第二十二回 金戈鉄馬戦河北 定法衆愁内閣府
高順の傷が癒え、再び政務の表舞台に立つと同時に、彼がまず手を付けたのは、情報網の再構築と強化であった。并州、幽州、冀州、青州の四州に跨る広大な支配地域。その全てから確かな情報を迅速に集め、分析し、判断を下さねばならない。彼の頭の中には、未来人としての知識、すなわち「歴史」という巨大な情報がある。しかし、それは所詮が「本来の流れ」でしかない。自らがこの時代に介入した瞬間から、歴史は歪み、予測不能の事態が次々と発生していた。袁紹の早期の挙兵など、その最たるものである。かつて呂布麾下の将軍として、限られた兵力と情報で戦いを強いられた苦い経験が、高順に「知」の絶対的な重要性を刻み込んでいた。
故に、彼は直属の親衛隊の中から、特に聡明で忍びの才に長けた者、地理に詳しい者を選抜し、新たな組織を編成した。その名は「錦衣衛」。未来の知識に基づけば、明朝時代の皇帝直轄の諜報機関の名である。高順は彼らに、偵察、諜報、防諜、さらには重要人物の護衛や、場合によっては暗殺までをも担わせるつもりだった。乱世において、慈愛のみでは人も土地も守れぬ現実を、彼は骨身に沁みて理解していた。
高順は親衛隊長の張五を呼びつけ、命じた。
「張五、伝令を出せ。各将軍の精鋭を奪う訳にはいかぬ。兵の選抜を頼む、とな。聡明で、口堅く、どんな苦境にも耐え抜く意志を持つ者を選べ。待遇は通常の兵の倍とする」
「へい!」
張五は即座に頭を下げ、走り去った。高順将軍の命は絶対であった。
布告がなされると、四州の兵たちが挙って参加を志願した。高順将軍の直属部隊となる名誉は、兵士にとっては這い上がる絶好の機会であった。厳格だが兵を大切にし、常に先頭に立って戦う高順の名声は、兵士たちの間で揺るぎないものとなっていた。
一方、高順は暇を見つけては諸将と共に、袁紹との戦いの祝勝会を開いていた。酒宴は賑やかだが、その心は穏やかではなかった。
(大将軍袁紹はもう既に黎陽まで兵を進めて来るし…。油断はならぬ。こちらの準備が整う前に、決戦を仕掛けて来る気だ)
宴席で、高順は張遼と語らう。
「ふむ、儁乂に袁紹を当たらせるのは些か酷よな…」
張遼は杯を傾けながら答えた。
「ふむ、儁乂将軍は元々袁紹の配下でしたからねぇ…。旧主との戦いとなれば、心情は複雑でありましょう」
「うむ、それ故にあやつには損な役回りをして貰ったな…」
高順は決断した。まずは先鋒を送り込み、敵の様子を探らせるべきだ。張郃を起用したことには深い意味があった。袁紹軍内部の事情に通じているという利点と、彼の忠誠心を試すという意味合いである。しかし、この人事は張郃自身にとっては酷であった。旧主との戦いという苦渋の選択を迫られることになる。
「儁乂よ、無理に戦えとは言わん。敵の様子を探り、軽く触れ合う程度で良い。貴様の安全を第一に考えよ」
張郃は複雑な表情で頭を下げた。高順の配慮は有難かったが、それ故に余計に心が痛んだ。
「はっ!お気遣いありがとうございます。かならずやご期待に沿うよう、微力を尽くします」
高順はさらに、呉資、章誑、汎嶷ら将軍にも出撃を命じた。
「呉資、今回は儁乂に付いてくれ!章誑、汎嶷、今すぐ発て!戦うなよ?軽く触れるだけで引け。敵の兵力、配置、士気を見極めよ」
「「はっ!」」
三人の将軍は決然とした面持ちで領命した。
そして張五に密命を与える。
「張五!お前は錦衣衛を率い、烏巣の地形を詳細に調べよ!糧秣の集積場所があれば、尚更好しだ」
「承知いたしました!」
張五は暗がりに消えるように立ち去った。
軍議の場で、高順は将兵を鼓舞する。そこには、わざと情報を流すための「囮」の役割もあった。
