませんか?」

 

 彼の困った表情を見て、彼女は猛烈な後悔に襲われた。

 ――気持ちを伝えたらこの人は困るんだろうなあ。あたしが一番傷つかない断り方を必死で考えそう。だいたい、たまに手をつらぬきたくなる女ってなによ?

 毎日、思っていたじゃない。月曜からあたし、どうすればいいのよ。

 しかし、彼の返事は何か違った。

 「私とですか?私なんかと行くくらいなら一人で行った方がよっぽどマシだと思いますよ。」

 傷つかない断り方とかじゃない。この人は本気で言ってる。

 なぜ?「浮いた話」がないことも何か関係してる?

 「あたしは水元さんと行った方が楽しいと思います。」 

 そして再確認の意味でも言い加えた。

 「やっぱりあたしみたいな・・・おかしな女だから駄目なんですか?」

 「私は吉沢さんのことをおかしいと思ったことはありませんが。」

 「ならお願いします。」 

 彼はしばらく考えて「・・・分かりました。明日ですね。」と答えた。 

 「明日、時間とかメールします。」

 このやりとりを背中で聞いていた店主が小さく笑みを浮かべたことを二人は知らない。


 彼女は自宅アパートに帰宅した。寒い部屋の中で今夜のことを思い返してみる。

 明日、彼と一緒に映画を観る。そうなったいきさつもはっきり憶えている。かなり強引だったと思う。普段のあたしなら出来ない。嫌われてしまう危険を感じて引いただろう。

 しかし現実味がない。こんなことがあるんだろうか。・・・いや、とにかく。

 まぐれだとしても明日があたしにとって大切な日なのは間違いない。ちゃんと準備しよう。一番可愛い服を着て、いつもよりお化粧して。

 そう言えば映画って今、なにをやってるんだろう?勢いで言っちゃったけど全然考えてなかった。彼女はスマホを出した。どんな映画を観たいと言えばいいのか分からない。 

 「たまに手をつらぬきたくなる女ってなによ?」

 不意に頭の中に聞こえてきたが彼女は無視した。


 彼は帰宅してテレビでなんとなくニュースを観ていた。

 頭の中では今夜の「失敗」を反省している。

 あんな約束するべきじゃなかった。何をやってるんだ、オレは。

 毎日、同じテーブルに来る彼女が自分に好意を持っていることには気付いていた。・・・いや彼女が新人の頃からそんな気がしてた。変に期待させない様に接してきたと思っていたが。

 台無しだ。 

 彼は大きなため息をついた。


 そのときテレビから殺人事件のニュースが聞こえてきた。彼の意識は全てそちらへ注がれる。

 ニュースを観ながら犯人のことを考えている。新聞で殺人事件の記事を読んだときも同じだ。

 どんな感じなんだ?

 人の人生を終わらせるというのは? その魂がない、お前が魂を抜いた死体を見ながら何を感じた?

 後悔? 罪悪感? それとも神になった様な昂りか?

 彼は考える。答えなど分かるわけがないと思いながら考える。そしていつもと同じ結論にたどり着く。


 やってみないと分からない。


 彼は自分でもこの感情は全く理解出来ない。

 ただ自分が普通じゃないことは理解出来る。そして自分自身を恐ろしく感じた。どこか狂っている。殺人に「お試し」などない。

 ・・・人と深く関わっては駄目だ。浅く、薄く、軽く。一人でいるべきだ。そうしていれば自分も他人も安全だろう。

 そしてそんな生き方を送ってきた。友人も恋人も作らなかった。  

 スマホも仕事以外では触らなかった。ネットの世界には自分の狂気を加速させる情報があふれかえっているだろう。

 しかし今夜、「失敗」した。その理由は?

