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第八回 決戦雁門擒単于 諸葛郡丞求援兵

并州軍の本隊が進軍を続ける中、前方へ偵察に出ていた張五が慌ただしく戻り、報告に現れた。


「大将!あ、違った!報告致します!」


馬上の高順は、張五のあまりに堅苦しい様子を見て、豪快に笑い飛ばした。


「ふっ、そう畏まるな、お主らしくも無いわ。いつも通りで良い、お前に畏まられるとこっちの調子が狂うわ!ハッハッハッ!」


(張五よ、人間らしくない事はするもんじゃないぞ…?まあ、こいつにそんな高度な感情を求める方が間違いか)


「へい!」


張五は普段の調子を取り戻し、しかし緊張気味に言った。


「大将、河南一帯に、見慣れない一行が居るらしいですぜ?規模は万単位、軍装もあっしらとはまるで違います」


「ふむ…」


高順は顎に手を当てた。


「敵か、味方かは分からぬか?」


「見たところ、あっしらと違う軍装なので味方じゃないのは確かです。どうしやすか?」


「ふむ…」


高順は一瞬考えた。


「ならば、見てこようか」


「でも、大将……今の状況で、そんな余裕は無いんじゃないんですかい?」


張五が真剣な顔で言う。


(え?お前がそれを言うの?ごめん、お前どっちかって言ったら知能低い方だと思ってたわ!…まあ、心配してくれるのは悪くない。ごめんな)


「ふむ…」


高順は張五の意外な指摘に目を細めた。


「ではこうしよう。お前に一万の兵を与える。お前は彼奴らを注意深く見張っておけ。ただし、くれぐれも間違っても戦を起こすなよ?様子を見て、動向を逐一報告せよ」


「へい!承知!」


張五は胸を張ったが、すぐに不安げな顔になった。


「…ですが、あっしにそんな大任、務まるんですかい?」


「特例だ」


高順は即断した。


「お前を今より校尉に任ずる。この見張りの任務が成功すれば、官職はそのまま認める。失敗すれば…元の一兵卒に戻れ。良いな?」


「へい!必ず成功させて見せます!」


張五の目が輝いた。


張五が一万の兵を率いて偵察に向かうのを見送りながら、高順は心の中で呟いた。


(一万減ったところで、って話しよ…。しかしなぁ、并州もそろそろパンクして来た頃か?百数十万の兵を抱えてりゃ、食料も物資も底をつくのも当然だ。かと言って、無情にも兵を減らすこともできん…。新たに百姓を集めて一から鍛えるよりは、『人を殺す事に躊躇しない、戦場に臆さない』、こういう奴らに《規則と忠義》と言う名の洗脳…いや、鍛錬を叩き込んだ方が、まだ役に立つしな)


この膨大な軍勢を維持する術は、公孫瓚と袁紹に対してほぼ脅迫状のような書状を送り、毎月の食料貢納を強いていること。そして、名目上の主君である董卓が長安から支給してくれる分け前。この二本立てで、かろうじて飢えを凌ぎ、戦力を維持していたのだった。


やがて軍は、并州と司隸州の境目に到達した。高順は進軍を止め、兵士たちに休息を命じた。明日からは、いよいよ匈奴の本拠地に近づく。匈奴の現単于は於夫羅という者らしい。高順個人としては、匈奴がどうこう言う気は毛頭なかった。しかし、この内憂外患の大変な時期に、漢の領土を侵してきたことだけは、絶対に許せなかった。


「ふん…時節柄、選んだな、於夫羅よ。」


更に十日余りの慎重な進軍を経て、ついに雁門郡の前線拠点に辿り着いた。そこには、先鋒として派遣されていた張遼の軍が待ち構えていた。


「文遠!久しいな!元気か?」


高順は馬上から大きく手を振った。


張遼は駆け寄り、馬上で深く頭を下げた。


「将軍、お久しぶりです!この張遼、健在にております!」


「うむ、何よりだ」


高順は笑顔を引っ込め、厳しい口調に変えた。


「さて、戦況を聞かせてくれ」


張遼の表情が曇った。


「はっ…申し訳ございません。率直に申し上げて、戦況は…良くない…ですな。」彼は歯を食いしばるように言った。「匈奴の騎兵の機動力は予想以上で、野戦では甚大な損害を被っております。守勢に徹するしか手がありませんでした」


「だろうな」


高順は深く頷いた。張遼ほどの勇将が苦戦しているのだ。


「良い、気にするな。文遠よ、これはむしろ良い機会だ。これからは、匈奴はおろか、鮮卑、烏桓といった北狄どもを次々と討伐せねばならぬ。この戦いは、その手始めだ。夷狄どもの戦い方に慣れる、格好の訓練の場と思え」


(そうだ!これからの漢…いや、いずれ訪れる魏晋南北朝に突入するって事は、その間の五胡十六国時代が来るって事だ!てめえら夷狄ども…俺の今の努力を無に返すつもりか!?許せん!絶対に許せるか!ここで叩き潰し、骨の髄まで服従させてやらねばなるまい!)


張遼は、高順の激しい決意を感じ取り、少しばかり気丈な顔を見せた。


「将軍がそう言われると、幾分か救われまする」


「ところで、」


高順は核心を突いた。


「傷亡はどのくらいだ?」


張遼は覚悟を決めて報告した。


「はっ…最初に将軍より預かりました八十万の兵のうち…二十万が重傷、三十万が軽傷、そして…十万が戦死しております。」


高順の眉がピクリと動いた。


(甚大な被害じゃねぇか!六十万が戦闘不能…実質的に動けるのは三十万か…)


「ふむ…」


高順は大きく息を吐いた。


「俺も見ての通り、ここに連れてきたのは十四万の兵しかおらん。お前の残存兵力と併せても…せいぜい三十万強だな」


張遼は無言で俯いた。その肩に重くのしかかる責任と敗北感が伝わってくる。


(……言葉に困るよね。でも、慰める言葉など何の役にも立たん。)