「良いか!既に重要な拝点である黎陽が取られたのだ!敵の剣は既に我らの喉元に突き付けて居るのだ!何としても勝つぞ!袁紹軍の虚を突き、一気に殲滅する!」
「「はっ!」」
将兵の雄叫びが天を衝く。
(まぁ、どうせ間諜は居るもんだから、そいつらの為に声高にして言ったまでよ!フッフッフッ!)と高順は内心で冷笑した。
袁紹の動きは迅速であった。錦衣衛の報告は、袁紹軍の主力が着々と黎陽方面に集結しつつあることを伝えていた。顔良、文醜を先鋒とし、自らは本隊十万を率い、黎陽を拠点に鄴を伺う態勢であった。
(袁紹も単純な男である。兵力に物を言わせた正面攻撃を好む。だが、それ故に予測可能だ)
高順は冷静に計算する。
(俺の軍は并州には兵八十万、幽州には百万、冀州には三十万、青州には四十万の兵が居る。并州、幽州は異民族対策で多めに配置している。冀州に於いては万が一に備えての予備役である。勿論匈奴兵を省いてるから実際の兵力はもうちょっと有ると思う)
一方、袁紹の旧勢力は八万弱との情報だ。しかし、そのほとんどが袁家に忠誠を誓う精鋭であり、軽視はできなかった。
(迷惑だよねー!そういう事なので戦争が始まる。俺が動けないとなると他の諸侯は好き勝手に出来ると言う事だ。腹黒い友達と耳の長い皇族は早速おっぱじめたらしいよ!結果は知れてるが、後が面倒臭い…)
袁紹も馬鹿では無い。黎陽、白馬、朝歌周辺に兵を配置して、守りを固めて鄴を狙っていた。高順の狙いは、袁紹の主力をおびき出し、包囲殲滅することにある。
(袁紹の本隊は侮れぬ。正面からの力押しは最後の手段とし、まずは情報戦と心理戦で袁紹軍を内部から崩し、戦機が熟するのを待つ戦略で行く)
呉資が張郃の処から兵八万を動員して来たため、高順軍の兵力は二桁万に膨れ上がった。これで、機動兵力を確保できた。
「章誑、汎嶷を呼び寄せろ!」
「はっ!」
章誑、汎嶷には先鋒として顔良、文醜の部隊に軽く当たって貰う事にした。これは陽動作戦であり、敵の戦力を試すとともに、敵将を怒らせて軽率な行動を誘うための布石でもあった。
「敵の顔良、文醜を侮るなよ?ちょちょいとつついてやると良い、後は任せろ。決して深入りするな」
「はっ!」
二人は部隊を前進させ、顔と文の文字が書かれた旗に向かって突進して行った。
戦場は混乱に包まれた。章誑と汎嶷の部隊は、文醜軍の前衛と激突する。矢合いが交わされ、騎兵同士の激しい斬り合いが始まった。しかし、文醜の武勇は尋常ではなく、その槍の冑は高順軍の兵士を次々と薙ぎ倒していく。
「かかれえ!この文醜に一太刀浴びせられると思うなよ!」
文醜の咆哮が戦場に響き渡る。
二刻経って部隊が戻って来たが、汎嶷の姿は無かった。代わりに、汎嶷のものと思しき死体が担架で運ばれてきた。致命傷は喉元を貫かれた槍傷であった。
「…、そうか、討ち取られたか…」
高順は唇を噛んだ。彼は一人一人の将兵の顔と名前を覚えていた。汎嶷は寡黙だが、命令に忠実な将であった。
(汎嶷…すまぬ。貴様の死を無駄にはせぬ)
そして決意に満ちた声で言った。
「うし!仇を討ちに行くぞ」
高順は七千の精鋭部隊を率いて、文醜の軍に突っ込んだ。彼の目的は、正面からの撃破ではなく、未来の知識を利用した「必殺」の機会を創り出すことにあった。
(此処は長髭野郎の手法で討ち取るか!誰かって?関羽だよ!未来の知識が俺に囁く。『文醜は関羽に討たれる』と。俺は関羽ほどの武勇はないが、その「結果」を知っている。ならば、その結果を再現する手筈を整えればよい)
高順はわざと挑発的な行動を取り、文醜を怒らせ、油断させた。隊列を乱し、旗をなびかせ、まるで敗走するかのようなふりをしながら、文醜の本隊に近づいていく。
「文醜!其方の首、頂くとしようぞ!河北の名将もここまでよ!」
文醜は激高した。高順という大将自らが囮となって現れた。これほどの功績はない。
