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第三十一回 李将軍圍師不闕 高遼王窮寇不追

「何をするっ!」


高景の叫び声は、洛陽の華やかながらもどこか湿った空気を切り裂いた。彼を包囲する羽林衛の兵士たちの甲冑が、夕暮れ時の鈍い光を不気味に反射する。その鋭い金属音と、兵士たちの重く淀んだ呼吸が、緊迫した空気をさらに濃厚にしていた。背後には、彼が斬り捨てた男、李式の遺体が無残に転がっている。鮮血は洛陽の精巧な石畳の継ぎ目に沿って流れ、まだ温もりすら残るどす黒い染みを作っていた。その鉄臭い匂いが高景の鼻腔を刺し、胃の内容物が逆流しそうになるのを必死に抑えた。


宿舎の入口に立ちはだかる羽林衛の将校は、顔の半分が陰に隠れ、残る半分のみが不気味な形相を浮かべていた。その冷酷な眼差しは、高景の心の奥底まで凍りつかせるようだった。


「内閣府令、罪人高景を投獄する!」


将校の告げる言葉は、感情の一片もない、ただの事務的な通告だった。その言葉に、高景の頭は真っ白になった。耳元で血が騒ぐ音がする。罪人?自分が?何の罪だ?


「待て!何の罪に依ってか!」


高景は必死に声を張り上げた。声はわずかに震え、自分でも情けなく感じた。李式が自分に襲いかかってきたのだ。正当防衛ではないか。しかし、将校は高景の訴えなど最初から聞く耳を持たない。彼の見つめる先は高景という「対象」でしかなく、その人間的な事情など眼中にないようだった。将校は微動だにせず、冷たい命令を繰り返すのみ。


「問答無用!連れて行け!」


羽林衛の兵士が複数、獣のように襲いかかってきた。高景は無意識に刀に手をかけたが、相手は多勢に無勢。たちまち数本の槍先が喉元と胸元に突きつけられ、無念にも両腕をねじ上げられ、縄でぎっしりと縛られてしまった。縄は皮膚に食い込み、じんじんと痛んだ。その間も、李傕らが洛陽を包囲し、情報が出ることも入ることもない状況下で、朝廷内部の陰謀は密かに、しかし確実に進行していた。高景が捕らえられたことを知る者はごくわずか。彼の父、高順が遠く離れた地でこの事態を知る由もなかった。


高景は、引きずられるようにして羽林衛の宿舎から連行された。路地裏を通る時、わずかに覗いた民家の窓から、好奇と恐怖の入り混じった視線を感じた。彼の脳裏には、父、高順の厳しいながらもどこか温かい言葉が蘇る。


(父上は、俺に『常に冷静であれ。怒りは刃の切れ味を鈍らせるのみ』と仰っていた。だが、こんな状況でどうして冷静でいられるというのだ?俺は…俺はただ、己の命を守ろうとしただけなのに!)


高景は、激しい怒りと悔しさ、理不尽さに全身を震わせていた。しかし、その個人の激情は、権謀術数が渦巻く洛陽城内という巨大な迷宮、閉ざされた空間では無意味な蜉蝣の羽ばたきに過ぎなかった。彼の叫びは、分厚い城壁に吸い込まれ、誰にも届くことはない。


薄暗く湿気の多い牢獄に繋がれ、高景は絶望の底に沈んだ。窓から差し込むわずかな月光が、鉄格子の複雑な影を冷たい石の床に落とす。遠くで滴り落ちる水音だけが不規則に響く。冷たい石の壁に背を預け、彼はじっと目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、遠く離れた故郷の風景と、父の姿だった。


(俺は…父上の足手まといになり、恥をかかせてしまったのだろうか…)


高順は常に、高景に厳しかった。それは期待の裏返しだということは十二分にわかっていた。父なりの愛情表現だった。だが、今この瞬間、その厳しさが、自分を苦しめ、縛っているようにしか思えなかった。父にわずらいをかけた。その思いが、高景の若い心を深く、じわりとえぐった。


「反逆しようが、しまいがどの道我らを滅ぼそうとするもの達だ!ならば我らが滅ぼしてやろうでは無いか!」


伏完は、内閣府の執務室で、机を叩きながら鬼気迫る表情で叫んだ。蝋燭の灯りが彼の歪んだ影を壁に大きく映し出す。李傕たちが洛陽を包囲しているという報せは、彼を極度の焦燥と妄想の渦に駆り立てていた。このままでは、朝廷は李傕によって、あるいは高順のような外藩の大物によって滅ぼされてしまう。彼の中では、高順は李傕と同じ「朝廷を脅かす外敵」でしかない。高順の兵力は数十万。もし李傕の軍勢と結託でもすれば、朝廷はひとたまりもない。


「ふん!何があったかは知らんが、此方も引き返せぬ!」


伏完は、もはや後戻りはできないと腹をくくっていた。高景を投獄し、処刑を待つという強硬策に出たのも、高順を牽制し、その力を削ぐためだった。この無謀極まる計画は、内閣府はおろか、皇帝にすら相談せず、伏完の独断で進められていた。


「伏国丈、我らは…若しかしたら大きな過ちを犯そうとしておるのでは?」


董承は、伏完のあまりの強引さと熱狂的な様子に、不安を隠せずに尋ねた。彼の額には冷や汗がにじみ、顔には明らかな葛藤の色が浮かんでいる。


「何を言うか!あの者の父は兵を数十万抱え、諸部落に苛政を敷いてると言うでは無いか!あの者の息子に責を負わせたところで我らに誹謗を受ける言われは無い!」


伏完は、董承の慎重な言葉を一蹴した。彼の瞳には、すでに正常な理性を見失った狂気の色が宿っている。高順を悪逆非道な武将に仕立て上げ、その息子を罪人にすることで、自らの行動の正当性を主張しようとしていた。それはもはや、現実逃避に近い。


「しかし…、これでは…あの者に叛乱を促しているのでは?」


董承は、冷ややかなまでに冷静な口調で核心を突いた。高景を不当に投獄すれば、高順が黙っているはずがない。それは、高順という巨大な虎を意図的に怒らせ、牙を向けさせる行為に他ならない。