「文遠よ、」


高順は張遼の肩を馬上から軽く叩いた。


「戦をすれば死人は出る。名将と言えども負けはある。元よりアレら夷狄は、戦い方、考え方、全てにおいて我らとは違うのだ!気にするな!どうしても気になるなら…」


高順は不敵に笑った。


「夷狄ども相手に百戦百敗してみろ!そうすれば、骨身に沁みて、夷狄との戦い方が分かってくるだろうさ!」


これは、歴然たる勇将である張遼の自尊心をも逆撫でする言葉だった。張遼の顔が一瞬、怒りで歪んだ。


「将軍…!私は…!」


しかし、高順はサッと表情を変えた。重たく、厳つく、冷徹な眼差しを張遼に向ける。それは、主将としての威圧感そのものだった。


「良いか?」


高順の声は低く、鋭かった。


「貴様は、何れこの俺の代わりと成れる唯一の人物である…この并州軍団を背負って立つ男だ。お前がここで挫け、何かが有れば…」


高順は一瞬間を置いた。


「其れこそ、俺がこの先、やって行けなくなるのだ」


「…っ!」


張遼の目が大きく見開かれた。高順がそこまで自分を評価し、将来を託していることに衝撃を受けた。


「ふん、」


高順は再び、あの不敵な笑みを浮かべた。


「これよりお前は、全軍の副将である。俺が不在の時は、お前の裁量で軍を指揮せよ!良いな…?」


張遼は一瞬、言葉を失ったが、すぐに顔を上げ、その目には新たな決意の炎が灯っていた。


「はっ…ははっ!畏まりました!この張遼、命に代えても将軍の御期待に応えます!」


「そうこなくてはな。」


高順は満足げに頷いた。


その時、衛兵が近づいた。


「将軍!張燕殿が到着しました!」


「よし、通せ」


「おう、旦那ァ!呼んだかい?」


張燕が闊歩して入ってきた。かつての黒山賊の頭目らしい、豪放磊落な雰囲気は相変わらずだ。


「おう、飛燕か、久しいな!」


高順の表情は、張遼と話していた時とは打って変わり、何時ものすっとぼけた、飄々としたものに戻っていた。


張燕は、まだ若干の緊張感を漂わせている張遼を一瞥し、高順にニヤリと笑いながら言った。


「こういう時は、そこの落ち込んでる旦那見習って、もうちょい畏まった方が良いか?」


彼は大げさに腰を低くするふりをした。


「いや、」


高順は即答した。


「似合わんから止めておけ。お前の本性は丸見えだ」


「おっ?はっきり言うじゃねぇか、旦那ァ」


張燕は大笑いした。


「それどころじゃないからな、飛燕」


高順の口調が真剣味を帯びた。


「あぁ、んで?こっからどうすんでぇ?あの匈奴ども、調子に乗ってやがるぜ?」


「俺もわからん!」


高順はあっけらかんと言った。


「おいおい…」


張燕は呆れたように首を振った。


「いや、冗談はさておき、飛燕よ」


高順は張燕を真っ直ぐ見据えた。


「お前を今から并州驍騎校尉に任ずる」


「ほーぅ?」


張燕の目が興味深そうに光った。校尉は一軍の将、しかも「驍騎」は精鋭騎兵を意味する。破格の登用だ。


「こうすれば、并州内の騎兵は全てじゃないが…その殆どはお前の支配下に入る。どうだ、引き受けるか?」


「へぇ〜、悪くねぇ話だな!」


張燕は腕組みをし、歯を見せて笑った。


「よーし、引き受けるぜ、旦那ァ!ありがてぇ!」


「ならば、頼んだぞ。」高順は頷いた。


「お前の腕前と、お前の配下の騎兵の機動力にかかっている」


「任せなァ!匈奴のケツの穴の毛まで数えてやるよ!」

張燕は拳を高く掲げた。


張燕が意気揚々と出て行くのを見送り、高順は振り返って張遼に言った。


「文遠、落ち込んでる場合では無いぞ?これより、俺たちは討って出る。」


張遼は、先ほどの重圧から解放されたように、鋭い目つきで応えた。


「はっ!承知!」


情報によれば、匈奴は何時もより素早く動いているという。文遠曰く、これまでの勝利で驕り高ぶっているらしい。


(ふふっ…良いだろう…『驕兵必敗(驕った兵は必ず敗れる)』と『哀兵必勝(追い詰められた哀れな兵は必ず勝つ)』…この絶対的な好条件が揃った今こそ、思い知らせてやろうではないか!)


高順は全軍を雁門関前の広野に集結させた。騎兵、歩兵、弓兵…三十万の兵士たちが、静かに、しかし熱気を帯びて主将の言葉を待っている。高順は陣頭に立ち、全軍を見渡した。その目は、並々ならぬ決意に燃えていた。


「三軍の将士達よ!」


高順の声が、冬の寒気を切り裂くように響き渡った。


「一つ、言っておく!」


場内が水を打ったように静まり返る。


「お前達の後ろには何がある!?お前達の父母がいる!妻子がいる!兄弟がいる!お前達が生まれ育った家がある!故郷がある!そして…」


高順の声を一段と大きくした。


「我らが漢の国があるのだ!」


兵士たちの息づかいが荒くなり始めた。


「その父母の住む家を!妻子の眠る故郷を!我らが漢の国土を!異国の夷狄どもに、好き勝手に踏みにじらせても…いいのかーーーッ!?」


「「否ッ!!!」」


兵士たちの怒号が、天を衝かんばかりに轟いた。鬱積した怒りと故郷を守らんとする想いが、一気に爆発した。


高順は、その熱気をさらに煽り立てる。


「漢軍威武!!(漢軍の威厳は武勇にあり!)」


「「大漢威武ッ!!!」」全軍が拳を突き上げて応える。


「漢軍威武ッ!!!」


「「将軍威武ッ!!!」」高順個人への信頼と忠誠の叫びが返ってくる。


「大漢万歳ッ!!!」


「「大漢万歳ッ!!!万歳ッ!!!万歳ッ!!!」」怒涛の歓呼が大地を揺るがした。


「殺せぇーーーーッ!!!」


「「ウオオオオオオオオオオオオーーーッ!!!」」


狂気の咆哮と共に、漢軍の怒涛の進撃が始まった。高順自身も、自ら言い放った言葉に血が沸き、率先して敵陣めがけて突っ込んでいった。主将自らが先頭に立つこの狂気の突撃は、まさに楔となり、匈奴軍の進撃を一瞬にして止めた。昨日までの脆弱さとは全く異なる漢軍の猛攻に、匈奴兵は一瞬たじろいだ。