「無礼者!我が名を知っておきながら、その口の利き方とは!我が槍の餌食となれ!」
文醜は単騎で高順めがけて突進してきた。まさに高順の思う壺である。
高順は文醜が返事したその瞬間、わざと馬鐙から足を外し、よろめくふりをした。そして、文醜が油断した一瞬を狙い、脇腹目がけて渾身の力を込めて槍を突き立てた。それは未来の「関羽」がやったように、奇襲と速攻による一撃であった。
「文将軍!」と袁紹兵が叫ぶ。
文醜は驚愕した。高順の槍捌きは、彼が想定していた以上に速く、正確だった。
「あぁ?」
高順は冷たく言い放った。
「黙ってりゃ死ななかったのに、バカめ!名将とは名ばかりの猪武者よ」
「ぐあっ!」
文醜は致命傷を負い、その場に倒れた。主将を失った袁紹軍の右翼は動揺に包まれた。
高順は全軍に号令した。
「おうし!おめぇら!引くぞ!」
高順軍は迅速に戦場脱离を開始した。これが、袁紹をおびき出すための次の一手なのである。
袁紹の本陣では、文醜が敵将の一人を討ち取ったとの報せが届き、喜びに湧いていた。しかし、その直後、愛将文醜が高順自らに討ち取られたとの悲報が飛び込んできた。
「ぬぅ!文醜を討ち取られたか!」
袁紹は激怒し、机を叩き割った。
「高順!この恨み、必ず晴らしてくれるわ!」
周囲の将が慌てる中、袁紹は叫ぶ。
「狼狽えるでない!全軍!最早遠慮する事は無い!高順を討つべく、突撃せよ!」
田豊や沮授ら慎重派の参謀が制止しようとしたが、袁紹の激情は収まらない。袁紹は激情のまま全軍突撃を命じた。高順はその激情を計算し、おびき寄せていたのである。
(馬鹿で助かったわ!孟徳なら間違いなく止まるだろうな…。そこが袁紹と言う男の限界だった。感情に流され、大局を見誤る)
高順は全軍に道を開かせ挟撃せよと伝令を出した。事前に配置していた張遼、徐晃、張郃らの部隊が、怒涛のごとく進軍してくる袁紹軍の側面から猛攻を開始した。
袁紹は高順軍が退くのを見て、さらに激昂する。
「フハハハハハハ!見よ!敵が退いて行くぞ!文将軍の仇を討つ為に進撃せよ!逃がすな!」
袁紹のこの判断が、戦況を決定づけた。高順軍の巧妙に張り巡らせた包囲網に袁紹軍の主力は捕捉され、そこに張燕、呼廚泉、曹性らが率いる追加の援軍が側面から猛攻を加えた。
「伝令!軍師殿より、飛燕将軍、呼酋長、曹将軍が兵六万を連れて参りました!間も無く交戦に入るとの事です!」
「うむ、退き下がって休め!」
高順は安堵の息をついた。彼自身も先の戦いで疲労していた。
并州から派遣された重装騎兵、剣撃騎弓兵、胡騎兵が二万ずつ現れ、戦場を蹂躙して行く。袁紹軍は完全に包囲され、各個撃破されていった。
(だが、敵の兵も独ソ戦時のソ連兵の如く死に物狂いで戦っている。勝ったとしても被害は馬鹿にならないだろう…、何より手塩をかけて育てた兵達だ。一将兵として、これほど心苦しいことはない)
高順は心で呟く。未来人の知識が、戦争の悲惨さをより際立たせていた。
袁紹軍の中で唯一、顔良が奮戦していた。文醜の仇を討たんと、彼は鬼神の如き働きを見せる。
「皆!恐れるな!たかが雑魚が増えただけよ!殺せ!殺して殺しまくれぇ!袁公の御為に!」
その奮戦は凄まじく、高順軍の兵士を何人も斬り伏せ、隊列を乱した。
顔良は内心、悲壮な決意を固めていた。
(俺ァこんな所で負けられんのじゃ!此処で無様に死んでみろ!文醜の兄弟申し訳が立たん!せめて敵将の高順を殺してらねばならん!今までの戦で死んだ将兵らのためにもな!二公子、蒋義渠、高覧、高幹、淳于瓊ら死んでった者たちにも!)
一方、袁紹軍の将、麹義は冷静に状況を分析していた。彼は元々袁紹と折り合いが悪く、この戦況を見限る。
(ケッ!負け戦に付き合っていられるか!此処で死んでも犬死だ!)
