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第二十三回 三人行必有我師 一意孤行人心離

第二十三回 三人行必有我師 一意孤行人心離


時は後漢末期、乱世の只中。冀州の中心地、鄴城の近郊に、一人の武将が佇んでいた。その名は高順。表向きは漢朝に仕える鎮北将軍であり、冀州、青州、幽州、并州の四州を実質的に統治する実力者である。しかし、その魂は遙か未来より転生した異世界のものだった。


「ちっ、面倒なことになったな…」


彼がそう呟くには理由があった。本来の歴史を知る者として、この時代の流れを大きく変え、ある程度の安定をもたらしてきたつもりだった。しかし、彼と同じく未来から転生したという竇輔という男が、己の野望のために暗躍を始めたのだ。


数日前、許昌の朝廷にて。


高順は皇帝からの謁見を受けたばかりであった。


政殿に入り、皆と異民族が大同団結して押し寄せた事への審議をする様に陛下の勅使に呼ばれたからだ。


「高卿、其方はどうしたらよいと思う?」


玉座から聞こえる皇帝の声は、未だ幼さを残しながらも、わずかに緊張を帯びていた。


高順は深々と頭を下げて答える。


「はっ、臣が兵を動かし、民を戦乱の渦に巻き込んだことは重々承知しております。然れども、北方の安定は臣と臣の幕僚たちの手によってもたらされたものでございます。故に、戦を興した罪を認め、一時的に職を退く処置が最も妥当かと存じます…」


すると皇帝は、わずかに笑みを浮かべて問い返した。


「では、聞こう。卿は、各地に割拠する諸侯たちと、何が違うというのか?」


「はて? 諸侯とは?」


高順はわざとぼけたように首を傾げる。


「不敬罪に処すことも可能ぞ?」


皇帝の口調が少し硬くなる。


「恐れ入ります。臣は、袁紹や袁術の如く、己の手で天下を牛耳れるほどの自信は持ち合わせておりません。さらに申し上げれば、陛下に敵対して天下を取れるなどという傲慢な思い上がりも、微塵も持ち合わせてはおりませぬ」


これが高順の偽らざる本心であった。未来人の知識はあるが、元はごく普通の人間。転生以来、死線をくぐり抜け、戦い続けてきた結果、まぐれで名将と呼ばれるまでにはなったが、本来の望みは平穏な生活だった。


「そうか。ならば、大将軍の叛乱を防いだ功績も褒めてやらねばならぬな」


(ちっ、嫌味か?)


高順は内心咂舌した。ならば、とことんまで謙遜してやろう。


「臣としては当然のことをしたまでで、殊更に賞されるような功績など御座いませぬ」


「ハハハハ! 実に謙虚よな! ならば、今後、卿には『開府儀同三司』と『聴宣不聴調』(皇帝といえども高順の任地や職権を簡単には変更できない特権)の権限を与える。同時に、北方諸軍事の総指揮権と、『仮節鉞』(皇帝に代わって軍令を発し、便宜的に刑罰を行う権利)も与える」


玉璽の音が響く。朝廷に居並ぶ百官からは、驚きと戸惑いの声が漏れた。これほどの権限を一武将に与えるのは前代未聞である。伏完や董承ら保守派の重臣たちも、内心では不快ながらも、高順の軍事的影響力を無視できず、渋々同意せざるを得なかった。特に曹操が兗州、豫州、司隷を押さえ、高順と微妙な協力関係にある現在、朝廷内で高順に逆らえる勢力は皆無に等しかった。


高順は静かに頭を下げた。


「臣、謹んで拝命いたします」


「うむ、速やかに北に帰り、辺境の安定に努めるが良い」


「はっ!」


(よし、これで北に帰れる!)


