殺したいほど憎いあなたへ
私はあなたが憎い。
あなたさえいなければ、きっと私は幸せでいられた。あなたがいなければ、私はこうも苦しくなかった。
けれど、私はあなたに感謝もしています。
憎いあなたに出会えた、そのことを。たしかに感謝しているのです。
だから私は迷うのです。考えるのです
殺したいほど憎いあなたに、今どんな言葉を伝えれば良いのかを。
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私は幼い頃から優秀でした。
歴代の侯爵家、その男児の中でも随一の才子と言われるほどに。
齢10の時には父に意見し政治を動かし、齢12の時には貴族学院の全ての単位を修め、自分で0から築いた商組織を大きなものに成長させることに成功しました。
けれど私の一つ年下のあなたはそれ以上に優秀でした。
王家の血筋、歴代の姫君で最も賢き者と言われるほどに。
専門家達に解読不能と言われた王家の古文書を齢7で解き明かし、齢9の発言と行動で大国同士の戦争を止め、齢11の頃にはその手で手がけた数多くの絵画や音楽、発明品などを世界に知らしめていました。
白銀の美しい髪を持つ、宝石の姫と言われたあなた作り上げた多くの美術品は、世界に轟く最高級のブランドとなっていました。
私は10年に一人の天才と言われましたが、あなたは有史以来の傑物と呼ばれました。
女王の認められないこの国で、それでも齢16のあなたを王位に据えんと、多くの者が立ち上がってしまうほどに。
ああ、そうだった。
いかにあなたが優秀といえど、好き勝手に動いてしまった臣下ら全てを把握し、抑えることはできなかった。
いかにあなたが優秀といえど、あなたに王になる野心がないという、目に見えないものを証明することはできなかった。
いかにあなたが優秀といえど、王国の最高峰の兵の指揮を任された私と対峙し、囚われる運命に抗うことはできなかった。
いかにあなたが優秀といえど、あなたは世界には敵わなかったのです。
「私を捕らえたのが貴方で良かった」
首に鎖を繋がれ、王都へ向かう護送馬車に載せられたあなたは、その監視のために同乗していた私に向けてそう言いました。
「それは私が相手なら逃げ出せる隙がありそうだということですか?」
「いいえ、違います。むしろ逃さないでくださいませ。その程度の相手に捕まったとなれば私としてもとても業腹です」
あなたはとても気が強かった。
即時殺処分の権限を与えられた私を相手に、微塵も恐れる態度がない。
重い鉛の腕枷に、装備者が走れないような棘だらけの足枷を受けながら、それでも王座に座る上位者のごとき威光を示していた。
強い姫の顔だ、と。
私はそう思いました。
その姫の顔をしたあなたは私に、こう続けました。
「種は蒔き終えています。私はこの後、10年は生きられるでしょう。その間は牢獄塔の上で、ただひたすらに芸術にのみ携わる存在として扱われる。貴方にここで殺されさえしなければ、ですけれど」
不思議なことを言う、と私は思いました。
当時私に、貴方に対する個人的な感情は薄かった。
学校の飛び級制度の限界で、同年代の私とあなたはほぼ同じタイミングで貴族学院の学年を駆けあがり、その存在は認識していました。
幼き頃、対抗意識を覚えていたこともたしかにあります。
けれど、あなたのその圧倒的すぎる功績や、間近で見る、わたしには超えられない壁を易々超えていく姿を見て、いつの日にか自分とは別の存在なのだと思うようになっていました。
自分とは異なる存在に、どのような感情を抱けるものでしょう。
結果として王国に仇なす存在となったあなたを哀れに思う気持ちはあれど、王国が下す裁判を待たず、個人的な感情の発露であなたを殺したいと思うほどのエネルギーは私の中にありませんでした。
「私には、今ここであなたを殺したいと思う動機がありません」