高順は事前に、軽傷者を関内に待機させ、出撃可能な状態にさせておいた。重傷者は関で休養させている。彼の作戦は明快だった。最初の一撃で敵を食い止め、勢いを殺ぐことだ。


匈奴の単于、於夫羅は馬上で状況を見つめ、眉をひそめた。


「昨日までの漢軍とは違う…この勢いは尋常ではない。一旦、退くか…」


彼はそう呟き、撤退の号角を吹かせようとした。しかし、側近の一人が進言した。


「単于、それは早計です!これは一時的な勢いに過ぎません!漢軍は疲弊しています。押し返せば必ず崩れます!」


於夫羅は迷った。確かに、ここ数日の戦いで漢軍は弱っているはずだ…。彼はタカを括り、撤退命令を保留し、さらに混戦を続行させた。


「ふむ…そろそろ敵の勢いも衰えを見せ始めたな…」


高順は敵陣の微妙な変化を見逃さなかった。


「全軍!押し込めぇーーーッ!!!」


高順の号令と共に、漢軍はさらに強力な波状攻撃を開始した。歩兵の密集隊形が匈奴騎兵の機動を封じ、弓兵の矢が雨あられと降り注ぐ。匈奴軍は徐々に押され始めた。


於夫羅はついに危機感を覚え、本格的に軍を下がらせようとした。その時だった。


「ホォォーーーッ!!!」


遠くから、地響きのような鬨の声が聞こえた。そして、匈奴軍の本陣の側面から、煙塵を上げて一団の騎兵が突撃してくるのが見えた。張燕率いる驍騎部隊だ!彼らは張燕の命により、匈奴軍の隙を突き、迂回して牧営地を探す途中で戦況の変化を察知、於夫羅の本陣めがけて強襲をかけていたのだ!


「何!?どこから!?」


於夫羅が驚愕する間もなく、張燕の騎兵は矢のように匈奴本陣へ突入した。於夫羅の周囲の親衛隊は精強だが、数では圧倒的に劣る。あっという間に本陣は分断され、於夫羅自身も包囲された。


「単于!危険です!」


側近が叫んだが、時すでに遅し。張燕配下の騎兵たちが、於夫羅の周囲を固めた。於夫羅は必死に抗戦したが、四方八方から襲いかかる槍と刀に、次第に追い詰められていく。最後に彼が見たのは、馬から躍り下りて自分めがけて突っ込んでくる、鬼のような形相の漢兵の姿だった。於夫羅の記憶は、その瞬間に途絶えた。


「文遠!」


高順は後方の張遼に向かって叫んだ。


「重傷者を出撃させよ!」


「なっ?!」


張遼は耳を疑った。


「重傷者ですと!?それはあまりに…」


「舌を咬むなよ?」


高順は断固として言い放った。


「この戦は、我らの勝ちである!間違いない!それ故に、奴らにも…今までの悔しさを晴らす機会を与えてやりたいのだ!戦場で血を流し、仲間を失いながらも、関の中で歯軋りしていた者たちに、一矢報いる場を与えろ!」


高順の胸中には複雑な思いがあった。戦いの一番の功労者は、前線で戦っている兵たちだ。しかし、一番悔しい思いをし、卑屈になっているのは、傷ついて戦えなかった重傷兵たちだ。彼らが元気な兵たちの勝ち誇った話を聞けば、余計に心が折れるかもしれない。何より…彼らはもう、兵士として戦場に戻れる見込みが薄い者も多い。これが最後の戦いになるかもしれないのだ。


「……、」


張遼は高順の真意と深慮を悟り、深く頷いた。


「判り申した。では、直ちに手配いたします!」


張遼は馬首を返し、自陣へと駆け戻った。高順の真の意図は、口に出さずとも伝わった。


(多くの重傷兵は戦場で散る覚悟をしていること、彼らを救う手段も限られていること、彼らに名誉の戦死の機会を与え、家族への恩給などの保証を得やすくすること)


程なくして、関門が開かれ、包帯を巻き、松葉杖をつきながらも、目に炎を宿した重傷兵たちが、怒涛のごとく戦場へなだれ込んできた。彼らの出現は、混乱していた匈奴兵に最後のトドメを刺した。統制は完全に失われ、各部族ごとに勝手な行動を取り始める。


「文遠!奴らを追撃するな!追い詰められた鼠は猫を噛む!関に戻って守りを固めろ!」


高順は冷静に判断を下した。匈奴の言葉はわからなかったが、絶望と怒りに満ちた叫び声が聞こえ、窮鼠の反撃は恐ろしいことを知っていた。


戦場の掃討と捕虜の収容が進む中、意外な報告が入った。捕虜の中に、於夫羅の弟で、匈奴の有力王の一人、去卑がいるというのだ。


「去卑か…」


高順は捕らえられた男を見つめた。殺すのは簡単だが、それは下策だ。


(内戦が終わってないからな…外敵を刺激しすぎる訳にはいかん。かといって、無条件で解放するのも味をしめられる…)