 彼はまた、ため息をついた。

 今の生き方を心のどこかで寂しく感じていたのだろう。自分の人生の味気なさを彼女は少しだけ助けてくれていたと思う。

 失敗の原因は「寂しさ」と彼は結論付けた。

 とにかく明日は彼女と出かけよう。約束は守ろう。


 彼の結論は間違いではない。しかし大切なことから目を背けている。

 彼は彼女から映画に誘われたとき少しだけ嬉しかった。

 彼は彼女に少しだけ惹かれている。


 翌日冷たい風の中、彼が待ちあわせ場所に行くと既に彼女はいた。約束の十分前である。 

 「すみません。待たせました。」

 「いえ。あたしが早く来ちゃっただけですから。」

 「行きましょうか。」

 「はい。あの水元さん、映画は恋愛ものなんですけどいいですか?」

 「ええ。いいですよ。」

 そう答えたが少し彼は困惑した。恋愛を避け続けてきたので映画やテレビドラマでも全く興味が湧かない。

 表情に出さない様に気をつけて彼女と映画館へ向かった。


 映画を観ながら彼は混乱していた。

 なんだ、これは?

 かなりの話題作らしい。確かに同世代の男女の客が多く入っている。しかし、自分が興味がないジャンルだというのを差し引いても・・・。

 交際。別れ。交通事故。妊娠。病気。失明。記憶喪失。何もかも都合よく起きる話だと思う。話の展開が「運」と「偶然」ばかりだ。

 彼はこの物語を作った人間は卑怯だと感じた。

 ・・・乱暴な「運」と「偶然」。

 しかし信じられないことだが周囲の人たちからはすすり泣く声が聞こえてくる。 

 「おかしいのはお前の方なんだよ。」そう言われている気がする。

 彼は暗闇の中、隣の席の彼女を盗み見た。

 彼女は泣いていなかった。


 映画館を出た二人は近くのレストランで食事をとることにした。日は既に落ちていて風が冷たい。

 彼は「食」にも大したこだわりはない。彼女は事前にレストランを調べていたらしい。ついていくだけだった。

 少し彼女に申し訳なく感じる。

 彼女が何もしゃべらないことを不安にも感じる。


 レストランに入りテーブルにつくと彼女はいきなり「ごめんなさい。」と謝ってきた。

 彼が意味が分からず黙っていると彼女は言葉を続けた。

 「ひどい映画でした。出てきた人たち全員が自己中で愛とか思いやりとかゼロだと思います。一番イヤだなってのは最後の、私のことは忘れてって言いながら死んじゃうシーンです。あんなこと言われて死なれたら逆に忘れるなって言われてるのと同じですよね。あんな都会でやたらと偶然会うし。なんか雑だと思います。」

 彼女は水を一口飲んで更に続けた。

 「本当は昨日、あたし観たい映画なんかなかったんです。口実が欲しかったんです。・・・で、なんとなく女の子っぽい映画を後で探しました。嘘をついたことも謝ります。ごめんなさい。」 

 彼女は頭を下げる。

 

 このとき彼が感じていたのは危機感だった。

 彼女のことをもっと知りたいと思っている。なおさらこれ以上、関わってはいけない。彼女を傷つけるだろう。

 そして自分も傷つくだろう。


 頭を下げたまま彼女は口を開いた。

 「・・・めちゃくちゃなこと言っていいですか?」

 「いいですよ。」

 「また会ってもらえませんか?お願いします。」 

 彼は何も言えない。応えても断っても彼女を傷つける結果は変わらないことに苦しんでいる。


 ポタリと音が聞こえた。下を向いたまま彼女が流した涙がテーブルに落ちた音だった。

 彼は激しくうろたえた。

 彼は理解出来ない。こんな人間をなぜそこまで想えるのか。こんな人間のどこにそれほどの価値を感じるのか。 

 彼は彼自身のことが全く好きではない。だから理解出来ない。出来る訳がない。 


 「吉沢さん、顔を上げて下さい。」

 顔を上げた彼女はバッグからハンカチを出し、涙を拭いた。

 「嫌ですか?」

 震える声で訊いてくる。

 「あたしみたいなおかしな女、嫌ですか?」

 昨夜と同じことを言われるがおかしいのは自分の方だとしか思えない。殺人の感覚を知りたい、味わいたいと本気で願っている人間なのだ。


 ・・・全てを打ち明けようか?