返した言葉と同時に、護送車が止まりました。
扉が開き、引き渡し場に無事辿り着いたことを知らせる伝令が入り、私はそれに頷きを返しました。
車内の部下達が剣を抜いて有事に備えた構えをとったことを確認してから、私はあなたの枷をはずすために近づきました。
「動機はきっとこれから生まれます」
一瞬のことでした。
後ろの部下達も、伝令の人間も誰もそれを見てはいなかったでしょう。
あなたの小声に思わず顔を向けてしまったその瞬間。
唇に何か柔らかいものが触れた感触。
そして、直後に貴方が見せた、哀しさなのか喜びなのかさえわからない何かの感情の浮かんだかすかな笑顔。
その二つは、私にとってそれ以降、片時と忘れられないものになりました。
あなたへ下された判決は、おおよそあなたが語った通りになりました。
あなたは王国の牢獄塔の最上階に幽閉され、そこで生涯、詩や音楽、絵画を描くことなどだけが許されました。
私はあなたが捕えられる以前、そうした芸術への興味はありませんでした。
けれど、大罪人であるあなたの生み出した商品を扱える者はどうしても少なく、私の商会でそれを取り扱うことになっだことで私は初めてそれらに触れることになりました。
あなたの作り上げた芸術の世界は素晴らしかった。
最低限の教養以外に芸術への造詣のない私に、それでもあなたの新しい絵を、あなたの次の詩を、まだ見ぬあなたの音楽を求めさせてしまうほどに。
そしてそれらに触れるたび、私の頭の中にはあの日の唇の感触とあなたの笑顔がちらつきました。
王城への登城を許され、そこでの仕事に向かう途中、目に入る高い監獄塔の上にいるはずのあなたがとても気になるようになりました。
とても良くない傾向です。
それが、あなたが用いたハニートラップと言われる手法だと私は気付き、それを振り払わねばと思いました。
次期侯爵として、婚約者との正式な婚姻を王に報告に行く前日、私は監獄塔を訪れていました。
「この通り、王の承認をいただいています。かの者が創る商品を扱っている身として、どうしても直接話をしなければいけないことができました。お目通りを願いたい」
「確認しました。どうぞこちらへ」
正規の方法で承認を取り、私は正面からあなたに会いに行きました。
「あら、お久しぶりですね、次期侯爵様」
鉄格子の向こう、王城の使用人が使う程度の小さな部屋の中で、あなたは足こぎ式の機織り機を使っていました。
「あなたの思惑には乗りません」
「再会の第一声がそれですか。女性の扱いがなっていないようですね。それに思惑とはいったい何のことでしょう」
とぼけるあなたの手の中で、また新たな芸術品が仕上げられていく。
惚れ惚れするほど美しい織物でした。
囚われの身でありながら尚、絹のように艶やかなあなたの白銀の髪。それにも負けぬほど美しい織物が出来上がっていきます。
「あなたは私を惑わそうとしている。その色香で。とても卑しい女だ、あなたは」
「さて、私があなたを惑わそうとしたことがあったでしょうか」
私の心中にふつふつと、煮えたぎるような怒りが湧いてきました。
ですが、心を惑わすことはすなわち、この目の前の才女に漬け込まれることにつながりかねない。
そう思い、私は今日の訪問の要件を告げました。
「私は明日、正式に婚姻を結ぶことになりました」
「そうなのですね。おめでとうございます」
あなたの手の中で、機織機は変わらず動き続けます。
全く意に介した様子のない貴方に私は告げました。
「あなたの企みに私が乗ることはない。妻を得た私が、もうここにやってくることはない。あなたは生涯ここでこうして芸術品を作り続けるのです」
機織り機は変わらず一定の動きを繰り返します。
「ええ。そうなることはあの日から分かっていました。全て私の想定のうちです」
「ならば何故ーー」
私に口づけをしたのかと。
問いかけようとし、私はやめました。