高順は内心ほくそ笑んだ。厄介な朝廷での政争から一時的に解放され、本来の任務である北方の守りに集中できる。しかし、その安堵もつかの間、次の災厄は既に動き始めていた。


主を戦場に送り出した鄴城の鎮北将軍府邸。その平穏は、一枚の薄絹のように、いつ破れるかわからない緊張感に覆われていた。それぞれの妻たちは、夫の無事を祈りながらも、それぞれの方法でこの不安と向き合い、家を守り、子どもたちを見守っていた。


夜更け、子どもたちが眠りについた後、蔡琰は一人、書斎で机に向かっていた。彼女の前に広げられていたのは、北方の地理や異民族の習俗について記された書簡や、父蔡邕が残した歴史書の写しだった。


(…公孫度、高句麗。その背後にいるという竇輔。彼らが何を求め、どう動くのか。父が語っていた歴史の教訓に、類似の事例はなかったか…)


彼女は才女としての知性を駆使し、夫が直面しているかもしれない危機を、文献から推し量ろうとしていた。琴の音色は人心を鎮めるが、彼女自身の内心の焦りを完全に消し去ることはできなかった。ふと、隣室で眠る息子たち高景と高輝の寝息が聞こえる。特に長男景は、父に似て責任感が強く、無理をしすぎはしないかと心配になる。


「…順様、どうかご無事で」


彼女は懐中から、高順が出征前に密かに渡したという、小さな護符を取り出し、そっと握りしめた。彼女の祈りは、静謐でありながら、芯の強い意志に満ちていた。


一方、董媛はというと、その不安をまったく別の形で表していた。昼間は子どもたちの前で明るく振る舞い、高昭を庭で相手にして槍術の基本を教えたりもした。しかし、夜になると、時折、誰にも聞こえぬように咥えるようにして呟くのだった。


「ちっ、また戦か…父上の時もそうだった。男どもはなぜ、話で解決できんのだ?」


彼女の心には、父董卓が権力の頂点から転落し、最期を遂げた記憶が深く刻まれていた。武力による支配の脆さ、そして世間の冷たい目を、誰よりも知っている。夫高順は父とは違う。民を思い、家族を大切にする男だ。だからこそ、失いたくないという焦燥感が、時として荒々しい口調となって表れた。


ある日、高婉が「お母様、お祖父様ってどんな方だったの?」と無邪気に尋ねた。董媛ははっとし、少し間を置いてから、「…強い人だったよ。でもね、婉、強さだけじゃだめなんだ。その強さを、何のために使うかが大事なんだ」と、いつになく真剣な表情で答えた。その言葉は、亡き父への複雑な想いと、夫への願いが入り混じったものだった。


呂芳は、蔡琰の知性や董媛の強さとはまた違う形で、この家を支えていた。彼女はかつて、実弟呂布が天下無双の武将として名を馳せていく過程を見てきた。


華々しい戦場の話よりも、そこに至るまでの日常や、人々の細やかな心の動きこそが大事だと痛感していた。


彼女は、蔡琰が書斎に籠もりっきりなのを見て、わざとお茶と軽い菓子を用意して訪ねた。 「文姫様、少しお休みになりませんか?お身体が大事ですよ」 そして、蔡琰が疲れた顔を上げると、「子どもたちは、皆さんしっかりされています。景様は立派に兄の役目を果たし、昭様だって、媛様の言うことなら素直に聞いています」と、さりげなく安心させる言葉をかける。


また、董媛がやや興奮気味に戦の話をしている時は、「媛様、お声が少しお大きいようですよ。輝様や鴻様が起きてしまいます」と、穏やかながらも確かにブレーキをかけた。彼女自身、血の繋がらない高順の子たちを、我が子同然に愛していた。高鴻はまだ赤子だが、彼女の腕の中で最も安心したように眠るのだった。


そんな母親たちの想いを、子どもたちも無意識のうちに感じ取っていた。


長男の高景は、父の不在をひときわ強く意識し、自ら進んで学問と武芸の鍛錬に励んだ。時折、父の護衛である錦衣衛に、遠慮がちに北方の情勢を尋ねることもあった。その目は、少年のそれというより、すでに将来の将軍のそれを帯び始めていた。


