第三回 華将軍吉凶難測 孫老虎及時退兵
陽人の城壁が視界に入る高台に、高順は馬を止めた。自ら斥候役を買って出て、城壁の様子を窺う。そこには、憎々しげに翻る「孫」の旗が、風に靡いていた。その数、数十本。守備兵の動きも活発だ。
「ふふふ…」
高順の口元が歪んだ。
「敵も、なかなかやるな。完璧に拠点を固めておる」
「将軍!」
背後に控えていた呉資が声を荒げる。
「陽人城、既に敵の手に落ちております!いかがいたしましょう? 急ぎ華将軍に報せを!」
「そう急ぐな」
高順は手を挙げて制した。目は鋭く城壁の上を行き来する兵士たちを追っている。
「華将軍なら…すぐにでも、自ら出撃してくれるだろう。奴らを城から引きずり出すためにな」
「はぁ…」
呉資の顔に一抹の不安が走ったが、高順の確信に満ちた側顔を見て、すぐに頷いた。
「…かしこまりました」
「それよりも」
高順はくるりと馬首を返した。
「伝令を出せ! 各隊長へ! 予定通りの配置につけ! 我ら『陥陣営』の動きは、この戦の鍵を握る! 油断するな!」
「「はっ!!」」
背後に控える配下の兵士たちが一斉に応える。
高順は自身の身体をわずかに動かし、甲冑の重さを感じた。特に上半身を覆う札甲は確固たる防御力を誇るが、動作の制約も大きい。何より不満なのは下半身だ。馬に乗る際の機動性を重視し、腰から下の防御はほとんどないに等しい。太腿を守る「佩楯」と呼ばれる垂れはあるものの、膝下は無防備だ。
(クソ…この構造、どうにかならんのか…?)
高順は歯噛みした。
(どうせこの後も、北の夷狄どもと戦わねばならんのだ…!)
彼の頭には、中国の長く苦しい異民族との戦いの歴史が流れた。すぐ後に訪れる五胡十六国時代は「五胡乱華」とも呼ばれる。秦(漢)、漢(漢)、晋(漢)、隋(胡)、唐(胡)、宋(漢)、元(胡)、明(漢)、清(胡)中華の九つの統一王朝のうち、半分近くが匈奴、羌、氐、鮮卑、蒙古、女真といった北方騎馬民族によって建てられたか、脅かされ続けてきた。この時代を生き抜くには、北方の脅威に耐えうる軍隊、特に騎兵の強化が不可欠だ。高順の胸に、奇妙な使命感が沸き起こる。この体に転生した以上、何かを変えねばならん…。
華雄は、陽人城から約二里の地点で軍を停止させ、見事な布陣を敷いた。彼は指揮官としても確かな力量を持っていた。でなければ、彼を討ち取った孫堅が一躍「江東の虎」としてその名を天下に轟かせ、董卓が慌てて縁談(孫堅の娘を娶らせようとした)を持ちかけることもなかっただろう。演義で関羽の「噛ませ犬」として描かれるのも、あまりに不遇だ。「山東出相、山西出将」(山東は文人の地、山西は武将の地)と言われるが、山西出身の華雄も、武勇のみならず統率力も優れた将だった。
(…なるほど、噛ませ犬扱いしていたが、俺の認識は間違っていたようだな)
高順は遠くに見える華雄軍の整然たる陣形を見て、思わず唸った。
陽人城から、孫堅軍の先鋒が動き出した。城門が開き、騎兵を中心とした部隊が怒涛の勢いで押し寄せてくる。その先頭に立つのは、赤い頭巾を靡かせた、精悍な面持ちの男孫堅その人だ。
「フハハハハハ! 董卓軍の犬ども! 我は江東の孫文台なり! 覚悟せよ!」
華雄は馬上で大きく笑った。
「ケッ! とんでもねぇ阿呆じゃなけりゃ、とんでもねぇ大物だわな! 備えろォォ!」
命令一下、華雄軍は厳然たる防御陣形を敷く。しかし、士気に燃える孫堅軍の突撃は凄まじかった。ここまでの連合軍と董卓軍の戦いは、局地戦に限れば董卓軍が二勝していた。徐栄が滎陽県で曹操、鮑信連合軍を破り、さらに梁県で孫堅をも打ち破っていたのだ。その連勝が、董卓や前線の将に慢心をもたらしていたのかもしれない。
「哀兵必勝」
孫堅軍は、まさにその言葉通りだった。家族を奪われ、郷里を蹂躙された恨みを胸に、兵士たちは死に物狂いで戦った。何度も董卓軍と戦ってきた彼らは、対董卓戦のエキスパートになりつつあった。
「者どもォォ!」
孫堅の声が戦場を駆け抜ける。
