第十九回 換兵暗渡河内郡 因失策群雄衆怒
第十九回 換兵暗渡河内郡 因失策群雄衆怒
洛陽の街は、深い霧のような静寂に包まれていた。盧植の国葬という大義名分により、天下の群雄が一時的にせよ剣を収め、一堂に会する。この稀有な機会は、哀悼の儀式であると同時に、生き残りをかけた権謀術数の場でもあった。
宮中深く、玉座の間。幼くして数多の苦難を嘗めてきた皇帝劉協は、わずかながらも成長した面立ちに、消えることのない不安の影を落としていた。玉璽の重みは、未だ彼の幼き肩には過ぎたものである。
「舅父よ、天下の諸侯がこの許昌に集まる事になっておるが、朕は殺されるのか?それともまた、董卓の様な者が現れるのか?」
その声は、年齢よりも老成しており、震えを殺そうとする意志がひしひしと伝わってくる。傍らに侍るのは、車騎将軍・董承。霊帝の母、董太后の甥であり、劉協にとっては数少ない血縁のよりどころである。
「陛下、落ち着いてくだされ、そのような者は居りますまい、仮に居たとしても曹丞相が対応してくれる筈でございます」
董承はそう答えるが、その言葉には力強さが欠けていた。現実は過酷である。朝廷の実権、すなわち兵馬の指揮権は、すでに丞相曹操の手中にあった。
「舅父も車騎将軍であろう?何故、朕を護ってくれぬ?」
劉協の問いかけは、切実であり、無力な者同士の確認作業のようにも響いた。
「陛下、朝廷の兵馬は全て丞相が管理しております。私めに動かせる軍は無いのですよ?」
董承は俯き加減にそう言い添え、歯がゆさをにじませる。皇帝を救い出したのは曹操である。故に彼を司空から丞相へと昇格させ、絶大な権限を与えた。だが、その曹操の振る舞いも、次第に専横の色を濃くしつつある。劉協は密かに「衣帯の詔」を董承と皇叔劉備に与え、曹操への備えを命じていたのだ。救国の英雄への期待は、すでに猜疑へと変わり始めている。
彼が唯一、純粋な信頼を寄せ得ると感じるのは、血を分けた叔父劉備のみであった。そして、かつて禁軍十五万を送り、暗澹たる宮中に一筋の光をもたらした高順への複雑な期待感。その高順が今、河北で袁紹と激突せんとしている。
「うむ、袁紹は大将軍に任じたが、此度の喪主は高順なる者が務めるのであろう?」
「はい、おっしゃる通りです」
劉協は微かに頷いた。高順の過去董卓旗下としての経歴は知っている。それでも、彼が今、最大の勢力である袁紹と対峙する存在であることが、劉協の胸中で奇妙な安心材料となっていた。互いに対立する勢力が存在することこそが、皇帝の権威を相対的に高める術だということを、苦い経験から学んでいたからである。
「さ!陛下、そろそろ諸侯が謁見の間に来ますぞ?」
「うむ、行こうか」
劉協は玉座から立ち上がると、深く息を吸い込み、皇帝としての威儀を正した。弱さを見せてはならない。たとえそれが張子の虎であっても、なのである。
謁見の間へと続く廊下。諸侯たちが次々と集まり、互いに談笑し、あるいは冷ややかに牽制し合う。その前夜、洛陽では暗殺を謀る動きがあり、高順は自身が創設した情報組織を使って、曹操と自身への襲撃を未然に防いだという噂が、諸侯たちの間に囁かれていた。それぞれが表情を曇らせ、高順の名前を口にする時、どこか気後れするような空気が流れる。
その中で、高順に向かって闊達に声をかける男がいた。
「おお〜、高兄!久方ぶりであるな!」
「どちら様で?」
高順が怪訝そうな顔を向けると、その男は豪快に笑った。
「西涼の馬騰、馬寿成だ!いつぞやの戦場ではお世話になり申したな!」
高順は内心、苦笑を禁じ得なかった。はは…、フレンドリーに接してくれてどうもありがとう!ちょうど人見知りで誰だか分かんなかったんだよ! とは言えず、表面は礼儀正しく応える。