元々傲慢な性格をしている為、開戦前まで危うく袁紹らに誅殺されかけて居たのである。諸将らが何とか取り成して、事無きを得ると後方撹乱を名目に戦場を一旦離れ、高順に降伏を申し入れた。高順はちょうど、配下の将を一人失っていたので其れを受け入れた。麹義の能力は高く、使いようによっては大きな戦力となる。
戦闘はほぼ終わったが、顔良は未だに抵抗していた。馬から転げ落ち、身体の数箇所に傷を負い鎧は最早防具の役割を果たせない状態となっていた。手に取っている大刀も刃が零れ、武器に成らなかった。それでも佩剣を抜き尚も奮戦する。その壮絶な姿に、高順軍の兵誰一人と近付こうとし無かった。
「フゥー、フーゥ……、ほれ!どうしたァ!高順の軍とは烏合之衆か!掛かってこぬか!軟弱者どもめ!」
その場にいる将軍、隊長らは高順の指示で顔良から距離をとる様に命じられている為、下がらざるをえない状況だった。高順は最後まで戦い抜く武将に、ある種の敬意を払っていた。
高順は馬を進め、顔良に語りかける。
「終わったぞ?袁紹と二人の息子はもう姿が見えん。麹義は我らに降った。貴様の奮戦は天晴れだ。最早、これ以上無意味な死を重ねることはない」
顔良は動揺した。
「…!!袁公は…?」
「逃げた。お前を見捨ててな」
「…」
「我が軍にここまで大立ち回り出来るとはな…。匹夫の勇もここ迄だ。果てろ。あるいは、降伏せよ。其の武勇を、天下の民の為に活かさせてやる」
顔良は嘲笑した。血の気の引いた顔に、疲労と諦観の色が濃くにじんでいた。
「クックック!お前達ではこの儂を討てぬか!儂は袁公に仕え、袁公の為に死ぬ!それのみだ!」
「戦はここ迄だ」
高順は静かに言った。
顔良は最期の尊厳を守るように言った。
「覚えておけ!儂は死ぬが、己の手で死ぬのだ!賊軍の手にかかってたまるか!」
高順は静かに答えた。武人としての意地を理解した。
「好きにしろ。その道を選ぶなら、見送ろう」
顔良は剣首に置き、弧を描いて自分の首を刎ねた。その最期は、多くの将兵の胸を打った。
この戦いで、袁紹軍は文醜、顔良を筆頭に、孟岱、韓猛、蒋奇、馬延、焦融、張南、臧洪、周昴、韓荀、韓莒子、吕威璜、張睿、厳敞、何茂、王摩、夏昭、吕曠、呂翔、馮礼、鄧昇、郭援、陶昇など多くの有能な将軍を失った。袁紹自身は命からがら長子の袁譚のもとへ逃げ延びたが、その勢力は決定的に衰退した。
高順軍も汎嶷を失うなど、決して軽い損害ではなかった。戦死者の屍は山積みとなり、野原は血で染まった。
(愚か者め!何故死んだのだ…!皆、生きて帰れよ…!)
高順は心中で嘆いた。未来人として、一人でも多くの命を救いたいという想いと、現実の将軍として、時に冷酷な決断を下さねばならない板挟みに、彼の心は引き裂かれそうであった。心中では常に誰かが死ぬ事を恐れていたのだ。
戦後、高順は、投降してきた袁紹軍の残兵や謀士たちの処遇に頭を悩ませた。全てを受け入れれば軍規が乱れる。かといって全てを処刑すれば、残虐な印象を与え、袁家を支持する士大夫層の反感を買う。何より、未来人としての倫理観が、大量処刑を許さなかった。
(流石にそれやると不味い事が起こりそうだから、朝廷へ差し出した。皇帝と内閣府の判断に委ねるのが最も穏当だ。俺は武人、政治的な火種は抱え込まぬ方が身のためよ)
捕らえられた袁紹軍の将兵、参謀たちは、鎖につながれ許都へと送還された。この処置は、高順が朝廷の権威を一応は尊重していることを示すパフォーマンスでもあった。
翌日、一人の男が高順の幕舎に押し入り、高順の襟を掴み殴り飛ばした。曹操である。
「孝父!貴様〜!よくも文醜、顔良と言った河北の柱を討ちおって!しかも、その戦い方たるや、挑発に乗せておびき出し、包囲殲滅とは!余りに非道ではないか!」
高順は顔を押さえながら、平静を装って言った。
「なんだ、孟徳か、随分な挨拶じゃないか。其れは大将軍に聞いて来いよ!攻められりゃ、反撃くらい誰だってするだろうがよ!勝つ為の手段を選んでる場合か?」
「…」
曹操は唇を噛んだ。高順の言い分も理解できなくはない。しかし、袁紹という大義名分のある大将軍をここまで追い詰めた高順の実力と、その手法が、曹操自身の脅威となって迫っていた。
「なんだ?朝廷が何ぼ文句つけに来たのか?」
「その朝廷から、お前は逆賊と言われておるがな!」