「こやつらを打ち破れば、漢に禍をなす国賊董卓の首に届く道が開ける! 殺せぇェェ!」
「「うぉぉぉおおおお!!!」」
孫堅軍の鬨の声が地響きを立てた。
華雄軍三万に対し、孫堅軍は一万。数の上では劣るが、その士気と怒り、練度は圧倒的だった。両軍が激突し、たちまち入り乱れての乱戦となった。
孫堅軍の陣中では、歴戦の副将たちが機敏に動いていた。
「おい徳謀よ、ぬかるなよ?」
黄蓋が笑いながら叫ぶ。
「ああ、万事抜かりはないさ、公覆!」
程普が応じる。
「儂は全軍の采配をする故、左翼は任せたぞ!」
「おお! ってことだな、義公! お前は右だ!」
黄蓋が韓当の肩を叩く。
「ふん、言われるまでも無いわ!」
韓当が槍を構える。
「おいおい、誰も主公の心配をしねぇのかよ?」
黄蓋が呆れたように言う。
程普が嗤った。
「ふっ、今頃は大栄と最前線で暴れておるであろう? 心配無用さ!」
「じゃあ、後でな!」
「「おお!」」
三人の言う通り、孫堅は最愛の部下、祖茂を伴い、自ら先頭に立って突撃していた。
「フハハハハ! どうじゃ、大栄! 董卓軍の兵など、草を刈るが如しだ!」
「主公!」
祖茂が苦笑いしながら、孫堅の側面を守る。
「昨日今日に戦を始めたわけじゃねぇんですから、ちったぁ自重してくださいよ? お一人で突出されると、守りきれませんわ!」
「ぬかせ!」
孫堅の眼光が鋭くなる。
「死んでいった者たちのため、何よりもこの漢王朝のために、董賊は殺さねばならぬ! 退くなァァ!」
「へいへい、分かりやしたよ!」
祖茂は諦めたように大きく息を吐いた。
まるで楽しむかのような孫堅の突撃だったが、彼らにも慌てる時があった。孫家の大公子孫策が、やたらと前線に深入りするためだ。
「親父! 俺、先に行くぜ!」
孫策の若々しい声が響く。彼はわずか十数騎を率いて、敵陣深くに斬り込んでいった。
「伯符! いかん、深入りするでない!」
孫堅が慌てて叫ぶが、孫策の馬は既に遠ざかっていた。
「あーぁ…」
祖茂がため息混じりに首を振る。
「坊ちゃんは主公にそっくりだからなァ…あぁなったら止まらねぇぞ?」
「大栄!」
孫堅の声に切迫感が増す。
「分かってますって! 大公子の様子を見てきやす!」
祖茂は長年培った主従の絆で、孫堅の無言の命令を理
解した。手勢を率いて孫策を追う。
孫策は、その勇猛さと若さゆえの無鉄砲さで、華雄の本陣近くまで迫っていた。
「オラオラオラァ! 音に聞こえた西涼の精兵はこんなもんかァ!? ちったぁ根性見せんかい! 敵将、華雄ォォォ! 出て来いやァァ!」
その挑発に、華雄軍の中央部隊が大きく開いた。そこから悠然と馬を進めてきたのは、巨躯を誇る華雄本人だった。
「ほほぅ?」
華雄は孫策を一瞥し、大きな声で嘲笑った。
「孫堅軍ってのはよほど人が足りてねぇらしいな! こんな童まで戦場に立たせるとはな!」
「やかましいわ! その童にここまでやられて恥ずかしくねぇのかよ!」 孫策は槍を構え、挑むように叫んだ。
両将の一騎打ちが始まった。孫策は十六歳にも満たぬ少年ながら、その武勇は並外れていた。華雄の巨体を生かした重い斬撃を、小柄な体で巧みにかわし、鋭い突きで応酬する。火花が散る。
「ふふ…若いの! やるじゃねぇか!」
華雄は驚きと共に感嘆の声を上げた。自分と互角以上に渡り合える少年など初めてだった。
「ごちゃごちゃ言ってねぇで首、もらうぜ!」
孫策の槍が華雄の鎧をかすめた。
「取りたきゃ、取ってみろ!」
華雄も本気を出した。
数十合が打ち合われる中、孫策の若さゆえの底知れぬ体力がじわじわと華雄を追い詰めていった。孫堅も息子の戦いぶりを遠くから見守っていたが、華雄はもはや孫堅どころではなかった。孫策の猛攻に全神経を集中せざるを得ない。
「もはや…ここまでだ!」
華雄は渾身の力を込めて大刀を振り上げ、孫策の首を刎ねんと構えた。孫堅軍の兵士たちが勝利を確信したその刹那
轟音と共に、一団の騎兵が戦場の横腹を突くように現れた!
