第三十回 唇槍舌剣戦百官 実力不足敗猶榮
話は遡ること数日前、張虎は高順の身辺警護を任されて七日が経とうとしていた。しかし、戦場に出ることもなく、ただ洛陽の街を巡回する日常に、彼は強い焦燥感を覚えていた。
「父上、次の戦はいつになられますか?」
張虎は張遼の屋敷で、夕食を共にしながら尋ねた。
張遼は酒杯を置き、鋭い眼光で息子を見据える。
「知らぬ。あるならば退けるだけのことよ。それに、殿下の護衛を務めるお前には関係のない話だろう」
「それが……」
張虎は箸を置き、深々と頭を下げた。
「父上、申し上げにくきことながら、このままでは悶え死にしそうです」
張遼の眉がわずかに動いた。并州時代、張虎は町で有名な腕白小僧だった。その彼が、ここまで憔悴している様子に、父としての心は揺さぶられる。
「高順殿下と出かけるときは、決まって街中の散策か、飲み食い、茶館の経営視察以外にやることがないのです。武人として、これほど歯がゆいことはありません」
「軟弱者め!」
張遼は床を拳で叩いた。
「その程度で軍に入れると思うか!」
「怒ることないでしょうよ?父だって、若い頃は……」
「喧しい!」
張遼は立ち上がり、背を向けて窓の外を見つめた。
「務めを果たせぬ者に、軍務などつとまらん。高順殿下の護衛は、お前を試すための任務だ。それが理解できぬとは、情けない」
張虎は俯き、拳を握りしめた。并州の荒々しい平原で、父の背中を追いかけた日々が思い出された。あの頃はどんなに辛くても、父は決して振り返らなかった。ただ、時に厳しく、時に温かい視線を感じるだけだった。
「はぁ……わかりました」
張虎は諦めの表情で席を立った。
その夜、張遼は一人で酒を酌みながら、遠い目をしていた。かつて呂布に仕えていた頃、自分も同じような焦燥感を味わった。武人としての腕を試したい、しかし時勢が許さないそんなもどかしさを、今、息子が味わっている。
「虎よ……待て。時は必ず来る」
張遼の呟きは、夜の闇に消えていった。
翌日、張遼は軍務報告のために高順の元へ出向いた。一方、張虎は父より早く出仕し、高順の警護についていた。
「文遠、畏まるな!俺とお前の間柄だ。礼儀要らん」
高順は朗らかに笑いながら、張遼を迎え入れた。
「はっ、ご厚情感謝致します」
張遼が深々と頭を下げる。その横で、張虎は緊張した面持ちで立っていた。
高順は二人の様子を見て、ほほえんだ。
「どうした、虎児?退屈か?」
「い、いえ!とんでもない!」
張虎は慌てて否定したが、その目にはもやもやとした感情が渦巻いていた。
高順は深く頷くと、突然真剣な表情に変わった。
「文遠、十年は朝廷に立ち入らないと言ったな?」
「はい、殿下はそうおっしゃいました」
「都では、俺が謀反を企んでいるとの噂があるらしい」
高順の口調は軽かったが、その目は鋭かった。
張遼が息を飲む。
「それは……!」
「内閣府としては『人質』が欲しいんだろう。わかったよ!送る!送ってやる!」
高順は豪快に笑った。
「はて、そのように決められてよろしいのでしょうか?」張遼は困惑気味に尋ねた。
「気にするな!お前の仕事は、俺に代わって遼州の全軍を統率し、内閣府と連携して戦をどうにかすることだ」
「はっ!」
「頼むぞ!」
高順は張遼の肩を強く叩くと、振り返って張虎を見た。
「虎児!付いて来い、お前も洛陽に行くぞ」
「へっ!?で、でも!」
張虎は目を見開いた。
「しゃんとせんか!」
張遼が厳しい声で叱る。
「お、親父ぃ~……」
張虎は思わず并州の方言が出た。
高順は楽しそうに笑った。
「虎児、お前も学ばなくてはならんぞ?」
「はい……」
張虎は複雑な表情でうなずいた。