 下手すれば自分は会社にいられなくなるだろう。 

 彼女は目を覚まし、関わってこないだろう。

 彼は決めた。不思議と迷わない。彼女には誠実でいたいと思う。その気持ちに嘘はない。全てを話す。全てを壊す。

 「吉沢さん、私もめちゃくちゃなこと言っていいですか?」

 彼女は少し戸惑ったようだが静かに頷いた。

 「もう一度言いますけど本当にめちゃくちゃな話です。でも信じてください。人に話すのは初めてです。」

 彼は話した。何もかも。彼女にとっては残酷なくらい丁寧にわかりやすく話した。 


 三十分後、彼は一人でコーヒーを飲んでいた。すっかり冷めている。

 彼の話が終わり彼女が無言で出て行った後、店員が申し訳なさそうに注文を取りに来たので頼んだものだ。 

 「これでよかったんだ。」と言い聞かせるがそんなに簡単な話ではない。

 彼女がそんなに簡単な存在ならそもそも今日会わないだろう。 

 彼は大きなため息をついた。

 ・・・月曜日どうすればいいのだろう。 

 

 月曜日の昼休み、彼は食堂で新聞を読んでいた。「いつもどおり」が一番いいような気がしていた。彼女と出会う前の「いつもどおり」。人と深く関わらず一人で生きていく。

 新聞に目を落としたとき、椅子を動かす音が聞こえた。

 顔を上げると真っ直ぐにこちらを見て彼女が正面に座っている。

 「水元さん、お疲れ様です。」

 「・・・お疲れ様です。」

 ああ、そうか。彼女も「いつもどおり」だ。「いつもどおり」で全て「なかったこと」にしようとしている。

 彼は少し安心した。これからはお互い浅い関係を続ければいいのだろう。

 彼女に感謝した。しかし次の一言で大間違いだと思い知る。

 「水元さん、あたしを殺してみたいですか?」 

 この一言は衝撃が大きすぎる。

 「・・・なに言ってるんですか?そんなわけないでしょう。」

 「そうですか。今後あたしを殺してみたいと思ったら言ってもらえませんか?」 

 「言ってどうなるんですか?」

 彼の頭の中に普段の冷静さはない。

 「逃げるか、戦うか、おとなしく殺されるかは、そのとき決めようと思います。だから、だからまた会ってもらえませんか?」

 「吉沢さん、なぜヤケになってるんですか?」

 「ヤケになんかなってません。真剣に考えて出した結論です。お願いします。」 

 彼は頷いてしまった。もはや「失敗」と考えることすら出来なかった。

 彼女は「じゃあ、またメールします。」と言うと行ってしまった。話すためだけに食堂に来たらしい。


 食堂を出てすぐ、廊下で彼女は目眩がした。凄まじい疲労感である。 

 レストランでの彼の話は信じがたいものだった。いや、自分に「手の衝動」がなかったら信じていないだろう。

 それよりも信じられないのは自分の気持ちである。

 やっぱり、あの人のことが好きだ。ヤケになってる訳ではない。

 後でメールしよう。今度はあたしが本当に観たい映画を観よう。


 その週の金曜日、仕事を終え彼女は白い息を吐きながら待ちあわせ場所に向かっていた。前回と同じ場所である。  

 「あっ」彼女は足を止めた。

 彼が既に来ていた。まだ約束の十五分前である。先週、彼女を待たせたことを気にしたのだろう。

 「ごめんなさい。」

 「いえ、そんなたいしたことじゃないですよ。」

 「行きましょうか。」

 二人は映画館へ向かった。

 今回、彼女は本当に自分が面白そうだと感じたミステリーを選んでいた。


 映画を見終わった二人は先週と同じレストランで食事をしていた。

 彼女にとって辛い思い出の場所でもあったがもう一度ここに来てやり直したい気持ちもあった。 

 彼も今回の映画を楽しめたらしい。

 二人で映画の感想や職場での出来事などを話しているだけで幸せだった。

 先週ここで聞いた話など悪い夢だったような気がする


 食事を終え店を出ると彼は「タクシーを呼びます。」とスマホを取り出した。あたしを家まで送らせるつもりらしい。

 「いえ、歩いて帰れますよ。大丈夫です。」 

 「そんなに近くに住んでるんですか?」

 「歩いて三十分くらいです。先週も歩いて帰ったんですよ。」

 彼は少しだけ考えて言った。

 「わかりました。一緒に歩いて行きましょうか。送らせて下さい。何かあったら大変です。」

 そんな優しいことを言って貰えるなんて彼女は考えてもなかった。 

 「ありがとうございます。」

 二人は彼女の家に向かって歩きだした。

 

