第二十回 明罵袁紹得二州 暗愚袁公路僭称帝
洛陽の街並みは、戦火の傷跡が癒えつつあるかのように見えた。しかし、それは表向きの姿に過ぎず、瓦礫の影や人々の目の奥には、まだ深い不安と疲労が色濃く残っていた。劉備玄徳は、そんな街中を、できるだけ目立たぬよう、しかし迅速に歩いていた。彼の胸中は、高順孝父から聞かされた衝撃的な計画袁紹暗殺計画——で煮え滾っていた。
(もし袁本初がここ洛陽で倒れれば、天下は再び大乱に陥る。ようやく訪れつつある脆い平和が、砕け散ってしまう……。何としても阻止せねばならぬ)
彼の額には、初夏の穏やかな陽気には似つかわしい冷や汗がにじみ、手の平は湿っていた。曹操の目を欺き、董承らの疑念を買わず、しかも速やかにそのバランスは極めて難しかった。
「明公はどちらに?」
ようやく袁紹の宿営地に辿り着くと、劉備は息を荒げながら門番に尋ねた。鼓動が早く、喉がカラカラに渇いていた。
「何方か?」
門番の兵士は、鋭い眼光で劉備を捉え、手にした槍をわずかに構える。その目は、猜疑心に満ちていた。袁紹陣営は最近、不審な動きや訪問者に神経を尖らせており、主君の威勢が以前ほど見られないことから、臣下たちの間にも微妙な緊張と離反の兆しが見え始めていた。
「私は左将軍、宜城亭侯、徐州牧、劉備玄徳だ!早く明公に会わせてくれ!」
劉備は自身の官位と名を告げ、声に切迫感を込めた。通常、彼はこうした肩書を前面に出すことを好まない男であったが、今は手段を選んでいられなかった。
「一刻を争う大事だ!遅れれば、明公の身に危険が及ぶ!」
門番は劉備の必死の形相と、その名前に押し切られる形で、しぶしぶ案内を始めた。袁紹の陣営内部は、以前の華やかさや威勢の良さは失せ、重苦しい空気が漂っていた。臣下たちの顔には、袁紹への忠誠というより、それぞれの保身と将来への計算が浮かんでいるようだった。
(ふむ……本初の威光も、以前ほどでは無いのか。配下の者たちの目の色が違う。これでは、大きな戦はできまい)
劉備はそう内心で嘆きながら、袁紹の元へと急いだ。
「明公!一大事ですぞ?」
劉備は袁紹の前に進み出ると、声を潜めて、しかし強く言い放った。
袁紹は几帳面に整えられた書物の前でぼんやりと劉備を見上げ、ゆっくりと手中の酒杯を置いた。その顔には、かつて河北を席巻した霸者の面影はなく、酒気を含んだ頬は、どこか現実からの逃避を思わせる衰弱した色をしていた。
「おぉ〜、玄徳か。何じゃ、玄徳。そんなに慌てることはない。わしのところでは、まず酒だ。天下の情勢は、杯を酌み交わしながら談じるに如くはない」
袁紹の声音には威勢の良さを装おうとする気負いが感じられたが、それはかえって彼の内面の疲れと迷いを際立たせていた。官渡の敗戦は、この男から何かを奪い去ってしまったようだ。
「酒など呑んでいる場合ではござらん!高順が明公を害しようと企てておりますぞ!」
劉備はさらに声を潜め、周囲を警戒しながら、袁紹の耳元で嗄れるように告げた。
袁紹の顔色が一瞬で変わった。酒杯がわずかに揺れ、中の酒がこぼれた。
「なっ?! 何を戯けたことを言うのだ玄徳!この洛陽は天子の膝元ぞ? 董卓の如き蛮族でもない高順ごときが、そんな大それたことをすると思うか? 冗談も程々にせい!」
袁紹は嘲笑するように言ったが、その目にはわずかな動揺の色が走った。最近の高順の動向——并州での急速な勢力拡大、そして朝廷への奇妙な距離の取り方は、確かに不気味なものがあった。
その時、帳外で突然の叫び声が上がった。それは袁紹の衛兵たちを押しのけるようにして近づいてくる。
「きゅ、急報ー!!! 申し上げます! 申し上げます!」
袁紹が顔を上げ、わずかに眉をひそめる。