こうして、遼王世子高景の入洛が決まった。その頃、朝廷では一人の若者が内閣府であらぬ疑いをかけられ、その命が漢王朝の行方を左右しようとしていた。
「こやつぅ~…!早う言わんかっ!何しに来た?まさか殺されに来た訳でもあるまい?」
伏完が高景を睨みつける。
「いえ……」
高景は冷静に伏完を見据えた。
「ならなんだ!」
董承が机を叩いた。
「某は……」
高景はわずかに間を置き、静かに言った。
「羽林衛として公主を護衛中、李式と郭升の不敬行為を制止したまでです」
「おい!まさか、遼王に支持されて内より禁軍を掌握せよと?」
伏完が迫る。
「いえ……」
高景の目がわずかに光った。
「公主の御名誉を守るのが、羽林衛の使命です」
「早く答えぬかっ!」
董承が怒鳴った。
高景が洛陽に来た経緯は複雑だった。彼は田豫の元で従軍し、烏桓討伐で敵将三人を討ち取る武勲を上げた。しかし「遼王の息子」という肩書は、時に彼の実力以上の重圧としてのしかかった。
田豫は悩んだ末、高景を朝廷の羽林衛として推薦することを決断した。都での任務は、将来の遼王として必要な教養と人脈を築く機会になるだろう。同時に、高順の影響力が直接及ばない環境で、真の実力を試す場にもなる。
洛陽の朝は灰色の霧に包まれていた。皇宮の一角、羽林衛の衛所では、早朝の点呼が終わり、兵士たちが各自の任務に向かう準備をしていた。
その中に、一人、特に目を凝らさなければ見逃してしまいそうなほど、わざと目立たぬように振る舞う若者がいた。名は蔡景。胸に掲げた名札は偽り、その瞳の奥に潜む鋭い光だけが、彼の実態をわずかに物語っていた。
「蔡景、今日はお前は西市周辺の巡回だ。最近、ならず者の輩が増えている。油断するな」
古参の兵士、陳という男が告げた。彼の口調には、どこか「厄介払い」のようなニュアンスが込められている。
「承知した」
高景はいや、蔡景は、淡々と答えた。彼はすでにこの数週間、このような視線に慣れつつあった。地方出身者、しかも経歴が曖昧な新参者に対する、自然な警戒と軽蔑だ。
彼は武装し、他の数名の羽林衛と共に衛所を後にする。洛陽の街並みは、并州の荒々しい風景とは対極にあった。レンガと木材で精巧に組まれた家々、石畳の道、そして所狭しと並ぶ店先。活気に満ちているように見えた。
しかし、蔡景の目は細められた。彼が見ているのは、華やかな表面ではなかった。 路地裏で物乞いをする老人。権力者の行列を避けるようにうつむく市民。高級な酒楼の前で、酔っ払った若い貴族子弟たちが大声でふざけている姿。
「蔡兄、あそこは見ないほうがいいよ」
一緒に巡回していた若い羽林衛、李徴が囁いた。
「あれは李傕将軍のご子息、李式様とそのお友達だ。関わるとロクなことがない」
蔡景は微かに頷いただけだ。彼の目は、李式らが店の主人を小馬鹿にしている様子を、一秒も見逃さず記録していた。彼の内部で、并州の荒々しい正义感がうずいたが、彼は感情を殺した。今は「蔡景」だ。目立ってはならない。
巡回が終わり、衛所に戻る道すがら、李徴が話しかけてきた。
「蔡兄、君はすごく落ち着いているね。俺なんか、最初は街の大きさに圧倒されてばかりだったよ」
「…ただ、慣れただけだ」
蔡景は曖昧に答える。彼は本当のことを話せない。乌桓の騎兵と戦い、死線をくぐり抜けてきたことなど。
日々の任務は単調の繰り返しだった。門番、宮内の見回り、そしてたまにある貴族の護衛。 蔡景は与えられた任務を黙々とこなした。彼は余計な口を利かず、命令に従順で、武芸の腕だけは群を抜いていた。そのため、次第に「無口で腕は立つ変わり者」という評価が定着していった。
ある雨の日、光勲禄段煨が蔡景を個人的に呼び出した。 段煨の私室は、書物と武具で埋め尽くされていた。