「我は呂布帳下、別部司馬の高順なり! 賊軍どもォォ! 今降伏するならば命は助ける! 戦うと言うのならば、我が主、人中の呂布、馬中の赤兎たる呂奉先が、貴様らを塵芥の如く蹴散らしてくれるわァァ!」
高順の部隊が掲げる旗印には、紛れもなく「呂」の文字が躍っていた。その名は天下に轟く。そして、高順部隊の後方には、さらに大規模な軍勢の気配が立ち込めている!
「お、おい…! 呂布が来るなんて聞いてねぇぞ!?」
黄蓋の声が動揺を隠せない。
「公覆、狼狽えるな!」 程普が叱咤するが、その目にも一瞬の不安が走った。
「口から出任せを言っておるだけであろう?」
「徳謀の言う通りよ」
韓当も強がったが、その手は微かに震えていた。
しかし、彼らの不安を裏切るように、高順部隊の後方から、さらに重厚な足音と甲冑の軋む音が響き、砂塵が舞い上がった。それは、大軍が控えていることを示していた。さすがの孫堅も顔色を変えた。
「ハッタリでは…なかったか…!?」
孫堅が歯噛みした。
「全軍! 一旦退けぇェェーい! 態勢を立て直せ!」
高順が華雄救出の機会を窺いながら孫堅軍の主力を釘付けにしていた頃、呂布は胡軫の陣営で一芝居を打っていた。
「胡将軍」
呂布は極力丁寧な口調で、しかし目には冷たい光を宿して言った。
「華雄の先鋒に、我が軍きっての精鋭『陥陣営』とその将高順を付けたので、勝利の疑いはなく、確信できるかと…」
胡軫は椅子の背にもたれ、呂布を見下すような目で見た。
「ほう? よかろう。で? あの『飛将軍』殿がこの儂に話しかけておるのだから、さぞや驚くべき良策があるのだろう?」
呂布のこめかみに青筋が浮かんだが、必死に堪えた。
「…ここで、将軍自らが決定的な一撃を加え、その勝利を相国様に捧げられれば…」
呂布は一瞬間を置いた。「…軍功は間違いなく、並ぶ者なきものとなるでしょうぞ」
胡軫は内心でほくそ笑んだ。
(そんな当たり前のことを、今さらお前に言われたくないわい)
しかし、表向きは満足そうに頷いた。
「うむ、その通りであろうな!」 彼は立ち上がり、大げさに命じた。
「全軍! 前進ン! この胡文才が、江東の病猫どもの首を刎ねてみせるわァァ!」
「フハハハハ! 江東の病猫め! この胡文才様が引導渡しに来てやったぞォォ!」
胡軫の出撃を見届けると、呂布の口元に冷たい笑みが浮かんだ。
(我が計成れり…)
彼はすぐに自軍へと引き返した。形だけでも進軍し、胡軫の出撃を促せば、作戦は成功だ。
一方の高順は、華雄の元へ向かう途中で、韓当と黄蓋という強敵に阻まれていた。
「名のある将と見た! この黄公覆がお相手致す!」 黄蓋が大きな戟を構えて立ち塞がる。
「おい! 公覆、それは俺の獲物だ!」
韓当が槍を突き出して割って入る。
「ふん! ならば、討ち取るまでよ! おい! 俺は韓義公ってんだ! そっちも名乗れよ!」
韓当が高順を睨みつける。
「貴様らに名乗る名など無い! そこをどけぇ!」
高順は怒声を上げ、槍を振るったが、二人は手強い。黄蓋の戟は重く、韓当の槍は速い。高順は守勢に回らざるを得なかった。
「大将、危ねぇ!」
張五が間一髪で飛び込み、韓当の槍を払った。
「ケッ! 敵もなかなかやるねぇ〜…」
張五が笑いながら盾を構える。
「張五! あいつらは無視だ! 華将軍の元へ急ぐぞ!」
高順は二人をかわし、敵兵を薙ぎ払いながら華雄のいる戦場の中心へと突き進もうとした。
その時、一人の若武者が高順の行く手を阻んだ。黒髪を逆立てたような奔放な髪型に、鋭い眼光。手には長い矛。
「おい! そこのてめぇ! この孫伯符の相手になれ!」
(なんだこいつ…カラスの巣みたいな頭の不良か? 孫伯符…小覇王だな! この時代から、既に完成形か…!)