「なんじゃ? 騒々しい」
伝令の兵士は息も絶え絶えに帳内に駆け込み、地面にひれ伏した。そして、その報告を始めようとしたその時、劉備が存在することに気づき、言葉を躊躇った。
「皇叔…、お引き取りを……」
劉備を見ながら、そう言った。
劉備は深く息を吸った。これで良し、と内心でつぶやく。 (わしは知らせた。これ以上の深追いは、わし自身が危険に晒される。ここは退くのが賢明じゃ)
「では、私は伝えましたからね? ご無事を祈っております」
劉備は自身の責務を果たしたと言わんばかりに、すばやくその場を立ち去った。背中に、袁紹と伝令兵、そして周囲の臣下たちの複雑な視線を感じながら。
一方、高順の陣営では、劉備の動向を探る斥候の報告を待っていた。高順の脳裏では、現代の知識と三国時代の現実が激しく交錯していた。
(史実では、袁紹は官渡の戦いで曹操に敗れ、その後病没する。だが今……違う。曹操は献帝を抱えてはいるが、袁紹はまだ河北に強力な基盤を残している。俺という“変数”がこの時代に放り込まれた以上、史実通りなどあり得ない。俺の行動が、既に歴史の流れを変えてしまったのだ)
彼は冷静に状況を分析する。 (袁紹が生き延び、河北をまとめれば、それはそれで曹操に対する強力な抑止力となる。しかし、その袁紹が優柔不断で、内部がガタついている現状では、いずれ曹操に飲み込まれる可能性が高い。ならば……俺が河北の実権を握り、曹操と対峙する勢力を築くべきではないか?そのためには、袁紹という存在は邪魔だ。しかし、直接手を下せば、それは明らかな反逆者となる。劉備……玄徳よ、お前はきっと袁紹に知らせに行ったな。仁義に厚いお前ならば、そうするはずだ)
高順の口元が、わずかに歪んだ。 (それもまた、俺の計算の内だ。袁紹を殺害するのではなく、彼を追い詰め、その勢力を俺が吸収する——そうすれば、大義名分も立つというものだ)
「よし……これより、袁紹を“討ち”に行く! 皆、気を引き締めよ!」
高順は兵士たちに向かって咆哮した。その声は、迷いがないように聞こえた。
二十万の大軍を引き連れ、精鋭一万を先鋒として動員した。しかし、その行軍路には、予想通り劉備軍の姿があった。劉備自身が陣頭に立ち、高順の進軍を阻もうとしている。
(くっ……歴史が変わりすぎて、あの野郎、左将軍兼執金吾になってやがった! 洛陽の治安維持まで任されるとはな。劉備の出世は予想外だ。だが……これもまた、面白い)
高順は内心で咂舌したが、同時に、この状況さえも利用できると考えた。
「皇叔! 貴方がこうしてる間にも、北では袁紹の手の者が暴虐の限りを尽くしておりますぞ! どうか、道を開けていただきたい! 奴を捕縛し、朝廷の威信を示さねばなりません!」
高順はわざと怒声を張り上げ、大義名分を掲げた。
「ふん! 適当な言い訳を言いおって! その口先で、本心から朝廷を思っているなどと言えるのか!」
劉備は激怒したように見せかけ、剣を抜き馬を走らせて高順めがけて突進してきた。その動きは流れるように速く、さすがは乱世を生き抜いてきた武人である。
高順も負けじと槍を払い当てる。金属音が火花を散らして響き渡る。
「貴様っ! 漢室の忠臣を気取るが、その実、己の保身しか考えておらぬではないか!」
「ほぅ? 草鞋売りの義侠に戻るか? その偽善の仮面を剥ぎ取ってやろうぞ!」
高順は嘲笑を浴びせかける。これは完全な演技である。本気で劉備と殺し合うつもりは毛頭ない。
「何者だ! 朕の治世を乱す者は!」
劉備は問い質すふりをした。周囲の兵士たちの目を欺くための芝居だ。
「前将軍、并州牧、高順孝父だ! 漢室の安泰を願い、奸臣を討つ者よ!」
