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第五回 泗水河畔敗孟徳 長安城中殺伯慎

さて、俺は今、八十万という膨大な数の兵を率いて、滎陽に駐屯する董卓本軍と無事合流を果たした。胸をなで下ろすと同時に、背筋に冷たい緊張が走る。この数は、想像以上に周囲を震撼させたようだ。残りの三十万は、信頼できる張遼ら諸将に託し、并州の平定と安定化、そして新たな兵力の源泉としての掌握に回した。張文遠ならば、あの荒くれ者の黒山、白波の残党たちも、うまく手懐け、鍛え上げてくれるだろう。彼の統率力と人望は、俺の想像以上だ。


合流の陣営では、徐栄、楊定、張済ら董卓軍の古参将校たちが、俺とその背後に広がる黒山白波を中心とした、しかし見た目はやはり雑多な大軍団を目にして、明らかに動揺と驚愕の色を隠せなかった。特に徐栄の目は、鋭くも戸惑いに満ちていた。


「高将軍!この…この兵らは一体……?」


徐栄が声を潜めて問う。その視線は、規律正しい董卓軍の精鋭とは明らかに異なる、野性味と荒々しさを残す俺の兵たちを舐めるように見ていた。


「あ、いやあ……」


俺は軽く頭を掻き、出来るだけ無害そうな笑みを浮かべる。この時代の人間に「未来人で歴史を知ってるから集めました」とは言えない。


「…もともとは黒山、白波の賊徒らを討伐しに行ったんですが、成り行きで…どうもこうも、彼らも食うには困ってたようで、降伏して従うって流れになってしまいまして。それで、気がついたら…こんな数になってしまって…は、はは…」


説明が支離滅裂だ。だが、これが一番納得されやすいだろう。


徐栄は一瞬、眉をひそめたが、やがてその口元が緩んだ。


「ふふ、なるほど…ともかく、この膨大な兵力は、この戦を有利に進めるには十分すぎるものだな!確かな戦力になれば、何よりだ!」


「ええ、勝てますとも!」


俺は力強く頷く。歴史の流れは変えられても、この圧倒的な兵力差は、酸棗の諸侯たちに大きな心理的圧迫を与えるに違いない。


「して、いかにいたす?」


楊定が口を開いた。


「この大軍を以て、一気に河を渡り、敵陣に突入するか?」


俺は首を振った。


「いえ、このまま睨み合いを続けましょう!」


「なっ……!?」


張済が驚いて声を上げた。


「何を言う!この兵力差で何を躊躇う!一気に叩き潰すべきでは?」


「相手はもうじき、軍糧が尽きる頃合いです」


俺は落ち着いた口調で説明する。これは紛れもない事実だ。


「袁紹の連合軍は寄せ集め。兵站の統制は乱れ、供給は滞りがちだ。特に酸棗に集結している主力は、既に限界に近いと見ています。故に今は待つが得策です!無理に渡河攻撃をかけ、不必要な損害を出すより、敵の足元を揺るがす方が賢明です」


「しかし、敵が我が軍の猶予を侮り、攻勢に出てきたらどうするつもりじゃ?」


徐栄が核心を突く。


「泗水を渡らねば、こちらに直接攻めかかることはありますまい」


俺は川岸を指さした。「敵が渡河中、あるいは渡河直後の陣立てが整わぬうちこそが、我らにとっての最大の好機です。渡河を許し、半渡のところを迎え撃てば、兵力差がさらにものを言い、敵は大混乱に陥ります。伏兵も…」


俺は含みのある笑みを浮かべた。


「…対岸の密林や河岸の藪の中に、幾つか手を打っておきました。張済将軍の軽騎兵も、機動力を活かして渡河点を分散させ、敵を撹乱するのに適しておりまする」


徐栄の目が一瞬、鋭く輝いた。


「…相国に採り立てられるだけあるな!高将軍の謀略には恐れ入りますな!確かに、渡河してくる敵を殲滅するのは、野戦で追撃するよりも効率的で損害も少ない。兵糧の逼迫も加われば、敵は自滅するか、無理な攻勢に出るか…どちらに転んでも我らに利ありだ!」


「ご冗談を…」


俺は謙遜したが、内心は安堵した。徐栄という男は、実戦経験豊富な歴戦の将だ。彼が理解し、了承してくれたのは大きい。俺はどちらかといえば頭は悪い方だ。ただ、未来から来た俺だから分かりうる流れがあるだけだ。幸いこの場には、比較的実直で戦術眼のある徐栄と、それに従う楊定、張済しかいない。胡軫や呂布のような厄介者がいないだけでも有り難い。おまけに、最大兵力を擁しているのは紛れもなくこの俺だ!黒山勢の精鋭は張遼が率いて并州にいるが、残りの者たちも、俺が彼らに“食わせる”と約束した以上、命令には従うだろう…多分。


一方、対岸の酸棗では、袁紹が文字通り青ざめていた。八十万という数字が、現実のものとして対岸に布陣しているのだ。斥候の報告を聞くたびに、彼の焦燥は深まる。十八路諸侯の兵をかき集めても、せいぜい四十五万ほど。それを優に超える大軍が、しかも一夜にして出現した。これはさすがの袁本初も高を括れず、自身の本隊を急遽酸棗に移すとともに、河内にいた張楊、河陽にいた王匡ら有力諸侯にも主力を率いての合流を命じた。酸棗の陣営は、未曾有の緊張感に包まれた。