「フンっ!あの者は陛下の忠臣という立場をとっているでは無いか!ならば忠臣の証を示してもらおうと思ってな!息子の命と忠義、どちらを選ぶかだ!」


伏完は、嘲笑を浮かべた。高順が「忠臣」であるならば、たとえ息子が不当に処刑されようとも、朝廷に刃向かうことはないだろう。彼はそう信じていた。いや、そう信じなければ、彼の危険極まる賭けは最初から破綻してしまう。


「…」


董承は、言葉を失った。伏完の論理は、もはや理解不能だった。何がこの漢朝の名士を、朝廷の柱石を、ここまで歪み、追い詰めてしまったのだろうか。保身か?権力への執着か? それとも、正気を失わんばかりの「忠義」という名の妄念か。


(ふむ、潮時…か。さて、あの覇王の再来の様な男を、伏完の狂気のままに怒らせてはならんな…)


董承は、心の中で静かに呟いた。伏完のやり方には、もはやついていけない。彼は、高順の圧倒的な武力を誰よりもよく知っていた。そして、この伏完の暴走こそが朝廷を滅ぼす引き金になることも。彼は、伏完とは別の、朝廷と自分を守る道を模索し始めていた。


伏完は、その狂気に満ちた顔で、いかにして政敵を打ち倒すかを思案していた。彼の頭の中には、すでに次の標的が鮮明に描かれている。


(ふふふっ!高順の次は曹操貴様だァ!我が大漢は陛下によって統べられねばならん!陛下の天下を妨げる者は全て儂が排除する!)


「おいたわしや…、陛下!この伏完が…!陛下の為に、この身を盾にしても敵を打倒してご覧に入れましょう!」


伏完は、誰に聞かせるでもなく、熱を帯びた声で静かに独り言を言った。その声は、執務室の重い空気に呑まれ、闇に消えていった。


高順は湯陰、朝歌を過ぎ、滎陽で足を休めていた。ここから洛陽までは、あと二日ほどの行程だ。


遠征の疲れも少しずつ癒え、故郷の洛陽に近づく安堵感が隊伍の中にも漂っていた。焦ることはない。そう高順は思っていた。


「虎児、洛陽まで後どのくらいだ?」


高順は、従者である張虎に尋ねた。張虎は、高順に追いつくために全速力で走ってきたらしく、額に汗をにじませ、息を弾ませている。


「あと二百五十里程残っております!」


「そうか…、良かろう。一先ず滎陽で休むか。ここまで暫く、慌てる事も無いしな!」


高順は、穏やかな笑みを浮かべて言った。遠征は順調に進んでいた。久しぶりの故郷に帰ることを、心の底から楽しみにしているようだった。しかし、その安穏とした時間は、突然、唐突に終わりを告げる。


郭汜と董承の使者が、ほぼ同時に滎陽の高順の本陣に到着したのだ。両者とも、遼王高順が滎陽にいるという情報を掴み、一刻も早く自らの主君の意を通そうと急ぎ駆けつけたのだった。


その日の晩、高順は二人の使者と別々に謁見することになった。最初に面会したのは、董承の使者だった。


「私は朝廷の内閣府、董承、董大人の使者である!何卒っ!遼王にお目通りを!」


使者は、顔面蒼白で、切羽詰まった様子で叫んだ。対応したのは、高順の腹心である呉資だった。


「うむ、ならば案内する故、茶を飲みながら暫し待たれよ。誰かっ!茶の用意を!」


「はっ!」


呉資は、乱世を生き抜いてきた男らしく、落ち着いた口調で指示を出し、使者を幕舎に案内した。


「虎児、殿下にこの事を知らせてくれ。俺は殿下が対応しなかった方の対応をするから」


呉資は、張虎に目配せをした。張虎は、無言で頷き、急いで高順の元へと走った。


「殿下っ!」


「うむ、どうした?そのぉ…、内閣府の董大人と郭将軍の使者が参りました。如何に?」


張虎の報告に、高順の柔和だった表情は一瞬で険しいものに一変した。朝廷と敵将、双方の使者が同時に来るなど、尋常な事態ではない。洛陽で何か重大な、そして悪いことが起きたに違いない。


「ふむ…、朝廷の体面故、先ずは董大人の使者に会おうか」


高順は、瞬時に状況を判断した。朝廷の使者を先に会わせるのは、政治的な礼節という配慮だった。


「はっ!」


張虎は再び駆け足で呉資に報告し、呉資は郭汜の使者の方に対応を続けていた。


高順は、董承の使者と対面した。使者の慌てぶりが、事の重大さを物語っている。


「使者よ、待たせてすまんな。用があるなら早く言って貰えると助かる」


「はい、では挨拶は省かせて頂きます。実は世子が洛陽城内で人を殺しました」


使者の言葉に、高順はわずかに眉をひそめた。息子の粗暴さは知っている。しかし、そこまで軽率な真似をするとも思えぬ。


「ほぅ?では法に則って対処されよ。その様な瑣事でわざわざ…」


「瑣事では御座いませぬ!処斬が…決まりかけております!」


「何ィ!?詳しく話してみろ!」


「世子は…李傕の甥、李式様を…その…正当防衛とはいえ…」


使者は、息も絶え絶えに、事細かに事件の顛末を語った。高景が李式に何らかの理由で襲われ、やむを得ず殺してしまったこと。そして、伏完がこの事件を利用して、高景を逆賊の子として処刑しようと画策していること。その背後には、李傕の洛陽包囲という軍事的圧力が暗に影響していること。 高順は、すべての説明を聞き終えた後、深く、ゆっくりと息を吐いた。顔にはもはや驚きの色はない。冷静極まりない、しかし、その静けさは底知れぬ怒りの深淵を暗示していた。


(息子は悪くない、悪くないが…罠に嵌められ、利用されてしまったのだ。俺が『法に則って対処しろ』と言うのは『死なないようにどうにかしろ』という意味であるが、背後に李傕らが居るということはそう簡単に行かないのである。ましてや、あの伏完が簡単に終わらせるはずも無い。)


高順の頭の中では、状況の全容と伏完の浅ましい思惑が瞬時に看破された。伏完は、息子、高景という生贄を使って、李傕、郭汜の軍を吸収し、あるいは牽制し、この俺と対抗しようという腹積もりだ。


(よし、決めた!何かやらかした場合殺す!…だが、やらかしてもいない俺の息子を殺そうとするならば…その時は、俺が真正面からぶつかってやろう!)