関わりを切ることを決断した今、それは意味のない問いかけだったからです。
私は黙って立ち上がって外套を纏い、あなたに背を向けました。
「侯爵様、どうぞお幸せに」
あなたがどのような顔でその言葉を告げたのか、私にはついぞわかりませんでした。
機織り機の音が聞こえなくなるほど下まで塔の螺旋階段を降りてから、私は胸の奥が無性に冷え冷えとしてくるように感じました。
そこに収まるべき何かを得る機会を、私は永遠に逃してしまったのかもしれません。
そして私は親が決めた婚約者と、ごく普通の契約結婚をしました。
お互い特に思い入れのある相手同士と言うわけではありませんでしたが、彼女はとても意志の強い人のようで、結婚の折には、王国を良くしようとする私を全力で支えると真っ直ぐな瞳で告げてきました。
それを見て、おそらく彼女となら上手くやっていけるだろうと、そう思うことができました。
やがて私は正式に侯爵として受勲を受けました。
侯爵としての仕事が忙しくなったこともあり、一年、また一年と瞬きの間に時が過ぎていきます。
そして時を経るにつれ、私の商会の目玉商品であったあなたの芸術品の売れ行きが徐々に悪くなっていきました。
一審美者としての私の目からは、あなたの作り出す品の価値が落ちたようには見えませんでした。
けれど、市場と世間を見る商人としての私の目から、その理由ははっきりとわかりました。
あなたの作る作品は、時代にあっていないのです。
それも当然のこと、あなたが塔に幽閉されてから、世の中は大きく変わりました。
貧するものは減り、王都は以前にもして美しい街並みとなりました。
あなたの作り上げた美しい美術品がなくとも、外に出ればその美しさを楽しむことができるのです。
貴族達の嗜好も変わりました。
あなたが作り上げた主流の音楽に飽き始め、異国の楽器を取り入れた楽団の演奏が持て囃されだし、そうした楽器を知らぬあなたの作る音楽は彼らにとって刺激の足りないものとなりました。
10年。
あなたは収監されたあの時から10年は芸術を作り続けることで生きていけると言っていましたね。
その理由がようやくわかりました。
あなたの腕は衰えずとも、今のあなたが作り出せるものの価値はどんどん目減りしていく。
輝かしいかつての宝石の姫を知る者はこの10年の間に減り続け、皆があなたの記憶を風化させていく。
ごく当たり前のその理屈を、私はとても寂しく感じました。
以前は自分で買うことすら碌にできなかったあなたの品を、いとも簡単に落札できてしまう。
我が家に運ばれたそれらの品々を見ながら、私は何か大事なものが土塊に変わり、風と共に消えていくような感触を覚えました。
そして、あの日から7年、私が24歳になった頃には、現王の老衰もあって王城の中で不安の種であるあなたを処分しても良いのではないかという話も上がり始めました。
ちょうど同じ頃に妻が身篭り、侯爵家待望の第一子が生まれることになりました。
妻の喜ぶ顔と、初めて胸に抱えた子供の元気な泣き声ににたしかな幸せを噛み締めたものです。
さらにそれから3年、私が27歳であなたが獄中で26歳を迎えたその日。
議会で、あなたの処刑が決定しました。
「ねえ、あなた。あなた宛の小包が届いておりますわ」
「小包ですか。はて、昨日だけでも無数に届いて、部下達に仕分けをお願いしていたはずですが」
あなたの処刑決定の知らせを受け、商ルートへの大がかりな影響調査と説明のために奔走していた私の元に、妻の手で
気になる知らせが届きました。
「その中に一つ、あなたの母校の印が入っていたものがあったそうよ。宛先の人間以外開封しないように書かれていたとかで、どうするべきか私に指示を仰がれまして」
「おお、懐かしい。貴族学院の重大な知らせなどは昔、そのようにやりとりしたのですよ。印の照合や開封せずにできる安全確認は済んでいるのでしょう? あとで私の書斎に運ばせてください」