「蔡景、貴様の刀さばきは并州で磨いたものだな」
段煨は突然、そう言った。蔡景の心臓が一跳りした。
「恐れ入ります。…どうして?」
「動きに無駄が無い。華やかじゃないが、敵を殺すための動きだ。都の兵士にはない匂いがする」
段煨は笑みを浮かべ、蔡景を試すように見つめた。
「わしはな、李傕や郭汜らと長安で戦ったことがある。あの連中の兵士の動きも、よく似ておったぞ」
室内の空気が張り詰める。蔡景は覚悟を決めた。しかし、段煨は続けた。
「安心せい。お前の素性を詮索するつもりはない。わしが知りたいのは、お前がこの洛陽で何を見ているかだ。この目で見たままを言ってみよ」
蔡景は少し間を置き、静かに語り始めた。
「…街は活気があります。しかし、霧のようないらだたしさが漂っています。権力を持つ者と持たざる者の溝が、日に日に深まっているように見えます。そして…」
彼はためらったが、段煨の促す視線に背中を押された。
「…我々羽林衛の内部にも、その溝が反映されているように思えます」
段煨は深く唸った。
「…ふむ。鋭い。その霧が、やがて嵐となるかもしれん。その時、お前はどうする?」
「任務を全うします。護衛すべきものを護衛します」
蔡景の答えは即座だった。迷いはなかった。
「よかろう」
段煨は満足そうに頷いた。
「明日から、お前の任務を変える。陽安公主劉曼殿下の近衛に加われ」
陽安公主劉曼は、皇帝劉協の姉であり、ながらく気品と聡明さで知られる人物だった。 蔡景は他の数名の羽林衛と共に、公主が居住まる宮殿の外で護衛任務に就いた。
初めて公主の姿を目にしたのは、彼女が庭園で読書をしている時だった。優しいながらもどこか強い意志を感じさせる眼差し。彼女は側仕えの女官に軽く何か指示をすると、ふと蔡景たち護衛の方向に視線を向け、ほんのりと微笑んだ。
その笑顔は、宮中の権謀術数や街の濁った空気を、一瞬で浄化してしまうかのようだった。蔡景は、はっとした。自分がここにいる意味を、突然、明確に感じ取った。この穏やかさを、この平和を守るためだ。
数日後、公主がたまたま蔡景のそばを通りかかった時、声をかけられた。
「あなたが新しい護衛の方ですか?お名前は?」
「…蔡景と申します。殿下」
彼はうつむきながら答えた。
「蔡景…。良いお名前ですね。どうぞ、今後ともよろしくお願いします」
公主の声は真心に満ちていた。
その夜、衛所で仮眠を取っている時でさえ、蔡景の脳裏には公主の笑顔と、李式らの横暴な笑い声が交互にちらついた。守るべきものと、脅威となるもの。その対比が、彼の心に静かな決意を固めさせていった。
公主が数日後、洛陽の街と郊外の寺院に外遊することが決まった。護衛の陣容が発表され、蔡景の名前もそこにあった。陣容を聞いた古参の陳は、蔡景のそばでわざとらしく咂舌した。
「厄介な任務に巻き込まれるなよ、新参者。街中は、俺たちが睨みを利かせてる連中ばかりだ。公主様に少しでも害が及べば、お前の首一つでは済まんぞ」
それは脅しでもあり、ある種の忠告でもあった。蔡景は黙って頷いた。彼は既に覚悟を決めている。巡回の日々、段煨との会話、公主の笑顔すべてが彼をこの瞬間に導いていた。
任務前夜、蔡景は一人、武器手入れを入念に行った。刀の切っ先を撫でながら、彼は静かに呟いた。
「…たとえ蔡景という偽名であっても、守るべきものは変わらない」
彼の目は、并州の平原で狼が獲物を狙う時のように、静かでありながら、激しい決意に輝いていた。
翌朝、公主の馬車が宮門を出る。蔡景は馬車の横に騎乗し、鋭い眼光で周囲を見据える。その視線は、輝く帝都の表通りだけでなく、その陰に潜むすべての影を捉えようとしていた。