高順は、心の中で静かに、しかし確固たる決意を固めた。


「判った。知らせてくれて感謝する。一休みしてくれ。この事を董大人には伝え、どうにか処斬の遅延をお願いしたい」


高順は、礼を述べ、使者を丁寧に帰らせた。次に会った郭汜の使者は、高景に非がないことを承知の上で、高順に李傕の暴走を止めてほしいと訴えに来た。郭汜としては、李傕の独走が自らの立場を危うくするのを恐れていた。


「という事は、李稚然と一戦交えても大丈夫という事か?」


高順は、郭汜の使者に静かに問いかけた。


「李将軍も戦場にて勇名を馳せたお方です。我らが郭将軍も、そう簡単に引き退がる筈が無いと思っております…」


「ふふふ、そうよな、かの董太師の配下だった者たちだ!そう簡単には引き下がらぬか…わかった。郭将軍には、俺からもどうにか侵攻を緩める様に伝えておけ」


「はっ!」


「…暫し待たれよ!」


「…何か?」


「あぁ、うむ、子細をだな…」


高順は、郭汜の使者と何か追加で話すつもりだったが、結局話すことはなかった。しかし、何も言わずに帰すわけにはいかない。ここで何もなければ、郭汜が疑心暗鬼に陥るかもしれない。


(陳余と張耳のように、疑心暗鬼で共倒れになりかねんからなっ!)


高順は、歴史の教訓を思い出し、わざとらしく使者を引き留めたふりをした。それだけで、使者は「高順は郭汜将軍に何か重要な伝言があるに違いない」と錯覚し、主君に報告するだろう。


「虎児!出発の準備をしろ」


「はっ!」


高順は、張虎に指示を出した。今回は入朝という名目だったため、護衛の兵は三万ほどしか連れてきていなかった。


(ダァー!こんな事になるなら十万連れて来れば良かった!)


高順は、心の中で舌打ちした。三万では、李傕の大軍と正面からぶつかるには明らかに心もとない。


「なら呼んで参りましょうか?并州や幽州から?」


張虎が尋ねた。


「いや、良い…、向こうが出て来たら流石に間に合わん…、其れよりも虎児、お前に百人の精鋭を与えるから、万が一何か有れば、お前は戦うんじゃない。真っ直ぐ文遠の元に帰れ」


「なっ…!殿下!そんな!私は!」


高順の言葉に、張虎は絶句した。自分だけ逃げろというのか。


「黙れっ!お前の身に何か有れば、文遠に顔向け出来ん!いいな!」


張虎は、高順の、部下思いでかつ絶対的な命令を含んだ真剣な眼差しに、何も言い返せなかった。


「…はっ。かしこまりました」


「言う事は聞いとけ!」


「はっ」


高順は、張虎の命を守ることを最優先に考えていた。彼は、腹心の張遼の息子である張虎を、まるで自分の息子のように可愛がっていた。その想いが、この命令に込められていた。


洛陽の城壁が見えてきた。その城外には、李傕の軍営が連綿と並んでいる。


殺伐とした気配が、距離を置いていても肌に感じられる。軍旗が風にはためく音、遠く聞こえる馬の嘶き、かすかな甲冑の触れ合う音が、不気味な合唱を奏でている。


「ふむ、流石は李稚然よ!良き陣を敷きよる!これを破るには容易では無いぞ?」


高順は、李傕の陣営の規律の良さを認め、感嘆の声を上げた。侮ってはいけない相手だ。


「殿下!如何致しますか!?」


張虎は、緊張した面持ちで高順に尋ねた。


「慌てんな、まだ戦うって決まったわけじゃねぇからな!交渉の材料が俺の背後に三万もいるだけだ!」


高順は、そう言って豪快に笑って見せた。その時、遠くから地響きとともに、聞き覚えのある大らかな声が聞こえてきた。


「たぁぁああ〜〜い将ォォォオオオ!待ってたぜェ!」


「殿下、敵の増援が…!」


張虎は、慌てて叫んだ。


「虎児、慌てんな!敵の旗を良く見ろ!あの『張』の字は、俺たちの味方だ!」


高順は、張虎に冷静になるように言った。誰が来たのかは、もうわかっていた。張五、いや、張亮だ。并州の慌て者だが、武勇に優れた将の一人だ。


「んじゃ、俺が見てきます!」


張亮は、元気よく馬を走らせ、土煙を上げながら高順の元へ駆けつけた。


「殿下、報告致します!」


「おう、来たな」


「郝萌、宋憲、侯成、魏続、張亮ら五名の将軍が各五千を率いて、殿下のご到着を待ち構えておりました!どうやら呉資さんの手配のようです!こちらと合流いたします!」


「何!?」


高順は、驚きの声を上げた。呉資か…、さすがは俺の右腕だ。事前に手配をしていたとは。


「はっ!確かに将軍方ですが?」


「…わかった。よく来た。みな、よく来てくれた」


五万五千の援軍。高順は、この増えた兵力をどう使うか、瞬時に考えた。李傕の軍勢は数万。数ではまだ劣るかもしれない。だが…


(合わせて八万五千か…、悪くない!ハッタリ…いや、本気で睨み合えば、こっちが優勢だ!)