曹操は吐き捨てるように言った。
「袁紹を討ったのは良しとして、その勢いで河北四州をほぼ手中に収め、しかも降伏兵を朝廷に送りつけるとは、朝廷を軽んじていると取られても仕方あるまい!」
高順は開き直った。内心では、朝廷の反応は読んでいた。
「わかった。なら一戦仕掛けるか!朝廷が俺を逆賊と言うなら、其れはそれで良し!力でねじ伏せてみせる!」
「この…!馬鹿者!其れでは本当の逆賊になってしまうわ!」
「ふふふ!焦るな、この俺自身の戦だ!朝廷に向かって、理非を説きに行く!」
そう言うと高順は全軍を元に戻し夫々の軍団長に任せて、ごく少数の護衛のみを連れ、許昌に向かって行った。この行動自体が、彼に叛意のないこと、あるいは逆に絶対の自信の表れでもあった。
道中、董璜に会った。どうやら待ち伏せしているようだった。董卓の甥であり、かつては権勢を誇ったが、今は没落した男である。
「…、大変そうだな、将軍」
「ふふふ、お前の逃亡よりかはマシだろうよ」
高順は冷ややかに応じた。
「ケッ、好きにしやがれ!一つ教えてやるよ。朝廷じゃぁお前さんを処刑するかどうかの話まで上がってるぜぇ?」
「ほぅ?」
「なんでも、竇輔とか言う数代前までは外戚だった家柄らしいがその後没落して、今の代でまた盛り上がったってぇ話だ!その男が、お前を逆賊と決めつけ、軍権剥奪と処刑を主張しているらしい」
「そうか、暇なら堂妹と自身の侄子の面倒でも見に行って来いよ!」高順は董璜の痛いところを突いた。
「あぁ、お前が居ない今が丁度良いかもな!」董璜は
悪態をつきながら去って行った。
(そりゃそうだ。恐らく袁紹の手の掛かった人間が袁紹の為にやったんだろうなぁ…、あるいは、俺の勢力拡大を快く思わない者たちか。俺の知った事じゃねぇ。来るなら来い)
許昌に着くなり、高順は朝廷に顔を出したが、歓迎ムードは一切無く、冷たい視線と敵意に満ちた空気が漂っていた。百官の中でも、ただ一人だけ嬉しそうにしているのが竇輔である。
竇輔は内心、喜悦に湧いていた。
(クックック!これで北を抑えてる高順を追いやりその軍権を手に入れ栄えある朝鮮を創り出してやるぞ!俺こそが新たな時代の主役だ!このまま軍権を俺に寄越せ!俺が代わりにもっと有効に活用してやるよぉ!)
何故ならば彼はジョン・タイターの信者だからである。未来から来たという人物の予言を盲信し、自らが「朝鮮」と呼ばれる新たな王国を築くという妄想に取りつかれていた。高順の持つ軍勢と地盤は、その野望のための格好の足がかりであった。
高順はそんな事一切考えて無く、皇帝にありのままの事を話した。袁紹が如何に先に兵を動かしたか、自分は防衛と、皇帝から任された領土と民を守るために戦っただけだと。
「なんと…!では大将軍自ら兵を興したと言うのか!」
献帝は驚いたふりをした。実際には、袁紹の行動も高順の反击も、ある程度は把握していた。
「はっ!恐れながら陛下、兵を興したのは大将軍であり、臣は陛下より任された地を管理する為に止むを得ず攻めました。臣に叛意は毛頭御座いません」
これが、朝廷で激しい議論の的になった。竇輔を中心とする一派は高順の処刑を主張し、曹操をはじめとする現実派は高順の実力と民心を考慮し、穏便な処置を求めた。
巷では噂が広がっていた。錦衣衛の工作によるものである。
「よォ、知ってるかい?大将軍と前将軍が冀州で戦を起こしたんだとさ!」
「へぇ、そうかい、南じゃ小覇王、北にゃあ前将軍…、ましてや西北には馬騰と来た…どこに行っても不安だねぇ…」
「全くだ!オチオチ商売もしてらんねぇ!」
「でも、戦は冀州だけじゃないか、他のところは安全だって聞いたよ!高順将軍が異民族からも守ってくれるし、税も公平だそうだ」
「お前ら情報が遅いな!戦はしたって大将軍が負けたんだと!高将軍はな、自分から攻めたりはせず、大将軍が攻めてきたのを返り討ちにしたんだって!」
「何ぃ!?教えてくれ!」
「おい!オヤジ、酒を持ってきてくれ!」
「あいよ!」
袁紹がどう戦って、高順がどのように勝ったかをキッチリ伝えた。この伝えた人間は誰かと言うと、錦衣衛の人間である。高順は情報戦の重要性を理解しており、民心が自分に味方するよう、細心の注意を払っていた。
(こう言う宣伝はね!しておかないと、いざと言う時に損をしちゃうからね!【民心不可違】とは良く言ったもんだ!)