「これは、征西将軍でしたか!気付かずに申し訳ござらん、あの一別以来息災でしたか!」
「おお!勿論、お主に討たれるかと思ったがな!」
馬騰の笑い声は、場の緊張を幾分か和らげた。だが、高順の内心は複雑だ。主催したのは俺だけれども! この葬儀は、単なる追悼の儀式ではない。敵味方を見極め、その力量を探るための場でもあるのだ。
現在の天下の趨勢は、袁紹派と袁術派に大別される。名だたる勢力では、袁紹派に曹操、劉表がつき、袁術派には孫策、劉備が名を連ねる。しかし、袁術派の重鎮であった陶謙は病没、公孫瓚は高順に滅ぼされ、実質的に袁術派の実力者は孫堅と劉備のみ。逆に袁紹派も、劉表が消極的であることを考えれば、実質的な主力は曹操のみと言えた。天下は、袁紹、袁術、曹操、高順、そして孫策という巨大勢力が拮抗し、劉備が台頭しつつある、まさに戦国時代様相を呈していた。
「寿成兄、此方の御仁は?」
高順が問うと、馬騰はわかったような顔をして、傍らに控える若者を前に出す。
「おぉ!忘れておったわ!ははは、倅の超でござる。これ、挨拶せぬか!」
その若者は馬超、鋭い眼光を高順に向け、きびきびと挨拶した。
「馬超です、いすぞやの戦は肝を冷やしました。前将軍を以て階模とし、これより励みます!」
その溌剌とした、しかし芯の強さを感じさせる様子に、高順は内心で舌を巻いた。暑苦しい子だな!まぁ、爽やかな好青年で良いんじゃない?歴史通りに行けば漢朝有数のテロリストだけどな!
続いて、馬騰の傍らにいた渋い風貌の武将が拱手して名乗る。
「某は、韓遂、韓文約と申す、以後お見知り置きを」
高順も拱手で応じる。テロリスト其の二が居たよ…。 これまた後世を知る者ならではの複雑な感想である。
「おぉ〜、孝父!此処に居ったか!見かけなかったぞ!」
慣れ親しんだ声がして、曹操が近づいてくる。丞相の地位にありながら、どこか飄々とした態度は変わらない。
「孟徳、相変わらず忙しいようだな」
「ふふ、丞相の身ぞ?」
「ふふ、それもそうだな」
「では、お二方後ほど…」
互いにニヤリと笑い、その場を離れる。一見すると軽妙なやり取りだが、その視線の交錯には、互いの領土や軍備の状況、今後の動向を探る鋭い計算が光っている。
やがて、袁紹の姿が見える。高順と曹操は顔を見合わせ、ほぼ同時に歩み寄った。
「本初!袁大将軍!」
袁紹はゆっくりと振り返り、高慢な眼差しで二人を見下す。
「何だ?孟徳、つまらぬ様で有れば相手にせぬぞ?」
「ふふふふ、お主の敵じゃ!」
曹操はからかうように言う。
「孟徳、悪戯が過ぎるぞ?」
袁紹の眉間に曇りが走る。
「ふん!賊と共感が持てる日が来るとはな!貴様のせいで我が軍は今でも黎陽で釘付けになり動けておらんのだぞ?」
袁紹は高順を睨みつけて啖りついた。
高順は冷静に、しかしわざと挑発的に応じる。
「大将軍、天下の諸侯は皆そうなっておるぞ?」
袁紹の顔色が一層険しくなる。その緊迫した空気を、曹操がわざと大袈裟に遮る。
「まぁまぁ、皆落ち着かれよ!各々!敵と酒が飲めると言うのは珍しき事じゃ!此処は怨恨を一旦水に流して大いに飲もうでは無いか!」
袁紹と高順は沈黙する。他の諸侯たちも固唾を飲んで成り行きを見守る。
「孟徳、いや、丞相がそう言っておるのならば飲まぬ訳にもいくまい?」
袁紹がようやく口を開き、場の緊張はほのかに解ける。高順は、かつて読んだ漫画の剛毅な将軍を思い出し、その真似をしてわざと荒々しく振る舞う。
「食った、飲んだ!帰る!」
配下を促し、大仰にその場を後にする。それは無礼極まる振る舞いであったが、これもまた、袁紹らの怒りを買い、その注意を自身から逸らすための計算された行動であった。