高順の顔に、不敵な笑みが浮かんだ。逆境こそがこの男の真価を発揮させる場だった。


「うむ、全軍、陣を張れ!李稚然に見せてやれ、俺たち遼州軍の規律というものをな!」


高順は、李傕の軍勢を目前にして、八万五千の兵に堂々と陣を張るよう命じた。


(八万五千、これでやっと五分の勝算よ?いや、李傕と郭汜って雑魚やん?って思うだろ?あれでも『将軍としての能力はきちんと備えてる』からな!小説やらゲームとかだと、あの呂布とかの能力が突出してるだけで、実際の連中はどうなるかわからんよ?実際、戦術に於いてちゃんとあの武力以外取り柄の無い脳筋好色ゴキブリを打ち負かして流浪させてるからな!) 高順は、心の中で独り言を言い、決して油断しないように自分に言い聞かせた。李傕や郭汜は、決して侮れる相手ではなかった。


洛陽城内、特に内城は、遼王府の動きによって騒然としていた。遼王世子の高景が処刑されようとしているという報せは、王府を震撼させた。


王府護衛隊長の董祀は、顔面蒼白で焦っていた。彼の想い人である蔡琰の息子、つまり高景が不当な罪で殺されようとしているのだ。蔡琰への恩義、高順への忠義、そして高景本人への同情が入り混じり、彼は決断した。


「府兵を全員集めよ!今すぐだ!」


董祀は、護衛隊の兵士たちに鋭い口調で命じた。直ちに一万の精鋭府兵が集合し、広大な遼王府全体が殺気立った緊張感に包まれた。


「遼王府兵よ!我らの世子が今正に洛陽で、暴漢から身を守ったが故に不法を働いたとされ、斬首されようとしている!この理不尽を、我らは見過ごせるか!」


「「否!否!否!」」


董祀の熱のこもった言葉に、兵士たちは怒りに燃え、一斉に雄叫びを上げた。高順親子は兵から厚い信頼を得ていた。


「そうだ!見過ごせぬ!今こそ遼王殿下の御恩に報い、世子を救い出す時ぞ!」


「「おおぅ!」」


その熱狂的な中に、一人、黒い鬚をたくわえ、眼光鋭い男が駆けつけ、割って入ってきた。曹操だ。


「董校尉!暫し待て!早まるな!その行動は逆に世子の命を危うくする!」


「曹閣老!我らの世子が…!あの伏完の奸計に嵌められようとしておりますぞ!」


「そんな事、貴様より余程判っておるわ!知っておる故、止めておるのだ!」


曹操は、董祀の手首を掴み、必死に止めようとした。城内で武力衝突が起これば、それはまさに伏完の思うつぼだ。


「では…我らはどうすれば?」


「暫し待て!儂が何とか斬首は遅らせる。高順を怒らせれば、間違いなくあの男はこの国を滅ぼす…、其れを知っておる故に、儂は内閣府で抑え続けておったのだが…伏完の狂気は止まらん」


「しかし、今はもう時間がありません!」


「動くべきでは無いな。儂は急ぎ陛下に直接伺いを立ててくる。だから、早まるでないぞ?約束する」


「…わかりました。曹閣老ならば…。良き報せをお待ちしております」


董祀は、曹操の確かな眼差しと説得力を信じ、涙ながらに兵士たちを解散させた。しかし、その緊張感が解けたわけではない。


曹操は直ちに馬に飛び乗り、皇宮へと駆けた。白馬門まで止まることなく走りつけたが、門衛兵に厳しく制止された。


「急報じゃ!通せ!」


「お通しするのは構いませんが、宮中では下馬されよ。お取り計らいはできません」


「貴様ら!緊急事態だぞ!」


「光武朝より定められた決まりに御座います。お車でもお轎でもお召しになられよ」


「貴様ァ!時と場合をわきまえろ!」


「…、通りたくば、どうか宮中の規律をお守りください」


曹操は、門衛の毅然とした、しかし決して引かない態度に、業を煮やしながらも仕方なく馬から降りた。このような時ですら形式を重んじる朝廷の体質に、歯がゆさを感じずにはいられなかった。


「判った…!速やかに通せ!」


「はっ!」


皇帝劉協の元へ参内すると、曹操は息もつかずに状況を説明した。しかし、あえて誇張して伝える。


「陛下!大事に至ろうとしております!遼王府が、世子の斬首に抗議し、兵変を企てようとしております!」


「何と!斬首は決まっておらぬでは無いか!何故このような凶行に及ぶというのだ!」


皇帝は、蒼ざめて驚いた。高順の軍勢が城外に、その府兵が城内で暴れ出したら、もはや誰にも止められない。


「はっ!恐らく何者かが世子の処刑を吹聴し、遼王府を挑発したものかと…!」


「ぬぅ…!曹卿、そちは今すぐ虎憤営、羽林営を連れ、遼王府を包囲せよ!騒動を未然に防げ!そして伏完と董承を呼んで参れ!」


「はっ!承旨!」


皇帝自らが禁軍出动を命じた。遼王府謀反の報せは、瞬く間に洛陽城内の官僚や貴族の間に広まり、保身に走る者、伏完に与して狂喜乱舞する者、事態の重大さに戦慄する者に分かれ、それぞれの思惑が錯綜した。しかし、皇帝が禁軍を動かしたことで、遼王府の兵たちも一旦は静観し、混乱は辛うじて収束へと向かい始めた。