他の人のように長く学院に通っていたわけではない私ですが、恩師と交わした討論や、学生の時にしかできないような基礎研究などの思い出はとても心に残っていました。
小包の送り主が覚えのある名前だったこともあり、書斎で包を受け取った私は、すぐにそれを開封しました。
「はて、これはなんですかね」
その中から出てきたのは、とても古い紙の束でした。
まあ、私が昔書いた論文か何かだろうと思って束ね紙を解くと、すぐにそれが私の書いたものではないことがわかります。
繊細な筆致、けれどどこか幼い丸みを残したような筆跡の字。
見覚えがあるような字体ではありましたが、明らかに私の字ではありませんでした。
特にこの紙束に関する説明書きのような添付物も見当たらなく、仕方なしに私はその紙束を読み進めることにしました。
その紙束は、1人の少女のつけた日記のようでした。
その少女はとても才能に溢れていたそうですが、それがたって、少女を疎んだ兄や姉らに遠ざけられていたとのこと。
姉達が悉く失敗した難度の高いダンスに一回で成功し、姉の記念日のはずのそのパーティで1番の脚光を浴びたり、兄がついたその場凌ぎの嘘の矛盾点を両親の前で指摘してしまい、深刻な隔たりを作ってしまったり。
分別がつく前、「これができるのが当たり前」という自分の判断基準のおかしさに気づけるより前、兄弟間の断絶は酷いものになっていたようです。
そうして、孤独なまま全寮制の学院に放り込まれた少女は、そこで自分の道標となる存在をみつけます。
その道標となる一つ年上の少年は、周りと違うことを恐れず、やりたいと思ったことを迷わずやる子供でした。
少女の目から見ても難易度が高めに思われたもの、他の誰も取り組もうとしないようなものにも取り組んでいくし、一つの分野に絞らず、やりたいことを好きなように楽しんで手を伸ばして取り組んでいました。
少女はその彼に倣って色々なことに取り組んでみました。
学業にも政治も、遠慮せずに手を出し始めます。
少年と同じように、きちんと周りに気を遣いながらであれば、少女の力は皆から喜ばれるものでした。
洞察眼を鍛え、自らの幼さも利用して父や母に擦り寄ろうとする下心のある者達を看破して遠ざけたり、圧倒的な情報処理能力と時代を感じるセンスを活かして、国が中心産業とするべきものについてアドバイスをしたりしました。
勉学に励み、とうとうあの少年と同じ学年まで追いつけた時は、喜びのあまり帰りの馬車へ向かう夜道で歌まで歌ってしまったとのこと。
少年は手をつけていなかった芸術の分野なども、やってみると少女にとってとてもやりがいのある楽しいものでした。
少年を見ている時に湧き上がる気持ち、少年に追いついた時の喜びの気持ち、それらを心に満たして譜面や手の中の道具を動かすと、自分でも驚くほどにいいものが出来上がったそうです。
少女は少年のことが好きでした。
けれど、少女がそのことに本当の意味で気づいた時にはもう、二人は短い学生生活を終えてそれぞれの才能を活かした仕事に携わるようになっていました。
少女は、学生時代に少年と話をしなかったことを後悔していました。
少年の後ろ姿を見ることを1番の楽しみにしていた少女は、それ故にその隣に自分がいることが何故だかとても不自然で畏れ多いことのように感じていたそうです。
けれど学生という繋がりがなくなり、主に芸術以外の商売の分野に進路を進めた少年と、次代の王家の顔、そして近隣諸国に名だたる「宝石の姫」としての生活で身の自由をほとんど確保できなかった少女の距離はますます開いていきます。
国の式典など、数少ない少年の顔を見られる機会を少女は待ち遠しく思いました、
式典中、少女は多くのお付きと挨拶に来た他国の重鎮達に囲まれ、中々彼に近づくことはできませんでしたが、多くの人に囲まれ、その皆を笑顔にしている彼を遠目で見ることは少女にとって我が事のように嬉しいことでした。