高順は胸を張って名乗りを上げた。
劉備は内心で苦笑した。 (ケッ!これがアイツが言ってた歴史と違うか! まさか劉備玄徳と槍を交えることになるとはな。皮肉なものだ)
劉備は野戦指揮のセンスが異常なまでに優れており、関羽と張飛という万人敵の武将を従えれば、最強の軍団ができあがる。実際、小規模な衝突ではあったが、高順軍は二千もの精鋭を失っていた。
(流石は蜀漢の始祖だ……ただ者ではないな)
「ふん! 今日はこのくらいにしといてやる! 皇叔の忠義心、存分に拝見した!」
高順はそう大声で宣言すると、兵を退くよう命じた。
実は袁紹を追いかけたのも、大軍を動かしたのも、全ては煙幕に過ぎなかった。本当の目的は、袁紹配下の有能な人材——田豊や沮授ら——を確保し、袁紹の勢力を実質的に手中に収めることにある。袁紹本人の命など、どうでも良かったのだ。
洛陽の宮中では、この事態を重く見た献帝と側近たちが緊急の会議を開いていた。
「国丈! 如何する? あやつらは皇権を無き物と目し、更には私欲のために兵を動かしておる! 朕は……朕はただの飾り物なのか?」
献帝の声は震えていた。まだ若い皇帝は、眼前で繰り広げられる権力闘争に恐怖と無力感を覚えていた。彼は漢王朝再興の夢を見ていたが、現実はあまりに過酷だった。
董承は冷静に、しかし力強く答えた。 「陛下、どうか落ち着きなさいませ。一国の君がこの様では、尚更、諸侯らに軽んじられますぞ。我々にはまだ為すべきことがあります」
すると、そこにいた若き官僚、竇輔が進み出た。 「左様、車騎将軍の仰る通りに御座います」
竇輔は桓帝期の外戚で大将軍だった竇武の孫であり、今は郎中令を務めている。若手官僚の中でも抜群の頭脳と政治感覚を誇り、献帝の信頼も厚かった。
献帝は竇輔を見つめ、わずかに期待を込めて問うた。 「では、お主には良策でもあるのか?」
竇輔は深々と頭を下げてから、落ち着いた口調で答えた。 「はっ!高順と申す者は、武力には優れるが、政治にはさして興味が無いようで御座います。また、朝廷の言う事を聞く素振りは見せております。此処は一旦、袁紹を見捨て、高順に河北四州の安定を任せては如何でしょう? それだけでも、辺境の異民族や、丞相曹操への抑止力となりますから」
献帝は考え込んだ。 「うーむ、なるほど……袁紹を名ばかりの大将軍に追いやり、高順に高官と厚碌を与えながら、その実、丞相の権力を削ぎ落とすか……」
「左様で御座います……さらに皇叔劉備には徐州を治めて頂き、中央の我等で漢を再興させましょう!」 竇輔の声には、若さゆえの熱い想いが込められていた。
皇帝は年頃の近い竇輔の話に益々耳を傾ける様になった。彼が密かに提案するのは、時代錯誤も甚だしいほどの壮大な計画——三公九卿という古い制度を廃し、内閣、六部、大都督府を設け、最終的には皇帝の権限を憲法で規定する立憲君主制への移行だった。
後年高順はこの計画について「時代を先取りし過ぎている。あの時代にできるわけがない」と鼻で笑っていたというが、当時の朝廷内部では、限られた者たちの間で真剣に議論されていたのである。
次の日、この計画の一部が現実のものとなった。三公九卿は実権を失った窓際の名誉職となり、新たに内閣と六部が設置されることとなった。礼部、吏部、刑部、兵部、戸部、工部の六部と内閣大学士には、曹操、袁紹、劉虞、司馬芳、竇輔、董承らが内定した。ほとんどが実戦を経験した実務派ばかりである。
高順はこの報せを聞いて、内心で思った。 (政治に関しては俺はノータッチのスタンスを貫く。面倒な政争に巻き込まれるより、并州で実力を養う方がよっぽどマシだ。少なくとも嫌な奴らと肩を並べることもないだろうからな!)