「何ィ!?陛下は何を考えておられる!遼王を除くまたと無い機会を自ら潰されるというのか!」


伏完は、皇帝の決定に激怒して叫んだ。自らの計画が台無しになりかねない。


「伏閣老、落ち着かれよ!陛下にも何かのお考えが有るのだろう?ここは陛下の御心を伺ってからにしましょう」


董承は、内心ではホッとしながらも、表向きは伏完をなだめようとした。


「何の考えじゃ!あの邪魔者さえどうにか除けば、天下は陛下の元に返られるのだぞ!」


「いえ、慎重に…」


「うぐぐ…!玄徳公さえ居れば!あの方ならば、我が志を理解してくれたのに!」


伏完は、悔しそうに唸った。劉備は既に洛陽にはいない。


「しかし、どうなさるおつもりですか?我らの手勢は足しても三千に満たぬ。禁軍の両営を除いても、遼王府には一万の府兵が居るのですぞ?」


「董閣老!此処は任せた!儂は急ぎ参内し、陛下を説き伏せて来るわ!高順の脅威を今一度説いてみせる!」


伏完の後ろ姿を眺めた董承は、そっと痰を吐き捨てた。もはや協調は不可能だ。


「ふん、お前にできようものか!愚か者めが」


曹操は、自ら禁軍を指揮した訳ではなく、実働指揮は息子の曹昂ら若い世代や一族の将軍たちに任せた。 「叔父上…」


「子脩!気にするな!ワシと妙才が居ればどうとでもなるわい!」


曹操は、不安げな表情の曹昂に、力強く言った。自分は後方で政治動向を見極める必要があった。


「ありがとうございます…」


「どうした?浮かぬ顔して」


「実は、此度の騒動、誰かが裏で巧みに糸を引いているような気がしてならないのです…。伏完だけがここまで動けようとは思えず」


「気にするな!そんなもんはお前の父に任せておけ!お前は与えられた任務を全うせよ!」


曹操は、曹昂を安心させようとした。彼自身も、伏完以外の黒幕、あるいは漁夫の利を得ようとする者がいると睨んでいた。


「はっ!」


「子桓!」


「此処に」


「お前は、外城に行き城門を見て来い。李傕らの動きに注目せよ!城内の混乱に乗じて動き出すかもしれん」


「…、はっ!」


「子文!」


「おう!」


「お前は内城の治安維持に専念せよ!庶民の混乱を鎮め、掠奪や火事が起きぬようにせよ!」


「チェッ!そんな治安維持みたいなつまんねぇ役目よ!大兄上、俺にもっと派手な役目を…!」


「黙れ!つまらんと思うなら家に帰って詩でも読んでいろ!」


「…、わぁったよ!やりゃあ良いんだろ?やりゃあ!」


「子和叔!」


「此処に!」


「全体の補佐、各所との連絡を頼む!」


「はっ!」


「元譲叔、妙才叔!」


「「此処に!」」


「遼王府に向かい、包囲するように!だが、挑発はするな。あくまで威嚇と鎮静だ!」


「「はっ!」」


「私は宮門にて陛下と父上の指示を仰ぐ!何か有れば直ちに知らせよ!」


「「はっ!」」


城内が兵でごった返し始めた頃、伏完と曹操は宮中で互いに高景を斬首するかしないかで激論を戦わせていた。その最中、一人の伝令が血相を変えて駆け込んできた。


「報告!遼王殿下が洛陽外三十里にて『遼州王高順率兵勤王』の大旗を掲げ、城外の李傕軍と対峙しております!」


曹操は内心、やられた!と思った。高順到着の報せが、自分たちの手で封じているうちに、なぜか洩れている。当然、高順は怒っているに違いない。焦りと緊張が走った。


(箝口令を敷いた上で、どう城内を治め、高順と交渉するかを考えていた。城内の者ですらこの事を知っている者など、皇帝を除けば内閣府の者しか居ないはず。それなのにどうやって漏れたのか?其れを皆、動揺し、どう対処するか?を考えていたが…)


しかし、伏完だけはこの報せを聞いて喜び、さらに声を弾ませた。


「見よ曹公!やはりあの男は逆賊だ!陛下の許しもなく軍勢を率いてきた!これでこそ大義名分が立つというものだ!」


「…どうやって漏れたのだ?高順到着の報せは」


皇帝劉協は、意外なほど冷静に、しかし鋭く問いかけた。幼少期から続く混乱に、彼も非凡な聡明さと冷静さを身につけていた。


「城内の者は厳重に出入りを制限しております故…漏れるはずがありません。とすれば…」


曹操は言い淀んだ。伏完自身が、わざと漏らして高順を挑発し、挙兵させた可能性すらある。


「そんな事はもはやどうでもいい!とにかく高順を逆撫でする事だけは避けよ!城外で李傕と高順が戦い、城内で遼王府が暴れれば、洛陽は灰燼に帰す!」


曹操は、高順を刺激しないよう、必死に説得を試みた。


「ふん!だから、言っただろうあ奴は逆賊だと!だが、ちょうど良い、あの逆賊が来たのならば息子共々斬首してやるぞ!城外の軍勢など、禁軍と我が手勢で挟み撃ちだ!」


「「…」」


伏完の無謀極まる言葉に、周囲の者たちは誰もが息を飲み、沈黙した。もはや正気の沙汰ではない。


「曹公!諸王!今こそ遼王を僭称する者を討つのだ!遼州を陛下の元に還すべし!」


伏完は、勢いよく叫び、周囲の同意を求めた。


「伏完!もう良い!そちの戯言に朕はもう聞き飽きた!遼王の位、遼州の地は元より朕が先帝の詔を承り、高順に与えたものぞ!それを僭称というのは、朕の意向に唾を吐きかけるに等しいぞ!」


皇帝は、玉座から立ち上がり、伏完の言葉に激怒した。皇帝としての権威が傷つけられる。


「へ、陛下…それは…」


「黙れっ!朕も高順なる男は、その強引さ故に好かぬ、だが、一度たりとも朕を蔑ろにした事も無ければ、朕に対する報告、遼州、漠南の統治の件は常に便りを絶やさぬ忠義の臣よ!…ゴホッ!ゴホッ!」


激しい怒りと、持病の咳が皇帝を襲う。 「陛下!お体を!」


「気に致すな、何時もの事だ。其れよりも諸卿、どうにか高卿の件、如何に処理する?」


「陛下、此処は世子を速やかに釈放しましょう!元より罪など有りません!そして遼王殿下には、李傕討伐を命じるのが妥当かと!」


「ならん!ならんぞ!釈放など許さん!」


「伏卿!いい加減にせぬか!朕の決定だ!」


皇帝は、伏完を強く制止した。


「しかし…!太子の位は未だに定まらず!更には高順のような外藩の大勢力がつけ上がれば、漢室の安泰は…」


「ふん!あの者に逆心有れば、とうの昔に董卓にとって代わり、卿たちの出る幕なぞ無いと朕は思うが?朕は高順の忠義は信じておる!」


皇帝は、高順の力量を恐れつつも、その義侠心と忠義心は評価していた。


「ご聖断に御座いますな!」


「ではどうする?曹卿」


「はっ!臣は伏国丈の意見も一理あるとは思いますが…今は城外の敵が第一です。城内より兵を出し、高順殿下の軍と共に李傕を挟み撃ちにするのが妥当かと…」


「うむ、朕は兵法韜略に疎い故、一切を曹卿と董国丈に任せる。速やかに鎮めよ!」


「「はっ!」」


「では、陛下、虎憤営、羽林営の軍及び、遼王府の兵をお借りしても?」


「うむ!許可する!ただし、指揮は曹卿が執れ」


「はっ!然らば、直ちに高景を呼んで来い!」


程なくして、縄を解かれたとはいえ、やつれた様子の高景が宮殿に連れて来られた。高景は殿内を見渡し、そこにいる伏完の姿を認めるや、嫌味ったらしく、皮肉たっぷりに言い放った。