次男の高昭は、その反発心や奔放さを少しだけ収めていた。母董媛が時折見せる険しい表情や、蔡琰の心配げな眼差しを、敏感に感じ取っているようだった。相変わらず庭で木刀を振り回してはいるが、弟の高輝が近づいてきたらわざと振るのをやめるなど、わずかながらも気遣いを見せるようになっていた。


幼い高輝と高鴻は、まだ状況を深く理解できぬながらも、館の中のどこかピンと張り詰めた空気を感じているのか、以前より少しおとなしくしていた。 高婉と高娟は、母蔡琰の琴の音に耳を傾け、その音色に宿る祈りのようなものを、少女ながら感じ取っているようだった。


ある夕暮れ、一家がそろって食事をとっている時、遠くから聞こえる馬蹄の音に、皆がはっと顔を上げたことがあった。それはたまたま通りかかった伝令の馬だったが、一瞬にして膳の上の空気が凍りついた。


次の瞬間、董媛がわざとらしく大きな笑い声をあげた。


「ははは!驚いたな! みんな、びくびくするんじゃない! あのバカ旦那が、たかが異民族ごときに負けるわけがあるめえが!」


その言葉に、呂芳が静かにうなずき、蔡琰はほっとしたように微笑んだ。


高景は「もちろんです!」と強く言い、高昭は「…当たり前だよ」と照れくさそうに呟いた。そして、幼い子どもたちも、なぜだかほっとした顔で食事を再開したのだった。


彼らは皆、それぞれの形で不安を抱えながらも、互いを気遣い、支え合うことで、一枚岩となってこの難局を乗り越えようとしていた。高順が守りたいと願った平穏な日常は、決して脆いものではなく、家族の絆という強固な土台の上に築かれていることを、彼らは静かに、そして力強く証明していた。


許昌を発ち、北へ向かう道中。高順の軍列は、ぼろぼろの衣服をまとった大量の難民の群れと行き交った。彼らは皆、疲弊し切った顔をして南へ逃げてくるのだ。


「もしそこのご老人、少しばかりお時間をいただけないか?」


高順が声をかけたのは、家族らしき者を連えた一人の老翁だった。


「はて? ワシらような百姓に、何の用でござんすかな?」


「道中、足を止めさせて申し訳ない。少しお聞きしたいことがありまして…。明らかに北からおいでですが、一体何事が?」


「おお〜、戦じゃよ、戦! 異民族の連中がな、突然押し寄せてきよった! 儂ら、住み慣れた家と土地を失うてしもうたんじゃ…!」


「それは驚いた。北の地は、高順将軍が治め、異民族とも一定の和を保って安泰していると聞いていたが?」


「へん! 役人様のそんな綺麗事なんて、知るかいな! オイラ達はただ普通に暮らしていただけじゃ! なのに、ある日突然、公孫様の軍とやらが、異民族を先頭に乱暴狼藉を働きよる! おっ父は…、お頭は抵抗しようとして、殺されちまったんじゃあ!」


子供の目から涙がこぼれ落ちる。


「公孫…とおっしゃったか?」


高順の脳裏に、ひとりの人物が閃く。遼東の雄、公孫度だ。公孫瓚とは別系統の公孫氏である。高順はこれまで、彼ら遼東公孫氏には直接手を出さず、むしろ緩衝地帯として利用してきた。その公孫度が動いたのか。


「そうか…。では、どちらへお向かいになるのだ?」


「陳留の辺りに、遠い親戚がおるんじゃとてのぅ…。そこで一からやり直すしかあるまい」


「陳留はまだ遠い。ならば、せめてもの礼と言ってはなんだが、この札を受け取ってください。洛陽へ向かい、この札を見せれば、一時的な宿泊と食料の手配をしてくれるでしょう」