一方、袁術の陣営では、この人事を聞いて激怒する主君の怒号が響いていた。
袁術は半ば逆上した情緒不安定な状態で酒を煽り、側近の者たちに当たり散らしていた。 「丞相が無くなったのは良いとして…!何故儂も選ばれなかったのじゃぁ! 何故じゃ! 儂こそが袁家の嫡流であろうが! あの奴婢の子め!」
彼は酒杯を激しく床に叩きつけ、割れた破片を散らした。 「えぇい!よりによってあの閹醜(宦官)の孫(曹操)と、妾腹の兄(袁紹)が閣佬に選ばれ、儂は無位無官なのじゃ! ぬぅ…! こうなれば、儂も即位しちゃるわい! 我が朝廷を建て、我が天下を見せてやる!」
側近の一人が媚びるように言った。 「其れは良うございますな!陛下こそが真の天下の主に相応しゅう御座います!」
しかし、より慎重な家臣が必死に諫めた。 「アホな事を言うな!将軍! 其れだけは成りませぬぞ! 漢室まだ滅びてはおりませぬ! 大義名分無き即位は、天下の群雄の標的となるだけに御座います!」
袁術は逆上して叫んだ。 「…黙れ!お前など、最早用無しじゃ! 戻って将軍に報告してまいれ! 儂の決意は固い!」
家臣は諦めたように俯き、力なく答える。 「…はっ」
高順は洛陽にいても意味がないと判断し、三千の兵のみを残して残りは并州に連れ帰った。戻る途中で伝令兵と会い、袁家の息子たちを捕虜にしようとしたが、袁煕だけは抵抗し、戦死したようだった。
袁紹麾下の武将は麹義以外は無事に撤退したらしい。 (死んでも俺には従わねぇらしいけど、どうでもいいんだよなぁ…田豊や沮授さえ確保できれば、それでいい) 高順は内心でそう呟いた。
并州に戻る道中、高順の脳裏には現代の知識がよぎった。 (古代中国の識字率はメチャメチャ低い。所謂名門士族や地主と言う名の豪族以外は字を覚えられない。蜀漢後期の守将王平なんかは覚えてる字は十文字くらいらしいからね!これでは民主主義もクソもない。まずは教育だ)
彼は決意を新たにした。 (その差を無くして、政党政治と立憲君主制の礎を築きたい。あとは労働者の権利を守る組合も作りたい。ドイツの《ギルド》制だな、今やれるとしたらな。そうすれば少しだけど、国家の経済も回るんじゃないかな?)
海上貿易も考えたが、この時代の造船技術と航海技術ではリスクが高すぎる。 (でもやらなきゃ其れこそ閉関鎖国と言う悪癖がつき、数百年後、いや千年以上先の未来には欧州列強のサンドバックになりかねんから仕方がない。ゆっくりとでも、始めねばならん)
并州の治所・鄴に戻ると、高順はまず妻たちに挨拶し、捕虜となった将兵を適切に処遇した後、本格的に内政と軍政の改革に力を注ぎ始めた。敗残兵を加えると、高順の勢力は三百万人近い兵力を抱える一大勢力となっていた。
(俺は何処で道を間違えたのか? 保身と勢力拡大を考えるばかり、本来の目的——この時代をより良くする——を疎かにしてしまったかもしれん……) 高順は自嘲気味に思った。 (こうなれば独立王国でも立ててやろうか?とも思ったが、其れこそ袁紹や曹操らに俺を討つ大義名分を与えるようなものだ。そもそも俺に皇帝としての素質なんざありゃしないし、王朝なんて打ち立てたら其れこそ内部崩壊は確定するし、恐ろしくてできるか!)