宿舎に戻った高順を、袁術の配下楊弘が待ち構えていた。
「高将軍、無理を言ってお待ちしておりました。某は楊弘と申し、我が主袁公路の命にて将軍と折り入ってお話したき事がございまして…」
楊弘は慇懃な口調で切り出す。袁術はかねてより高順の勢力を恐れ、かつ侮り、自陣営に引き入れようと画策していると見える。
しかし高順は、わざと疲れた素振りを見せて断る。
「すまんが明日にしてくれ、もう、寝るから」
この高順のぞんざいな態度に、楊弘は自尊心を傷つけられた。彼は袁術の下へ戻ると、事態を誇大に歪めて報告した。「高順は公を見下し、交渉など無用と言わんばかりの態度でした」と。
この報告を受けた袁術は激怒した。彼は元来、自尊心が強く、気性の激しい男である。異母兄袁紹への対抗心も手伝って、高順への敵意をむき出しにした。葬儀の当日、袁術は袁紹と共に、高順に対して露骨な嫌味と侮蔑の言葉を浴びせかけ、ついには葬儀の途中で席を立って退出するという無礼を働いた。とんだわがまま野郎だ。
葬儀の最中、高順は曹操とひそひそ話を続けていた。まるで学校の朝礼で校長先生の話が長くて退屈な時に、近くの者と内緒話をするかのようである。
「孟徳、袁紹の顔見ろよ、青筋立ててんぞ?」
「ふっ、あぁ、今に剣を抜きかねぬぞ?」
高順は声を潜め、しかしわざと耳に入りそうな音量で囁く。
「だが、野郎気づくまい?と言うより、気づいても遅いわ!青州は既に吾が手に落ちて居るのだからなっ!クックックッ!」
曹操の表情がわずかに硬くなる。
「…、兵を出したのか?」
「あぁ、決めたからな!」
この会話は、袁紹やその配下の耳に入ることを計算した罠であった。高順は袁紹の注意を葬儀場に引きつけおきながら、その背後で密かに動いていたのだ。
そして、いよいよ皇帝劉協が口を開いた。
「諸卿、救国の英雄の為に集まった事に朕の心はだいぶ安撫した。そして、この三名の英霊も諸卿の参礼に感謝の念を表すだろう…、又、諸卿は朕が水火の中に居た頃より朕を救おうとした者達だ。あの時言えなかった礼は此処で言わせてもらおう」
諸侯たちは一斉に頭を下げる。
「「陛下、余りにも過分なお言葉、身共慌惶に御座います」」
「左様で御座います、陛下、臣等は当たり前の事をしたまでです」
劉備が静かに、しかし確かに言葉を添える。
「皇叔…、ありがとう、この乱世の最中に血縁の暖かさを感じさせてくれたのは大司馬と左将軍のみだ」
劉協は劉備を見つめ、そう言ってから、次に高順へと視線を移す。
「大将軍、おるか?」
「はっ!」
袁紹が一歩前に出る。
「北での事は朕も聞き及んでいるこの際、手を引かぬか?」
劉協の問いかけは、皇帝としての穏便な収拾を望むものだった。
しかし袁紹は、跪いたまま、はっきりと宣言する。
「恐れながら陛下、臣は陛下の為の戦に御座います。高順なる者、先は董卓の旗下に於いて陛下ましてや天下万民を苦しめた元凶です!」
この言葉に、場内が騒然とする。高順は自らの過去をわざわざ引き合いに出し、袁紹との対決の意志を変えないことを表明したのだ。
劉協は曹操を見た。
「そうなのか?丞相?」
曹操は呵々大笑するようにして答えた。
「はははは、臣は大将軍を推して盟主として二度も彼と戦いましたからな!臣は敵としての高順を知っても友としてはまだ日が浅い故、詳しくは申し上げられませぬ…」
これぞ奸雄の答えである。自身の立場を明確にせず、状況を混沌とさせる。
「高卿、何ぞ言う事は?」
劉協の問いかけは重たかった。
高順は深々と頭を下げ、静かな、しかしよく通る声で語り始めた。