高順は内心でほくそ笑んだ。朝廷での議論がどうあれ、民衆の支持が得られていれば、自分の立場は強固になる。
高順は自宅待機を命じられた。ある日、妻(元呂布の義姉)が茶を運んできた。彼女は、高順が朝廷で窮地に立たされていることを案じている。
「夫君、お茶をお持ちしました」
「ありがとうございます」
「…、処で京での暮らしはどうですか?何か不自由でも?」
「いえ、何も不自由せず恙無くさせて頂いております…」
高順は苦笑した。軟禁状態に近いが、表向きはそう言う他ない。
「そうですか。ココ最近では、特に来客が多いのでご苦労をお掛けしますが何卒よろしくお願いいたします」妻は、高順の立場を慮り、細やかな気配りを見せた。
「かしこまりました」
(元上司の姉なんだよ!既に奥さんだから余所余所しいって?逆になんかして見ろ?呂布と言う名の弟がすっ飛んでくるぞ?身内の諍いどころか国際紛争まっしぐらよ?脅しとかじゃなくて…)と高順は内心で冗談を飛ばした。呂布という最強の武力を背景に持つことは、思わぬ抑止力となっていた。
案の定、朝廷より竇輔が送られて来た。高順の屋敷に、勝者然としてやってくる。
「前将軍、此度は朝廷より将軍の処遇、及び朝廷の意向をお伝えに参りました」
「ほぅ?孟徳では無く貴様か?」
高順はわざと訝しげな顔をした。
「はい、其れと私的な事も御座いまして…」
「私的の用は兎も角、先ずは朝廷の意向から聞こう!」
高順は竇輔の態度に苛立ちを覚えつつも、平静を装った。
「では、『此度の戦、前将軍・高順に罪は無いが些か過ぎる部分が多い為、暫しの審議を経た後、其の功罪を断定する!よって朕の勅令無く許昌から離れる事は許さん』との事」
(はぁ…、全く…!らちが明かん。此のままでは河北が危ない)
高順は内心で咂舌した。異民族の動きや、他の諸侯の動向が気にかかっていた。
「臣順、承りました」
「さて、高将軍、私的な話に…」
竇輔は声を潜めた。
「どうやって此処に来たのならば、そのままその足で帰れ」
高順はきっぱりと言った。
竇輔はここで秘密の符牒を口にした。それは、高順と同じ未来から来た者同士の合言葉のようなものだった。
「…!一千九百四十五年八月十五日…」
(野郎!俺と同じか!いや、あるいは未来に関する何らかの知識を持つ者か!)
高順は内心驚いた。しかし、彼は既にこの時代に深く根を下ろしており、邪魔者は排除する覚悟であった。
「ほう?言わねば知らなかったが、言ったからには殺さねばなるまい?」
高順の目に冷たい光が走った。
「ふふふ、将軍、貴方には既に謀叛の嫌疑が掛けられてると言うのにこの内閣府に属するこの私を処刑すると其の嫌疑も確実になりますぞ?」
竇輔は高順を脅そうとした。
「ふん、『死人』に口は無い、如何なる秘密も『死人』の口から出る事は無いがな?」高順は冷徹に言い放った。彼の周囲の空気が一変し、殺気がみなぎる。
「…!」
(冗談だと思うか?いや、本当だ。歴史がこれ以上崩れると俺の安穏が…ってなると斬らざるを得ないんだよねぇ…。お前のような危険因子は、早期に排除するに限る)
高順は冷徹に考えた。未来人の知識は武器であると同時に、危険でもあった。
竇輔は必死で叫んだ。高順の本気を悟ったからである。
「しょ、将軍!チャングン!」
(チャングン?あぁ〜!韓国時代劇で聞いた事あるやつだ!テチャングンテチャングンってあれ字幕だと大将軍なんだよな!て事ァ、俺の事か!将軍…って、こいつ朝鮮の人間け!半島に執着があるのか?)
