第五十回 虎侯力戦錦馬超 典悪来拝将領兵
西涼の戦いは潼関周辺で行われた。
叛乱を起こした馬騰らは直ぐさま長安を落とし、潼関まで奪取した事に曹操は焦りを感じ親征を決意した。
一連の戦いをこなした馬超は既にその武勇西涼随一の呼び声も高くなっていった。
「ふむ、このままだと…、危ういな。何ぞ策は有るかね、公達?」
「お任せを…」
曹操幕下の筆頭軍師荀攸である。郭嘉を亡くして以降、殊更に荀攸の献計に偏った曹操である。
歴史上の曹操の謀士には戯志才、郭嘉、荀彧、荀攸、賈詡、杜襲、杜畿、司馬懿、陳羣、程昱、劉曄、華歆らが居る。
その内の戯志才と郭嘉を亡くし、賈詡を高順に取られ、元々武官でもあった程昱は今や将軍として一方を担当し、劉曄は宗室の出身が仇となり、発言は許されていない。安定して謀略を練り続ける荀攸は常に曹操の謀士筆頭であり続けた。
「うむ、皆行くぞ!」
「「はっ!」」
どれだけ高順が人材を削ろうが層が厚い曹操は歯牙にもかけないのである。曹操自身も優れた謀士の一人であるから、ただ、全てを一人でやると必ず見落とすから、常に周りの謀士らと相談しつつ円滑に事を進めているだけである。
潼関まで足を伸ばし、早速馬超と戦った。二十合で于禁、夏侯惇、夏侯淵、曹昂、曹彰らを見事に打ち破った。
「フハハハハハハハハッ!呂布が漢より去った後、これほどの武勇を示せる者がおるとはな!」
「ハァ…、ハァ…、孟徳…、感心して場合では無いぞ!」
曹操は馬超に勢いづかせては流れが悪いと判断したのか、顎を摩り、許褚を指名した。
「ふむ…、仲康…」
「はっ!」
典韋はそれに不満を示したが、少し目を動かすと何時もの表情に戻っていた。
「悪来…不満か?」
「はっ、少しばかり…」
「ふふふ、お主まで居なくなれば儂は不安で仕方無くなるぞ。許せ」
「はっ!」
馬超と許褚は百五十合撃ち合い、尚も決着がつかなかった。
「ゼェ…ゼェ…おい…クソガキ…、ここいらで一休みと行こうじゃねぇか…」
「ケッ!ジジイがバテるくらいなら出てくんじゃねぇよ!」
「ハハハハッ!生意気だな。別にテメェにビビってるわけじゃねぇよ!堂々とやり合いてぇだけだ」
馬超も内心では焦っていた。
何だこの化け物は!相手にしてられん…よしっ!俺も下がろう。
許褚も下がって曹操の元に戻って行った。
「ふふふ、虎痴、どうであった?」
「はっ、流石西涼一の武勇…かの呂布に及ぶ所もあるかと…」
「そうか!」
曹操はあわよくば西涼を呑み込んで馬超を配下に加えようとしていた。
許褚は戦闘準備をしていると、兵士らに命じた。
「こんな物要らぬわッ!小童如き、何時でも倒せるわい!」
上半身裸になって、挑みに行った。これを見た曹操は少なからず窘めた。
「虎痴、それは無謀だぞ!鎧を…」
「公よ、あの程度の者、鎧を着ける程この許褚は衰えてませんぞ!それに、動きづらいですからね…」
「そうか、ならば任せた。勝てとは言わぬ、死ぬな」
長年曹操を見てきた許褚にとって、この言葉は相当重く受け止めた。確かに馬超は若くその武勇は相当なものだ。だからこそ曹操は焦っているのだ、と。
「はっ!」
馬超の方は自陣に戻り、喉を潤し、得物と馬を取り替えて身体を休めていた。
「孟起、勝てるか?」
「…」
「そうか…」
馬騰は黙る息子を見て自信が無いと確信した。いつもの馬超ならば明るく颯爽としているからだ。
「死なねばそれで良い、儂の跡取りはお前しか居らんからな…」
「父上…!」
「良いな!此度の戦どう転がるか最早読めぬ…、お主に遺言を託そう…」
「何を弱気な…!」
「聞けっ!」
「はっ!」
「敗れた際には、迷わず皇叔の元へ馳せ参じよ。この父の事は構うな!良いなっ!」
「…」
「良いな!」
「はい…」
その肩にズシリと重荷がのしかかった様であるが、馬超個人としても、許褚に負ける訳にはいかないと決心した。
鎧を外した許褚の気迫は鬼気迫るものがある。大して馬超は流石に調子に乗り過ぎたと慎重になった。
「おう、いざ尋常に!」
「ふん!くたばれぇ!」
双方、馬を駈けさせ大刀と矛が交叉する。
「さすが、魏公幕下に典君と虎侯有り!この馬孟起、生来人を敬服した事はないが、虎侯その強さは其れに値する!」