「…ッ!聞いておらんぞ!なぜ賊軍がこんなにも増えたのだ!一夜で八十万とは、まことの天狗か妖魔か!」


袁紹は本陣で怒声を上げ、机を叩いた。周囲の諸侯たちも沈痛な面持ちだ。


「本初!落ち着け、兵達に聞かれるぞ?」


曹操が冷静に諫める。彼の目には、袁紹の動揺に対する苛立ちと、膨大な敵軍出現への警戒心が渦巻いていた。


「孟徳、そうは言うがな!八十万だぞ!この兵力差を前にして、どう落ち着けというのだ!」


袁紹の声はますます荒れる。


「落ち着け、本初!お前はこの軍の総大将であり、我ら十八路諸侯の盟主でもあるのだから、お前が慌てふためけば兵達にも動揺が走る!今それこそが最も恐ろしい事だ!兵は数ではない、士気と統制だ!」


曹操は一歩前に出て、袁紹を睨みつけるように言い放った。


袁紹は一瞬、曹操の迫力に押されたが、すぐに顔を背け、


「ええい!軍議じゃぁー!直ちに諸侯を集めよ!」と叫んだ。これはもはや命令ではなく、自身の不安の現れだった。


そして、宴という名の軍議が始まった。豪勢な酒肴が並ぶが、その場の空気は重く、酒も喉を通らない者ばかりだ。これにはさすがの曹操も従わざるを得ない。なぜならば今こそ余裕を見せなければならない、内外に向けて盟主の威厳と連合軍の結束を示さねばならないのだ。袁紹はそのための“見せかけ”を必要としていた。


「フハハハハハ!」


袁紹は無理に高笑いを上げ、杯を掲げた。


「諸将、安心致せ!賊軍八十万など、大した脅威ではない!斥候の詳細な報告によれば、その多くは戦のできぬ農兵や烏合の賊徒らしい!装備も貧弱、統制も取れていない!諸君、賊軍など決戦の場で一蹴すれば良い話だ!我ら正義の師に、数の暴力など通じぬ!ハハハハ!」


「…盟主がそう仰るのなら…」


誰かが弱々しく応じる。場は微妙な空気に包まれた。


「それと、この場にいる諸侯に一つ提案があるのだが…」


曹操が口を開こうとした瞬間、


「曹将軍、お待ちを」


低く渋い声が割って入った。公孫瓚だ。白馬義従を率いる彼の眼光は冷たかった。


「伯珪殿、いかがなされた?」


袁紹が眉をひそめる。


「盟主に一つお聞きしたい」


公孫瓚は袁紹をまっすぐ見据えた。


「我が軍への兵糧はいつになったら届くのかね?前線の兵士たちは、既に腹を減らし、戦うどころか立っているのもやっとだ。まさか、兵達に腹を空かせて戦えと?八十万の敵を前にして?」


「い、いや…うむ…」


袁紹は答えに詰まった。彼の兵站管理は杜撰極まりなく、有力諸侯への配分すら滞っていた。ましてや公孫瓚のような者への供給は後回しだ。答えられないのだから…。


曹操は目を瞑り、心の内で深く嘆いた。友を間違えたとしか言いようがない。なぜこの男は、四世三公の名声と家柄以外に、この非常時に統率者として必要な果断さと現実的な采配が、これほどまでに欠けているのだろうか?連合軍の綻びは、最早修復不能なほどに深まっていた。


「こうなれば短期決戦しかあるまい!」


曹操は覚悟を決めて声を張り上げた。


「かの西楚の覇王項羽も、わずか三万の兵をもって四十万の秦軍を巨鹿にて釜を破り船を沈め、一気呵成に戦を決したではありませんか!数の不利は、決死の覚悟と奇策で覆せる!」


「だがなぁ…」


袁紹は弱気な声を漏らした。


「八十万は…さすがに…」


「我々が義兵を起こしたのは何のためか!」


曹操の声はさらに熱を帯びた。


「董卓の暴虐を鎮め、漢室を安泰にするためだ!すでに大軍が集結しているのに、諸君らは何を躊躇っているのか!もし董卓が朝廷の権威を利用して、洛陽周辺の要害を堅く守りつつ天下を支配していたら、攻略することは難しかった。だが今、董卓は宮室を焼き、民を虐げ、天子を脅して長安に遷都した!その暴挙こそが、賊の本性を天下に露呈したのだ!これこそ天が与えた董卓を滅ぼす絶好の機会だ!この機を逃して、兵糧が尽きるのを待つなど、愚の骨頂だ!」


曹操の熱弁に、諸侯の顔には一時的にかすかな希望と決意が浮かんだ者もいた。しかし、袁紹の迷いと、各々の領土保全への打算がすぐにそれを打ち消した。結局足並みは揃わず…。軍議は不毛なまま終わった。その夜、行動に出たのは曹操、公孫瓚、張邈とその弟張超の僅かな勢力だけだった。彼らは連合軍の無為を憤り、夜襲を決行する。


そして、まさに俺が「向こうから夜襲でも仕掛けてやろうか?」と思っていたその時だった。曹操の野郎…良い勘しやがる…。向こうから来やがった!泗水の浅瀬を渡ってくる敵影を確認した時、俺の背筋は凍りついた。幸いなことに、俺は徐栄とその配下の精鋭を含む約二十万の兵を率いて、河岸の警戒と伏兵配置の巡回中だった。もし本営にいたら…と思うと、めちゃくちゃ怖かった〜!歴史では徐栄が曹操を破ったとあるが、まさか自分がその現場に立つとは…。


「皆!躊躇うな!賊軍、渡河中なり!殺せぇ!」


俺は思わず怒号を上げた。経験値ゼロの現代人のくせに、この身体と高順という名前に宿る戦場の本能が、声を出させた。


すぐ横にいた徐栄は、一瞬「号令は俺が…」とムッとした表情を浮かべたが、さすがに歴戦の将、敵を前にして誰が号令をかけるかなどという稚拙なプライドを犯すような愚はしなかった。むしろ、即座に俺の号令を補強する。


「高将軍の言う通り!今こそ好機ぞ!全軍、掛かれぇ!渡河の邪魔はさせぬ!弓兵、放てーーっ!」


徐栄の咆哮が響き渡る。瞬く間に、河岸に潜んでいた伏兵が一斉に姿を現し、渡河中の曹操軍に矢の雨を降らせた。対岸からも、予め配置されていた弩兵の射撃が援護する。不意を突かれた曹操軍は大混乱に陥った。