 「寒いですね。吉沢さん、大丈夫ですか?」

 「大丈夫ですよ。」

 二人で歩く。たいして会話もないし当然、彼は手を繋ごうなんてしない。

 それでも彼女は満たされている。

 空を見ると真っ白な満月が輝いている。

 「水元さん、月っていいですよね。うまく言えないけど憧れるんです。」

 「・・・憧れですか?」

 「太陽みたいに自己主張しないで静かに光ってる感じが好きなんです。そんな人になれたらなって思います。」

 

 彼は何も言わなかった。月に照らされた彼女の横顔にみとれてしまい何も言えなかった。


 彼女を送り、彼は一人帰路についていた。「コーヒーでも飲んで行きますか?」と彼女は言ってくれたが遠慮した。

 このくらいの関係でいい。これでも過去の自分にはありえない行動だと思う。

 今夜の出来事を思い返す。なにか暖かい気持ちが湧いてくる。

 彼はどこか浮かれていたのだろう。前から人が歩いて来たことに気付くのが遅れ肩が少し当たった。

 次の瞬間、強烈な蹴りを腹部に受け彼は転倒した。呼吸が上手く出来ず立ち上がれない。

 「ボケッと歩いてんじゃねえよ、馬鹿が。」

 顔を上げると若い金髪の男がこっちを睨んでいる。


 一瞬だった。一瞬で彼の頭の中は切り替わった。

 こいつか?オレが「お試し」をする相手はこの男か?こんな人間、オレが殺したところで誰も困らないだろう。 

 様々なプランが頭に浮かぶ。真正面からやり合わなければ方法はいくらでもある。今までありとあらゆる設定で妄想してきたのだ。

 思わず笑いそうになる。

 ・・・遂に「来た」。


 しかし彼の思考は普段の状態に引き戻されてしまった。男の肩越しに見える月の輝きに彼女を見た。

 彼が全く動かないことで男は気が済んだらしい。「腰抜けオッサン。」と言うと顔に唾を吐きかけ行ってしまった。

 痛みを耐えながら彼は立ち上がった。腕時計のガラスにヒビが入っている。


 月曜日、彼女はいつもどおり彼の正面に座ってきた。

 彼は彼女の表情が普段と少し違うことに気付いた。なにか緊張している。

 「水元さん、今週の木曜って会えませんか?」

 「木曜?金曜じゃなくて木曜ですか?」 

 彼女の表情がさらに固くなる。彼は不安になった。

 「あの、木曜日、クリスマスなんですけど・・・。」

 安心した。全く意識していなかった。

 木曜は多分、残業しなくてもいいだろう。

 「いいですよ。じゃあ木曜にいつものとこで待ちあわせしましょう。」

 彼女はやっと表情を緩めて笑顔を見せた。


 木曜日、彼は雪の中、傘を手に待ちあわせ場所まで急いでいた。彼女が「似合う」と言ってくれた白いコートを着ている。

 急な案件が入ったため約束の時間を十五分ほど過ぎていた。遅れることはメールしたがやはり申し訳ない。

 ようやく待ちあわせ場所が見え彼女の姿を確認したとき異変を感じた。彼女の前に男が一人、立っている。こちらに背中を向けているため、よくわからないがどうやら彼女を誘っているらしい。