「はん!褒めたって何も出ぬぞ!だが、西涼が錦馬超も虚名では無いようだな!」
馬超も剛力で知られた猛将、許褚の大刀を吹き飛ばし、二人は馬超の矛を奪い合った。そして、矛も遂に折れそれぞれ手にして更に撃ち合う、馬騰と曹操が同時に金を鳴らし双方撤収となった。
「また戦おうぞ!」
「おう!」
馬超は自陣に帰り、誰にも何も語らずに眠った。許褚は飲み食いした後に曹操の前にしても憚らずに眠りについた。曹操はそんな許褚を労い、自らの披風を許褚に掛けその無礼を許した。
双方睨み合いが続き、それ以来は膠着に陥ったが、馬超が曹操の築城中を狙い急襲し、曹操が大敗を喫した。
曹操は殺意に満ちた苦笑いを浮かべ、一言呟いた。
「ははは…、あの小僧が生きておる限り、儂の骨を埋める土地は無さそうだのぅ…」
「公よ、殺してきましょうか?」
「ふっ、悪来、そう逸るな。戦に勝てば良いのだ。態々匹夫の勇を…」
「わかりました」
典韋は征西以来、出番が無く悶々とした日々を送っている。今日も意見を退けられ酒を煽っていた。
「悪来将軍…」
「荀先生!ここへは?」
「ハハハハッ!将軍が鬱悶としていたので、声をかけさせていただきました。武芸の心得はございませんので何卒ご容赦を」
「とんでもない!ところで先生は…?」
「将軍こそ、巡回に…」
「ふふふっ、虎侯が居れば儂に出番は回ってこんよ」
「ハハハハッ、将軍は昔のまま可愛いお方ですな!」
「先生…、儂を笑い者にする気ならコッチも出方考えるぜ…?」
「これは失礼しました。将軍は今正に出世を遂げようとしているのに、鬱悶としていたものですから、つい…」
「出世ぇ?先生、本の読みすぎでおかしくなったのかい?この俺が出世ですかい?」
「ええ、ここ数日、魏公は何故将軍を戦場に出さないのです?」
「それは公のお考えも有るだろうから…」
「それはそうですが…」
「じゃあ…何だい?勿体ぶらねぇで教えてくれよ」
「将軍は今までずっと公の『心腹愛将』ですから、何時かは公明将軍らの様な三軍を率いる将軍として期待されているのですよ?」
「なっ…!何だと?」
「ふふふ、将軍は公が挙兵されて以来、ずっと護衛を務められたでは有りませんか!」
「しかし…!わしゃァ…殺し以外の能が無いんですよ!?どうしろってんすか!」
「ふふふ、腐らずに今まで通りでよろしいかと…」
「そ、そうかい…、なら先生を信じてみるよ!ご教授に感謝致します」
典韋はそれ以来、夏侯惇らに用兵を請う様になり、殺し屋然とした雰囲気さながらに書簡や地図とにらめっこする様になったと言う…。
荀彧は何故典韋を前線で戦わせようとするのか不可解でしかない、堪らず曹操に尋ねた。
「公よ、何故…」
「ハハハハッ!文若にも解らぬ事が有るとはな!いやぁ〜傑作だ!」
「公…」
「ふふふ、虎侯と馬超の一騎討ちを見て決めた。虎侯は戦に向かぬ、吾を守れと命じたら死ぬまでそうするであろう…、だが、悪来は違う、アレは馬超と虎侯が戦ってる所を見て悔しがった。更に言えば、儂もそろそろあの大耳野郎と決着をつけねばならんからな!関羽、張飛、趙雲らに匹敵する驍将が居らねば戦の決め手を欠く」
「なるほど、今までは遼王のご助力を仰いでおられたから我らはあの者らとぶつからずに済んだ、という事ですかな?」
「そうだ。だが、儂の息子、子文を見よ、勇将に見えようが、わしの目から見てもまだまだ子供よ、其れに儂に万一の事があれば子脩が家中をまとめられるとも思わん…」
「確かに…、公の公子達を見ると…」
確かにそうである。長子の曹昂は性格は聡明、剛胆、謙和で好色以外は父親譲りで親族の夏侯惇、夏侯淵、曹仁ら一族の後ろ盾が有る、次子曹鑠夭折、三子の曹丕は曹操の陰険狡猾な部分を色濃く受け継ぎ更には其の文才も引けを取らない、四子の曹彰は武勇に突出していて曹操の粗暴な部分を受け継いでいる。、五子の曹植は詩文のみに優れるがそれも父親を唸らせる程である六子の曹熊は生来病弱で跡継ぎとして期待すらされていない、生きているだけで良いという期待なら曹操から大いに寄せられている。曹操が最も将来を嘱望している息子と言えば七子の曹沖である。武芸に関しては未だに分からないが、その叡智には曹操も敵わぬと手放しで褒めるくらいだ。
