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第七回 軽挙妄動険醸禍 辺疆告急速行軍

洛陽での兵器開発――特に馬鐙の量産と軽量鎧の試作――がようやく軌道に乗り、これだけの準備があれば董卓本軍とも一戦交えられる、と高順が密かに考え始めた矢先、天を衝くような凶報が届いた。


匈奴、大挙して南下す!


「…ついに来たか!」


高順は届いた急報を握りしめ、歯を食いしばった。報告によれば、匈奴の前衛部隊はすでに雁門郡の防衛線と接触、小規模な衝突が発生しているという。戦力は現状拮抗している模様だが、主力が押し寄せれば一気に崩れる可能性が高い。


(これでようやく并州に逃げ帰れる…!)


内心、安堵と解放感が湧いた。長安の狂気と腐臭から離れ、自らの根拠地で戦える。これ以上の好機はない。


しかし、その思いは一瞬で打ち砕かれた。なんと董卓が、皇帝の名において**、高順に婚姻せよという勅命を下してきたのだ。使者は相国府の重臣、李儒だった。


「鎮北将軍、高順殿」


李儒は薄ら笑いを浮かべ、巻物を差し出した。


「御慶びでございます。相国様の御厚意により、良縁が整いました。天子の勅命をもって、貴殿に婚姻を命ずるものです」


「…相手は?」


高順は嫌な予感に胃が締め付けられる。


「先の弘農王妃・唐姫様でございます」


李儒の声には、わざとらしい気遣いがにじんでいた。


(ふぁ―――!?)


高順の脳裏が真っ白になった。唐姫かつて少帝劉弁の妃であり、廃帝殺害後もその貞節で知られる、天下で最も高貴で、同時に最も危険な未亡人だ。董卓が死んだ後も、李傕に迫られながらも決して屈せず、実家に戻ってひっそりと暮らしたと史書は伝える。そんな女性を…!


困惑と怒りが込み上げた。


(困るなぁ…この結婚は、俺を火の中に放り込むに等しい!世間の非難と朝廷の猜疑の的になるだけだ!)


その夜、董卓自らが高順を呼びつけた。相国府の広間は、前回の酒池肉林とは打って変わり、奇妙に粛然とした空気が流れていた。


「孝父、貴様は未だに独り身というではないか!」


董卓は豪快に笑いながら言ったが、その目は高順を鋭く観察していた。


「安心いたせ!儂がお主の大媒酌人を務めてやる!良縁を取り持ち、子孫永く栄えるよう取り計らうからな!ハハハハ!」


(ここで首を縦に振った俺も悪いが…断れば即死だ!)


高順は内心で舌打ちし、表向きは深く頭を下げた。


「はっ!相国様の御厚情、身に余る光栄に存じます!この高順、かたじけなくもお受けいたします!」


「聞いて驚くな?」


董卓はいたずらっぽく目を細めた。


「相手はかの皇太妃唐姫殿だ!」


(呂布がじゃなくて俺がお前を殺しに行ってやろうか!?)


高順の心の中が殺意に染まった。この野郎は、唐姫という危険極まりない存在を俺に押し付けた後、知らん顔できるだろう。しかし俺は、


「先帝の妃を奪った逆賊」として、後世にまで悪名を残すことになる…!


「恐れながら、相国様…」


高順は必死に平静を装い、反論の口を開いた。


「…未亡人であることに不服を申すわけではございませぬ。然れども…此度の婚姻は誠に喜ばしきものではありますが、某のような一介の武人が先帝の妃と結ばれることなど…」


声を潜め、致命的な一言を付け加えた。


「…それは相国様ご自身が、この世からあらぬ謗りを受けられることになりましょう。某、それこそ本望にございませぬ…」


「ふん!」


董卓の笑顔が一瞬で消えた。


「何だ、そのような事か!気にするでない!唐家からは既に了承を得ておるぞ!」


(おい!さすがにダメだろ!? 危ねぇっての!)