 その男に一歩一歩近づく度にある疑惑が確信へ変わっていく。

 彼は彼女と見た恋愛映画の感想と同じ言葉を頭に浮かべた。

 ・・・乱暴な「運」と「偶然」。

 男はあのときの金髪男だった。


 十分前、彼女は待ちあわせ場所に到着していた。

 「遅れる」とメールを貰ったのに結局、約束の時間とたいして変わらない時間に来てしまった。浮かれてるのかもしれない。

 雪が降り始めたので傘を開く。

 しばらくすると金髪の男が近付いてきて「どっか遊び行こうよ。」と誘ってきた。意外過ぎて最初、自分のことだと分からなかった。 

 当然、断わる。予定は決まっていてその男性を待っている。 

 全く理解出来ないのだが説明を聞いても男は諦めない。「約束の相手が来る前にどこか連れて行けばいい。」とすら思っているようだ。

 男はしつこい。たいした美人でもないあたしに断られたことに腹を立てたのだろうか。


 しばらくすると男の背後に彼が見えた。彼女は安心する。それと同時に気が緩み涙がにじんだ。

 そのとき男が彼女の腕を乱暴に掴み大声で彼女を「いい加減にしろよ!ブス!」と侮辱した。

 にじんでいた涙が流れた。


 男は気付かなかったがそれを彼は全て見ていた。「とにかく話をしてこの男を追い払おう。こんな日に余計なトラブルは御免だ。」そう思って冷静に話しかけようとしたとき男が彼女の腕を掴んで怒鳴ったのだ。彼女の涙が流れた瞬間が全て決めた。

 前回は彼女の存在が彼の衝動を止めた。彼女のためだと思った。

 今回は彼女の存在こそが彼の衝動を強烈に加速させた。彼女のためだ。 

 傘を畳んで先端を手に持ち替えた。

 男は目の前にいる。

 

 彼女は傘を持ち替えた彼がしようとしてることを理解して戦慄した。

 ダメ、絶対ダメ!絶対にダメ!

 しかし震えて声が出ない。口を動かしてもパクパクするだけだった。 

 やめて、やめて、やめて。

 彼がピタリと止まった。そして少し微笑んだ。

 伝わった・・・。

 彼女が安心した瞬間、彼は傘の持ち手を男の後頭部に叩きつけた。男は無言のまま彼女の腕を離した。

 

 傘を持ち替えたとき、確かに彼は彼女が口だけ動かして何かを伝えようとしていることに気付いた。

 そして彼女のメッセージを理解した。完全に妄想に占領された頭で理解した。

 殺って!殺って!殺って!

 彼は嬉しくなって思わず笑った。

 まず、コイツの頭を叩き割ってやるよ。


 頭を割られた男にすかさず彼は二発目を入れる。傘の持ち手は完全に曲がってしまった。男の後頭部から血が大量に吹き出し彼を赤く染めていく。彼女の前に男はうつ伏せに倒れた。ビクビク痙攣している。 

 彼は傘を持ち直す。曲がってしまった持ち手の根本を握り締め金属製の先端を男の背中に向けた。

 彼は全く躊躇しない。三回、男の背中に傘を突き刺したとき傘が完全に変形した。男の背中からも血が吹き出し彼を染める。

 彼女には長く感じられたが最初に彼が傘を持ち替えてから二十秒も経っていなかった。

 呆気にとられていたのか、静かだった周囲の人々がざわつき始めた。

 「あたしがナンパされて困っているときは無視してたくせに!」

 誰よりも彼女が一番早く動けるようになり茫然と立っている彼の腕を掴み走り出す。傘は男の背中に刺さったままだった。

 走る彼女の後方からやっと悲鳴が上がった。


 二人は古い雑居ビルの屋上にいた。走りながらビルの横の非常階段を彼女が見つけ彼を引きずるようにして上がり、屋上へ逃げてきた。

 何も言わない彼を彼女は思い切り平手打ちした。それだけで彼女の手のひらには血がベタリと付いた。

 「どうですか?妄想を現実にした感想は?」

 しばらくして彼が答える。

 「たいした満足感もないです。妄想は妄想だからいいのかもしれませんね。」

 この妙な冷静さに彼の狂気を感じる。 

 「これからどうするつもりですか?」

 「警察に行きます。逃げ続けるのは面倒だし自殺するのは陳腐ですから。」

 この質問には彼は即答した。ずっと前から決めていたのかもしれない。

 そして無言で彼女に背を向け歩き始めた。

 しかし数歩、歩いたとき「あ。」と言うと戻ってきた。血まみれのコートのポケットからリボンがつけられた細長い箱を出し渡してくる。

 「クリスマスプレゼントです。褒めてくれたこのコートも真っ赤になってしまいました。まあこれはこれでサンタっぽくていいですね。」 

 彼女は彼を恐ろしいと思う。なぜ、こんなときにそんな冗談みたいなことが言えるの?