戦闘が始まる。緒戦で組織的な攻撃を受けた曹操軍は、文字通り矢面に立たされ、多数の死傷者を出した。曹操自身も必死に指揮を執るが、数の差と準備の差は如何ともしがたい。あわや全滅するところだったが、さすがは名将曹操の手腕だ。混乱の中でも部隊をまとめ、徐栄軍の側面を突くように反撃を試み、一時的に追撃を遅らせることに成功した。しかし、それも長くは続かない。


徐栄軍の執拗な追撃が始まると、曹操自身も流れ矢に当たり、肩を負傷した。愛馬も脚に傷を負い、動きが鈍る。これを見た曹操の従弟・曹洪が馬を飛ばして駆け寄った。


「兄上!拙者の馬にお乗りください!早く!」


「バカ者!儂が退けば軍は崩壊する!お主が先に退け!」


曹操は顔を歪めて拒んだ。


曹洪はさらに馬を曹操の傍らに寄せ、声を震わせて叫んだ。


「天下ってのは俺がいなくたって何も変わりゃせん!今、天下は兄上を必要としているのじゃ!兄上こそが、この乱世を終わらせ、太平をもたらす器じゃ!だから…こんな所で死のうとするんじゃねぇ!生きてこそ、大業は成せるのです!」


曹操は一瞬、曹洪の必死の形相を見つめ、深く息を吸った。その目に、迷いが消えた。


「…分かった!だが、逃げるのは儂一人ではない!子廉、お主も一緒じゃ!歩いてでも付いて来い!」


「はっ!」


曹洪は即座に馬から飛び降り、曹操に手を差し伸べて馬に乗せた。そして自らは、曹操の乗る馬の手綱を取り、大声で周囲の兵を鼓舞しながら、闇に紛れて退却路を切り開こうとした。


「退け!退くぞ!は俺が務める!孟徳様を守れ!」


この時の曹洪は、後に「生涯で最も勇猛だった」と回想するほどの奮戦を見せ、追撃してくる董卓軍の兵を幾人も斬り伏せた。夜陰と混乱に乗じ、二人は何とか汴水(沭水)を渡り、辛うじて逃げ延びることができた。しかし、多くの将兵がこの戦いで失われた。


時を遡らせると、こういうことだ。


曹操軍のこの泗水河畔での敗北の代償は極めて大きかった。済北相鮑信も傷を受け、鮑信の弟鮑韜と、陳留太守張邈の配下で曹操に従軍していた義侠の士衛茲は討ち死にした。さらにこの敗戦は、酸棗に集結していた諸侯たちの最後の戦意を削ぎ落とした。連合軍は最早形骸化し、酸棗諸侯の解散と共に曹操自身も離脱せざるを得なかった。


徐栄は、曹操軍を破ったものの、酸棗県の本陣はまだ堅固で、容易には攻め落とせないと判断した。また、曹操軍の少数ながらも執拗な抵抗によって、追撃にも限界があった。何より、八十万という敵軍の存在が、徐栄自身に慎重さを強いた。彼は兵を引き揚げ、泗水の防衛線を強化することを選んだ。


傷だらけで酸棗県にたどり着いた曹操が見たものは、絶望的な光景だった。諸侯は十数万の兵を擁していながら、毎日ただ酒宴を開き、歌い踊っているだけだった。袁紹さえも、自陣で酒宴を開いている有様だ。これを見た曹操の怒りは頂点に達した。彼は宴席に乱入し、諸侯を一喝した。


「諸侯らよ!恥を知れ!この有様は何だ!賊臣董卓は未だ健在、天子は長安に幽閉され、民は塗炭の苦しみにある!その我らが、ここで酒宴とは何事か!」


曹操の声は怒りに震えていた。


「この敗戦は我が不徳の致すところ…だが、ここで挫けていては何も変わらぬ!今こそ再起を図り、連携して賊を討つべきだ!」


場は水を打ったように静まり返った。袁紹が不満そうに口を開こうとしたが、曹操は遮った。


「聞け!策がある!まず、本初には河内郡の兵を率いて孟津に進み、黄河の渡河点を押さえよ!我々は成皋に出て、糧食の要衝敖倉を占領し、轘轅関と太谷関の街道を封鎖する!そして、公路が南陽の兵を率いて丹析に陣を敷き、武関から侵入して三輔の地を揺るがせば、たちどころに董卓を東西から挟撃し、滅ぼすことができるだろう!」


曹操の提案は、まさに反董卓連合の諸侯が連携して洛陽周辺と長安を同時に圧迫するという、董卓が最も恐れていた戦略そのものだった。緒戦の敗北で気後れし、保身に走る諸侯たちを再び結集させ、董卓軍を壊滅させる可能性の高い、唯一現実的な作戦だった。しかし、袁紹は自身の主力を河内から動かすのを嫌がり、袁術は南陽での勢力拡大に忙しく、他の諸侯はもはや戦う意志すら失っていた。彼らは、曹操の熱意あふれる作戦を冷淡に却下した。


これに呆れ果てた曹操は、最早言葉も出ず、深い絶望と怒りを胸に、その場を去った。彼は失った兵を補充するため、夏侯惇らと共に揚州へ向かう決断を下した。この時、揚州刺史陳温と親しかった曹洪は、懸命の交渉の末、揚州廬江郡の精鋭二千人を得た。さらに丹楊太守周昕からも数千人の兵を得て、豫州沛国龍亢県で待つ曹操と合流する予定だった。しかし、運命は残酷だった。曹洪が龍亢県に着いた時、募兵したばかりの兵の大半が反乱を起こし、貴重な兵士を多数失ってしまう。辛苦の末に鎮圧はしたものの、兵力は激減した。仕方なく曹操は、銍県と建平県で改めて兵を募り、辛うじて千人余りの兵を得ると、最早酸棗には期待せず、司隷河内郡に駐屯している袁紹の元に身を寄せることにした。この時、曹仁、曹洪は別行動で兵を集めたりして離れていたため、唯一曹操の傍にいたのは、常に彼を支える夏侯惇だけだった。