高順は懐から、鎮北将軍府の印が押された木札を取り出した。


「こ、これは…?! とんでもない貴重なものを!」


「どうか気になさらずに。私はこれから北に向かい、事態を詳しく調べ、この無念を晴らします」


高順は側近の錦衣衛の一人に、難民の世話を命じた。老翁は涙ながらに何度も礼を言い、去っていった。


高順の表情は険しくなっていた。


(公孫度か…。だが、彼だけが動くとは思えん。背後に、黒幕がいるはずだ。そう、あの男だ…竇輔めが)


鄴城に到着する前日、日が暮れたため野営を張った。その時、早馬が駆けつけた。


「将軍! 張五将軍より、火急の報せが届きました!」


「うむ、いいだろう。読め」


「『遼東の公孫度、高句麗軍と合流し、幽州に侵攻す。北平の肥如にて徐栄、張遼両将軍が防戦中なるも、敵勢熾烈にして苦戦続く』とのことです!」


「…やはりな。想定内だ」


高順は冷静にうなずいた。


「将軍、既にご存じだったのですか?!」


「うむ。あの難民の話から、ほぼ確信していた」


翌日、鄴城に入城した高順は、早速軍議を開いた。


広間には、顔なじみの将軍や幕僚たちが集まっている。張郃、徐栄、張遼、田豊、沮授ら錚々たる面子だ。


「敵は公孫度と高句麗の連合軍! 遼東から幽州にかけて我が領土を侵し、民を苦しめている! 許すわけにはいかぬ!」


豪将ばりの風貌の張郃が拳を振り下ろして主張する。


「将軍! 敵の蛮行は看過できません! どうか大軍をもって一気に殲滅を図りましょう! 長期戦は兵も民も疲弊します!」


しかし、それを制止するように、参謀の田豊が口を開いた。


「張郃将軍、お気持ちはわかります。ですが、我が軍の最大動員兵力は五十万、総兵力は二百五十万とはいえ、一度に動かせば兵糧や物資の消費は莫大です。財政を逼迫させ、民に過度の負担を強いる長期戦は避けるべきです。短期決戦に持ち込むべきでしょう」


「何を悠長な! 敵の勢いを断つには、根こそぎやるに限る!」


「無駄な戦費をかけてまで、殲滅する必要がどこにありますか! 兵站を考えよ!」


将軍派と参謀派の意見が真っ向から対立し、軍議は平行線を辿った。皆の視線が自然と中央に座する高順に集まる。


「…将軍。いかがなされますおつもりですか?」


田豊が代表して問う。


「ん? ああ、俺か?」


高順はぼんやりしていたように見せて、ゆっくりと立ち上がった。


「まずは、敵の正確な情勢だ。敵が誰で、何を目的としているのか。それがわからぬまま大軍を動かすのは無策というものよ」


高順は続けた。


「儁乂、お前は冀州と青州の守りを固めろ。張繍とよく連携せよ。文遠は既に援軍として向かっているな?」


「はい! 張遼将軍は先日、援軍を率いて北平へ向かいました」


副官が答える。


「そうか…。よし、わかった」


高順は深く息を吸った。


「兵を出さぬわけではない。だが、敵の正体を見極めてからだ。相手が朝鮮半島に巣食う野犬なのか、それとも草原を駆ける駿馬なのかで、狩り方は違うだろう?」


「それはどういう?」


「野犬ならば害をなす前に殺す。駿馬ならば、手綱を取って飼い慣らす。それだけの事さ」


場内が静まり返る。高順の言葉の真意を測りかねている。


「全軍、幽州方面に向けて準備せよ! そして孟徳には伝令を出せ! 『いつまでも中原のゴロツキどもと遊んでいないで、北境の警戒を強化しろ』とね!」


「はっ!」


かくして、高順の命令一下、漢朝北方の巨大な軍事マシンが動き始めた。総兵力二百五十万のうち、五十万もの動員可能兵力が、国境線である長城沿いに展開され始める。高順自身は数万の精鋭を率い、幽州の前線へと急行した。