 ・・・でも、それでもあたしは。

 彼女は彼の顔に両手を添えて口づけをした。強烈な血の味がする。

 「あたしはあなたのことが好きです。お願いだから忘れないでください。」    


 彼は静かに答えた。

 「当たり前でしょう。これでも私なり・・・オレなりに大切に思ってたんだよ。」と言うと小さな声で一言付け加えた。 

 「・・・由依ちゃん。」

 彼は振り返らず彼女から去っていった。彼女も何も言えなかった。


 帰宅した彼女は靴も脱がずにフローリングの上に座り込んだ。あれからどうやって帰ってきたのかも分からない。照明を点ける気力もない。 

 ポケットに固い感触を感じて彼からのクリスマスプレゼントを思い出した。

 リボンと包装紙を丁寧に外す。これもプレゼントの一部だから。

 中身は淡いピンクの万年筆だった。女性へのプレゼントに万年筆を選ぶ不器用さと女性へのプレゼントだからとピンクを選ぶ優しさが彼らしいと思った。

 ある考えが浮かび彼女は立ち上がった。

 ・・・妄想は妄想だからいいのかもしれませんね。

 彼はそう言った。妄想を現実にしてから言ったのだ。


 彼女はキッチンの小さなカウンターの上に左手を置いた。そして箱から取り出した万年筆を右手に握り締め振り上げる。迷いはない。全くない。 

 一気に左手に振り下ろす。骨はまぐれで避けたらしい。カウンターに万年筆の先端が当たった感触を感じる。

 左手を上げ更に万年筆をねじ込む。先端は3センチ程度、手のひらから突出している。万年筆の先端は開いてしまいインクがポタポタと垂れていた。

 少し遅れて気を失わないのが不思議なほどの激痛が襲ってきた。

 しかし後悔はない。平気なふりをして左手で髪をかき上げた。万年筆の割れた先端が左頬に当たり激痛が更に増す。左頬には先端が通った位置に黒い線が描かれた。

 ずっと我慢していた涙が溢れ出た。左目から流れた涙はインクと混ざり黒く染まって落ちて行く。

 もう、彼女は自分が泣いている理由さえよく分からない。

 彼が人を殺したから?

 彼に想いが通じたから?

 左手が痛いから?

 ・・・いや違う。理由は今、わかった。


 あたしはこんなことをしても彼に全然近付けないことを知って泣いているんだろう。


 彼女のバッグの中では彼にプレゼントとして用意した腕時計が時を刻んでいる。

 この腕時計が彼の腕に巻かれる時を刻むのか、刻まないのかは誰にも分からない。

               終

 

 

 最後まで読んで頂きありがとうございます。この物語に救いがあるのかないのかは読んだ方々に自由に決めて欲しいと私は思っています。 

 今後の参考にしますので感想頂ければ嬉しいです。酷評でも遠慮なく容赦なくお願い致します。一行でも有り難いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 彼の狂気が現代的な点。 あえて言語化するならば、理性的な狂気とでも言いましょうか。 昨今の発覚し辛い、知能が高く計画的な狂人と同じ匂いがしました。 淡々と(でもないですが)した文体に静かな…
[良い点] 深いです。読後に漂う雰囲気が良いです。 二人に”愛”があるので、関係は続くのでは?なんて思いました。
[良い点]  鬼気迫る描写がよく描けていると思います。 [気になる点]  3人称と1人称を組み合わせた作品は良くありますが、わざわざこの作品でそれをする意味は見つかりません。  2人の内面の醜さを…
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