高順は心の中で叫んだ。何が何でも断る高順と、何が何でも押し通す董卓。二人の間には、本来の意味とは全く違う次元の矛盾の争いが火花を散らした。


「太師!」


高順は一歩前に出て、声に力を込めた。


「先帝は既に崩御されました!これ以上、皇室の妃に手を出すことは、皇室そのものへの侮辱ともなりかねませぬ!太師の御権勢は今や天下に知らぬ者などおりますまい!その御威光は、諸将の奮闘により、押しも押されぬ磐石なものかと…!」


「ふぅむ…」


董卓は腕を組み、顎ひげをひねりながら考え込んだ。「…どうしたものかのぅ?」 彼はふと横に控える李儒を睨んだ。


「おい!文優!何か良案はないのか!」


「は、はいぃ〜!」


李儒はへつらうように腰をかがめた。


「…ああ、そうでございました!蔡伯喈公のご令嬢蔡琰様が、ご嫁ぎ先に先立たれておられると承りましてぇ〜」


「おお!そうであった!」


董卓は膝を叩いた。


「ならば、そちで手配せよ!孝父、お前は下がれ!蔡公を呼んでまいれ!」


「はっ!」


李儒は素早く退がった。


(さすがの董卓も、蔡邕のような当代随一の大儒者には一応の敬意を払うようだ…)


高順は胸をなで下ろすと同時に、新たな憂いが頭をよぎった。


董卓はさらに、手綱を緩める様子を見せた。「皇甫嵩を執金吾に、朱儁を羽林中郎将に、盧植を虎賁中郎将にそれぞれ任ずる!」 これは表向きは栄転だが、実質的には名誉職による棚上げだった。しかし董卓は、まだ若い甥の董璜を、彼らの「補佐」という名目で付けさせた。抜け目がない。


(一応、并州で将兵を鍛えるという名目で三人を避難させてはいるが…) 高順は内心で舌打ちした。


(この人事は、かえって火種になるだろう。皇甫嵩らは、曹操や袁紹以上の確固たる董卓嫌いだ。世間知らずの董璜が彼らの本心を見抜けなければ、董氏一門はあっという間に滅びる…)


高順は密かに張五を使者として、皇甫嵩ら三人に定期的に書簡を送らせていた。そのおかげで、皇甫嵩の息子皇甫堅寿などは、高順と父親らが親しくしていると、しょっちゅう董卓に告げ口をしていたのだ。


ある日、董卓は高順を呼び出し、鋭い目で問い詰めた。


「孝父、近頃はあの三人と近しい様じゃな?」


高順は即座に平伏した。


「はっ!未熟な身の上、兵法韜略の一端でも学ばせて頂きたく、お許しを願っておりまする」


「ハッハッハッ!」


董卓は高笑いしたが、その目は笑っていなかった。


「良いではないか!あの老いどもらは確かに戦の妙を得ておるしのぅ…」


そして、急に声を潜め、鋼のような冷たさを込めて言い放った。「…だがな、孝父。一つだけ言っておくぞ?ヘタに動くなよ?」


(肝が冷えた…! コイツ、俺の動きを見抜いたのか?いや…単なるカマか?それとも、もはや誰も信じられないという心境か?)


高順は背筋に冷たい汗を感じながら、必死に平静を装った。


「ははっ…!御冗談を!こちらに関しては、相国様の堂々たる御身のこなし、そして御威光を拝するだけで学ぶべきことは尽きております故…」


董卓は目を細め、じっと高順を見つめた。その視線は重く、圧迫感があった。


(動いたら負けだ…ここは、星座の甲冑を身につけた古代の戦士のように、忍耐の千日戦争だ…)


「ふっ…すまぬな」


董卓は突然、笑みを戻した。


「儂の勘は鋭いからなぁ!だが、たまには外れる時もある!はぁっはっはっ〜!」


(このオッサン…!まあ、良い。すぐに死ぬのはお前だからな!)