高順は竇輔の目的を理解した。彼は単なる権力欲ではなく、歪んだ民族主義的な野望に駆られていた。
「ほぅ?ならば見逃してやる。半島へ逃げろ」
高順は言った。ここで竇輔を殺せば、朝廷内の反高順派を刺激する。ならば、脅迫して追い払うのが得策である。
「へ?」
「今回だけは見逃してやる。だが、漢に敵対すると言うのであれば容赦はしない。其の時は、貴様の野望もろとも、半島ごと蹂躙してみせる」
竇輔は安堵し、次の瞬間からは許昌から逃げた。錦衣衛からの報告によると朝鮮に着くのに二ヶ月かかったとの事だ。高順は、竇輔の動向を注視するよう錦衣衛に命じた。
(意外と早い…、このまま何事もなければ良いのだが…いずれ、禍の種になるかもしれん)
「大漢憲法」という奇策
高順は、朝廷から離れるための口実が必要だった。軟禁状態が続けば、河北の統治に支障を来す。苦手とする権謀術数の代わりに、未来的な発想でこれを解決しようと考えた。それが「大漢憲法」の起草という、当時としては前代未聞の提案であった。朝廷を混乱させ、その隙に離脱するという算段である。
その足で内閣府に向かった。曹操らが政務を執っているところに、押しかけるのである。
(【大漢憲法】の起草をあの色ボケ親父に提案して見よう。面倒臭がって放り出せば、その無能さを露見させられるし、真面目に取り組めば彼らは此の提案に縛りを付けられる。俺は其の隙に河北に帰還する)
内閣府に着くと、曹操ら重臣たちが集まっていた。高順の登場に、一同の視線が集まる。
「よォ〜!やってるか!?」
曹操は嫌そうな顔をした。高順はいつもトラブルメーカーであった。
「うーむ…面倒なやつが来たな…!此処は忙しい。用がなければ帰れ」
「うるせぇ!とにかく、話を聞け!」
高順は押し切る。
「戦争屋が何を言っても此処は国家の中枢だぞ!」
曹操も負けじと応じる。
「はんっ!俺が何を言うかもわからん癖に…『敵を知り己を知り百戦殆うからず』だろ?兼業戦争屋よぉ?」
高順は曹操の軍事的才能を揶揄った。
「チッ…!」
曹操は舌打ちした。
「法を起草したらどうだ?戦争にしろ、行政にしろ、だ。今まではそんなものが無に等しかったからな!」高順の言葉に、内閣府の空気が凍りついた。「法が有れば其れを基に政を行い、我らも安心して暮らせるというものだ!それに…邪な輩は簡単に動けなくなる。丞相を一人にしたから権力が集中し、皇帝を軽んじる輩も出てくるだろうが、法の制定をしておけば誰も簡単に動けなくなる…」
この提案は、内閣府に衝撃を与えた。法で皇権や臣権を規定するなど、それまでの常識では考えられないことである。内閣府の官吏、そのほかの内閣閣僚達もザワザワしだした。
「何たる不敬だ!」「祖宗の法は是か非か…」「しかし…秩序を定めるという点では…」
曹操は内心、複雑な思いを抱きながらも、この提案の合理性を認めざるを得なかった。彼自身、権力の集中がもたらす危険性を理解していた。
(全てを法の下に集約し、拘束する…即ち皇権も法の下でしか効を奏しないという事か!)
曹操は高順の真意を見抜いた。これは、権力者すべてを縛る、ある種の「奇策」であった。
「うーむ、悪くない…だが…其れは容易な業ではない。祖宗以来の法を改めるのは、並大抵の労力では済まぬ」
「おいおい…何の為の内閣府だよ!」
高順は迫った。
「てめぇらが雁首揃えて陛下の御前で決まるまでそこら辺の官吏にやらせときゃ良いじゃねぇか!俺は草案を作るから、後はよろしく頼むよ!」
曹操は高順を見た。この男は、単なる武人ではない。その頭脳は、時として彼ら文人をも凌駕する。
「なら、言い出しっぺの貴様も来い!」
「え?やだよ」
高順はあっさり断った。
「何故だ!?」
「俺は軍人で地方を治める長だからだよバカ。中央政治に口出しし過ぎると、また『逆賊』って言われるのがオチだ。提案までが関の山よ」
「…!」
曹操は理解した。高順の言いたい事とは全てを法の下に集約し、拘束する…即ち皇権も法の下でしか効を奏しないという事か!そして、高順自身はその枠組みの外に立ち、自由を保ちたいのだろう。
「では、そうしようか…皆、我ら内閣府はこれより陛下にこの事を上奏しようでは無いか!」
曹操は決断した。この提案は危険だが、放置すれば高順が更なる厄介事を起こすかもしれない。ならば、彼をこの「法作り」という大義名分に巻き込み、その行動を抑制するのも一計である。