「ハハハハ、元譲、思い通りに行かぬものだなあ…八十万に敗れ、諸侯には見放され、募兵した兵には裏切られるとは…」


曹操の笑い声には、深い自嘲がにじんでいた。


「孟徳、気を落とすな!兵など、お前の器量を見ればすぐにでも集まる!この程度の挫折で挫けるな!」


夏侯惇は力強く曹操の肩を叩いた。


曹操は顔を上げ、目に再び炎のような意志を宿した。


「うむ…その通りだ!大業を成す者は、この程度の蹉跌で諦めては短慮というものだ!ハッハッハハッハッハ!」


その笑い声は、逆境を跳ね返す不屈の決意を響かせていた。


曹操が去った後の酸棗県は、急速に死の町と化した。兵糧は底をつき、諸侯たちは互いの結束など最早顧みず、それぞれの任地に撤兵を始める。そして、反董卓の大義名分は完全に崩壊し、その後の各地諸侯達は仁義なき戦い、領土争いへと突入していく。まず手始めに、兗州刺史劉岱は仲が悪かった東郡太守橋瑁を攻め殺害し、後任として自派の王肱を太守に任命した。またこの時、青州刺史焦和も当初は董卓討伐の兵を挙げ、酸棗諸侯と合流すべく西に向かっていたが、青州で大規模な黄巾賊が蜂起したため、任地に引き返して鎮圧に当たらざるを得ず、連合には加われなかった。


結果として、熱気をもって決起した反董卓連合は、いち早く行動を起こした曹操が董卓配下の徐栄に泗水河畔で惨敗したことを契機に、急速に求心力を失った。ついに兵糧が底をつき、酸棗県の諸侯は何の成果も上げぬまま、約三ヶ月という短い期間で、呆気なく、そして醜く解散したのだった。義兵の旗印は、利己的な野望の前に完全に色褪せた。


その後、長安の董卓は、諸侯連合の瓦解を好機と見て、無理矢理、各地の有力者たちと「和解」の名の下での手打ちを敢行した。朝廷の名において官職を与え、懐柔しようとするのだ。これがこの時代、力を持った者が取る常套手段なのである。むしろ…と俺はふと思う…後の時代の太平洋戦争中に、日本がもっと早い段階で米国とこうした形で早期講和に持ち込めていたら、歴史は違ったのかもしれない…。しかし、そんな他時代の「タラレバ」を言っても始まらない。今、ここで生き残らねばならないのは俺自身だ。


「徐将軍、これで一件落着…と言いたいところですが、終わりましたな!」


俺は泗水の河岸で、撤収する自軍を見ながら徐栄に声をかけた。


徐栄は遠く酸棗の方向を見つめ、鋭い目を細めた。


「うむ、一応の決着はついた。だが、気は抜けんぞ、高将軍?連合は崩れたが、袁紹、袁術、曹操…野心ある者どもは健在だ。いつ牙を剥いてくるか分からん」


「まったく同感ですな。しかし、この敗戦と解散劇を見れば、当面の間、奴らは互いに牽制し合い、まともにこちらに向かって戦う態勢など整えられんだろう」


俺はそう分析した。歴史通り、彼らはこれから領土争いで忙しくなる。


「これから、どうするかね?相国への報告は待たせられぬ」


徐栄が問う。


「当然、相国様への御報告は急務です」


俺は即答した。


「ここは張済将軍、楊定将軍らに指揮を託し、我々は精鋭を伴い長安へ戻りましょう。詳細を御報告し、今後の方針を仰ぐべきです」


「そうだな」 徐栄も頷く。


「配下の主力は司隷に置いて、要所の守備と周辺の巡回を続けさせておく。さすれば、諸侯どもが軽挙妄動を起こすことも憚られるだろう」


「適切なる御配慮と存じます」


俺は同意した。長安への帰還と、そこで待つであろう論功行賞…そして、宮廷の危険な権謀術数に思いを巡らせた。


「はっ!では早速、準備を致します!」


徐栄は命を受けると、早足で陣営へ向かった。


約十日後、俺たちは長安の壮麗な城門をくぐった。都の喧噪はあるが、そこには洛陽焼失後の虚脱感と、董卓政権下の重苦しい空気が漂っていた。程なくして、宮中で大々的な論功行賞が行われた。董卓は、連合軍を事実上崩壊させた功績を大いに称え、配下の将兵に惜しみなく官位と爵位を与えた。さすがにこの点、董卓はケチではなかった。


「此度の戦、第一功、武衛将軍高順、前へ出よ!」 董卓の太い声が荘厳な宮殿に響き渡る。


「……はっ!」


俺は一歩前に進み出て、深く頭を下げた。周囲からは、羨望と畏怖、そして一抹の妬みを含む視線が集まる。


「高順なる者は此度の戦において、賊徒襲来の報をいち早く察知し、敗戦の被害を最小限に留めるとともに、我が軍の悩みの種であった黒山、白波二賊を降伏、

帰順させ、その兵力を以て我が軍の大勢を築き上げた!さらには酸棗にて諸侯の叛軍を徐栄と共に打ち破り、連合瓦解の端緒を作った!その功績、比類なし!よって、鎮北将軍に任じ、并州牧とし、晋陽に爵位を賜り晋陽侯とする!黄金百斤、帛千匹も賜る!」