前線の肥如では、徐栄と張遼が善戦していたが、士気の差と物量の差は埋めがたく、じりじりと押されていた。敵の戦術や陣形は、どこか既存のものとは違う、合理的で狡猾なものだった。


「ぬぅ…! 文遠、こうは持って行かれようとはのぅ…!」 老将、徐栄が歯ぎしりする。


「どうにもなりませんか…」 張遼も苦渋の表情を浮かべる。


「あの公孫度は、儂の旧知の間柄じゃ。理由もなく戦を仕掛けるような軽率な男ではなかったはずじゃが…! 何故こんなことに!」


「時が経てば、人の心も変わるものと申します」


「…、余計な事を言うな」 徐栄はプライドを傷つけられたように呟いた。


張遼も徐栄の心中は察していた。個人的な親交はあるが、今は戦場だ。感情に流されてはならない。そう判断し、両将は高順本体への援軍要請を決断していた。


その時、陣営外から馬蹄の轟音と共に興奮した報告が届いた。


「報、報告致します!」


「入れ!」


「張燕、呼廚泉、曹性の三名の将軍様が、先鋒として到着されました! 高順将軍本隊も、順次到迎される模様です!」


「兵数はどれほどだ?」


「はっ! 先に到着された三者だけで五十万! 後に百五十万の本隊が控えております!」


「な、なんと…! まさか全軍総出ではあるまいな!?」


徐栄は目を見開いた。


「…」


張遼も息を飲んだ。これほどの大軍を動かすとは、さすがに高順将軍も本気である。


間もなく、張燕、呼廚泉、曹性の三人が幕舎に入ってきた。真っ先に口を開いたのは、元黒山賊の頭目で、今は高順麾下の将軍となった張燕だった。


「いやぁ〜、お二人さん! 随分とやってるねぇ〜、ひでぇやられ様だね、この状況は!」


「…、飛燕、その口の利き方は慎まんか!」


張遼がたしなめる。


「構わん、良いのだ」


徐栄は大きく手を振った。


「あの野盗上がりの軽口には、もう慣れておる」


「さすがは徐将軍! 懐が深いねぇ〜! ハハハ!」


「ふん! 冷やかしはそれまでだ。で、状況は?」


「冷やかしぃ〜? これが事実だろ? おい、見てみなよこの有様よ! 無様に負けちゃって、旦那に顔向けできんのじゃねぇのか? えぇ?」


「喧しいぞ小僧! 儂らがどのように戦ってきたか、お前ごときが知ったことか!」


「お前ら全員、煩いぞっ!」


突然、雷のような怒声が幕舎に響き渡った。入り口に、征塵にまみれた高順の姿が現れている。


「ご、ご無礼致しました! 旦那…!」


「ふん!」


徐栄は跪いて深く頭を下げた。


「将軍! 此度の敗戦、この徐栄に非が御座います! どうか厳罰を!」


高順は徐栄を見下ろし、静かに言った。


「うむ、確かに其の罪は重いな。ならば、罰として兵二十万を与える。其れを持って、鮮卑の動向を監視し、機を見て侵攻してくる連中を撃退せよ。失敗を取り返すが良い」


「はっ! 御寛大な処置、有難うございます!」


生真面目な職人気質の徐栄は、失敗を挽回する機会を与えられたことに、涙すら浮かべて感謝した。


「文遠、お前は副将として徐栄に付き従え」


「承知いたしました!」


「ところで将軍、本隊の到着が予想より早すぎませんか?」


張遼が疑問を呈する。


「ふん! 朝廷の目を欺くために、コソコソと分隊を先行させて来たまでのことよ! 大事なのは、敵の正体だ。掴んだか?」