「遼王世子、罪人高景が陛下に拝謁致します!」


「ふむ、卿は無罪じゃ、朕が保証する。許しをやる」


「はっ!御言葉ありがたく頂戴いたします…ですが…、臣はこの様に縛られたまま、斬首を待つように内閣府の某により言い渡されましたが?」


高景は、伏完の顔をじっと見つめ、皮肉を込めて言った。


「良い、世侄よ!儂らが内閣府として、其方を無罪とする!だからこそ釈放したのだ!」


董承が取り成そうとした。


「されども、内閣府に一人でも不満を抱く者が居らっしゃるのであれば、その方のご意思を尊重し、再び牢に戻らせて頂きます。どうせまた無実の罪を着せられるのであれば、最初から牢にいる方が心安らかです」


高景の言葉は鋭く、伏完を逆上させた。


「…!こ、この強情者めがァ!貴様の父が来たらどうするつもりじゃ?儂を殺したいようだな?」


「これはこれは、伏大人、相変わらずお変わり無いようで?お会いできて光栄です」


高景は冷笑した。


「ふん!貴様ら親子のせいで、儂の寿命が縮まる一方じゃ!」


「ならば、何故未だに息をしておられるのですか?とっくにご逝去されていてもおかしくはないでしょうに」


「〜っ…!小僧が!」


「ふん!父上も俺も他人より不当な濡れ衣を着せられるのは好かん。ならば、俺の罪が確定する前に、その原因を作った閣僚の貴様を殺し、然る後に牢に戻ってやろうではないか!これならば文句もないだろう!」


高景は、そう言い終わると、突然、練達の武術家らしい素早い動きで、伏完の腹部にハイキックをお見舞いし、さっさと牢に向かって歩き出した。


「待て…、誰が動けと言った?」 曹操が、高景の腕をしっかりと掴んで制止した。


「叔父上!私は不当に捕らえられ、殺されかけたのですよ?この怨み、どうして晴らせと?」


「ふん!それが何だ?お前の父は、儂と共にこの乱世を見てきた男だ。この程度の不当など、蚊に咬まれた程度にしか思っておらぬわ!」


「しかし!この冤罪は!?どうやって晴らすのです?」


「だとしても、内閣府の閣僚を殺して良いという事にはならん!それではお前の無実が台無しだ!」


「…」


「景児、お前は賢い子だから判るな?今、なすべきことは何か?」


高景は深く息を吸い、怒りを必死に鎮めた。


(父上…冷静であれ…か)


「…、はい。今は…城外の逆賊、李傕を討ち取る事が、先決…です」


「うむ、良い子だ!さぁ行け!世子として、将軍としての本分を果たせ!」


「しかし…!私は無位無官の罪人ですよ?兵を指揮する大義名分がありません」


「…、陛下!此処は…?」


曹操は、皇帝に助けを求めた。


「うむ、高景を討寇将軍に任ずる!断る事は許さん!即刻、李傕を討て!」


「然らば臣景、討寇将軍をお受けいたします!」


「将軍と言っても、兵が無くば務まるまい?禁軍より一万を其方に与える。李傕は朕の敵である!討ち取って参れ!」


「はっ!必ずや賊将の首を、陛下の御前に!」


高景は、皇帝の命を受け、討寇将軍として城外へと向かった。その背中は、さっきまでの囚人とは別人のように凛としていた。 高景が出てきた事により、遼王府の董祀は安堵の息をつき、王府の護衛任務に戻った。曹昂と高景は城外で合流し、互いに手を取り、鼓勵し合った。そして城壁上から、李傕軍めがけて矢を浴びせかけ、攻防戦の火蓋が切って落とされた。


「殿下ぁっ!前が騒がしい様ですぜ?城内から援軍が出てきたようです!」


「…!その様だな!どうやらあのバカ息子も、無事出て来られたようだ!よし、全軍、遠慮はいらん!城からの援軍と合わせて、挟み撃ちだ!殺せぇ!」


高順の破壊力のある号令で、八万五千の遼州軍が一斉に李傕の軍に襲いかかった。李傕軍は挟み撃ちに遭い、動揺が走る。 李傕は、もはや勝てぬと悟っていた。しかし、せめてこの戦いの元凶である高順を道連れにせねばならない。そうすれば、あの世に行って主君董卓に顔向けができる。李傕は、自ら陣頭に立ち、高順目掛けて猛突撃を敢行した。その剣先は、執念の輝きを放つ。


「高順ォォ!俺がやる!」


その頃、城内の牢の中の李式は、父の軍勢が動いたという報せを聞き、飛び跳ねるような嬉しさを見せていた。


「ヒヒヒ!見たか!父上が動いたぞ!俺を救い出すために高順を討ちに来るぞ!貴様らは皆殺しだァ!イーッヒッヒッヒッヒッヒッヒッヒッ!ゲホッ…ゲホ!」


李式は、高順が父李傕に討たれることを信じて疑わなかった。だが、彼の願いは叶わぬ悪夢で終わる。


高順は、李傕の突進を冷静に見据えていた。高順はこの数年間、無駄に過ごしていたわけではない。戦場での身体の使い方、新たに編み出した戦術や技を研究し続けていた。李傕が斬りかかってくるその一瞬、高順は馬鐙を巧みに操作し、身体を半回転させ、李傕の盲点となる背後への回り込みを一瞬で決めた。