「小童ぁ!」
高順は槍を構え、睨みつけた。
「戦場に出てきた勇気は褒めてやろう! だが、挑む相手を間違えたな! ここは退いておけ!」
「うるせぇ、来たからにはその首、胴と離れてもらうぜ?」
孫策は笑いながら、馬を蹴って突撃してきた。
矛と槍が激しく交差した!
「ッ!」「ぐっ!」
孫策の腕に鮮血が迸る。高順の頬もかすめられ、血の筋が流れた。これは高順の意思ではなく、転生した体に刻まれた戦士の本能が反応した結果だった。
「ふふふ…ははは!」
高順は血の気の引く痛みをものともせず、高らかに笑った。
「孫文台! 良き子を持たれたなァ!」
「ふっ!」
孫堅がすぐ後ろに現れた。その目は孫策の傷を見て一瞬険しくなったが、高順への嘲笑は変わらない。
「虎が猫を産むと思うか?」
(おいおい…それお前んとこの次男坊が関羽にディスられる時に使うセリフだろ…まあ犬って言ってたけどな…)
高順は内心でツッコミつつ、槍を収めた。
「まあ良い! どうだね、孫文台?」
高順は意図的に声を大きくした。
「ここは一騎打ちと行こうじゃないか! 勝負つけようぞ!」
孫堅の目が一瞬輝いた。
「その話乗った! 大栄! 皆に伝えとけ! 手を出すなってな!」
「あーぁ! また主公の病気が始まったよ!」
祖茂は呆れながらも、すぐに周囲の兵士たちに指示を飛ばした。
「へいへい、行ってきやすよ! 大公子、行きますよ! 皆、退け!」
「お、おう!」
孫策は不満そうだったが、父の命令と祖茂に引かれ、仕方なく退いた。
周囲の兵士たちが一歩引き、二人の将だけが残る空間ができた。高順と孫堅は馬を並べて進み、互いに槍を構えた。しかし、次の瞬間、高順は声を潜めて呟いた。
「孫文台、聞け。小声でな」
孫堅の眉が動いた。
「何じゃ? 遺言なら遅いぞ?」
「そうではない」
高順の目が真剣に孫堅を見据えた。
「この戦は…もはや我々の負けだ」
孫堅の目が鋭く光る。
「ふん、この俺に退けと?」
「むしろ、お主とは互いに死力を尽くすほどに戦いたい」
高順は言葉を選んだ。
「だが、いかんせん…我が主がそれを許さぬ故にな」
「ほう?」
孫堅は一瞬、高順の言葉の真意を測るように見つめた。
「その気概は買うが…呑めんな」
「それと」
高順はさらに詰め寄る。
「お前たちの討董諸侯の連合軍など…足を引っ張り合うだけの烏合の衆ぞ?」
孫堅の表情がわずかに曇った。
「お主がここで手柄を立てた所で…」
高順は続ける。
「あの袁術が何もしないと言うのか? むしろ、お主は袁術にとって都合の良い『先鋒将軍』でしかないぞ? 手柄は奪い、兵糧は送らぬ…そのくせ、お主が窮地に陥れば見殺しにする。そういう男だ」
孫堅の口元がわずかに歪んだ。高順の言うことは、袁術の性格を考えれば十分にあり得る話だった。
「…一理ある話だが」
孫堅は低く唸った。
「どうすればいい?」
「退くと見せかけて…胡軫と当たれ」
高順は核心を突いた。
「胡軫を討ち取れ。それ以外の者には…手を出すな」
「この俺がお前を信じる理由は?」
孫堅の目が疑いを宿した。
「敵同士だぞ?」
「ケッ!」
高順は嘲笑した。
「全く分かっちゃいねぇな! ここで董卓が倒れたとしても…袁紹、袁術兄弟が利権を争い、ひいては諸侯がそれに付随して争うだけだ! その中で、お主はどう天下を謀る? 単なる袁術の手駒で終わる気か? 天下に名を轟かせた江東の猛虎孫文台が、袁術の猿ごときに扱き使われて終わると思うのか?」
孫堅は沈黙した。目を閉じ、僅か数秒だが、長い思考を巡らせた。高順の言葉には、彼が心の奥底で感じていた懸念や野心に触れるものがあった。そして、開いた目には決意が宿っていた。