羽林郎としての初任務は、陽安公主劉曼の外遊護衛だった。護衛として、高景は馬車の横を馬で付き添う。しかし、洛陽の街並みを見て、彼は落胆した。華やかさの陰で、権力者の横暴がまかり通っているのが感じられた。
「公主…」高景が声をかける。
「なぁに?」簾の向こうから優しい声が返ってくる。
「はっ、前に道を塞ぐ者が数名…、立ち退くように言い付けて参りますので暫しお待ちを…」
「判ったわ、その通りにしなさい」
「はっ!」
高景は前に出て、立ち退くように言った。「公主の御前である、今すぐ立ち退くように!」
道を塞いでいたのは、李傕の息子・李式と郭汜の息子・郭升らだった。彼らはわざと無視を決め込んだ。
「貴様ら!直ちに退くように!」
「はぁ〜ん?退けだと?何様のつもりだァ?」李式が酔ったような声音で言う。
「羽林郎蔡景である!」
「ケッ!たかが護衛が!俺様を誰だと思ってやがるっ!」
「様とな?」
「おい、公主が乗ってるつったよな?おぅし、おめぇら!見てろ!今まで色んな女抱いてきたけどよ!公主ってのは未だだったな!ちょっくら行ってくるわ!…!」
李式が馬車に近づこうとした瞬間、高景の馬が前に出た。
「てんめぇ〜!」李式が怒鳴る。
「「坊っちゃん!」」李式の取り巻きたちが騒ぐ。
「何処の誰かは知らぬが、聞き捨てならぬ事を聞いたからには、それ以上前に出ることは許さん!皆!構えよ!」高景の号令に、他の羽林衛たちも剣に手をかけた。
「蔡護衛、何事ですの?」公主の不安な声が聞こえる。
「公主!お隠れを!賊徒が蔓延っております!」
「まぁ!」
「諸兄!何をしておるか!賊が公主に乱暴を働こうとしておるのだぞっ!」
「蔡兄、蔡兄は洛陽に来て日が浅いから知らぬも当然」一人の羽林衛が囁く。「このお方は李傕将軍のご子息、李式で、その横は郭汜将軍の子息で郭升です…、今は洛陽城外の治安維持をになって居られるお二方の子息です…、此処は公主を守りつつやり過ごしましょう…」
高景は子供の頃から折れることを知らなかった。并州でガキ大将として育った彼は、こういう横暴な輩のやり口をよく知っていた。
「おい!俺らに手を出してみろ!父上が攻め込むぞっ!その時はお前の守ってる公主を下人として扱ってやるから、下人の護衛に成り下がることになるぞ!ハッハハハハハ!」
高景の目が鋭く光った。「ほぅ?皆聞いたな?」
周りの羽林衛たちは沈黙した。高景は彼らが腑抜けていると思い、それ以上は期待しなかった。
「蔡護衛、私が聞いておりましたわ!李公子の言った今の言葉は、謀反に値しなくても不敬に当たります!」公主の声が意外にも強い。
「皆!手を出すのは俺一人で良い!奴らを公主の元に近づかせるなよ?」
「おう!」
「へぇ?でけぇ口叩きやがって!おい!やっちまえ!」李式が怒鳴ると、取り巻きたちが一斉に襲いかかってきた。
高景はすぐに囲まれたが、それをものともせずに斬りかかった。一人目と剣を合わせ、二人目に前蹴りを浴びせる。一人目の剣を逸らして二人目を斬り、一人目を飛び台にして郭升に一閃を浴びせた。郭升は即死した。
自分たちが斬られることなどないとタカを括っていた李式一同は驚いた。
「き、貴様ぁ!俺達に手を出して無事でいられるとでも思ってるのか!見ておれ!」
「ふむ、お父上にご助力を願うか?良かろう!呼びに行くが良い!但し、お前は残れ!」
「はっ!?」
「おい!李公子は残られる!お前達は城外に居る将軍方にお伝えして参られよ!」
取り巻き達は蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げた。
「諸兄!お手を煩わせて申し訳ないが、各都尉に門の閉鎖を通達してくれ」
「判った!」
「公主、申し訳ございません。これより宮に戻って頂きます」