高順は内心で毒づきながら、表向きは恭しく頭を下げた。


「本日は相国様にご報告がございまして…」


「匈奴か?」


董卓の声が先回りした。


「はっ!」


高順は深く頷いた。


「并州は司隷を守る盾でもあります。北に匈奴、東には袁紹、公孫瓚らが虎視眈々と狙っております故、直ちに帰還し防備を固めねばなりませぬ…」


「そうか…」


董卓は大きくうなずいた。


「誰ぞ連れてゆくか?呂布でもやるか?」


「いえ!」


高順は即答した。


「某の配下のみで充分でございます!西涼の精鋭は、相国様のお側をお守りするのが本懐かと…」


「ふふっ…」


董卓は満足げに笑った。


「そうか。ならば、戦は一刻を争うな!挨拶は無用、直ちに往くが良い!」


「はっ!では、これにて失礼いたします!」


高順は平伏した。


「さらばじゃ!孝父!」


董卓の声が背後から響く。高順は決して振り返らず、足早に宮殿を後にした。


「張五!居るかぁ!」


高順が自邸に戻るやいなや、大声で呼んだ。


「へい!なんですかい?大将?」


張五が飛んでくるように現れた。


「おう!呉資、眭固らに伝えよ!全軍に直ちに出陣準備を命じ、晋陽へ向かえとな!」


「へい!承知やした!」


張五はすぐに走り出そうとしたが、突然立ち止まり、付け加えた。


「あっ、それと大将、お客さんが来てやすぜ?」


「客?誰だ?」


「蔡邕とか言う爺さんですが……」


「!」


高順の拳が、張五の頭に一閃した。


「ってぇ!大将!?」


張五は頭を押さえて悲鳴を上げた。


「馬鹿者!当代随一の碩学を『爺さん』呼ばわりとは礼を欠きおる!速く行け!」


高順は怒鳴りつけ、張五は泣きそうな顔で駆け出していった。


高順は慌てて客間に駆け込んだ。そこには、落ち着いた佇まいの老学者蔡邕が座っていた。


「蔡公!おいでは預かり知らず、大変な失礼を致しました!」


高順は深々と頭を下げた。


「ふふふ、良い良い」


蔡邕は温かい笑みを浮かべた。


「こちらこそ、呼ばれてもいぬのに勝手に訪ねてしまった。非はこちらの方にある」


「いえいえ!」


高順は心からの敬意を込めて言った。


「当代きっての大学者、蔡先生とお話しできること自体が、この高順にとってこの上ない光栄にございます!」


(そりゃそうだ!娘の蔡昭姫も有名だが、この人物こそが数々の傑物を育て、その弟子筋に大書道家王羲之が連なる学問の巨峰なのだから!)


「ハッハッハッ!」


蔡邕は愉快そうに笑った。


「この老耄を持ち上げるでない。して此度は将軍に御用があってのことですじゃ」


「はぁ…」


高順は警戒しながら腰を下ろした。


「何でしょう?」


蔡邕はしばらく茶をすすり、静かに口を開いた。


「…将軍には、良縁を結ぶおつもりはござらぬか?」


高順は一瞬、言葉を失った。


「某、軍営に籍を置いて十数年、そんなことは…考えたこともござらん」


すると、蔡邕は慈愛に満ちた、しかしどこか寂しげな笑みを浮かべた。


「…では、この老いぼれの一人娘を娶っていただけまいか?」


(ふぁ!? なんてこった!?)


高順は目を見開いた。蔡邕は高順の驚きを面白そうに見つめ、深々とうなずいた。


「娘も運が悪くてのぅ…」


蔡邕はため息をついた。


「ようやく良縁が整ったかと思えば、嫁ぎ先が先立たれてしまい…」


彼は高順をまっすぐ見据えた。


「…近頃、将軍の噂を耳にしましてなぁ…」


(え?やっぱり俺も董卓政権の一員だから…悪評が立ってるのか?)