「ははっ!相国様の御厚恩、身に余る光栄に存じます!微力を尽くし、御恩に報いまする!」


俺は大声で答えた。内心は複雑だった。鎮北将軍は重号将軍の一つで、并州牧は名実ともに并州の支配者だ。晋陽侯は県侯であり、破格の出世だ。しかし、この地位は同時に、大きな責任と、宮廷の危険な渦中に深く入り込むことを意味していた。


そこから順番に、他の将への恩賞が行われた。

*大将軍 董旻(董卓の弟)

将軍

左将軍徐栄

前将軍牛輔

右将軍段煨

武衛将軍、鎮北将軍高順

中郎将李傕、郭汜、華雄、董承、呂布、張済、李粛

校尉 董璜、賈詡、李蒙、樊稠、王方、楊定、張繍


武官職の顔ぶれを見ると、まさにタレント揃いだった。李傕、郭汜の猛将、徐栄、段煨の実務派、呂布の無双、張済、樊稠らの中堅、そして何より賈詡という稀代の謀臣…。この面子なら、魏、蜀、呉三国の全盛期と互角、あるいはそれ以上にいい勝負ができる陣容と言えるかもしれない。残念なのは文官だ。李儒ただ一人が目立つだけで、他には董卓にへつらう者か、恐怖で萎縮している者ばかりという、とんでもないブラック企業な職場環境だ…。今回の論功行賞の様子を見て、俺はなぜか清末の袁世凱を思い出した。なぜか董卓と袁世凱って、権勢を握った軍事独裁者という点で似ているんだよなあ…袁世凱も張作霖等の外様を除けば、馮国璋、段祺瑞、王士珍ら、この時代の董卓軍顔負けの有能な人材が揃いすぎてたんだよなあ…。もちろん、やる事なす事の残虐性や粗暴さは、董卓の方が圧倒的にエグいけど…。


論功行賞が終われば、当然のごとく大宴の開催だ。宮中は酒宴の熱気と喧噪に包まれた。しかし、俺も、どうやら元の高順も、酒は好まない体質らしい。現代の俺も弱かったが、この身体はさらに受け付けない…。早々に席を外す口実を探していた時、一人の巨漢が近づいてきた。華雄だ。


「鎮北将軍、このような賑やかな席で、隅の方で何をしているのかな?」


華雄は大きな杯を持ち、少々酔いを帯びた様子で声をかけてきた。陽人の一件以来、彼は俺に恩義を感じているらしい。


「何でもござらんよ、華将軍。少し、外の空気を吸いに…」


俺は適当に返す。


華雄は豪快に笑った。


「ハハッ!そうか!命を救ってもらったご恩は、いつぞや必ず返させてもらうぞ!この華雄、恩を忘れるような真似はせん!」


(あ、うん。いや、マジで頼んだよ!その恩返しは、呂布に斬られない形でお願いしたい!)


内心ではそう叫びつつ、俺は苦笑いで応じた。


「お気になさらず…」


宴が進む中、俺は一つの進言を思い切って董卓にした。朱儁、皇甫嵩、盧植の三人を宴に招くことを勧めたのだ。この三人の当代随一の名将、名臣を、宮廷から完全に締め出すよりは、ある程度懐柔したり監視下に置いた方が良いと考えたからだ。意外にも董卓は、大勝したご機嫌もあってか、「よかろう」と了承してしまった。彼らは、明らかに不本意ながらも、命じられて出席していた。


(まあ、来てくれただけでも良しとしなきゃ!)


俺は、この三人と接触する機会を窺いつつ、急いで身なりを整えた。実はこの時代の上流階級の礼服は、とにかくゆったりとしていて動きにくい。現代の感覚だと、細身の人でもかなり大きめのサイズを着ているイメージで、帯で締めて形を整える。重い冠も首が痛い…。


宴はますます熱を帯び、悲劇が起きたのはその最中だった。董卓は、かねてより仲が悪く、また自身の権力に対して批判的だった太尉張温を、親交があった袁術と内通していると、偽の証言を使って誣告させたのだ。そして、何の裁きもなく、宮廷の廷臣たちが居並ぶ前で、張温を笞で打ち殺すよう命じたのである。張温に対する憎悪と、恐怖によって権威を見せつけたいという歪んだ欲望がなせる業だった。


「逆賊張温、罰せられよ!」


董卓の怒声が響く。


護衛兵が無抵抗の張温を引きずり出し、残酷な笞打が始まった。最初は罵声を上げていた張温も、やがてそれは断末魔の呻きとなり、そして静かになった。宮殿内は、重い沈黙と恐怖に包まれた。しかし、それで終わらなかった。董卓は死んだ張温の首を刎ねさせ、その生首を盆に載せて酒宴の席に持ってこさせた。


「見よ!これが朕に逆らう者の末路じゃ!ハハハハ!」


董卓の高笑いだけが、凍りついたような宴席に響き渡った。


これを見た盧植、朱儁、皇甫嵩の三人は、顔面蒼白となり、怒りと嫌悪で震えながら、一斉に席を立った。彼らにとって、これは耐えがたい蛮行だった。俺もすぐに、「小用を足して参ります」と言い訳して、席を抜け出した。三人が退出しようとする廊下へ急いだ。


「お三方、お待ちくだされ!しばらくお話を!」


俺は声をかけた。


三人は振り返り、警戒と侮蔑の眼差しを向けた。盧植が代表して口を開いた。


「これはこれは高将軍…董相国様の寵臣が、我ら敗残の老骨に何用かね?儂らは最早ここにいる価値もなし、道を急いでおるのだが?」


その口調は冷たく、鋭かった。


「ハハハハ、いやはや、お手厳しいお言葉…!」


俺は笑って誤魔化そうとしたが、すぐに真剣な表情に変えた。「実は、占いや未来を見通すことに少々凝っておりましてな…」


朱儁が鼻で笑った。


「だから何だ?我らはお主と会話するほど親しくあるまい?それにそのようなくだらない話をするのであれば、失礼させて頂く!」


彼らは再び歩き出そうとした。


「それはこちらも重々承知しております!」


俺は必死に声を張った。


「ですが!この国が、この乱世が変わるには、お三方のお力と御威徳がどうしても必要です!それに…今日のあの惨劇を見て、相国の暴挙を何とかしなければ…と思っておられるのではございませんか?」