やっぱり彼とお話をしたい。
少女の想いが膨らみ、そして王国の情勢も落ち着いたころ、少女はほうぼうに手を回し、彼との対面の場を設けることにしました。
それは少女のいたずら心でした。
まっすぐの対面を申し込んでは、意外性のある対面にはなりません。
また、彼の優秀さを知っていた彼女は、少し遠回りにでも、自分の存在を彼女に気づかれないように動かなければどこかで勘付かれると思っており、王国中の様々なコネクションを利用し、ゆっくり計画を進めていきました。
その迂遠な動きの真意を知らず、中途半端に情報を掴んだ王国諸侯が、王国の才女が何か深謀な謀を企てていると予想し、真意を「女王の即位」と誤解したまま動き出してしまったことを、少女はずっと後に知ったそうです。
日記は、少女が恩師にこの日記の将来の配送をお願いしたところで途切れていました。
日記を読み終えた私は、執務室を飛び出しました。
執務室を出た先は、屋敷のすぐ中心。
侯爵としていくつか抱える屋敷の中でも、その屋敷は私が特に気に入っている家屋でした。
家屋は、私が正式に買い取ったあなたの芸術品で溢れていました。
絨毯、絵画、置物、オルゴールの奏でる音楽はもちろん、私の着ている服までも。
全てがその美しさを最も発揮できるよう、そうした設計で築いた屋敷でした。
それらとても美しいものたちが、いったい誰のどうしたエネルギーで作り上げられたか。
それを知って、私は喉の奥から獣のような叫びを上げました。
「旦那様!?」
私の声を聞きつけたか、屋敷の使用人達が駆けつけてきました。
纏った服ごと体を抱き、蹲って唸る私を困惑しながら眺めていたことでしょう。
どのように対応すべきか迷っていた彼らに代わって私に最初に歩み寄ったのは私の妻でした。
「ねえ、あなた、顔を見せて」
気づくと私は、妻に両頬を挟まれ、上から覗き込まれていました。
「ひどい顔……いつも余裕のあるあなたらしくもない。とても無様で、この上なく人間的な顔ね」
妻は私にこう言いました。
「あなた。今とてもやりたいことがあるんじゃないかしら? 何に変えてもやらなきゃいけないような、そういうこと。私には教えてくれなかった何か」
その言葉を聞いて、そして結婚当時から変わらない妻の強い瞳を覗いて、私の中で何かが動きました。
しかし、その動きが齎すものへの恐れが、同時に私の心を蝕みました。
「いや、だめです。たしかに今の私には動き出したい衝動がある。行きたいところがある。けれどそれは、今の幸せを破壊することなのかもしれないんです」
「それなら迷わず行きなさい」
妻は言い切りました。
「私は結婚した時、あなたを支えると言いました。子供が産まれた時には、その子も支えると言いました。あなたがすること、それで降りかかってくるもの、私が一緒に支えます」
ああ、なんて。
なんて私にもったいない妻なのだろう。
「行きなさい」
視界の端に、私たちの子供が映りました。
妻が先ほどまで一緒にいたのでしょう。
急に自分を手放して駆けていった母を求めて両手を伸ばしてぐずっている。
「……部下達を呼びもどしてください、至急やらなければいけないことができました」
私は立ち上がり、周りに向けてそう告げました。
横に立つ妻の強い瞳の端、そこに一筋の涙が流れていることを今だけは無視して。
「侯爵です。許可証はいただいていませんが、緊急の要件です、そこを通してください」
「あー、侯爵様すみません。特にお疑いしているわけではないですがこれも規則ですので」
「知っています。なのであなたがたには謝らなければなりませんね」
疑問符を浮かべた看守代表が、突如白目をむいて崩れ落ちました。
それを見て臨戦態勢を取ろうとした兵士達が同じ目を辿ります。