「相…分かった!」 孫堅は大きく頷いた。
「今日のところは、互いに引こう!」
二人は同時に武器を収め、距離を取って後退した。兵士たちは呆然とそれを見つめるしかなかった。
「高順! 今日のところは決着がつかなかったな!」
孫堅はわざとらしく大声で叫んだ。
「次こそ覚えておれ!」
「ふん! 江東の猛虎がどんなものかと思えばこの程度か!」
高順も負けじと応酬した。
「次は無い! 必ずや貴様の首を、我が主呂奉先に捧げてみせるわ!」
虚勢を張り合いながら、両将はそれぞれの本陣へと戻っていった。孫堅は直ちに自軍の再編と、胡軫本隊に向けた新たな布陣を命じた。高順はほっと一息つくと、主君呂布の元へと急いだ。次こそ、計画通りに事を運べるはずだ。
「将軍!」
高順は呂布の馬前で手綱を引いた。
「頃合いにございますぞ! 胡軫は自ら出陣し、孫堅は胡軫本隊に矛先を向け始めました! 某は、胡将軍と直接話す立場にござらぬ故…」
「分かった」
呂布の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
「儂が行く」
呂布は愛馬赤兎を蹴り、胡軫がいる前線へと一直線に駆け出した。胡軫は自軍を率い、孫堅軍の一部隊と乱戦を繰り広げている最中だった。
「胡将軍!」
呂布の声が雷鳴のように響いた。
「戦は大詰め! 今こそ全軍に号令を! 総大将としての決断を!」
胡軫は振り返り、呂布を見た。その目には、手柄を独り占めにしたいという欲と、呂布の言葉に乗せられた高揚感が混ざっていた。
「ほう? よかろう!」
胡軫は得意げに胸を張った。
「子建、呂将軍! 見ておれ! 我が西涼鉄騎の武威をァァ!」
「はっ!」
華雄が応える。
胡軫は自ら先頭に立ち、より深く乱戦の渦中へと突入していった。その背中を見送りながら、呂布と高順は目配せを交わした。
「将軍!」
高順が促す。
「今こそ相国様の元へ! この敗戦の報告と、今後の策を申し述べるべき時!」
「よかろう!」
呂布は即座に頷いた。
「我が軍は引くぞ! 高順、華雄を連れて参れ!」
「承知!」
高順は馬を走らせ、ようやく華雄の元に辿り着いた。華雄は胡軫の突撃を見て、加勢しようとしていた。
「華将軍! 引き上げましょう!」
「けど、文才殿が!」
「それは某からお話いたしましょう!」
高順は華雄の手綱を掴み、引くように促した。
「此度の敗戦の原因は、胡将軍の驕りにございます! 彼は華将軍を敵の手で葬り、自らの地位を固めようと企んでおり申した! 故に某は…逆に胡将軍を孫文台の手で葬るように謀ったのです!」
華雄の目が大きく見開かれた。
「…! そうだったのか…! 礼を言う、高順…!」
「敗戦には、責任を取る『英雄』が必要です」 高順は重々しく言った。「そして、次の戦いには、生き残った真の勇者が求められます。それが貴殿ですぞ」
「…分かった」
華雄は深く頷き、決断した。
「では引き上げるぞ! 全軍、撤退ィ!」
胡軫とその直属部隊を混乱する戦場に残し、呂布軍と華雄の生き残った部隊は整然と撤退を開始した。目的地は梁県。董卓本軍との合流地点だ。撤退途中、高順は呂布に献策した。
「将軍、敵の追撃を防ぐため、ここで伏兵を置くべきかと。五千ほどの兵があれば…」
「よかろう」 呂布は即座に承諾した。
「五千を与える。高順、その任を担え。追撃する孫堅軍を食い止め、我らが梁県に無事到着する時間を稼ぐのだ」
「はっ! お任せください!」
高順は配下の六人の百人長と共に、五千の兵を率いて撤退路沿いの丘陵地帯に潜んだ。兵士たちは息を潜め、追撃してくる敵を待ち構えていた。そこへ、別の一隊が西から近づいてくる気配があった。高順は警戒しつつ、単騎で前に出た。