「はい! 敵は、遼東の公孫度と、その背後にいる高句麗の附馬となった竇輔なる者です!」


「ほう? 高句麗もよくまあ、あの男を仕えさせたものよ」


高順は冷ややかに笑った。


「何でも、高句麗の大公主の気を惹き、そのまま附馬に収まったそうですぜ? それでいて、宮中で大きな権力を握っているらしい」


張燕が情報を付け加える。


「ほう? 随分と詳しいな?」


「儂らも、ただ戦ってばかりじゃあいられねぇからな。外の情勢には気を配ってたもんでね!」


「流石は元野盗、情報収集はお手の物だな!」


高順は笑い、張燕の肩を叩いた。


「「ハハハハハッ!」」


幕舎内に笑い声が響き、一時的にではあるが、緊迫した空気が和らいだ。


一方、その報せは瞬く間に敵陣にも伝わった。高順自らが大軍を率いて到来したという知らせに、竇輔は仰天した。


(クソッ! なぜだ!? なぜあのチョッパリが、こんなに早く来るのだ!? 漢の都、許昌から幽州までは相当な距離があるはずだ! ええい、ならば仕方あるまい! 戦ってやる! 我が大朝鮮帝国の偉大なる復興のためにも!)


竇輔はそう叫ぶと、直ちに全軍の前に立ち、声を張り上げて演説を始めた。


「将兵諸君らよ! 我らが高句麗は、今、滅亡の危機に瀕している! 漢の将軍、高順という男は、兵二百萬もの私兵を養い、朝廷への叛逆を企てている! その兵糧が尽きれば、次は我が豊かな高句麗の地を虎視眈々と狙っているに違いない! 将兵らよ! 我が国が漢の属国として滅び去るのを、諸君は耐え忍ぶことができようか!?」


「「否っ!!!」」


兵士たちの怒号が上がる。


これを聞いた高句麗の山上王は複雑な表情を浮かべた。婿である竇輔の勢いには疑問を感じつつも、今の民衆と兵の熱狂を止めるすべはなかった。


高順は密かに張五を呼び出し、高句麗国内の情勢探りを命じていた。そして、ある情報を掴む。


(竇輔は附馬となった後、急速に権勢を強め、先王の兄である岐発という人物を追い落として丞相の如き振る舞いをしているとか…。ふむ、この岐発を味方に引き入れ、内部から崩すことができれば、この戦いは有利に運べるかもしれん)


高順はすぐさま、曹操宛てに密書をしたためた。


『賢兄孟徳如晤 此の戦、元漢内閣補臣なる竇輔、謀り事を以て高句麗公主に娶り、其の国の附馬と為る。 高句麗を唆し我が漢を侵略せしむ。弟が意とするところは、家を保ち国を為さんと発兵せざるを得ず。 兄は乃ち内閣補臣、望むらくは公を秉り処断し、決して弟が兵を窮め武を涜き兵を興し戦を好むに非ざるを絶たんことを。 愚弟 高順 頓首』


(孟徳兄者へ。この度の戦いは、元漢朝臣の竇輔が策略で高句麗の王女と結婚し、附馬となり、高句麗を唆して我が漢を侵略したことが原因です。弟である私は、国と家を守るために出兵せざるを得ません。兄者は朝廷の重臣です。どうか公明正大な判断を下し、弟がむやみに戦争を好んでいるのではないということを、朝廷内外に理解させてください。愚弟 高順 より)


この書簡により、朝廷内、特に伏完や董承ら保守派の理解を得やすくし、後方の安定と補給路の安全を図ろうとしたのだ。国家間の問題となれば、朝廷の正式な承認が必要であり、政治と軍事の両方に理解のある曹操の協力が不可欠だった。