「異国の吹き矢。なるほど兵器としては弱いですが、暗殺用には最適ですね」
私は看守の腰に下がる鍵束を拾い上げ、いつか登った、頂上へ続く長い階段の前に立ちました。
私が頂上にたどり着くと、あなたは鉄格子の向こうで、こちらに体の正面を向けるようにして座っていました。
「侯爵さま、私からの贈り物はお気に召しましたか?」
「過去最悪のプレゼントでした。どうもありがとうございます」
かつて私に恋したという少女。
以前は諸国に名だたる宝石の姫として、今は囚われの身ながらも美しい白銀の美姫に成長したあなた。
二度と訪れないと告げたはずのこの場所に、私は今日、再びやってきました。
「なるほど、お気に召されたようですね。それで、今日はどのようなご用件でしょう?」
私の心を散り散りに引き裂いたあなたは、今日も優雅に微笑みました。
「……あなたが憎い。その気持ちを伝えに参りました」
「憎い? それはどうしてでしょう?」
ああ、なぜあなたはそうも美しいのでしょう。
「あなたが私の全てを奪い取ろうとしているからです」
私の唇を奪ったあなたが、目を覆うほどの醜女であったなら、私はこうなってはいなかったのでしょうか。
それとも、あなたの手が私の心を打つ芸術を生み出すことがなければ、私はこのような気持ちを抱かなかったのでしょうか。
私の言葉が口から溢れます。
「いつかのあなたの口づけは、毒蛇よりも恐ろしい猛毒でした。私を私でなくしてしまう、そう、私という存在全てを持ち去ってしまう悪魔の口づけでした!」
喉の奥がかっと熱くなる。
私が私で無いようだ。
溢れ出す言葉がとまらない。
「あなたは分かっていたのだ! だから私に、殺さないのかとあの時尋ねたのだ! この熱病のような胸の疼きに囚われ、今の幸せを全て破壊し尽くしかねない衝動の強さを! あなたは知っていたのだ!」
あなたの顔は変わらない。
変わらず、穏やかなままのその顔を見て、私は殺意に近い何かを抱いた。
「あなたは私の幸せを奪った! そのことを承知の上だった! 10年前の種まきの時から、私の今の姿を見ていたのだ!」
「いいえ、違います」
あなたはいつのまにか立ち上がり、鉄格子を挟んで私のすぐそばに近づいてきていた。
私の手の届くところにあなたの細い首筋があり、掴んで引き摺り出せそうなところにあなたの足首があった。
「私にもあなたの心の内は分からなかった」
あなたはポツリ、と言葉を溢すような口調で述べた。
私は獰猛な心を必死に抑えながらあなたの言葉の続きを聞くべく耳を澄ませた。
「あなたがここにきてくれることを望む私はたしかにいました。けれど、私にはあなたの心の内側に火をくべることはできない。火をくべることができるのはあくまで自分自身だけ」
そこで私は突然息苦しさに襲われた。
理由はすぐに知れた。
私の首が、鉄格子の隙間を抜けたあなたの手で締められているのだ。
「憎い? あなたがそう思うなら、それは私だって同じこと! 私だってこんな感情、欲しくなかった! なければ幸せだった! 周りが見えずに行動して、こうして捕まってなどいなかった!」
囚われの女性のものとは思えないほど、私の首を絞めるあなたの手の力は強かった。
そして、その全力の力を振り絞るあなたの顔からは、いつしか仮面が剥げていた。
余裕ある微笑みも、気丈な姫としての威光も。なにもかも。
「ただあなたの後ろ姿を見ていれば幸せだったのに! なぜあなたが欲しくなるの!? 馬鹿なことをしたいと思ってしまったの!?」
あなたの顔は憎しみで歪んでいた。
ああ、鏡合わせなのだ、と私は思った。
私があなたに抱いた感情。
殺したいほどに憎いという感情も、あなたを手に入れたいという願いも。
あなたはそっくりそのまま持っていたのだ。
「せいぜい私のことを忘れて幸せに生きていれば良かったのに! なぜここに来たの!? なぜ今になって欲しいものを見せるの!? あんな……情けない、すがるような口づけの記憶を、なぜそうも大層なもののように言うの!?」