「某は、騎都尉呂布様麾下、別部司馬の高順と申します! どちら様でしょうか?」
その部隊の先頭に立つ男は、重厚な甲冑を纏い、眼光の鋭い壮年の将だった。その顔には、狡猾さと武勇が奇妙に混ざり合った威圧感があった。
「ほう?」
その将は高順を一瞥し、興味深そうに尋ねた。
「これはこれは、なぜここに伏兵を? 陽人の戦いはどうなった?」
「はっ!」
高順は拱手した。
「胡文才将軍は討ち死に、我らは敵の追撃を防ぐためにここで兵を伏せ、防ごうとしております」
「そうか…」
将は深く頷いた。「儂は李傕、李稚然だ」
(ああ…ミスター・オカルトか…できれば会いたくなかったな…)
高順は内心で舌打ちした。李傕は董卓の腹心にして、最精鋭「飛熊軍」を率いる勇将。指揮官としての能力は呂布にも劣らず、占いや巫術を深く信奉する危険な男としても知られていた。
「して、李公はここで何を?」
高順が尋ねた。
「うむ」
李傕は得意げに胸を張った。「相国様の命によりな。孫文台と縁組(董卓の孫娘を孫権の正室に迎えること)を提案すべく、使者として出向いておるのだ」
「左様でございますか…」
高順は一瞬間を置き、意図的に憂慮した表情を浮かべた。
「もし…孫文台がこれを断られたら…いかがなされますか?」
李傕は不意を突かれたように眉をひそめた。
「うーむ…それは…また考えるわい」
(さてはお前…何も考えてないな? よし、ここは俺が献策してやろう!)
「…孫文台の性格からして、断られる公算が高いかと…」
高順は慎重に言葉を続けた。
「…故に、直ちに戦の支度に取り掛かるべきかと存じます」
「ではどうせよと?」
李傕の目が鋭くなる。
「敵はおそらく…」 高順は地図を広げる素振りをした。「北は河内(王匡、袁紹)、東は酸棗(袁紹、曹操ら主力)、南は陽人(孫堅)の三方面より、洛陽へと攻め上がることになるでしょう」
「では…軍を二分して対処すると?」
「その通りでございます!」
高順は力強く頷いた。
「北と東を一手に防ぐのは困難。それぞれに有力な将を配し、迎え撃つべきです」
李傕は暫し考え込んだが、やがて大きく頷いた。
「うむ、分かった。相国様にその旨、進言しよう」
「申し訳ござらぬが…」
高順はさらに一歩踏み込み、深く頭を下げた。
「どうか相国様の前で…某のこの献策を、李公ご自身の見識としてお伝えいただけませんでしょうか? 某のような身分の者の名が出るのは…何かと憚られます故…」
李傕の顔に、高順の思惑を見透かしたような、しかし満足げな笑みが広がった。
「フハハハハ! 分かっておる! 安心致せ、高孝父!」
李傕は高順の肩を叩いた。
「貴殿の功績は、この李稚然がきっちり相国様に伝えておくわ! 恩に着ろ!」
「ははっ! ありがとうございます!」
高順は心底安堵のため息をついた。
(こうでもしねぇと、数年後にはあの曹操に処刑されちまう…!)
高順は李傕の部隊が遠ざかるのを見つめながら、心の中で強く思った。
(それに…仕えるべき主を間違えたら、忠義なんて絵に描いた餅だ…! 生き延びなければ、何も始まらん…!)
梁県への道を進む呂布軍の背後で、高順率いる伏兵は、迫り来る孫堅軍の追撃の気配を感じつつ、静かに時を待っていた。陽人の戦いは敗れたが、高順にとっての真の戦いは、ようやく始まったばかりだった。
呂布と胡軫の仲が悪いというよりも胡軫は董卓軍全体に嫌われてます。史実だと呂布にうその情報を流されて敗戦を喫したといいます。孫堅の軍は当時の中国全土にまたがけてその勇名を馳せています味方のウソと当時最強クラスの戦闘部隊に囲まれては負けて当然の戦いです。