高順は胃が痛くなった。


「ハッハッハッ!」


蔡邕は突然高笑いした。


「そう、そんなに緊張めされるな!なあに、戦に勝ったという話と、著しい栄転を果たされたという、勇将としての評判じゃよ!」


「はぁ…」


高順はほっとすると同時に、複雑な思いに駆られた。


「さて、高将軍」 蔡邕の口調が真剣になった。「結論やいかに?」


(うーん、結婚…か…トラウマしかねぇよ。時代は違えども…前世の記憶が蘇る…)


高順は深く考え込んだ。


「…一日、考えさせて下され」


高順は慎重に言葉を選んだ。


「いくら、蔡公がお望みであろうと、当人たる令嬢様が望まれなければ、意味を成しませぬ。それに…この高順、一介の武弁の徒に過ぎませぬ。果たして、令嬢様を幸せにできるかどうか…そのお話もまた別でございましょう」


蔡邕は一瞬、鋭い眼光で高順を睨んだが…やがてその口元が緩み、深い笑みを浮かべて立ち上がった。


「…ふふ、承知した。一日、待っておろう」


そう言うと、静かに屋敷を後にした。


しかし、その夜も更けた頃、蔡府から使いが訪れ、一通の**書簡**を高順に渡した。開封すると、そこには端正でありながらも激しい筆致で漢詩がしたためられていた。


漢季失權柄、董卓亂天常、

志欲圖簒弑、先害諸賢良。

逼迫遷舊邦、擁主以自彊。

海内興義師、欲共討不祥。

卓衆來東下、金甲耀日光。

平土人脆弱、來兵皆胡羌、

獵野圍城邑、所向悉破亡。

斬截無孑遺、尸骸相牚拒、

馬邊縣男頭、馬後載婦女。

長驅西入關、迴路險且阻。

還顧邈冥冥、肝脾爲爛腐。

所略有萬計、不得令屯聚。

或有骨肉倶、欲言不敢語。

失意機微閒、輒言斃降虜、

要當以亭刃、我曹不活汝、

豈復惜性命、不堪其詈罵,

或便加棰杖、毒痛參并下。

旦則號泣行、夜則悲吟坐,

欲死不能得、欲生無一可。

彼蒼者何辜、乃遭此戹禍。


これは蔡琰自身が後に作るとされる『悲憤詩』の一節だった。董卓の暴政と乱世の悲惨を、拉致された女性の視点から痛切に詠ったものだ。明らかに、董卓と、その配下である高順への痛烈な批判であった。


(ふん…売られた喧嘩か…)


高順の目に闘志が灯った。


(ならば、きっちり買ってやろう。倍返しだ!)


彼は即座に筆を執り、返書をしたためた。蔡琰の詩の最後の一節を引用し、それに対する答えとして、唐代の詩人・王昌齢の『出塞』と、自ら作ったと称する詩を添えた。


邊荒與華異人俗少義理、

處所多霜雪胡風春夏起。

翩翩吹我衣肅肅入我耳、

感時念父母哀歎無窮已。


秦時明月漢時關、万里長征人未還。

但使龍城飛将在、不教胡馬度陰山。


金帶璉環束戰袍、馬頭衝雪過臨洮。

卷旗夜刧單於帳、亂斬胡兵闕寶刀。



高順はまだ知らなかった。この辛辣な詩のやり取りを皮切りに、彼と蔡琰は文通を重ね、やがてそれは互いを理解し合う道へと繋がっていくことを。そして、その縁が、彼を「董卓の爪牙」という立場を超えた存在へと導いていくことを。



翌日、董卓は高順に仮節鉞を与え、軍十五万で并州に向かうよう詔を発した。出陣の日が訪れた。


「張五、諸将に将軍府へ集合を命じろ!」


高順が厳命する。


程なくして、本軍の郝萌、曹性、成廉、魏続、宋憲、侯成の六将と、白波軍から帰順した李楽、胡才の二将、そして高順自身を加えた計九将が集結した。軍議は簡潔だった。匈奴の遊牧民は機動力に優れ、定住地を持たない。それに対抗するには、こちらも機動力を活かし、複数の部隊で分進して包囲殲滅するしかない。