「はっ、陛下に置かれましては、畏れ多くも面を合わせる事数度しか御座いませぬ、其れに…、太師董卓は陛下を害そう等と思った事は御座いませぬ、此処に集いし者らはそれぞれ何進将軍の仇を討とうと後先考えずに勇んだ結果太師が軍を連れて来ただけの事、某一人が呂布、董卓に抗った処で無駄死にするのが目に見えいる故に…」
これは巧妙な弁明であった。董卓への批判をかわしつつ、自身の非行動を正当化し、さらには「此処に集いし者ら」すなわち袁紹ら諸侯を暗に非難する内容を含ませている。
「卿の話は、わかった。下がるが良い」
劉協は複雑な表情でそう言い、高順を下がらせた。
高順は恭しく下がると、足早に歩き出した。そして、待機させていた配下の忠権に鋭く指示を飛ばす。
「忠権、錦衣衛に行って伝令を飛ばすように伝えろ!『伝令を出せ』と言えば向こうも判る筈だ」
「へい!」
「呉資、章誑!」
「はっ!」
「臨戦態勢を怠るなよ?恐らく、陰でコソコソ仕掛けて来るだろうが、面から仕掛けてくるやもせれぬからな!」
「「はっ!」」
配下たちは鋭く返事をすると、それぞれの任地へと散っていった。
高順は宿舎に戻ると、鎧も脱がず、ただ目を瞑って休息を取った。袁紹、袁術、劉備──彼らが何らかの策を仕掛けてくることは必定である。こちらの準備は整った。あとは敵の動きを待つのみだ。
一方、袁術の陣営では怒号が渦巻いていた。
「フゥーッ!フゥーッ!殺してやる、殺ししてやるぞ!あのゲスめが!この儂に向かって…!」
楊弘の歪んだ報告に激高した袁術は、高順暗殺を決断した。配下の精鋭に命じ、高順の宿舎への襲撃を企てる。
「構わぬ!彼奴を殺せば、儂が高官に推挙してやる!」
袁術の短慮で衝動的な性格が、ここでも災いした。
同じ頃、袁紹の陣営でも激論が戦わされていた。沮授や田豊ら慎重派は「国葬中の行動は非難を買う」と訴えたが、袁紹の自尊心は高順の挑発的な態度によって傷つけられていた。
「何れ戦で決着をつけるべきだ」
袁紹は謀臣らの諫言を退け、青州、冀州の軍に、高順の本拠地并州への侵攻を密かに命じた。しかし、その動きは、高順が創設した「錦衣衛」の網の目にかかっていた。
高順がこの時代に導入した「錦衣衛」は、後世の明王朝時代のそれとほぼ同様の機能を持つ、強力な情報機関兼秘密警察である。その長である張亮は、自由軍事行動権まで与えられた高順の影の如き存在だった。袁紹陣営に潜入した錦衣衛の工作員は、袁紹の出兵命令を即座に察知し、高順の下へと急報を送っていた。
高順は、袁紹の動きを察知すると、逆にわざと隙を見せる作戦に出た。呉資と章誑に目配せし、声高に話す。
「お前たち!都には滅多に来れぬのだから今日くらいは贅沢をしようではないか!」
「将軍、奴らは気づきますかね?」
呉資が問う。
「何がだ?」
「并州は今脆弱である事です!」
高順はわざと大笑いする。
「ほぅ?あの袁紹がか?有り得ん!あのバカにその様な器量があるんけ無かろう!馬鹿さ加減で言えば袁術は袁紹の上を行くがな!ハハハハハ!」
「戦を仕掛けて来る事は?」
「有るとすれば孟徳が強制的に止めるだろうよ!丞相の面子が立たないだろう?其れに我等は訓練されたばかりの新兵しか連れてきて居らぬ。寧ろ、我等を襲った方が手っ取り早いぞ!」
「左様で御座いましたか!」
「ふふ、我らが気にする事は無い!」
「そうですな!ははは!」
高順はさらに袁紹軍の将帥をことごとく貶し、その弱点を滔々と述べ立てた。
「良いか?いい事を教えてやる!奴が我等に絶対的に勝てぬ理由をな!」
「ほほぅ、其れは何でしょう?」