「稚然、お前の時代は終わったのだ!」


閃く一刀。李傕の鎧の隙間を鋭く突く。勝負はあっという間に決した。


「ぐぁっ…!?」


李傕は、愕然とした表情のまま、馬から転落し、絶命した。主将を失った李傕軍は総崩れとなる。郭汜は、わずかの敗残の兵を率いて西方へと逃亡した。


高景、曹昂らは、郭汜に追撃をかけようとしたが、高順がそれを制止した。


「子脩、尚武!追撃は止めろ。欲深いのは感心せんな!」


「叔父上!なぜです!」


「『囲師には必ず闕け、窮寇には迫る勿かれ』…これが兵法の常道よ。逃げる敵を無理に追い詰めれば、逆に必死の反撃を受ける。それに…」


高順は、曹昂と高景に静かに諭した。


「…郭汜を完全に滅ぼせば、西方の羌族などが力を付けるかもしれん。ある程度の勢力均衡も必要なのだ」


「しかし…、叔父上!このまま逃がして良いものですか!」


「なぁに、機会は何時でもある。先ずは戦った将兵らを労い、戦後処理をせねばなるらぬだろう?それが為政者の務めだ」


高順の深い考えによる言葉に、曹昂と高景は納得した。


「そうですね…」


「おいバカ息子、父の顔を忘れたか?もう会いたくもないのか?」


高順は、高景に声をかけた。その口調は相変わらず乱暴だが、眼差しには安堵の色が浮かんでいた。


「いえ…、其の様な事は…ございません」


高景は、複雑な思いを抱えながらも、父の無事を確かめ、ほっとしたように答えた。


「ふん!まぁ、良いわ。とりあえず陛下に会いに行く。礼を言わねばな」


高順は、そう言って馬から降りた。


「では、私も同行させて頂きます。討寇将軍として、陛下に復命せねばなりませんので」


高景は、高順に同行を申し出た。


「ほぅ?謹慎にしてやろうかと思うたが…、将軍か。そうだったな」


高順は、少し意地悪な顔で言ったが、その口元は緩んでいた。


「先程、陛下より直々に任ぜられました。故に謹慎するとしても、先ずは復命を果たさねばなりません」


高景の誇らしげな様子を見て、高順は満足そうに大きく頷いた。


「そうか、ならば皆の者!俺たちの武勲を陛下に報告しに行くぞ!」


「「おおぅ!」」


こうして、高順は戦火の傷跡が残る洛陽城外を見回りつつ、息子や将兵たちと共に宮城に向かっていった。


「ほぅ?随分と様変わりしたものよな!俺が離れた時より、ずいぶんと整備されたようだ」


高順は、戦乱で荒廃していたはずの洛陽城が、思った以上に復興している様子に驚いた。


「ははは、叔父上は洛陽を離れて久しいですからな!此度はどのくらい留まられるおつもりで?」


曹昂は、高順に尋ねた。


「うーむ、北の防衛もある故な…匈奴や烏丸の動きも気になる。長くは残れぬだろう」


高順は、北方の守りにつく者としての責任を重く感じていた。都の優雅さよりも、辺境の緊張が彼の居場所だった。


高順は曹昂と会話をしていたが、その間、息子の高景をわざと無視するかのようだった。高景は少しむっつりとし、父が自分にどう言うのかを気にしている様子だった。


「尚武、どうしたと言うのだ?そのように塞ぎ込んで。勝利の後だというのに」


曹昂は、高景の様子を見て、尋ねた。


「いえ…なんでもありません。ただ、少し疲れただけで」


高景は、素っ気なく答えた。


「では、私は父上のところに戻らねばなりませんから、叔父上は親子水入らずで楽しまれると宜しいかと」


「うむ、子脩よ、其方の働きには感謝するぞ!よくやってくれた!」


高順は、曹昂に感謝の言葉を述べた。


「では!」


曹昂が去った後、高順はようやく高景の方に向き直った。しばらく沈黙が続き、高景はやきもきしていた。


「おい、バカ息子…」


「…はい」


「…お手柄だったな。よくやったぞ」


「…!?」


高景は、高順の予想外の褒め言葉に驚き、思わず顔を上げた。父から褒められることなど、めったになかった。


「ふん、やり口は無鉄砲で危なっかしくて、散々心配させやがって、其の忠義心と勇気、そして最後は冷静さを取り戻したことは褒めてやろう!今や、朝廷も認める討寇将軍になった訳だしな!ハッハッハッ!」


高順は、豪快に笑い、高景の肩を強く叩いた。


「父上…!で、でも…私は…」


高景は、高順の言葉に感極まり、すぐには言葉が出てこなかった。


「うむ、ようやった!それで十分だ!」


高順は、繰り返し認めた。


高景は、いつ以来かも忘れてしまったが、父からこんな風に褒められたのは久しぶりだ、としばらく経ってから気づいた。その顔には隠し切れない嬉しそうな笑みが浮かんでいるのを、高順も気づいてはいるが、わざと口には出さない。


(必死に笑いを隠そうとするのが、妙に可愛いな!親ならみんなそう思うだろうか?前世の俺はそんなに孝行息子でも無いし、親との関係もそこまで良くはなかったが、俺が小さい時は、こういう風に親に褒められたかったのだろうか?ま、今更だしな!何十年も経過してると思ってる?覚えてる訳ないだろうが!)