さて、準備は整った。


「全軍、付近の山岳地帯に布陣せよ!」


高順は命令を下した。


(竇輔め、お前の手口はだいたい読んでいる。現代の軍事知識に基づいたゲリラ戦や兵站破壊を仕掛けて来るだろう。だが、この広大な土地と時代において、その戦術がどこまで通用するか、見物だ。こちらの補給線さえ堅固にしておけば、こちらの圧倒的な物量の前に、いずれ持久力が続くまい)


「呉資、章誑!」


「「此処に!」」


「お前たちは張亮と共に、糧道の警護と巡回を強化せよ。大規模な戦いはないと思うが、補給は我が軍の命綱だ。随意に判断して戦え!」


「「はっ!」」


「それと、張五! 少しいいか?」


高順は声を潜めて続けた。


「岐発という男が今、どこにいるのか、詳しく探って来い。絶対に味方に引き入れる。それが今回の戦の鍵だ」


「へい、お任せあれ!」


張五は翳のように消え去った。


こうして高順軍は陣地構築と偵察を続けていたが、ある日、予想外の人物たちが訪ねてきた。曹操と劉備である。


「孟徳!? まさか貴様が自ら来るとは!」


「高将軍、久しぶりだな」


曹操は飄々と笑っている。


その背後には、関羽、張飛を従えた劉備の姿もある。


「なんでぇ、シケたツラしやがって! 俺様が来たからにゃあ、敵共を蹴散らしてやるから、ちゃんと案内しな!」


張飛がわめいている。


「雲長、益徳、大人しくせい」


劉備がたしなめるが、その表情は硬い。


「…! お前ら、どういうつもりだ? まさか手討ちに来たのか?」 高順は苦笑した。


「将軍、将軍はご存じないのですか! この逆賊が何をしたかを!」


劉備の声には怒りが滲んでいた。


「玄徳兄、一体何があったのです? 漢室の復興を標榜される皇叔が、ここまでお怒りとは? おい、孟徳、何をやらかした?」


高順は曹操を見る。


「ふん! こいつの親戚がな、ちょっかいを出して来たのだ」 曹操はそっけない。


(親戚…? ああ、皇帝のことか)


高順は察した。その後、劉備から詳細を聞かされる。曹操が皇帝の権威をますます強め、劉備の一族や縁者にも圧力をかけ始めているらしい。


「それから、この逆賊から高将軍の書簡を見せられ、我が漢に敵対する外敵を討つためには、一時的にでも手を組まざるを得ない…と、説得された次第です」


劉備は苦渋の表情で語った。


「そうか、玄徳兄と孟徳が揃えば、この戦は勝ったも同然だな! ハッハハハハ!」


高順は大きく笑って場を繕った。


「有難いお言葉です」


「では、孟徳、ここらでお開きにしようではないか! なあ?」


高順は曹操に言った。


「うむ、そうしようかのう!」


曹操はにたりと笑った。


(そりゃそうだ。さっきまで殺し合っていた者同士が、本当の計画など話せるわけがない)