荀彧はそう分析した、これが正解かどうかは曹操のみが知る。それだけに、家中で内紛が起こればの事を想定して、典韋を三軍の主将として据えられるように備えなければならない。これも高順が不吉な予言をしたせいである。
[孟徳、言っておくがお前の人生は六十年に達しても七十にはいかないだろう…]
曹操は一笑に附し取り合わなかったが、持病の頭痛が年々酷くなり高順の予言も笑い事では済まされなくなった。
馬騰親子は、潼関より退却して長安まで前線を上げたが、戦争の主導権は以前曹操が握っている。
于禁、曹洪、夏侯淵、徐晃、曹昂、曹彰ら曹操の命を受けて兵を分散し、馬騰らの本拠地天水周辺を荒らした。馬騰は閻行、龐徳に後方を守らせる為に兵を率いさせ派遣した。これによって、馬騰親子は長安で孤立する事になった。
高順はこれを祁山で報告を受けると共に、静観していた。
「張五、何処だ!」
「大将!お呼びですかい?」
「おう、暫く留守にする」
「どちらへ?」
「うん?あぁ、西涼だ。孟徳を助ける為にな!」
「兵は…」
「一万だ。二万もあれば、足りるか?」
「へっ!あっしらァ天下無敵の遼軍の中でも精鋭中の精鋭ですぜ?」
「はいはい、とにかく頼んだぞ!」
「へい!」
高順は一万を連れ立って、平襄城に揺さぶりをかけ、閻行と龐徳は此方に直行、だが、彼らも迂闊に手を出せないでいた。
長安城中では、程銀らが馬騰に謀反を起こし、馬騰の息子馬休を殺し、馬騰も重症を負った。かろうじて生き残ったのが、馬超、馬鉄、馬岱のみとなった。
「兄上!」
「おう!徳山、叔起!生きておったか!」
「…、かろうじて、しかし…叔父上は…」
「起きた事を気に病むでない、我らには未だに精兵五万有る!此処で一旦退く!まずは冀城、更に西の奥地だっ!」
「羌の…」
「そうだ。そこで更に兵を集め再起するのだっ!」
「「はっ!」」
馬超らは撤退を開始し、此処にで馬騰が纏めあげた西涼諸軍閥はまた小割拠に戻った。
曹操はこれを煩わしく思ったが、ふと思い出した。派遣出来る将兵が居ない、これを見抜いた荀彧は進言し、状況を打破した。
「公、一人推挙したいのですが…」
「ほぅ?文若、誰ぞ居るのかね?」
「ふふふ、公はよもや悪来が居る事をお忘れか?」
「ふむ…」
「公の護衛は虎侯が一人いれば十分ですぞ!」
「…、仕方あるまい!」
荀彧はただ笑い、曹操の顔を晴れて、典韋を呼びつけた。
「典韋此処に…」
「うむ、悪来、今まで我慢させすぎたな!ところでお前は今どのくらい兵を率いておる?」
「はっ、八百にございます」
「わかった。二千二百を増員し、三千とする!お前をその三千の兵を率いる将軍とする!」
「え?」
「不満か?」
「いえ…、ただ状況が読めなくて…」
「それを気にしたらお前は悪来とは呼ばれまい?」
「しかし…」
「なんだ?自信が無いのか?」
「少し…」
「どうした?」
「はっ、某、公の護衛は務まりますが、公より将兵を預かり…」
「ハハハハッ!皆聞いたかッ!悪来、其の忠勇や嘉し!更に増員してやる!八千二百だ!元譲、選んでやれ!」
「はっ!」
「悪来、自信は付いてくるものぞ!お前は最早、我が幕下の護衛に非ず、我が配下の猛将ぞ!天下に知らしめよう…『帳下に壮士典君有り』ならぬ猛将典君有りとな!」
典韋は涙を流し、人目も憚らずに声を上げた。余程嬉しかったのだろう。典韋を推挙した夏侯惇も嬉し涙を浮かべ、荀彧ら謀士らも微笑んでいた。
「ウグッ…!こ、公…、この悪来、必ずや…!公のご期待に答えます!」
「うむ、わかった。わかったから、泣くな!なっ!配下の将兵らに示しがつかんだろ…カッカッカッ!」
それ以降、典韋は諸将と共に居並ぶ事になったが、それでも護衛の癖が抜けず、幕帳の入口に席を置くようになったと言う。
後の史書には、曹公帳下に猛将典君有りと書かれる事になるのはもう少しあとである。
高順は平襄城付近で閻行と龐徳を相手に大立ち回りを演じる事になった。張五は、祁山の留守に集中し、劉備の動向を注視し続けた。