「えぇ、良いわ」
「太僕大人によろしくお伝えしてくれ」
「はっ!」
高景は李式を引きずりながら、冷たく言い放った。「さて、李公子、着いてきてもらおうか?」
「ど、何処に?」
高景は李式が口から音を出す度に殴る蹴るの暴行を加えた。李式が黙ると、骨を指から一本ずつ折っていく。廷尉府に着くまでには、少なくとも四肢の半分は普段曲がらない方向に曲がり、顔の識別も難しいほどに殴られていた。
廷尉府が見えた所で、高景はある行動に出た。「李公子、やり過ぎた事は認めよう、だが、喋られても困る」
剣を鞘に収めたまま、数回李式の喉を突き、喋れなくしてしまった。
「さぁ、罪を犯したのならば、裁かれるのが当然と言うもの!我ら羽林衛は皇室宗親の護衛を旨とする故、廷尉府に突き出すのが当然というのが道理だ!さぁ、行けぇ!」
廷尉府から衛兵が出てきて、高景と李式を取り囲んだ。
「何事か!」
「某、羽林衛蔡景と言う者です」
「して、何用か?」
「先程、某が投げ込んだ物は李式と言う者で、本日公主の外遊に出た際に無礼を働こうとして、成敗致しました。あとは其方にお任せします」
「はっ!畏まりました!」
「では、某も復命せねばなりませんので」
高景は皇宮にある衛所に戻った。
一方、取り巻き達は洛陽城外に出て、李傕を探し出した。今の洛陽は、皇宮を初めとした各役所を囲んだ内城、貴族や高官らが住まう中城、市井の者や一般人が暮らす外城で構成された長安式の城郭都市になっていた。李傕らは命を保証する代わりに洛陽城に立ち入らないことが条件で皇帝に恩赦を賜っていた。
事の顛末を報告され、李傕と郭汜は激怒した。
「…!おのれぇ!たかが羽林衛ごときが!」李傕が咆哮する。
「兄弟!どうする!?」郭汜も怒りに震えていた。
「黙ってろ!ちったァその頭で考えやがれってんだ!」
「…」
郭汜は黙らざるを得なかった。彼は李傕よりも思慮深く、この状況の危険性を理解していた。
「全軍集まれっ!これより洛陽に攻め入る!」
「…!」
羽林衛は既に城門を閉じていたため、攻め込まれることはなかったが、内閣府、廷尉府、禁軍がざわつき、それぞれの最高責任者が出席して御前会議が開かれた。
「陛下!」伏完が声を張り上げた。「恐れながら陛下、この度は陛下の羽林衛が――」
「待て、国丈」劉協が手を挙げて制止した。「諸卿、此度の李傕の叛乱どう思うか?」
「陛下、此処は臣が……」曹操が前に進み出た。
高景が廷尉府に李式を投げ込んだ事、それと李式が重度の傷を負っている事を話した後、劉協は激怒した。
「何たる事だ!皇城鎮守すべき羽林衛が事を起こすとは以ての外!即刻その者を此処に呼べ!」
「はっ!」
程なくして、高景が呼ばれ到着した。高景は当然の様に皇帝に挨拶を済ませ、毅然と経緯を話し、応答していた。
「…、と言う事は李式と郭升が公主に乱暴を?」
「はっ!臣卒は其れを止めましたが、制止を振り切りやむを得ずに手を出してしまいました」
「出してしまいましたで済むかっ!お前は事の重大さを判っておらん!」
「…」
「貴様ぁ!陛下を守るべき者が都で事を興してどうするのじゃ!」
内閣府でも伏完と董承が一番吠えていた。日頃から高順に煮え湯を飲まされて来たから、たかが羽林衛はストレスの発散でしか無い。劉協もこれを見抜き、黙って見守っていた。劉虞、劉表ら宗室と曹操はただ黙っていた。
「ちょっと待て!事を起こしたのは向こうだろ!俺は俺の責務を外しただけだ!アンタらがそれ以上、文句言うんだったら羽林衛を辞してこの場でアンタらを叩き斬る!」
これにザワついた。
「何だと?陛下の御前で狼藉を働くと言うのかっ!?」