「…以上だ。各々、準備を怠るな」


高順は最後に、自軍の鉄則を言い渡した。


「我が軍の軍令はただ一つ、『何があっても生き残ることが先決』である!無駄な死は無用だ!理解したか!」


「「はっ!」」


九将の声が一つに重なった。


高順は朝廷に最後の挨拶に向かおうとした。洛陽城門を出ようとしたその時、一人の若い女性が近づいてきた。質素だが上質な身なり、そして見たこともないほどの気品と知性を湛えた美貌だった。彼女は無言で、一枚の玉佩を高順に差し出した。


「……将軍、ご武運を……」


その声は澄んでいて、わずかに震えていた。


(一般人ならまず声をかけない…俺は董卓の配下、悪党の一味だ…)


高順は警戒した。


「ふむ、そなたはきっと名家のお嬢様だろう。断れば面目は保たれまい。今回は受け取るが…」


彼は厳しい口調で続けた。


「…女子がこのような殺伐とした場に来るのは感心せぬ。気を付けられよ」


「はい…」


女性はうつむき、次に一通の書簡を差し出した。


「…それと、こちら…お時間が有れば…」


高順は書簡を受け取り、行軍が始まってから開封した。そこには、先夜蔡府から届いたものと同じ筆致で、さらに辛辣な詩がしたためられていた。


男大当婚女当嫁、寡婦門前是非多

(男女共に相応の年齢になったら結婚するものだが、未亡人はただでさえ変な噂が立つというのに)

将軍出征生死憂、何如前朝双将軍

(将軍は今回の戦争で生きるか死ぬかも分からないくせに、武帝の頃の名将・衛青えいせい霍去病かくきょへいと比べてみよ、将としての能力はどうなの?)

丈夫尽忠守人節、無情強娶他人妻

(夫は国家に忠誠を尽くして死んだのに、将軍は無情にもその未亡人を強引に娶ろうとしている)

萍水相逢未謀面、今日一見更似賊

(お互い会ったことも無く、何の縁もない。今日貴方のことを見てみたら、やはり国賊に付くような見た目をしている)


(マジで言ってんの?俺が悪いのか?)


高順は呆れながらも、あることに気づいた。


(この娘…コミュ障なんじゃないか?まあ、良い…!)


彼は即座に馬首を返し、城門の外で待っているであろう彼女の元へと駆け戻った。彼女はまだ立っていた。高順は馬から降りず、彼女の腕を強く掴むと、そのまま馬の上に引き寄せた。


「わっ!?」


彼女は驚きの声を上げた。


「見たぞ、その詩を」


高順は馬上で、彼女を前に乗せたまま、低く言った。


「返詩を言うから、よく覚えておけ」


「はい?将軍は誰かと間違えて…」


彼女は慌てて言いかけたが、高順に遮られた。


「蔡家のお嬢様、蔡琰さいえん、蔡昭姫。そうだろう?」


馬上の蔡琰は、一瞬で息を呑んだ。


「…見破られましたか」


「ふっ、あの詩を見なければ分からなかったがな」


高順は笑った。


「貴様の父上からもらった書簡と同じ筆跡だ」


「…余計なことをしたようですね」


蔡琰は諦めたように呟いた。


「確かに」


高順は即答した。


「さあ、行くぞ。覚えろ」


秦時明月漢時関、万里長征人未還。

但使龍城飛将在、不教胡馬度陰山。

(秦の時代の明月が漢の時代の関所を照らす。万里の長征に出た兵士はいまだ戻らず。

もしも龍城の飛将軍のような名将がいれば、胡馬すなわち匈奴を陰山の向こうに渡らせはしない)


金帶璉環束戰袍、馬頭衝雪過臨洮。

卷旗夜刧單於帳、亂斬胡兵闕寶刀。

(金の帯と玉の環で戦袍を締め、馬の頭は雪を衝いて臨洮を越える。

旗を巻き夜陰に乗って単于の本営を急襲し、乱戦のうちに胡兵を斬りまくり宝刀を欠けさせる)