彼は結論を出した。 (服を着るなら身の丈に合わせなきゃな!俺にできることは、この地を治め、民を豊かにし、後世に続く制度の基礎を築くことだ)
「鄴に諸先生方を集めよ! 大事な話がある!」
高順は伝令に命じた。
伝令が一目散に各地に走った。一ヶ月後、主要な家臣たちが鄴に集合した。
「皆、集まってくれた事に感謝する。これから話す事は、俺の、いや、我々の未来にとって極めて重要である上に、皆が一致団結しなきゃ達成できんからな。心して聞いてくれ!」
高順は重々しく、しかし熱意を込めて語り始めた。
それから三日三晩、戸籍制度の徹底、兵士の歸農政策による農業生産の向上、教育機関の設置と識字率向上策、軍縮と常備軍の効率化などについて、熱心な議論が交わされた。高順は現代の知識を駆使し、可能な範囲での改革案を提示した。
「話は以上だ。これは俺個人の野望ではない。今後数百、数千年以降の民らも、これに順応し、この漢の地をより良く盛り立てていく為の政策である! 我らは何があろうとも成し遂げねばならぬ! 罪は当代に有ろうとも、功は千秋に有り!」
高順の声には、偽りのない熱い想いが込められていた。家臣たちも、主君の並々ならぬ決意を感じ取り、議論こそしたものや、最終的にはその方針に賛同した。
文官筆頭には剛直で有能な田豊が就いた。荀諶、郭図、許攸は曹操の元に行き、田豊、沮授、辛評、辛毗、逢紀、王修は高順の元に残り、河北四州の内政改革を担うことになった。審配、顔良、文醜、麹義は袁紹の元に帰って行った。高覧、高幹、淳于瓊は袁煕と共に討ち取られたという。
参謀総長には、毒士と呼ばれながらも深い智謀を持つ賈詡を据えた。 (こっちの方が色々と捗るしな!あの男は、目的のためには手段を選ばんところがあるが、俺の目指す方向さえ間違わなければ、最高の助けとなるだろう) 高順はそう考えた。
武官筆頭は徐栄に決まり、軍組織を近代的な編成に近い、軍、師、旅団、連、大、中、小、班に再編成し、任務に応じた効率的な指揮系統を確立した。
約半年後、建安四年には各政策が河北四州に浸透し始め、兵力は常備軍二百万、動員可能兵五十万を維持できるようになり、合計二百五十万に達した。これは質より量を重視したものではなく、効率化と訓練による、精強な常備軍と予備兵の確保という意味合いが強かった。
地方の再生に力を注ぎ、息子達も順調に成長してくれたので、妻達も武芸を仕込んだり、学問を教えたりと、和気あいあいな日々を過ごした。 (平和な日々も、あのバカ(袁術)が騒ぎを起こすまではな……) 高順は内心、そう予感していた。
そして予想通り、曹操から使いが来た。袁術が帝位を僭称し、「仲氏」なる王朝を打ち立てたという知らせだった。
これには高順のみならず、曹操、袁紹、劉備ら名だたる諸侯らがこぞって怒り、許昌に集い偽帝討伐の軍議を始めた。
「諸公、集まって貰ったのは他でも無い、袁術が帝位を僭称し、国を立てた。これをどうするか? と言う事だ」
曹操が議題を提示した。その口調は冷静だが、目には袁術の愚行を糾弾する怒りと、この機を利用して諸侯をまとめ上げようとする計算が光っていた。
袁紹がすぐに立ち上がった。袁家の恥として、許せないという思いがあった。 「孟徳!此処は儂に任せよ! 袁家の恥は袁家で雪ぐ! あの愚弟の首を、儂が刎ねて見せよう!」