首の拘束が緩んだ。
囚われの生活で握力が落ちていたか、あるいは激情のあまり手の力が緩んだか。
私は首を振って腕を振り払い、逆にその手首を掴んだ。
「離しなさい!」
「離さない!」
手首を掴んだまま、私は体を鉄格子にぶつけた。
硬い金属の柱が額にあたり、目端に火花が散るが、構わずもう一方の手を伸ばし、あなたの体を抱え込んだ。
私の心の奥底から打ち上がってくる膨大なエネルギー。これをあなたにぶつけてしまうと、それは憎しみに転換され、あなたを傷つけることが分かった。
だから私はあなたを抱きしめることにした。
強く抱きしめるという行為はとても良かった。
あなたの体を一周させ、自分の肩口に当てた手に行き場のない力を逃すことができる。
あなたを決して逃がさないこの体勢は、猛る心を落ち着かせ、安らぎを確保することができた。
やがて、抱え込まれたあなたの体から力が抜けた。
代わりにあなたの腕が私の背に周り、しがみつくように小さく掴んでくる。
「ねえ、私はあなたにどんな言葉を伝えるべきなの?」
「私にも分かりません」
どちらが問いかけて、どちらが答えているのか。
いつの間にか分からなくなっていたように思います。
「こんな気持ち、なければ良いのに」
「本当にその通りです」
分かったのは、あなたの体温の温もりと。
鉄格子越しでも分かる、お互いの心臓が刻む音だけでした。
首の痛みも、額の痛みも、何もかも溶けてしまいそうな心地がそこにありました。
長いようで短い、抱擁の時間はやがて終わりました。
私があなたの背から腕を外すと、あなたは問うてきました。
「これから私たちはどうするの?」
その問いに、私は胸を張って答えました。
「戦います」
私の言葉に、あなたは驚いたようにこちらを見ました。
「我が王とはいえ、私の大切な商売の資産を勝手に処分されては困りますからね。ひとまず貴女の身柄を預かって隠します」
私は腰に下げた鍵束を取り出し、あなたの囚われた部屋の鍵穴へと差し込みました。
「姫を連れ去るの? 悪い人ね」
「それだけの貸しは作っていますよ」
既に侯爵家総出でそのために動き始めています。
国内政治だけでは解決不能。
国外の有力諸侯にも話を通して、なんとか筋を通してみせます。
かなり危ない綱渡りですが、勝算はありました。
「あなたに今の世の中を見せ、更新された価値観でまた素晴らしい芸術品を創り上げてもらいます。それができれば多くの味方ができる」
「ふうん。ねえ、それは私の創作の原動力を知った上で言っているのかしら。奥さんに申し訳ないとは思わないの?」
いつの間にか、あなたは姫の顔ではない、なんとも悪戯げな表情をしていましたね。
それがあなたの素というわけですか。
「非常に申し訳ないので、あなたは私が用意した屋敷に軟禁させてもらいます」
「囲い込むというわけね。どれくらいの頻度で会えるの?」
頭の回転が早いというのは良し悪しです。
確定事項を吟味するあなたは、計算高く常に余裕ある姫の顔に戻っていました。
「一月に一度がせいぜいでしょう」
「なるほど、なら一生の間にあと500回は会える計算。十分ね」
「十分なのですか?」
「何をいうかと思えば」
あなたは呆れたように言いました。
姫の穏やかな微笑みではない、素の悪戯げな表情で。
「殺したいほど愛しいあなたとそれ以上会ったら、殺し合いになっちゃうじゃない」
それを聞き、私も思わず笑ってしまいました。
二人で素の笑みを交わしているうちに、あなたを閉じ込める牢獄の鍵が音を立てて開きました。
王国の監獄塔、その最上階にて。
お互いを殺したいほどに憎み、求め合う私たち二人の新たな関係が始まりました。
作者のメリバにしたくなる病との戦いが二人にとっての最大の敵でした。
感想、批評お待ちしております。