「曹…!」
他の重臣たちが驚く。
「ん?あぁ!」
曹操は彼らを一瞥で制した。
「伯寧様…お願いします」
曹操は法律に詳しい満寵に目を向けた。
満寵は暫し沈黙し、やがて深くうなずいた。
「良かろう!古来より法は世の礎。此の乱世に新たな法を打ち立てるは、時宜を得たるものかも知れぬ」
御前会議で何があったかは知らない、高順はいつでも北に帰る事を想定して気楽に準備をしていた。憲法草案など、朝廷を混乱させるための「時間稼ぎ」のつもりであった。
しかし、曹操らは【大漢憲法】の起草に真剣に頭を悩ませ始めた。夜ごと、宮中の一室で熱心な議論が続けられた。灯籠の灯りが大臣たちの苦悩に満ちた顔を揺らめかせる。
「この憲法の規定は革新的な効果を持っているが、同時に古来的権力構造を揺るがす…」陳羣が懸念を口にする。
「祖先の寺院を揺るがすことは避けられない。慎重に検討する必要がある」王朗も深く考える。
議論は難航した。高順が残していった、未来の憲法の概念を彷彿とさせる書簡(「法の下の平等」「権力の分立」「基本的人権」などの断片的な構想)は、彼らにとってはあまりに革新的すぎた。しかし、曹操の強い指導力と、高順の提案がもたらした一種の「衝撃」が、彼らをして従来の枠組みを超えさせた。最終的には、伝統的な「九五の尊(帝王の威厳を表す数)」に因み、九章八十一条からなる「大漢憲法」が起草されることで合意を見た。
その内容は多岐にわたり、驚くほど詳細かつ現代的であった。
第一章:國體與君權 - 国家の体制と皇帝の権限を定義。皇帝の権威は法に由来し、法の規定する範囲内で行使されると明記。皇帝の世襲と、暴政を行った場合の(極めて困難ではあるが)廃立の手続きまでが、遠回しに規定された。
第二章:國有司 - 三公九卿から地方官まで、行政組織の役割と責任を規定。軍政分離の原則も盛り込まれ、将軍が安易に政治に介入することを防ぐ仕組みが作られた。
第三章:法與法司同法 - 法の下の平等、無罪推定の原則、裁判制度、冤罪救済措置まで規定。満寵の法律家としての知識が大きく貢献した。
第四章:民政 - 農業政策、税制、商業、財政、通貨制度など、経済基盤を整えるための基本方針。平和な時代の統治を前提とした内容であった。
第五章:文與教習 - 教育の重要性、学問の振興、人材育成制度について。科挙の原型となる官吏登用試験制度の創設が謳われた。
第六章:華夷與邊疆 - 異民族政策、边境の管理、外交方針。高順の現実的な異民族対策の経験が反映されている。
第七章:宗教祀典於祭祀 - 国家祭祀と宗教の位置づけ、信教の自由の保障とその限界。
第八章:城與公共事 - 都市計画、道路整備、治水、災害対策、公衆衛生など、インフラ整備の義務。未来人である高順の視点が色濃く出た章である。
第九章:邊境與國安 - 国防、軍制、兵站、情報収集、国土防衛の重要性。ここでは、高順の「錦衣衛」に相当する組織の設置も、暗に認められる形となった。
これは、未来人高順の知識が、彼の意図せざるところで、時代を超越した形で条文に滲み出た結果と言えた。彼自身は「朝廷を困らせるための奇策」のつもりで投げた提案が、曹操ら有能な政治家たちの手によって、乱世を終わらせ新たな秩序を築くための基盤として、真摯に受け止められ、形作られていったのである。
こうして、草案がまとまり、「大漢憲法」は皇帝の勅令として発布される運びとなった。その前途は多難であった。各地の豪族や権力者からの反発は必至であり、完全な実施には長い年月を要するだろう。しかし、この法が、その後の中華の地に長く続く法治国家の理念の、最初の一石となるのであった。高順の未来への介入は、武力だけでなく、制度という形でも、歴史に大きな歪みを生み出そうとしていた。
高順は、自身の思惑通り、この草案作業が一段落したのを見計らい、ようやく念願だった河北への帰還を朝廷に奏上するのである。憲法草案という巨大な「貢物」を朝廷に突きつけた今、彼の軟禁を続ける理由はなくなっていた。新しい法の下、彼は「河北の守護者」として、より強固にその地の経営に乗り出すことになるのであった。しかし、その未来には、彼が想定していなかった新たな戦い、制度と理念を巡る戦いが待ち受けていることを、彼はまだ知らない。