曹操は冷静にたしなめた。 「本初、落ち着け。お主一人の憤懣やる方ない思いはわかるが、これは天下の大事だ。一人では決まらぬよ」
劉備が穏やかながらも強く意見した。 「もちろん、討伐なさるのが当然で御座いましょう。天子の御代に二つも帝など、あってはなりませぬ。速やかに征伐すべきかと存じます」
誰かが呟いた。 「何を当たり前な事を……」
沈黙が流れ、緊張感が高まった。それぞれがそれぞれの思惑を胸に、次の発言を伺っている。
曹操が高順と竇輔に聞いた。この二人は、会議でほとんど口を聞いていない。 「孝父、竇大人、何故喋らぬ?お二人の見解も聞かせて貰いたいものだ」
高順は冷淡に、しかし核心を突くように答えた。 「ん?特に喋る事は無い。討伐せにゃお前らの閣僚の地位も微々たる官吏に落ちるからな! かく言うこの俺の将軍の地位も当然下がる。ならば許す訳にも行かぬであろう? そういうことだ」
袁紹が反論しようとしたが、高順は竇輔を指して言った。 「孟徳、俺に聞くなよ。それに、横の竇大人が一言も発して無いんだ。彼は朝廷の新星だろう?その意見の方がよっぽど重要だ。気に掛けてやれよ」
竇輔は俯き加減で、曖昧に答えた。 「高将軍、私の事はお気になさらずに…私は……」
高順は迫った。彼はこの若者が、献帝に奇妙な改革案を吹き込んでいることを知っていた。 「気にするしないとかじゃなくて、自分の意見を出せよ。俺達この場に居る人間全員で討伐するんだからさぁ…朝廷の代表者として、はっきりと言え」
竇輔は曖昧に答えるしかなかった。彼の理想は、内政改革であり、急進的な討伐戦ではなかった。 「…、此処は曹大人のご見識にお任せすれば宜しいかと…、私は軍事に疎いものでして…」
高順は意味ありげに、それでいてわざとらしく言った。 「へぇ…、そうかい、なら失せな。しっかしよぉ?これで三国帰晋になったら面白ぇけどな! どっちが“晋”になるかわからねぇけどな」
竇輔は一瞬、たまらず身体をピクリと動かした。その言葉が、彼の深層に触れたからだ。 「貴様!それはどういう意味か? 説明せよ!」
高順はすでにその場を立ち去りながら、背中に向かって言った。 「孟徳、決まったら一言寄越せ!そん時にゃ我が軍の精鋭を出すよ。まずは準備するからよ」
高順は直ちに鄴に戻り、出征の準備に取り掛かった。
「忠権! 居るか!」
張遼が駆けつけた。その顔は、出陣の準備が整っていることを物語っていた。 「ヘイ…!は、はっ! ご命令を!」
「直ぐに精鋭を集めよ! 歩兵三十万、騎兵十万だ! 演習を兼ねて、即座に出陣できる状態にしておけ!」
「承知いたした!」
精鋭四十万の兵が集結し、日々激しい演習に明け暮れた。ちょうどその時、妻の一人である呂氏が男の子を産んだとの報せが入った。高順は内心喜んだが、それよりも憂いが勝った。その子は呂布の血を引くからである。将来、禍根となる可能性がないとは言えなかった。
程なくして、曹操から伝令が来た。内容は、高順が出征した直後に袁紹が周囲を唆し、隙を見て冀州に兵を向けようとしているという警告だった。
(やはりな……本初め、やるじゃねぇか)
高順は諸将に伝令を送り、備戦状態を解かずに静観するよう指示した。袁術討伐よりも、本拠地を守る方が重要だった。