高順は、心の中で苦笑いをしながら、息子の成長を静かに喜んだ。


「ふむ、とりあえず、王府へ帰ろうか!駆けて戦って喋ったから腹も減ったし疲れた!王府の一切の事宜は任せたぞ!将軍としてな!」


高順は、そう言って再び馬に乗った。


「父上?任せたって?一体何を?」 高景は、高順にきょとんとして尋ねた。今までこんな大任を任されたことはなかった。


「文字通りじゃ!兵の労り、戦後の処理、報告のとりまとめ、全部だ!俺は先に寝る!」


そう言うと、高順は馬を駆け、王府に入るなり知らん顔で自室に直行し、本当に寝てしまった。


高景は、面食らった。しかし、父が試しているのだと悟り、やらねばならないという使命感に駆られた。 副官の呉資や章誑ら、この場にいる諸将の代表として郝萌が王世子に挨拶をし、高景も戸惑いながら返礼をして諸将を労った。


「世子、此度のご武勲、誠におめでとうございます!」


「「おめでとうございます!」」


「諸将軍も誠にお疲れ様でした。これよりは宴を開き、勝利を祝いましょう!兵達にも十分な休息と褒賞を与えるようにお願いします!」


高景がそう言うと、諸将の中で動く人間は誰もいなかった。まるで彫像のように、ニヤリと笑いながら動かないのである。


「…、どうかされましたか?私がなにか間違えましたか?命令は聞こえましたか?」


高景は、不安げに尋ねた。将軍として初めての命令が無視されるのかと内心動揺する。


「…」


皆、笑いを堪えていた。半分、世子をからかい、その反応を楽しんでいるのである。これに耐えかねた若い護衛が、一声をかけた。


「世子、差し出がましい様ですが…今のままですと…命令が通りません」


「誰だ?名を名乗れ」


「はっ、殿下の護衛、張虎と申します!」


「ほぅ?その若さで父上の護衛か?…では、どうすれば良いと言うのだ?」


「世子は今や殿下より一切を任された御方です。我ら諸将を従えるがお務めです…どうか、もう一度、ご『命令』を…っと、お願いします」


張虎は、遠慮がちに、しかしはっきりと高景に助け舟を出した。命令は「お願いします」ではだめなのだ。


「そうか…、わかった。では、諸将!此度の戦はご苦労であった!我の命令だ!此度の戦いに加わった兵等にも休息と褒賞を確実に与えよ!宴の準備を始めろ!」 高景は、背筋を伸ばし、声を張り上げて改めて命令した。


「「はっ!承知いたしました!」」


今度は全員が声を揃え、動き出した。


「なっ…!どういう事だ!」 高景は、驚きの声を上げた。


「世子、からかわれているのですよ…!殿下がお休みになる前におっしゃっていたのです、『あのバカ息子、どうやってやりくりするか、楽しみだ』と…」 張虎が囁く。


「ぐっ…!父上め…!」


「「ハッハッハッハッ!世子、失礼!」」


諸将は、一斉に笑い出した。それは悪意のない、むしろ祝福と歓迎の笑いだった。


「叔父上方…!からかうなよ!」


高景は、顔を赤らめて言った。


「さぁさぁ!宴にしましょう!世子!今日は存分に騒ぎましょう!」


「しかし、父上はおやすみに?」


「殿下も世子の成長ぶりを、こっそりと楽しんでおいでですよ!きっと」


「何だと!?父上までもがか!もう…!」


高景は、高順の寝室の方を見て、呆れたような、しかしどこか嬉しそうな表情を浮かべた。


実は高順は少し休んだ後、起き出して自ら台所に立ち、その場にある具材で手早く料理を作り始めていた。戦場で鍛えた手際の良さで、数品の料理をあっという間に仕上げ、微笑んでいた。宴が始まれば、諸将と談笑しながら自分で作った料理を食べ、舌鼓を打っていた。その横に、からかわれて機嫌が悪そうな高景がいた。それすら、諸将にとっては美味しい肴でしかなかった。


「尚武、良うやった!ほら、酒を飲め!大人の酒だ!」


高順は、高景の肩を強く抱き、自分の杯から酒を注いでやった。


「はぁ…父上の命令ですから…」 高景は、ため息をつきながらも杯を受け取った。


「何じゃ!その気の抜けた返事は!もっと飲め!」


「ふん!叔父上方もですが、父上も父上ですよ!わざと困らせるようなことばかり…」 「まぁだ、そんな事を気にしてるのか!小さいなぁ!」


「…」


「まぁ、良いわ!ここにいるのは皆、俺に命を預けてくれる良い奴らばかりだ!紹介してやるから仲良うせい!虎児!」


「はっ!」


「顔はもう合わせたようじゃな!尚武、此れは文遠の息子の張虎じゃ!将来を担う若者同士、よく語らえ!」


「そうだったんだ…!張遼将軍のご子息とは!…此方こそ、よろしく頼む!」


「世子、よろしくお願いいたします!お力になれるよう尽力いたします!」


次代を担う若者二人が、強く手を取り合った。高順は、それを見て満足そうに頷き、再び諸将と談笑に興じた。


やがて高景は、少し席を外し、王府の一室にいる蔡祀のもとを訪ねた。


「おじさん…」


「世子殿下…、お怪我もなく、何よりです」


「今回は…おじさんにも心配と迷惑をかけて…すまなかった」


「とんでもない!殿下や王妃様も、どうにか世子を助けようと動いてくださいましたよ。私は何も…」


「…」


「お気になさらずとも…」


そこから、蔡祀は少し酔ったのか、または感慨深げに、昔の話をぼそぼそと語り始めた。


「ふふふ、三十年以上前になりますかね…、昔、私はとても美しく聡明な女性に恋をしていしてね…」


「…母上…のことですか?」


「あれ?バレましたか?…やはり、そうか」


「母上は、薄々気づいておりましたよ…たまに、おじさんがこっそり見ているって…」


「あっちゃ〜!隠したつもりだったのに、ばればれだったかぁ!」


「母上の為を思って、わざわざ遠い遼州まで来て、王府の護衛を買って出られたのですよね?立派だと思います」


「…」


「俺、父上よりもおじさんの方が尊敬できるな!あの無愛想で強引なクソジジイより、おじさんの方がよっぽど情があってカッコイイもん」


「ははは、それはないでしょう。殿下は殿下で、人には言えない大きな愛をお持ちですよ。ただ、表現が下手なだけです」


蔡祀は、高景の率直な言葉に、苦笑いしながらも、どこか嬉しそうに笑った。


宴は夜明け近くまで続いた。やがて夜が明け、新たな一日が始まった。高順と高景、そして彼らを支える人々は、それぞれの道を歩み始める。洛陽は、高順の帰還と李傕の敗北によって、一時の平穏と、新たな権力構図の時代を迎えることになった。そして、高景は、父の巨大な背中を追いかけ、一人前の将軍としての道を歩み始めたのだった。

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