高順が吟じ終えると、蔡琰は呆然とした表情を浮かべた。それは予想外の出来事に直面した驚きと、詩の内容への衝撃が入り混じったものだった。


(失礼な女だ…)


高順は思ったが、同時に彼女の才気と率直さに興味が湧いた。


この時代、未婚の女性に触れること自体が、貞操を汚す行為とみなされ、場合によっては強姦と同罪だった。高順が蔡琰を馬上に引き上げた行為は、すでにその域に達していた。触れた以上、責任を取って娶らねばならない――高順はそれを自覚しての行動だった。それは高順なりの、乱暴ながらも確かな**プロポーズ**の意思表示だった。


蔡琰はその重みを理解した。彼女は深く息を吸い込み、観念したように言った。


「…この度の婚姻、お受け致します。ですので…」


彼女は真剣な眼差しで高順を見つめた。


「…心より、ご武運をお祈り申し上げます」


「ふむ!」


高順は力強く頷いた。


「承知した!この言葉、確かに受け取った!」


「では…」


「うむ!時期尚早だが…」


高順は蔡琰をそっと地面に降ろした。


「帰って、御令堂と日時を相談されよ。俺は細かいことに拘らぬからな!ハッハッハッ!」


「はい…」


蔡琰は俯き加減に答えた。


「いつでも、并州に移ってこられるよう、準備だけは整えておけ!」


高順はそう言い残すと、馬に鞭を入れ、晋陽を目指す大軍の先頭へと駆けていった。


皇甫堅寿の軽挙妄動と并州への道


洛陽城の北門に差し掛かった時、一人の武将が高順の行く手を阻んだ。甲冑に身を固め、剣を抜いて構えている。皇甫嵩に似た面影、皇甫堅寿だ。


「待て!何者だ!」


堅寿が鋭く詰め寄る。


「鎮北将軍、高順である!」


高順は馬上で傲然と言い放った。


「貴様こそ何者だ!将軍の行軍を阻むとは!」


「北門都尉、皇甫堅寿である!」


堅寿は剣先を高順に向けた。


「貴様を捕らえて相国の前に突き出してやる!」


高順の体内で、武者の本能が警告を発した。


(コイツ、何か知ってる…!)


「はて?」


高順は冷静を装った。


「理由を聞かせてもらおうか」


「貴様ァ!」


堅寿の声が怒りに震えた。


「父上らと…朝廷転覆の謀議を巡らせていると知ったぞ!」


(やはり…!漏らしやがった!どうりで董卓が俺の動きを怪しむわけだ…!)


「……おい」


高順は馬を一歩前に進め、声を死の匂いを含ませて低く響かせた。


「…俺を突き出したら、お前も三族皆殺しにあうぞ?」


「なっ!?」


堅寿の顔が一瞬で蒼白になった。


「そんな、そんな訳あるか!」


「あるから言ってるんだ!」


高順の声が鋭くなった。


「良いか?お前の父皇甫嵩が今も生きているのは、相国がお前の父を『尊敬している』と言い、お前自身が相国に取り入っているからだ!だがな…」


高順は一語一語を噛みしめるように言った。


「…お前の軽挙妄動で計画が露見すれば、お前の父は真っ先に殺される!俺や、お前が接触した者も皆、お前のせいで死ぬ!お前はその責任を取れるのか!?」


皇甫堅寿は動揺し、剣先が震えた。高順の言うことは正しかった。董卓は疑い深く、残忍だ。


「ならば…!」


堅寿はなおも抵抗しようとしたが、


「良いか?」


高順が遮った。


「お前が北門都尉であることが、かえって我々の隠れ蓑になっている。お前はその役職を全うし、相国の信頼を失うな。軽挙妄動に走れば…皆が死ぬ。お前の父もな」


「う…うむ…」


堅寿は苦渋に満ちた表情でうなだれた。


「良いな!」


高順は強く言い放った。


「分かった…!」


堅寿はようやく剣を鞘に収めた。


「相国には、俺が北の守備を固めるために急ぎ出陣すると、きっちり説明しておけよ?」


高順は付け加えた。


「うむ…待っておるぞ…」


堅寿の声には無力感がにじんでいた。


「おう!」


高順はそう返すと、軍勢を率いて北門をくぐり、洛陽の街を後にした。洛陽に戻ることは当分ないだろうが、一応の「返事」はしておいた。


行軍中、高順は軍の指揮系統の再編に着手した。特に問題だったのは、白波軍出身の李楽、胡才らだった。彼らは数百人を率いる頭目としては有能だが、大軍団の一部将としては未熟すぎた。