「さて、和平への第一歩として…」


高順は去卑を指さした。


「コイツを丁重に扱い、解放する準備をせよ!」


「なっ?!」


周囲の将兵が驚いた。ましてや張遼は激しく反論しようとした。


「気に致すな!」


高順は制した。


「丁重に扱うが、解放は数日後だ。その間に、彼を使って匈奴に和平の条件を飲ませる」


高順は続けた。


「そして、戦後処理の一つとして…胡市でも開かせるか!戦いばかりでは腹も減るわな」


「うーむ…」


張遼は納得していない様子だった。


「しかし、その交渉や統治…」


「問題はそこだ」


高順は溜息をついた。


「ウチって、まともな文官が居ないんだよなぁ…。戦の後始末、捕虜処理、和平交渉、胡市の管理…これらを任せられる民政の才が誰もいない」


「将軍御自身の差配で、これまでは何とか保てておりますが…」


張遼も苦い顔で同意した。


(そうなんだよなぁ…現世で会社の事務もやってた経験が有るから、帳簿付けとか人員管理とかは何とかなるけど、古代中国の地方行政、特に異民族との折衝や市場管理なんて、全くの別物だからなぁ…)


「うむ!決めた!」


高順は膝を叩いた。


「商人を一人、雇おう!いや、登用だ!」


「なっ?!商人ですと?」


張遼はまたもや驚いた。


「商人に政務を?」


「うむ!商賈の者ならば、利害を良く熟し、駆け引きに長け、人脈も広い!胡市の管理や、匈奴との物資のやり取りには最適だろう!」


「それでも…商人は利益優先で…」


張遼の懸念は消えない。


「なぁに、何か有ればこうすれば良いさ」


高順は、首の前を指でゆっくりと横に一なぞりした。意味は明らかだ。クビだ。まぁ、物理的に飛ぶ可能性が高いがな。


早速、高順は命令を下した。有能な官吏を雇う告示を并州内の主要都市に掲示させた。報酬は破格だ。これにがっつく商人や、地方の小豪族はいるはずだ。しかし、現役の中央官僚や名門の士族からは、相国董卓の名声が余りにも悪いため、まず志願者は来まい。高順はその現実を呪いながらも、それでも人材を求め続けるしかなかった。


「さて、捕虜の処理と、於夫羅の身柄確保、そして和平交渉の準備といこうか!」


「報告〜!」


衛兵の声がかかった。


「何事だ?」


「張五が戻られました!」


(しまった…!あのバカに別任務で動いてもらってたのを完全に忘れてたわ…!)


「通せ」


「おお、大将!只今帰って来やしたぜ!」


張五が、顔中に笑みを刻んで入ってきた。その誇らしげで爽やかな笑顔は、見ている高順までなぜか嬉しくなってしまうほどだった。


「おお、張五か。無事で何よりだ。一息ついたら報告しろ。誰か、水を飲ませてやれ」


高順は気遣いを見せた。


張五の報告を聞いて、高順は思わず目を見開いた。なんと張五は、河南で怪しい動きをしていた集団を追跡した結果、それが匈奴の左賢王呼廚泉とその親衛隊だと突き止め、戦わずして(主に偶然と強引な包囲網で)捕らえてしまったらしい…。


「はぁ…」


高順は内心で呆れながらも感心した。


(内心:バカにはバカなりの…いや、単なる強運かもな?しかし、手柄は手柄だ。認めてやらねばなるまい。)


「ふぅむ…」高順は大きく頷いた。


「張五よ、よくやった!これよりお前を正式に校尉に任ずる!その一万の兵も、これよりお前の麾下だ!ただしな、これからは兵法韜略をしっかり学べ!知恵も使わねぇと、次は運も尽きるぞ?」


「へい!ありがてぇ大将!必ず勉強しますぜ!」


張五は有頂天で敬礼した。


(これで、使える手駒は一つ増えたな…使い道は慎重に考えねば)


「よォ、旦那ァ!」


張燕が血と汗にまみれながら、しかし得意げに戻ってきた。


「見てくれや!大物を釣ったぜ!」


彼の部下が、意識を失った於夫羅を担いでいる。


「飛燕、帰ってきたか」


高順は於夫羅の姿を確認し、安堵のため息をついた。


「お前の騎兵の機動力と判断力が功を奏したな。見事だ」


「なぁに言ってんだい!」


張燕は大きく手を振った。


「俺ァ、ほとんど何もしてねぇよ!ただ頃合いが良かっただけさ。手柄ってんなら、あの重傷兵の旦那たちか、文遠の旦那に付けといてくれや!あいつらのがずっと頑張ってたぜ!」


「お、おう…」


高順は張燕の意外な謙虚さに少し戸惑った。


(ふぅ…次から次へと騒がしいのばかりだな…しかし、良い仲間たちだ)


「将軍!」


今度は、普段は冷静沈着な呉資が、息せき切って駆け込んできた。彼は高順が徐州から連れてきた武将の一人で、民政にも多少明るい。


「呉資、如何した?お主らしくも無い慌てぶりだな」


「お、御三方が…!御三方が到着されました!城門にて!」


「御三方?」


高順の眉が動いた。誰のことかすぐに悟った。


「皇甫嵩公?朱儁公?盧植公か!?」


「はい!ただいま関内に御入りです!」


「すぐに通せ!…いや、こちらから出向く!」


高順は立ち上がったが、すぐに考え直した。


「しかし、ここは雑然としすぎている…。呉資、御三方を会議場へご案内せよ。話はそこで伺う」


「はっ!」


高順は諸将に向かって命じた。


「さて、諸将は下がるように!今日はよく戦った!帰って休め!自前で酒を買って宴を開くのは構わん!ただし、公式の祝勝宴は明日の夜だ!解散!」


将兵たちは、疲れながらも勝ち戦の充実感に満ちて、それぞれの宿舎へと散っていった。入れ替わるように、三人の老将軍が会議場に入ってきた。かつて黄巾の乱を平定し、朝廷の重鎮であった皇甫嵩、朱儁、盧植である。彼らの顔には、長旅の疲れと、深い憂いの色が刻まれていた。