「はん!責務を果たして褒めろとまでは言わんが、投獄だの、何だのは違うんじゃないかと言ってるんだ!」
「…」
「お主の言う通りかもしれぬ、だが、この洛陽が再び戦火に包まれようとしておるのだぞ?お主一人の命で免れるのであれば安いものでは無いかな?」
「ほぅ?ならば、不敬を承知で話そう、諸公及び陛下の命が目の前に有るのだ。全力で攻めれば…」
「蔡景!もう良い!」段煨はそれ以上聴きたくなかった。劉協も良い気はしないが、確かにその通りでもある。
「ほう?では、どうしろと言うのだね?」
「…」
「ふむ、言ってる事は大分ズレて居るが、流石は高順の子よのぉ…」
「「何!?」」朝廷内が騒然とする。
がこれまでの経緯である。
「陛下、名を偽り羽林衛に入った事、何卒、お許しください」
「ふむ、これでそちを出す事、益々出来なくなったな」
「…」
「しかし陛下!遼王殿下は京師より離れている為…!」
「ほぅ?李傕、郭汜らを安撫して、高順を怒らせるか?」
「…、だが、ここに居る我ら一同が黙って居れば…」
「城外の者らが許さぬであろうな」
「ぬぅ…!」
「曹閣老!ならばどうせよというのだ?」
「なに、息子の不始末は父親に任せようではないか、儂とてあれらの相手は難儀するもんだからな!」
「…、そういうものは早く言わんかっ!」
「貴様らが目を曇らせ、社稷の危機を招く事を黙って見守るつもりも無いのでな!」
「曹閣老、今は言い争ってる場合では無い。如何にして遼王殿下を呼ぶ事が先決では?」
「ふむ、ならば儂が出向こう、伏閣老と董閣老が揃って行かれれば其れこそ火に油を注ぐものかと。陛下、如何に?」
「うむ、曹操、任せた」
「はっ!」
「高景、お主は?」
「残ります」
「ほう?父親が来ると言うのに残るとはのぅ!何たる親不孝か」
「ふん、因果応報と言うでは有りませんか!遼王殿下も放蕩不羈なお方である故にこの様な親不孝な世子も生まれたのでしょう、どうでしょう?伏国丈?」
「おぉ〜、誠に其方の言う通りだな!董国丈!」
「…、道理で父上は朝廷に見切りをつける訳だ。この様な愚臣が内閣府の一席に座せるとは世も末とはこの事よ。曹閣老に比べれば凡愚もいい所だ」
「高景!いい加減にせぬかっ!」
「あーッ!止めた止めた!もう良い子ぶんの飽きた!いい加減にしろだァ?良いか?俺は俺の優しさだぞ?俺のところで止めた方がいいか、父上の所にまで届いた方が良いか、察しのつかないアンタらじゃあるまい?其れをいい加減にして欲しかったらいい加減にしてやるよ!老耄ども、覚えておけ!俺は父上と比べたら大分優しい方だからな?」
「尚武、その辺にしてやれ」曹操が静かに言った。
「伯父上!」
「尚武!」
「ケッ!しゃあねぇ!ここまでにするか!腐った儒者どもめ、大人しく学問の研鑽でもしてりゃいいものを…、わざわざ国家を左右したがるんだからしょうがねぇよな!」
「貴様ァ!今のは聞き捨てならんぞ!」
「何処だよ?聞き捨てならないのは何処だよ?」
「儒者に政が出来ぬだと?」
「あったりめぇだ!国を治るは法に於いて他無し、儒を修るは其の身に仁徳を養う為!」
「なっ!」
「貴様、その様な屁理屈をこねよって!その様な邪論が通ると思うてかっ!」
「あぁ、通るよ。孔夫子は仁を説いた、その仁とはあくまで人と人である。一人を相手にする事を説いた故に人と人の対人関係に重きを置いた仁徳である!だからこそ君子と小人に分ける必要が有る。その上、やって良い事とダメな事が有るその基準で君子たる者のする事が正義で反対にそうでない者は小人と分けられる。為政に使うのは狭過ぎる世界だとは思いませんか?先ず、己の目的は必ず正義であるという事を前提にし、その上で人臣の術、権謀の道に向き合うのが儒家の考えだと存じ上げておりますが?」