(さて、どうしようか…)


高順は頭を抱えた。


(軍政を考えるなら…兵科ごとの専門訓練が必要だ。騎兵、歩兵、弓兵、補給部隊…。それを統率する将軍…張遼、郝萌、侯成…それに曹性か?いや、まだ足りん…)


数十万の大軍を率い、多様な兵科を効果的に運用するには、彼の知る限り、曹操や周瑜のような稀代の指揮官か、劉備のように人材を惹きつけるカリスマが必要だった。


(えぇい!やめだやめだ!そんな理想論は後回しだ!まずは目の前の匈奴を撃退せねば!)


二ヶ月に及ぶ強行軍の末、ようやく晋陽に到着した。高順は直ちに人員配置と防衛体制の再構築に取り掛かった。城壁の補強、斥候網の拡張、兵站路の確保…休む暇もない日々が続いた。


その合間を縫って、高順は一人の人物からの書簡に返事を書いていた。孫堅、孫文台だ。陽人の戦いの後、奇妙な友情のようなものが芽生えていた。


(孫堅からの書簡)

孝父兄、先日の陽人では世話になった(実際には激戦を交えた)。

天下の諸侯は未だにその志を忘れず、再び集結して董卓討伐の戦を起こすと言っている。

我々も参加するかどうかを検討したいので、中枢(長安)の情報を送ってくれまいか?


(高順の返書)

文台兄、書簡を送って頂き誠に有難く思います。

天下の諸侯が再び戦を起こすと言うのであれば、私も一軍の将として、主君に従いそれを防ぐ所存です。

中枢に関しては、盟主たる袁紹、袁術兄弟が、大将軍何進の敵討ちを大義名分に挙げておりますが、

実際には、太師董卓が彼らの対立に付け入り、先帝(少帝)を弘農王とし、陳留王(献帝)を帝位に就かせたことこそが、先の大戦の根源でございました。兄は荊州の長沙、武陵、零陵、桂陽を手中に収め、地盤を固められましたが、くれぐれも袁術の言いなりとならぬことを祈ります。


(孫堅からの返書)

孝父兄、重ねて礼を言わせてもらう。

だが、戦場で相まみえた時は、各々の主君のために戦う身、容赦は出来ぬ故、そのつもりでいてくれ。


(高順の返答)

文台兄、我々は戦場に身を置く者。各々の主君の為に戦うのが本分。

この高順、恨み言など申さぬ。いずれは堂々と、互いの信念を剣で語り合いましょう!


(超訳するとこんな感じか…実際の書簡はもっと長くて、漢文の格式ばった表現だからな…)


高順は書簡を封じながら苦笑した。


人員配置と防衛計画がようやく完了した頃、中華全土には不気味な風が吹き始めていた。第一次反董卓連合の崩壊は、一時の平穏をもたらしたかに見えたが、それはむしろより大きな乱の胎動を隠していた。各地の諸侯は敗北の傷を舐めながらも、野心と復讐心を胸に、再び刃を研ぎ始めていたのだ。袁紹は冀州で、袁術は南陽で、曹操は兗州で、そして孫堅は長沙で――再起の機会を虎視眈々と狙っていた。


高順は晋陽の城壁上に立ち、北方の地平線を見つめた。匈奴の気配が日に日に強まる。しかし、それ以上に恐ろしいのは、南で蠢く人間たちの野心だった。


「…嵐が来る」


彼は呟いた。その目は、遠くに広がる乱世の荒野を、冷静に見据えていた。



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