高順は深く頭を下げた。


「これはこれは…如何に軍務が忙しいとはいえ、御三方の御来訪、お出迎えも出来ず、誠に申し訳ござらん」


先に口を開いたのは、最も高名な皇甫嵩だった。「我らも急な来訪故、事前に知らせもせずに参った。将軍、悪しからず」


「ははは、左様でございますか」


高順は苦笑した。


「では、ご要件は?わざわざこの辺境の地まで御足労頂くとは…」


皇甫嵩の目が鋭く光った。声は低く、しかし強く響いた。


「高将軍…その『相国』は、いったいいつになったら死ぬのかね?あの董卓めが…!」


一瞬、場の空気が凍りついた。朱儁も盧植も、皇甫嵩の言葉を止めようとはしなかった。三人の老将軍の目は、高順をまっすぐに射抜くように見据えている。


高順は深く息を吸い込み、周囲に誰もいないことを確認してから、静かに、しかし明確に答えた。


「…お時間を要しましょう。如何に風前の灯火とは言え、急に事を起こせば…天下はさらに乱れるでしょう。あの男の配下の将兵は、長安と西涼に十万…軽挙妄動は禁物です」


「されども…」


朱儁が口を開いた。


「事は進んでいるのか?」


「はい」


高順はうなずき、声をさらに潜めた。


「司徒の王允様が…動いておられます。宮中において…」


「なんと!王大人が…!」


盧植が息を呑んだ。王允は清流派の重鎮であり、董卓への抵抗勢力の中心人物の一人だ。


「はい。某は…水の流れに沿って船を推しているに過ぎません」


高順は自分が王允と密かに連絡を取り、董卓暗殺計画の実行部隊への接近や工作を支援していることをほのめかした。


「ふむ…」


皇甫嵩は深く唸った。


「それは…朗報と言えようか…」


「そこで御三方にお願いが有ります」


高順は三人を順に見据えた。「この計画の最大の障害は…相国の甥、董璜でございます。彼は中軍校尉として宮中の警護を掌握し、待中の職も兼ねております。このまま計画を進めれば、董璜が陛下の御身に危害を加え、大義名分を失う恐れがございます…故に、事は慎重に進めねばならず、遅延を余儀なくされております。」


「将軍の考えは分かった。」朱儁が言った。「それ以外で、我ら老骨に何をせよと?」


高順は一瞬、言葉を詰まらせた。そして、覚悟を決めるように言った。


「…司徒王允様を…投獄してください」


「なにィッ!?」


皇甫嵩が怒りに震えて立ち上がった。


「貴様ぁーーッ!何を言うか!」


「義真殿!落ち着け!」朱儁が皇甫嵩の腕を掴んだ。


「なんだと?公偉!これを聞いて落ち着けだとぉ!?結局こやつも…董卓の走狗か!?」


皇甫嵩の怒声が響いた。


「ふふふ…」


静かな笑い声がした。盧植だった。


「年を取ると、気も寿命も短くなって困るわいな」


彼は皇甫嵩と朱儁のもみ合いの間に立ち、両者を制した。


「話が終わっておらんのだ。高将軍、早合点されるでない。どういう意味か、説明を願おう」


高順は盧植に感謝の意を込めて一礼し、語り始めた。


「御三方、お怒りはごもっともです。しかし、王司徒様は…謀事にはお上手でしょうが、軍国大政に至っては…相国に劣るでしょう」


「何故かね?」


盧植が静かに問う。


「王司徒様は…腐り果てた儒教者だからです」


高順の言葉に、三人の老将軍の眉がピクリと動いた。「彼は儒教の理想にあまりに傾倒しすぎています。董卓を排除すれば…その配下である牛輔、李傕、郭汜らを許すことは無いでしょう…『董卓に与した』というだけで、彼らを赦し、用いることを潔しとしないはずです…」


高順は続けた。


「…そうなれば、牛輔らは命がけで反乱を起こすでしょう。彼らは涼州兵を率いています。長安一帯は、董卓後継争い兼弔い合戦を含めた凄惨な内戦の巷と化し…」


高順の口調が重くなる。


「…最終的に李傕、郭汜らが中央の政権を掌握する事態となるでしょう。それは董卓の時代よりも…さらに悪辣な政治となる恐れがあります」


高順の予見は、あまりにも具体的で生々しかった。三人の老将軍は、その恐ろしい未来図に黙り込み、深い憂慮の色を浮かべた。彼らは朝廷の腐敗と混乱を肌で感じており、高順の言うことが荒唐無稽とは思えなかった。


「我々が目指すべきは、董卓暗殺『後』の混乱を最小限に抑え、速やかに陛下の御親政を支える体制を築くことです。」高順は力強く言った。「そのためには…董璜を抑え、王司徒様の『過ち』を未然に防ぎ、董卓残党の一部さえも懐柔し、安定に利用する必要があるのです。それこそが…天下を早く安定させる近道だと、某は信じております!」


長い沈黙が続いた。炉の火がパチパチと音を立てるだけだった。やがて、盧植が深く息を吐いた。


「…若者よ。その考え…あまりに危うく、また汚れておる。されど…」


老将軍の目に、苦渋に満ちた光が走った。


「…今の朝廷を見るに、お前の言う『悪理』にも、一理あると認めざるを得ぬ…」


皇甫嵩は無言で天井を見つめ、朱儁は拳を握りしめていた。三人とも、高順の現実主義的な、しかし非情な策に同意するのは心が痛んだが、かといって他に有効な手立てが思い浮かばなかった。


「…王允を投獄せよ、と…」


皇甫嵩が、ようやく重い口を開いた。


「…それが、果たして…」


「一時的なものです!」


高順は即答した。


「王司徒様の命は堅く守ります!あくまで、計画が円滑に進むまでの…『保護』です。董璜が排除され、事態が落ち着き次第、直ちに解放し、新政権の中枢にお迎えするつもりです!某の命に懸けて!」