「き、貴様ァ!夫子を愚弄するか!」
「いいえ!愚弄などしておりません、為政に向かない学問だと申し上げてるのです。文武百官は陛下一人に向き合うが、陛下は臣たる者全てに向き合わねば成りません、故に貴方々が儒家をどう思おうが関係有りません。ただ限界があるのです」
「なぁにぃ?」
「ならば聞きましょう、秦の始皇帝は法家の李斯を用いて六国を統一しました。反対に儒家の孔夫子は列国を歴遊し、魯の相に就き最後は官を辞し己の学問を研鑽し其れを広める程度に留まっております」
「……」
「な、ならば、何故今日にまで儒術は深く浸透しておるのだ?」
「人対人だからです」
「ほぅ?これは興味深い、ならば儂からも問おう!何故法家は為政に向いてるのだ?」
「法家は、厳刑峻法、馭臣之道を基礎と為します、明白にしているからです。」
「…、ならば道家は?」
「道家…、其れは父上にお聞きください…」
「何故遼王が出て来るのだ!」
「これは父上に教えられたものです」
「ほぅ、孝父は学問を修めておったのか?」
「…、分かりません。私の学問は母上と祖父上から教わり、その上で父上に多少の指摘を頂きましたので…、未だ未だ勉強不足です…」
「はっはっはっ!アイツめ!隠しておる事が多過ぎるのぅ?そう思わんか?」
「待て!貴様の祖父と母だと?女子が学問を修めるだと?誰だ!」
曹操は内心聞く必要あるのか?と口にせずに黙って見ていた。
「祖父は蔡邕、母は蔡琰と申しますが?」
「伯喈兄が…?ふふハハハハハ!逆臣と其の娘が更なる逆臣と家を共にするか!面白い!滑稽、滑稽!」
「…!?」
「そうなるとお前は小さな逆臣に成るなぁ?」
「へぇ…、逆臣と言われたからには逆臣らしくしないといけないなぁ?」
「ま、待て!な、何を…!?陛下の御前なるぞっ!」
「黙れ!」
高景は伏完と董承に猛然と襲いかかった。その動きは迅雷の如く、周りの官僚たちは呆然と見守るしかなかった。
曹操は不味いと思ったのか、劉協に自身の護衛を中に入れる許可を貰うと、典韋と許褚を入れ、高景を止めるように顎で指した。
「世子!落ち着かれよ!」
「…」
「離せぇ!」
「それ以上の狼藉は我ら二人がお相手致します!」
そう言うと二人は構えた。高景も構えた。まず典韋が高景と正面で闘い、許褚は横に回る。
高景はいなしながら二人を相手にし、軌道の低い蹴りを放つ。膝裏に何度か当たると、典韋は立てなくなった。その後許褚を相手にし、あっさりと制圧した。
「陛下、殿前での失儀、罪は認めますが、それ以外は認めません。此処は何卒…」
「ふぅ…、お前たち親子は…!もう良い、何も言いたく無いわ!退がれっ!」
「はっ!」
高景は出て行き、宿舎に戻った。
一方、李傕たちの威嚇は日に日に激しくなり、その距離を城門の吊り橋まであと一歩までに迫った。
「明日こそ!皇帝にどうにかさせてやるっ!」
この報せは疾風のごとく各地に伝わり、ついに高順の耳にも届いた。高順は休まずに邯鄲まで辿り着いていた。
「はぁ…、はぁ…、何とかなりそう、か?」高順は馬から降り、息を整えた。
「はっ!」側近がうなずく。
「ならば今日は城に入り一旦休むぞ!」
「はっ!」
邯鄲で一休みし、洛陽までにはまだ千里の道が残っていた。高順は焦りながらも、冷静に状況を分析した。息子の行動、朝廷の対応、李傕らの動向――すべてを計算に入れ、次の一手を考えなければならない。
夜の帳が降りる中、高順は邯鄲の城壁を見上げながら呟いた。「景よ……よくやった。しかしこれからが本当の戦いだ」
その言葉は、遠く離れた洛陽で、宿舎の窓辺に立つ高景にも、届くかのように静かな夜に消えていった。親子の絆と、乱世を生き抜く覚悟が、今、静かに燃え上がろうとしていた。