三人は足を止めた。きょとんと、まるで心の中を見透かされたように、一瞬驚いた表情を浮かべた。彼らが董卓を除きたいと考えているのは明らかだった。


皇甫嵩が低く、警戒した声で問うた。


「…ほう。では、高将軍。我々はいかにすれば良いとお考えか?このままでは、張伯慎の二の舞いだ」


「今は雌伏の時です」


俺は声を潜めた。


「厚かましいお願いですが、何卒、お三方には并州へお越し頂き、黒山、白波の賊徒から改心した者たちを、正真正銘の漢朝の将士へと鍛え上げ、教化して頂きたく存じ上げます!彼らには力はあれど、統制と忠義の心が欠けています」


「ほう?并州か…」


盧植が深い眼差しで俺を見つめる。


「并州牧たる高将軍の下でとな?」


「その通りです。表向きは、私の下で…と。しかし、実質はお三方の御手腕にお任せします」 俺は頭を下げた。「三年…どうか三年だけお待ちください!」


「三年?」


朱儁が眉をひそめた。


「三年待てばどうなるというのだ?」


「三年以内に…」


俺は一呼吸置き、確信を持って言い切った。


「…この世で最も権勢を誇る人間が死にます。その死後、都は必ずや大いに乱れましょう!その時こそ、御三方には勤王の師の中核を担っていただき、漢室再興の御旗頭となっていただくのです!それまでは…どうか時を待ち、力を養ってください!」


三人は顔を見合わせ、長い沈黙を置いた。盧植が代表して口を開いた。


「…分かった。高将軍のその言葉が、ただの追従でないことを願おう。三年…三年間だけ待ってやろう!だが、それ以降は待たぬ!もしお前の言葉が虚偽ならば、たとえ并州にあろうとも、相国に直訴してでもお前を糾弾する覚悟だ!」


「ありがとうございます!必ずや…!この高順、命にかけてお約束を果たします!」


俺は心から頭を下げた。この三人の大物を、形だけでも味方に引き入れ、并州に確保できただけでも大きな収穫だ。しかし、もう一人どうしても抱き込みたかった男がいる。王允…そう、三公の一人である司徒王允だ。なぜならば、董卓を宮廷内部から殺せるほどに近づき、影響力を持つことができるのは、今のところその王允しかいないからだ。その間に俺は、董卓軍内部で、呂布や張済、あるいは賈詡のような知将を、どれだけ自らの陣営に引き寄せられるかにかかっている…。さて、戦場での戦いよりもはるかに陰険で恐ろしい、中国宮廷の謀略の世界に、本格的に足を踏み入れようとする時が来たのだ。


その頃、王允は、張温の惨殺とその首晒しという衝撃的な光景に、絶望と恐怖と激しい憎悪に支配されながら、何とか自分の屋敷に這うようにして戻っていた。彼の心中で、董卓暗殺への決意は、この瞬間に鉄のように固まった。


翌日、俺は思わぬ形で宮中に呼び出された。なんと皇帝劉協と「鉢合わせ」し、しばらくの間、皇帝という名前の、可哀想なほどに幼い子供の相手をすることになったのだ。彼は明らかに退屈しており、周囲の宦官や女官たちは、皇帝に「ふさわしい」静かな遊びしかさせようとしない。俺は、この子があまりに不憫で、つい口を滑らせてしまった。


「陛下…!ご無礼ながら、少し身体を動かされては?」


武術の型のようなものを少し見せた。


すると劉協の目が輝いた。


「シーッ!声が大きいぞ!…だが、面白そうだ!どうやるのだ?」


「陛下、お声が…!いつどこに太師の耳目が潜んでいるか分かりませぬ…!」


俺は慌てて周囲を見回した。


劉協はがっかりしたように肩を落とした。


「ふむ…それもそうよな…」


しかし、すぐにまた俺を見つめ、珍しそうに問うた。


「そなた、名は?」


「臣、武衛将軍高順と申します」


俺は平伏した。


「そうか、高順…」


幼い皇帝の声に、どこか寂しげな響きがあった。「朕は生まれながらにして母と父の顔を知らぬ…育ててくれたのは董太后と、宦官の張譲らだが…」


「左様でございますか…」


その孤独感に胸が痛んだ。


「そなたは…自分の父に会ったことあるのか?」


劉協が突然、純粋な好奇心で尋ねた。


「いえ…」


俺は正直に答えた。


「臣は元より并州の一武官でした故、先々帝のご尊顔は…都におりませぬうちに崩御され、拝したことはございませぬ…」


「そうか…」


劉協は小さく呟いた。


「…朕は皇帝として、どうすれば良いのか?天下を治めるとは、どういうことなのか?分かるか、高順?」


この深い問いに、俺は一瞬たじろいだ。現代の価値観と、この時代の現実がぶつかる。しかし、彼が求めているのは、おそらく教科書的な答えではない。


「陛下は天子であらせられるお方でございます」


俺は慎重に言葉を選んだ。


「しかれども、同時に…一人の人間でもあらせられまする。かの太祖高皇帝すら、かつては泗水の亭長に過ぎませぬでした…臣が思うに…まずは市井の人々、普通の民がどのように暮らし、何を思い、何に苦しんでいるかを知らねば、いかにして天下を治めましょうや?宮殿の奥深くでお聞きになるだけでは、真実は見えませぬ」


劉協の目が真剣に輝いた。


「…どうやって知るのだ?朕はこの深宮から出ることを許されぬ…」


うーん…どうしたもんかね?ここまで来たら、いっそ…!