三人の老将軍は、互いに視線を交わした。無言の了解が成立したようだった。


「…解った」


皇甫嵩が、疲れたように言った。


「長安に戻り、動ける範囲で…動いてみよう」


「御三方の御英断に、深く感謝申し上げます!」


高順は深々と頭を下げた。


三人の老将軍は、深い憂いを胸に、雁門関を後にした。高順は、戦後処理と人員配置を急ピッチで進め、その大半を張遼に委ねた。


「文遠!この地域の安定化と、匈奴との暫定協定の履行、捕虜の管理、胡市の準備…これらを全てお前に任せる!」


「将軍!何故…?」


張遼は驚き、不安そうな表情を見せた。


「文遠、」


高順は張遼の肩をしっかりと掴んだ。


「言ったであろう?俺が居なくなれば、お前が全てを料理せねばならんのだ!お前は俺の副将、并州軍団の副帥だ!この任を果たすことが、お前の器をさらに大きくする!故に…任せる!」


張遼は一瞬、言葉を失った。高順がここまで絶対的な信頼を置いていることに、感激と責任の重さで胸が一杯になった。数秒間、ただ呆然としていたが、すぐにその顔は鋼のように引き締まり、深く頷いた。「…はっ!この張遼、命に代えても任務を全うします!」


「そうこなくてはな」


高順は満足げに笑った。


「大将!長安から勅使が到着しましたぜ!」


張五が駆け込んできた。


「来たか…」


高順の表情が曇った。


「すぐに対応する」


勅使は、皇帝の詔書を携えていた。その内容は大まかに以下の通りであった。


「初平二年五月初八、皇帝協曰く。北疆は今や安定し、匈奴も既に平定され、戦事も無し。鎮北将軍高順は、速やかに都に戻るべし」


勅使は仰々しい言葉で長々と読み上げたが、要は「北の仕事は終わったから、早く長安に帰ってこい」という命令だった。


「臣、謹んで詔を拝領いたします」


高順は平伏して受け取った。


「ははは、高将軍、此度の大功、お疲れ様でした」


勅使は宦官で、どこまでも嫌味な笑みを浮かべている。


「さぞ、匈奴どもとの戦い、大変だったでしょうな!」


「高順、一介の武夫につき、胡虜が辺境を騒がせばこれを平定するは当然の勤め…」


高順は淡々と答えた。


「ふふふ、お言葉ですが、将軍ほどの大功、朝廷も重く見ておられますよ」


宦官の目が、金銭を期待してキラリと光った。


「では、将軍は何時頃、御帰還なされますか?私め、将軍とご一緒に都へ戻るよう仰せつかっておりまして…」


(ふーん?賄賂の要求じゃなくて、監視か?道理でずーっと袖らへんで訳の分からん手振りしてたんだ。まぁいいや、金は一文も渡さねぇからな)


高順は宦官の期待を完全に無視し、朗らかに言った。


「ははは!戦は終わりましたが、後の事を一通り片付けてからでないと…まだ一月ほどはかかりましょうなぁ…。勅使殿はどうぞ先にお戻りください。某、準備が整い次第、すぐに追いかけますゆえ!」


宦官の顔が一瞬引きつったが、高順の威圧感と周囲の将兵の睨みに押され、渋々承知した。


「…左様でございますか。では、長安にて将軍の御帰還をお待ち申し上げております」


宦官が退出した後、高順は思わず「プッ」と吹き出した。


「『ははは』もなにもないわ!誰がお前に金渡すか、このクソボケ!劉備みたいに殴れとでも言うつもりか?アホか?そんな金あるなら、軍の中でばら撒いた方がマシってやつだ!」


「張五!」


「へい!何でやすか大将?」


張五がすぐに現れた。


高順は張五を近くに呼び寄せ、声を潜めて言った。


「今退出した宦官めをな…陰で、痛めつける程度に、『警告』してこい。決して殺すなよ?朝廷からの使者だからな…。しかし、道中で少しばかり『災難』に遭う程度なら…誰にも文句は言われまい」


「へい!了解でやす!」


張五は悪戯っぽい笑みを浮かべて立ち去った。


匈奴との暫定的な和平協定は、以下のようにまとめられた。


一、 匈奴側の無条件降伏を再確認する。

二、 軍馬の半数を直ちに献上し、以後毎年一定数を貢ぐこと。

三、 単于及び匈奴の女子は、漢人以外(匈奴の男を含む)と結婚してはならない。

四、 雁門関付近にて、七日に一度、胡市を開くことを許可する。交易は漢の官吏の管理下で行う。

五、 単于は、月に一度、長安に赴き、皇帝に拝謁し、その地位の承認を受けること。


特に第三条は、高順の強い意向によるものだった。


(どうせ百数十年後には五胡十六国に突入し、漢胡の民族大融合が起きるんだ…。ならば、今から少しでも漢人の血を匈奴の支配層に浸透させ、将来的な支配を容易にする布石を打っておくのだ。文句を言われる筋合いはない…いや、言わせない)


協定締結から数日後、意外な訪問者が雁門関を訪れた。その名は諸葛珪。泰山郡の郡丞である。高順はその名を聞いて、驚き、喜悦、そして焦燥感が一気に込み上げた。


(諸葛珪!?しまった…瑯琊諸葛氏の存在を完全に忘れていた!喜悦は…あの『臥龍』孔明がまだ幼いとはいえ、その父がここにいるということは…将来、手に入れられる可能性がある!しかし焦燥…孔明を味方につければ、その驚異的な知略は歴史を大きく変えるかもしれない…果たしてそれが吉と出るか凶と出るか…!?)