こうして劉備、孫策、高順、曹仁(曹操の代理)の四勢力が袁術討伐のために寿春城を包囲する運びとなったのである。それぞれの思惑を胸に、偽帝討伐という大義名分の下、一時的な同盟が結ばれたのだった。
袁紹は内部崩壊が進行中。有能な文官の多くを失い、参謀団は空洞化。袁紹自身の優柔不断さが災いし、かつての河北の雄としての権勢は失われつつある。最大の誤算は、高順という「変数」の存在とその能力を過小評価したこと。今は失地回復と、高順への復讐に執着するが、その力は既に凋落している。
曹操は最も巧みに状況を利用。献帝を擁しつつ、「漢室の忠臣」としての立場を利用して諸侯を糾合。袁紹と高順の対立を尻目に、着実に勢力を拡大。荀彧、郭嘉、程昱ら有能な参謀団が曹操の戦略を支え、夏侯惇、夏侯淵、曹仁ら一族の武将が軍事面を担う完璧な体制が整いつつある。袁術討伐も、自らの権威を高める絶好の機会と捉えている。
劉備は「仁義」と「漢室復興」を旗印に、民衆の支持と求心力を高めつつある。関羽、張飛という万人敵の武将は最大の強み。しかし、地盤が脆弱で、有能な参謀(諸葛亮、龐統など)がまだ登場しておらず、戦略面や内政面で他の勢力に遅れを取っている。今回の討伐戦も、大義名分と信頼獲得の場と見ている。
孫策は江南での勢力拡大に注力。父孫堅の代からの家臣団(周瑜、張昭、張紘ら)に支えられ、その勢いは日増しに増している。孫策の類い稀なカリスマ性と周瑜の卓越した軍略が結合し、江南統一は時間の問題。中原の争乱には直接関与せず、江南の安定と強化が最優先課題。今回の参戦も、朝廷への義理と、将来の中原進出への布石と考えられる。
朝廷は漢王朝再興という理想を掲げるが、軍事的、経済的な実力は皆無に等しい。献帝の権威はもはや名目上だけ。竇輔ら若手官僚の進める急進的な改革案は、現実の勢力図や時代の趨勢を無視した夢想の側面が強く、諸侯からは軽視されている。高順を抑え力と見るも、その思惑通りには動かないだろう。
高順は河北四州を実効支配下に置き、圧倒的な軍事力と先進的(しかし時代錯誤気味)な政治体制を築きつつある。田豊、沮授ら有能な文官と、賈詡という参謀総長を得て、内政面でも軍略面でも優れた体制。最大の課題は、高順の推進する改革が時代を先取りし過ぎており、周囲からの十分な理解と支持を得られるかどうか。袁術討伐後、曹操との対立は避けられない状況。
袁術の僭称をきっかけに、天下は再び大乱の時代へと突入しようとしていた。各勢力の思惑が複雑に絡み合い、新たな戦いの火蓋が切られようとしている。
高順は陣営で、遠く寿春の方向を見つめながら、内心で考えていた。
(この先、果たして史実のように「三顧の礼」や「赤壁の戦い」が起こるのか?それとも俺の存在によって、歴史は完全に別の道を歩むのか? 袁術討伐など、ほんの前哨戦に過ぎん……本当の戦いは、その後だ)
彼は、現代の知識という武器を最大限に活かしつつ、この激動の乱世を生き抜き、自身が理想とする「未来」を築く決意を新たにした。
(とにかく、まずは袁術を討ち、河北の地盤を盤石なものにせねばならん。その後は……時代の流れを冷静に見極め、次の一手を打たなければならない)
こうして、新たな戦乱の時代が幕を開けようとしていた。それぞれの野望、それぞれの思惑が複雑に絡み合い、中国全土を巻き込む更大な戦争へと発展していくのであった。