(未来人の血が騒ぐ)


「では、陛下…」


俺は声を潜め、いたずらっぽく、しかし真剣に言った。


「…一度、お忍びで行ってみましょう!この高順、命を賭けてお守りします!」


幼い皇帝の顔に、初めて心からの興奮と喜びの色が走った。


「ほ、本当か!?だが…危険ではないか?」


「天子様と知られれば、それこそ危ういのです」


俺はにやりと笑った。


「でしたら、童の格好で…いかがでしょう?」


「ふむ…それでは朕の天子たる威厳が…」


劉協は少し不満そうに口を尖らせた。そのしぐさが、年齢相応に無邪気で…


(普通に可愛い…!さすがまだ子供だ…でも逆にその分、この状況が不憫でならない…。平時なら、何不自由なく、大切に育てられていただろう。たとえ皇族でなくとも、平凡な子供として、もっと笑い、駆け回っていられただろうに…。こんな幼い頃から、権謀術数の渦中に放り込まれ、操り人形にされている…)


そう思うと、とてつもなく心が痛み、守ってやりたいという思いが強くなった。


「分かった!高順!朕を守れよ!これから、民の暮らしを朕自ら視察するぞ!」


劉協は小さな拳を握りしめ、皇帝らしい威厳を見せようとしたが、その目は好奇心でキラキラしていた。


「はっ!御意を得たり!」


俺は深く頭を下げた。これはとんでもない大博打だが…やるしかない。


こうして、後日、幼い皇帝・劉協は、武衛将軍高順ただ一人を護衛として、数人の極めて信頼できる小宦官を伴い、命がけのお忍び社会科見学に長安の市井へと出かけるのであった。皇帝は質素な童の服に着替え、高順は護衛というよりは、兄貴分のような風体を装った。


「高将軍、まずは何処へ行く?」


劉協は興奮気味に、しかし声を潜めて尋ねた。市街の喧噪と活気が、彼にとっては全てが新鮮だった。


「ハハハ、まずは西市へでも行きましょうか?あそこは商人や職人が多く、様々な物が売られております」


俺はそう答えつつ、常に周囲に警戒の目を光らせていた。道中、劉協は「あれは何?」「これはどうしてそうなるの?」と、矢継ぎ早に質問を浴びせた。農具を打つ鍛冶屋、絹を織る工女、穀物を売る商人、道端で物乞いをする傷病兵…。全てが彼の知らぬ世界だった。


俺は出来る限り分かりやすく説明したが、現代人の俺の知識がどれほど正確かは自信がなかった。


(まあ、それなりに楽しんでくれてるみたいだし、何より彼の目が生き生きしている…これで良しとしよう)


日が傾き、疲れがピークに達した頃、劉協は歩くのもやっとになり、ついに俺の背中で眠りに落ちてしまった。小さな体は軽かったが、その存在の重さは計り知れなかった。皇宮に戻り、宮女に皇帝の居室への道を尋ねようとしたが、武衛将軍の姿に背中に子供を背負った異様な風体を見て、宮女は恐怖で硬直してしまい、まともに答えられない。


「あの…陛下…いや、この子の居室へ案内してくれぬか…?」


俺は困り果てて声をかけた。


「ヒッ…!? 高、高将軍…!そ、そのお子様は…?」


宮女は震えながら、背中の劉協を指さした。


「シーッ…今、この子がお休みだ…大声を出すなよ?良いな?ただ、静かに案内してくれればそれで良い」


俺は必死に落ち着かせようとした。


宮女は恐怖で青ざめながらも、そっと一つの方向を指さした。俺はその方向へと進んだ。すると、薄暗い回廊の角で、一人の老人と出くわした。その老人は、背中に眠る皇帝を見ると、深くため息をついた。


謎の老人、魏猛との遭遇


「ホッホッホッ…ご苦労であるな。陛下を背負うとは…随分と大胆なことをなさる」


「御老人…」


俺は警戒した。この老人は、どこか飄々としているが、眼光は鋭い。


「陛下の居室はこちらじゃ。わしが案内しよう…着いて来なされ…」


老人は振り返らずに歩き出した。俺はやむなくその後についた。老人は複雑な宮殿の道を迷うことなく進み、確かに皇帝の私室と思われる部屋に案内してくれた。俺は慎重に眠っている劉協をベッドに降ろし、布団をかけた。


部屋を出ると、老人は待っていた。


「…御老人、名を伺えますか?ご厚意に感謝いたします」


老人はじっと俺を見つめ、やがて口を開いた。


「私の名は魏猛…最も【前世での名は忘れましたが】ね…!」


「……!へ、へー……」


(…っ!? まさか…この時代に、他の転生者…!?)


俺の心臓は一瞬、高鳴ったが、表情にはなるべく動じないようにした。


「なんだ、大して驚かないのかい?」


魏猛は面白そうに俺の反応を窺う。


「べっつに…驚いたって何にもなりゃしないだろ?」


俺は肩をすくめた。


「ま、お前さんも可哀そうに…たァ思うがな…こんな時代に転生しちまってよ」


「君が今の歴史を掻き回そうとしているのだから…」


魏猛の口調が突然、鋭くなった。


「ああ?どういう意味だよ?」


俺は真正面から見据えた。


「そのままさ。君がこのまま好き勝手に、この幼帝を弄び、歴史を改変しようとしている。その行く末がどうなるか、考えたことはあるか?」


「どういう意味だよ…」


俺の声にも棘が立つ。


「ただ、あの子を少しでも…」


「事もあろうか、皇帝陛下を市井に連れ出すことだよ」


魏猛は諭すように言った。


「それは彼を危険に晒すだけでなく、歴史の流れを大きく歪める。董卓に知れれば、お前はおろか、陛下の命さえ危ういぞ」


「あれは…あの子が…不憫でどうしようもねぇからだよ!」


俺は思わず声を荒げた。


「今は董卓の傀儡!大きくなったって、実権を持てないお飾りの皇帝だ!ならせめて…普通の人間がどう暮らしてんのか、何に苦しんでんのかを、この目で見せてやりゃあ良いじゃねぇか!そうすりゃ、ちったぁまともな、人の苦しみが分かる人間になれるかもしれねぇだろ!」