「泰山郡丞、諸葛珪、鎮北将軍高順閣下に拝謁いたします」


諸葛珪は、疲労と切迫した面持ちで深々と頭を下げた。彼は文人らしい風貌だが、その目には強い意志が宿っていた。


「諸葛兄、これはこれは」


高順は丁重に迎えた。


「遥々山東より、この辺境の地まで…何か御用かね?」


「お恥ずかしながら…」諸葛珪は苦渋に満ちた表情で訴えた。「泰山郡に巣食う賊軍、の討伐に…お力をお借りしたく…郡兵だけでは到底及ばず、州牧も他賊に手を焼き、援軍を寄越せません…。このままでは、郡民が塗炭の苦しみを味わいます…!」


泰山か…高順は頭を悩ませた。


(うむ…行ってやりたいのは山々だが、こちらも匈奴の後始末と長安帰還で手一杯だ…ましてや兵を割けば、長安で何が起こるか…)


その時、高順の脳裏に閃光が走った。そうだ!


「郡丞、少々お待ちを」


高順はすぐに配下の将を呼び集めた。呉資、章誑、汎嶷、張弘、高雅、魏種、趙庶…これらは主に徐州時代から従う中堅将校たちだ。


(どうせコイツらも、これからは一人前の将軍として独り立ちしてもらわにゃならん。丁度良い実戦訓練の場だ!)


「さて、皆集まったな?」


高順は諸将を見渡した。


「「はっ!」」


諸将が揃って応じる。


「よろしい」


高順は諸葛珪を指した。


「諸君に命令する!呉資を主将とし、他の者らは彼の指揮下に入れ!諸葛珪殿と共に、泰山郡へ向かい、そこに巣食う賊軍を討伐して来い!」


諸将は一瞬、意外な命令に驚いた様子を見せた。呉資が進み出て問うた。


「…将軍、何故我々を?将軍ご自身は長安に戻られるのでは?」


「然り。」高順は力強く言った。


「長安には俺が行く。お前たちには、泰山の民を救い、そこで腕を磨け!賊を討ち平らげ、現地の安定を確保したら、速やかに長安に帰還するのだ!諸葛郡丞の補佐を怠るな!良いな!」


「「はっ!承知いたしました!」」


諸将は一斉に頭を下げた。彼らにも、独り立ちの時が来たことを悟った。


諸葛珪は感激のあまり、声を詰まらせた。


「高将軍…!この御厚情、感謝の念に堪えませぬ!泰山の民を代表して、深く御礼申し上げます!」


「郡丞、」


高順は微笑んだ。


「いずれ私も、貴殿や…貴殿のご子息たちに、助けを乞うことが有るかもしれませんよ?その時のために、礼などは要りません。今は泰山の民のために、急ぎお行きなさい!」


こうして、諸葛珪を先導役とし、呉資を総大将とする章誑、汎嶷、張弘、高雅、魏種、趙庶ら中堅将校と、精鋭歩兵六万は、泰山郡討伐の途についた。


一方の高順は、雁門関の後始末を張遼に完全に託し、わずかな護衛約七百を伴い、一足先に長安へ向かった。しかし、高順の成功は、都の権力者の威を借りる者たち、特に董卓の甥董璜の嫉妬と憎悪を強く呼び起こしていた。先の使者への対応もあり、董璜は「高順憎し」を声高に叫び、何とかして排除しようと画策していた。宦官たちも、期待していた賄賂を得られず、鬱憤が溜まっていた。


董璜と、長安で高順に恥をかかされた勅使の宦官は、手を組んだ。彼らは、高順が長安に戻る途中で、「事故」に見せかけて亡き者にしようと陰謀を巡らせた。


高順一行は、并州上郡の漆垣という地まで進んだ。険しい山道が続く辺りだった。日もすっかり暮れ、一行は深い森の中にある宿場町に近い野営地で休息をとる準備をしていた。張五は警戒を厳重にするよう命じていたが、連日の行軍で兵士たちの疲労はピークに達していた。


夜更け、新月の闇が森を覆う頃だった。


「敵襲ッ!!!」


鋭い叫びと同時に、闇から無数の影が飛び出してきた!五十人ほどか。しかし、その動きは尋常ではない。素早く、無音に近く、襲撃のタイミングと方向が完璧に計算されている。訓練された暗殺者集団だ!


「ぐはっ!」「うおお!?」「何者だ!?」


高順の兵士たちは訓練されていたが、この完全な不意打ちには一瞬、大混乱に陥った。松明が蹴散らされ、闇の中で誰が敵味方か判然としない。暗殺者たちは狼や虎の如く、四方八方から襲いかかり、特に高順のいる陣幕めがけて殺到してきた。兵士の数は圧倒的に多いが、突然の襲撃と暗殺者の凶暴な剣捌きに、反撃は思うようにいかない。


「くっ…!」


高順はすぐに状況を飲み込んだ。董璜の仕業だ!怒りが込み上げるが、今は生死をかけた戦いだ。


「皆の者!落ち着け!陣形を乱すな!敵は少数だ!寄ってたかって撃退しろ!」


高順は自ら剣を抜き、衛兵たちを率いて反撃に転じた。彼の剣は、暗闇の中で不気味な光を放ち、襲いかかる暗殺者を次々と斬り伏せていく。しかし、暗殺者たちは幾つかの小隊に分かれ、互いに連携しながら、執拗に高順を狙う。剣戟が火花を散らし、叫び声と斬撃の音が森に響き渡る。闇と混乱の中で、味方の損害さえ正確に把握できない…。


「大将!危ない!」


張五が、高順の背後から迫った暗殺者を槍で串刺しにした。


「ああ!助けてくれ!」「くそっ!まとまれ!まとまれ!」


激しい乱戦の中、高順は自らの豊富な戦闘経験を活かし、兵士たちに冷静さを取り戻させようとした。


「左右に分かれろ!右隊は東側の敵を押さえろ!左隊は西!中央は俺が引きつける!包囲するのだ!」


彼の的確な指示で、混乱していた兵士たちは徐々に落ち着きを取り戻し、組織的な反撃を開始した。数の優位が次第に効き始め、暗殺者たちの攻勢が鈍る。高順は、混戦の中で自ら先頭に立ち、兵士たちの士気を鼓舞しながら戦った。その奮戦ぶりを見て、兵士たちも奮い立つ。