夜、高順の個室に曹操だけが訪ねてきた。


「で? 本当のところはどうなのだ、高順?」


曹操は探るような目をして問う。


「何がだ?」


「お前は、この戦の後、どうしたいのだ?」


曹操の目は油断なく光っている。


「天下か? それとも…」


「俺か? んー、そうだなぁ…」


高順は大仰に伸びをして、ため息をついた。


「この戦いが終わったら、軍からも朝廷からも足を洗おうと思っているよ。もう疲れた。そんだけだ」


「何だと?」


曹操の目が鋭くなる。


「前将軍、四州の軍事、行政の長であるお前が、今さら引退だと? そのあとは誰に任せるというのだ?」


「伯安様あたりが適任じゃないか? あの人なら上手くやれるさ」


「孝父! これは子供の遊びではないのだぞ?」


曹操の声には疑念と驚きが混じっている。


「さっきも言っただろう? 俺はもう疲れたんだよ。せいぜい、家でのんびりと隠居させてくれ」


すると曹操は、不意に態度を変えた。


「…ふむ、わかった。ならば、この戦いの指揮は、全面的にお前に任せよう」


「はぁ? 何でだ?」 高順は心底驚いた。


「そりゃあ、お前が最も適任だからだよ」


曹操は意味深に笑った。


「俺はな、一部隊を預かって戦うのは得意だが、全軍の指揮統制となると、どうも向いていないのだよ。お前の方が数段上だ」


(さあ、腹の内は明かしたぞ。こちらの本心は「早く戦争から手を引いて隠居したい」だ。次はお前の出番だ、孟徳よ。お前の猜疑心の強さを利用して、こちらの本心を信じさせ、油断させる)


「…、判った!」


曹操は大きくうなずいた。


「ならば、儂がお前の代わりに、全軍の指揮を引き受けよう!」


(フフフ、甘いな孝父よ。引き受けるとは言ったが、実行するとまでは言っておらんよ。しばらくの間、お前を戦場に縛り付けておけば、朝廷での俺の立場は安泰だ。お前が本当に隠居する気ならば尚更だ。だが、その才能を無駄にはさせん。必ずや、お前を朝廷に引きずり戻してやる。覚悟しておけよ? フフフ、フハハハハハ! ハァーッハッハッハ!)


「先ずは、目の前の敵を打倒することだな!」 曹操は高順の背中を叩いた。


「ああ、そうだな!」


高順も笑顔で応じたが、その心は冷めていた。


一方、高句麗軍の本営では、竇輔が苛立ちを露わにしていた。


(なぜだ? なぜあのチョッパリの高順は、これほどの大軍を動かせるのだ? 兵糧や物資はどこから調達している? 北方四州の民衆を搾取しているのか? いや、そんなことをすれば内部から反乱が起きるはずだ。まさか、朝廷が全面的に支援しているのか? いや、それにしても動きが早すぎる! 兵站破壛の部隊は既に出しているはずなのに、なぜ効果が現れない?!)


竇輔は現代の軍事知識に基づき、大本営を設置し、参謀本部を模した指揮系統を構築していた。その戦術は機能的で、初期は破竹の勢いで幽州の一部を席巻した。彼の目論見は、幽州で漢軍を釘付けにし、別働隊で現代の地名で言う黒龍江、吉林を制圧し、渤海国のような独立した王国の基盤を築くことだった。


しかし、高順が予想外の速さで全軍をもって幽州に押し寄せたため、計画は完全に狂った。別働隊を呼び戻し、主力決戦に備えざるを得なくなったのである。


「諸将よ! 敵の兵站を叩け! 補給路を断て!」


竇輔は叫んだ。


しかし、高句麗の将軍たちは困惑した顔をして言い返した。


「我々は前線で命を懸けて戦っている。では、附馬殿下は何をなさるおつもりですか?」


「わ、私は…ここで全体の指揮を執っているのだ! それがわからんのか!」


「「………」」


将軍たちの無言の不信が、帳内に重く淀んだ。


高順の作戦は、時代と状況をわきまえたものだった。古代の大軍を一箇所に集中させ、圧倒的な物量と陣形で敵を圧殺する。これに対し、竇輔の近代的戦術は、兵士の練度や指揮系統の確立、兵站の重要性を理解しない古代の軍隊には、十分に機能しなかった。


曹操は高順の意を受けて全軍の指揮を執り、劉備は数千の精兵を率いて敵の後方攪乱に回った。高順自身は、「病を患った」と称して表舞台から身を引き、密かに張五とともに岐発の探索と籠絡工作に全力を注いだ。


未来人同士の知恵比べ。古代の戦場で、異なる時代の軍事理論が激突しようとしていた。そして、その勝敗は、単なる戦術の優劣ではなく、いかにこの時代の「人心」を掌握できるかによって決まるのだった。


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