「無駄な事を…」


魏猛は首を振った。


「運命は変えられぬ。彼は皇帝として生まれ、皇帝として死ぬ。お前の小さな善意が、かえって大きな災いを呼ぶだけだ」


高順の心の奥底で、相手の言っていることの重さは理解した。この老人…魏猛は、ある種の“流れ”を守ろうとする者なのかもしれない。しかし、俺はそれに抗うと決めた。この幼い皇帝の、あの好奇心に満ちた輝く瞳を、このまま宮廷の牢獄で潰させたくない。


「なら、好きなだけ変えてやるよ!」


俺は言い放った。「望んでもねぇ転生なんざ、興味ねぇからな!歴史!?そんなもん、俺がこの乱世で生き残り、俺が関わる人々を少しでも守るための知識でしかねぇんだよ!俺は、未来の教科書のために生きてるわけじゃねぇ!」


「き、君は……!」


魏猛の顔に怒りと驚きが走った。


「うるせぇな!お前みたいにグジグジしてる暇はねぇんだよ!」


俺の言葉が止まらなかった。


「文字通りの暴君と、戦闘狂の上司を相手にしてんだ!部下の命も背負ってんだ!そんなもん…!関係ねぇ!俺は俺が、そして俺が守りたいと思う者たちが、少しでも自由に、まともな人生を送れるようにするために、好き勝手やってやるだけだ!」


高順は無意識に興奮し、拳を握りしめていた。魏猛は一瞬、圧倒されたように沈黙したが、やがて深いため息をついた。


「……これ以上言っても無駄だね…君の決意は固いようだ」


「当たり前だろ!転生者なんざ、お前さんだけじゃねぇだろうよ?きっとどこかにいるさ!どうせいるかどうかも分からねぇような奴の玩具になるくれぇなら、とことん反抗してやる!この時代を、俺の手で塗り替えてやる!」


「君……!」


魏猛の目に、複雑な感情が去来した。怒り、諦め、そして…わずかな期待?


「ならば、好きに生きなさい」


魏猛は突然、飄々とした態度に戻った。「わしはこれで失礼するよ」


「待てよ、おっちゃん」


俺は呼び止めた。


「おっちゃんは?この世界に来て、後悔した事ねぇのかよ?」


魏猛は一瞬、遠い目をした。


「後悔ねぇ…?まあ、来た時点で…」 彼は自嘲気味に笑った。


「…夜の営みができない身体になっているからね…つまり、宦官として生まれ変わってしまったのだよ」


(嘘だろ!? じゃあ、俺がいた時代で言うニューハーフ…じゃなくて、完全に去勢された宦官ってことか!微笑みの国の徴兵逃れどころの話じゃねぇ!これはマジで不憫だ…)


俺は思わず同情の念が湧いた。


「…不憫だな…」


本心が漏れた。


「そうかい?」


魏猛…いや、この宦官は奇妙な笑みを浮かべた。


「私はもう慣れたよ?それに…この立場だからこそ見えることもある。さて、そろそろ本当に失礼するよ、高将軍。お気をつけて…」


そう言うと、彼は静かに回廊の闇の中に消えていった。


俺は、この老人の正体に一抹の不安を覚えながらも、まずは皇帝が無事なことを確認し、自らの宿所へと戻った。実はこの時、俺は知らなかった。霊帝の母・董太后が、何らかの形でまだ生き延び、宮廷の奥深くで暗躍している可能性を。そして、先程の「魏猛」という老人こそが、曹操の養祖父であり、権勢を振るった大宦官・中常侍大長秋の曹騰その人であったことを。彼は、董太后の密命を受けて動いていたのだ。


「太后様…」


「魏猛」を名乗った曹騰は、深宮の奥の一室で、簾の奥にいる老婦人に平伏した。


「戻ったか…」


董太后の声は低く、しかし威厳に満ちていた。


「は…」


「首尾は?あの高順なる者は…」


「高順なる男…権力そのものへの執着は薄いようです。野心家というよりは…信念と、奇妙な温情を持つ男と見受けます。扱い次第では、忠臣にもなりましょう…」


「そうか…いかに憎き何霊思の産んだ亡き弘農王は我が孫ではあった故…今や私の血を引く孫は協ただ一人…彼を守らねばならぬ」


董太后の声に強い意志が込められていた。


「恐れながら…それにつきましては」


曹騰は慎重に言葉を継いだ。


「…高順が陛下を市井に連れ出した件、それは単なる無謀ではなく、陛下に民の暮らしを知らしめたいという、ある種の…優しさ故の行動と見受けます」


「何?」


簾の奥から声が鋭くなった。


「この深宮で育つべき天子を、あのような汚れた市井に…!」


「太后様、お怒りはごもっともです」


曹騰は深く頭を下げた。


「しかしながら、思い返せば…明帝陛下より和帝陛下までの御治世は、少なからず世間を知った上での治世でございました。しかれども…その後、深宮のみで育たれた陛下たちの治世は…」


彼はわざと言葉を濁した。


簾の奥で、深いため息が漏れた。


「…ふっ…分かった。あの者が権勢に興味あろうがなかろうが、最早どうでも良い。皇帝に忠実であればそれで良い…一介の武将ならばなおさら、な…ただし、目は離さぬようにせよ」


「はっ…畏まりました」


曹騰は深々と頭を下げ、その場を後にした。深い宮廷の闇は、権謀術数の影がますます濃く立ち込めていた。高順という異分子の出現は、この闇に、予測不能な乱気流をもたらし始めていたのだ。

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