「敵将、見参!」


高順は、指揮らしき暗殺者の一人を見つけ、猛然と斬りかかった。一瞬の斬り合いの末、高順の剣が敵将の首筋を深く斬り裂いた。


「ぐがっ…!」


敵将は崩れ落ちた。


「首魁、討ち取ったり!」


高順の叫びが響く。


「「おおおーーッ!」」


兵士たちの士気が一気に高まった。暗殺者たちの統制が乱れ始める。


しかし、その時だった。


「ウオオオオーッ!」「次は俺たちだ!」


森の奥から、新たに五十人ほどの暗殺者集団が現れた!董璜の陰謀は、一手だけではなかったのだ。最初の部隊が高順を攪乱し、疲弊させたところで、予備の部隊が止めを刺す計画だった。


「な、なんだ!?まだいたのか!?」


張五が絶叫した。


「くそ…!」


高順の額に冷や汗がにじむ。敵の増援により、再び数的劣勢に立たされた。暗殺者たちの執拗な攻撃は、高順の周囲の護衛兵を次々と倒していく。一歩間違えば命を落とすという、極限の状況だった。


(このまま守っていては全滅だ…!ここは…賭けるしかない!)


「皆の者!」


高順の声が、闇夜を切り裂いた。


「守ってばかりでは死ぬだけだ!俺について来い!このまま敵の中枢へ突っ込む!一か八かの勝負だ!」


「「おおおーーッ!!!」」


疲労と恐怖に押されかけていた兵士たちの目に、再び火が灯った。


「将軍!我ら全員、命令に従います!どうか先頭を!」


一人の兵卒が叫んだ。


「良い心構えだ!」高順は覚悟を決め、剣を高く掲げた。「全軍!俺に続け!突撃ォォーーーッ!!!」


「「ウオオオオオオーーーッ!!!」」


高順を先頭に、残存兵力が一丸となって暗殺者たちに向かって突撃した!それは、死を覚悟した者の突進だった。高順は鬼神の如き剣さばきで敵を薙ぎ払い、兵士たちも必死に続く。将軍自らの決死の突撃に触発され、兵士たちの士気は最高潮に達した。


「くそっ!止めろ!」「やる気か!この野郎!」


暗殺者たちは、突如の決死の反撃に動揺した。数の上ではまだ互角だが、漢兵の捨て身の攻撃の前には、暗殺者たちの連携も乱れ始めた。熾烈な白兵戦が繰り広げられる。剣が折れ、槍が砕け、血が飛び散る。


「ぐあああ!」「ま、負けるか!」


高順の剣が、新たな敵部隊の指揮官の胸を貫いた。


「首魁、またも討ち取ったり!」


「「おおおーーッ!!!」」


指揮官を失った暗殺者たちの戦意は一気に崩壊した。


「も、もうダメだ!」「逃げろ!」「くそっ、退け!退け!」


多くの暗殺者が戦意を喪失し、闇の中へと逃走していった。高順は追撃を命じず、隊列を立て直すよう指示した。彼は息を切らしながら、血と汗にまみれ、数え切れない傷を負いながらも、周囲の兵士たちを見渡した。その目には、安堵と深い感動の色が浮かんでいた。多くの犠牲を出したが、共に戦い抜いた者たちが無事な姿を見て、胸が熱くなった。


「皆…!」


高順の声が震えた。


「我らは…勝った!よくぞ…奮戦してくれた!皆の勇気と団結が、我らを勝たせたのだ!」


「「おおおーーッ!!!」」「将軍万歳!」「勝ったぞォーッ!」


兵士たちの歓喜の叫びが、漆黒の森にこだました。高順は、この生死をかけた戦いを生き延びたこと、そして共に戦い抜いた兵士たちへの感謝を胸に、深く頷いた。


この危うい夜襲は、高順の指導力と決断力を試すと同時に、生き残った兵士たちの結束を一層強固なものにした。目の前の刺客たちの陰謀は粉砕されたが、高順は心の中で固く決意した。


(董璜め…この恨み、決して忘れぬぞ。長安に着き次第、必ずこの借りを返してやる…。このまま黙って見過ごせば、さらなる陰謀が待っている。この権力闘争に、終止符を打たねばならん…!)


高順は、傷だらけの七百人の兵士を率い、長安へ向かう道をさらに進んだ。道中、生きたまま捕らえた宦官を厳しく尋問した。宦官は耐え切れず、洗いざらい自白した。


「…ハァ…ハァ…、も、もう…全部話した…こ、これで十分じゃろうが…!董璜様が…全てを企てた…我々は金と…出世を約束されただけ…!」


「ふむ…そうか」


高順は冷たく言った。


「で、では…私を…解放して…」


宦官はすがるような目をした。


「うん?簡単な話だ」


高順は微冷笑を浮かべた。


「お前が何をそんなアホな事を言ってるんだ?お前のやった事への対価として…死ぬのは決まっている。ただ…お前がどう死ぬかは、俺が決める事だ。」


高順は無表情で部下に命じた。


「…拷問を続けよ。死ぬまでな。」


「なっ…!何故だァあああーッ!約束が…!」


宦官の絶叫が、森の中に消えていった。


その後、宦官は絶命した。高順はその遺体を、野獣に襲われたように装うよう命じた。遺体は熊か狼に食い散らかされたように見せかけ、道端に捨て置かれた。


長安の城門が見えてきた頃、日はすっかり暮れていた。皇宮の門は閉ざされていたため、高順はまず自分の将軍府に向かい、体を休めると共に、朝廷への報告書の準備を始めた。全身に走る傷の痛みと、長安に渦巻くであろう新たな陰謀の予感が、彼の心を重くした。


「董璜…覚悟しておけ。次に会う時が、お前の最期だ…」


高順は、窓の外の長安の闇を見つめながら、低く呟いた。漆垣の森での死闘は終わったが、長安という巨大な魔窟での、さらに危険な戦いが、今、始まろうとしていた。

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