「如何に、袁紹の配下である許攸、郭図、審配、逢紀等は皆智謀に長けていようが、田豊、沮授は忠臣として名を馳せている。顔良、文醜も其の勇を三軍の冠するもの言えども魏越、成廉には及ぶまい、高覧、淳于瓊等は当世の名将であると言った処で文遠、儁乂の二番煎じよ!田豊は剛毅を持って上意を犯し、許攸は欲張りにして智が足りず、審配は威張るだけで謀が無く,逢紀は有能だが使えない。それぞれまるで火と水のように互い相容れず。顔良、文醜なぞ匹夫の勇を誇るだけの輩相手にするまでも無い。その他は凡庸な者ばかり。百万の大軍だろうが、相手としては不足なものよ!」
これらは、後世の歴史を知る者ならではの的確すぎる批評であった。もちろん、高順の本心ではない。わざと油断させ、過小評価させるための演技である。実際には、高順は晋陽から連れてきた「訓練された新兵」と、河内郡の精鋭部隊とを密に入れ替え、洛陽に来ていた。袁紹の間者には、それが脆弱な新兵に見えるように仕向けていたのだ。真の戦力は、すでに北方で動き始めていた。
翌日、朝堂で会議が行われている最中、事件は起きた。
并州から、血にまみれ、泥と汗に汚れた一人の兵士が、這うようにして洛陽の宮中へ辿り着き、袁紹の名を叫びながら息絶えたのである。
その兵士が握りしめていたのは、袁紹麾下の大将麹義の軍旗の切れ端だった。
場内は水を打ったように静まり返り、やがて怒濤のような非難の声が袁紹に集中した。
「ぜ、前将軍!我が并州が袁紹麾下の麹義に攻められております!」
高順配下の武将がわざとらしく絶叫する。
「なんと…!」
「これは、不義で御座いますぞ!」
「朝廷の体面は何処へ…?」
諸侯たちの非難の声が袁紹に浴びせられる。
袁紹は青ざめた顔で弁明しようとした。
「陛下!これは前将軍が私を陥れようと…!」
玉座の劉協の声は冷たかった。
「袁卿、朝廷を蔑ろにする気か?」
「そ、其れは…」
曹操も嘆くように言う。
「本初!見損なったぞ!」
文字通りの総スカンである。袁紹は進退窮まるが、さすがは名門の嫡子、そこでひるむような男ではない。虚勢を張って笑い出す。
「臣は、前将軍が出兵される様であれば其の後援に行く様に申し付けたはずが、どうやら臣の言葉を深読みして先走ってしまった様ですな!ハッハハハ!前将軍!すまぬな!」
袁紹は欺瞞に満ちた笑顔を高順に向けた。
高順はそれを受け、冷ややかに、しかし礼儀正しく切り返す。
「成程、大将軍もお考えがあっての事でしたか、ならば致し方有りませんな!ハッハハハ!攻められたところでって言う話にもなりますが?畏れながら、陛下、宜しいでしょうか?」
「うむ」
劉協が肯く。
高順は袁紹を見据え、言葉を続ける。その口調は次第に鋭さを増していく。
「臣、順には雄兵百万を北境に雍し、大将軍に攻められたところで大した問題には成りませぬ。其れに、後援を頼みもせずに勝手に送るとはとても常人の考えでは無い上に正気の沙汰にも思えませぬ、その上で、この様な判り切った嘘をつかれるとは心外に御座います。其れに、《援軍ならば寧ろ河内に送って頂いた方がありがたがったですが》大将軍程のお方とあらば、もう少し広い度量をお持ちかと思われましたが…!」
そして、高順はわざとハッと我に返ったように劉協に平伏した。
「陛下、申し訳ございません。失言を致しました!どうかお許しください!」
あざとい演技ではあるが、その効果は絶大であった。袁紹陣営の重鎮である沮授や田豊でさえ、この嘘に加担していないことを示すように、困惑と失望の表情を隠せなかった。袁術でさえ、兄の見苦しい言い訳に薄ら寒い表情を浮かべる。
皇帝劉協は、この機会を逃さなかった。諸侯の対立が明確化した今、こそ皇帝の権威を示し、秩序を再構築する時である。
「諸卿、これより封地を取り決める。皇叔には徐州の一切を任せる。孫卿には揚州を任せる。各々現在の州を封地とする。」
劉協はそう宣言し、諸侯たちの既得権益を追認することで、皇帝の恩恵としての権威を印象づけようとした。諸侯たちは、それぞれ安堵したり喜んだりする。しかし、劉備だけは毅然とした表情を崩さない。その左右に関羽、張飛らが控え、静かなる強さを放っていた。
やがて会議が終わり、諸侯が散会する中、曹操と孫策が高順のもとに駆け寄ってきた。
「孝父、少しいいか?」
「丞相、前将軍、俺も同行させて貰おう!」
三人は人目を避け、密談を始める。
「孝父、これからどうするよ?」
曹操が真剣な表情で問う。
高順の答えは明快であった。
「どうもこうも有るか!袁紹を殺す!孟徳、お前は黄河北岸には手を出すなよ?冀州も青州も俺が治める!良いな!文台、お前は水師を鍛えとけ!我等で天下を牛耳る時には必ず必要になるからな!前に書簡でも言ったが、江東での地盤固めが最優先だ!戦一辺倒じゃなくてちゃんと行政にも目を向けろよ?百越はゆっくり取り込め、ダメなら討伐だ!」
劉備は袁紹の陣営を後にする。袁紹の曖昧な態度に内心では「優柔不断な貴様め」と吐き捨てたい思いだったが、表情には出さない。自分には関羽、張飛という万人敵の義兄弟がいる。いずれ、この混乱に乗じて自らの勢力を拡大する機会は訪れる。それまで、虎狼どもに食い物にされないよう、慎重に世事を観察し、時に応じてより有利な側に付くまでだ。
「兄者、袁紹の奴、はっきりした返事をせんのか?」
待ち構えていた張飛が、いら立ったように声を荒げる。
「益徳、静まれ」
劉備は静かに制した。
「袁本初は名門の嫡流、軽挙はせぬ。我等は我等で、次の一手を考えねばならん」
「ならば、いっそのこと、曹操でも高順でもない、第三の道を……」
関羽が瞇せた細眼をさらに細め、深遠なものを睨むように呟く。
「雲長の言う通りだ」劉備は頷いた。「我らは『漢室復興』の旗を掲げ続ける。これこそが、我らが最も強い義なのだからな」
三人は暗い洛陽の路地を歩きながら、次の策を練り始める。彼らにとって、この乱世は苦難であると同時に、躍動の舞台でもあった。
一方、高順の宿舎では、張亮率いる錦衣衛から続報がもたらされていた。
「申し上げます。袁術配下の者らしき影、宿舎の周囲をうろついております。如何いたしましょうか」
「ほう、やはり来たか」
高順は哄笑する。
「楊弘の報告にカッとなった袁術め、暗殺などという三流の真似をしおって。錦衣衛の手勢でいい、目に付かぬよう処理しろ。ただし、証拠は残すことだ。袁術の者と分かるような物でも何でも、ぽろりと落としておけ」
「承知いたしました」
張亮は微塵の躊躇もなく下がり、暗闇に消えた。高順は窓の外の月を見つめる。この時代に、組織化された諜報機関の重要性を理解している者は、自分以外にはほぼいない。それが最大のアドバンテージだ。
「袁紹、袁術、劉備……曹操に孫堅。皆、己の野望のために動く。ならば、この高順もまた、己の野望のために動くまでだ」
彼の野望は単純明快である。この乱世に終止符を打ち、強大すぎる外敵の来襲に備え得る、強固で統一された国家を築くこと。そのためには、手段は選ばない。たとえ、かつて自分が憧れた英雄たちと刃を交えることになろうとも。
翌朝、洛陽の街中で、袁術の家紋が刻まれた短刀を持った無惨な死体が発見されるという事件が起きた。誰の仕業かは明らかではないが、袁術が暗殺を企てて失敗したとの噂は、たちまち諸侯の耳に入った。
「無能めが!」
袁紹は弟の失態を聞き、邸宅で怒りを爆発させた。
「それでも袁家の嫡子を名乗るのか!その程度の小細工ですら、まともに遂行できぬとは!」
「公、御立腹はごもっともですが……」
参謀の沮授が静かに諫める。
「今は公路公を非難している場合ではございませぬ。高順の奸智、そして彼が持つ未知の組織の力こそが恐るべきです。我々はすでに一手打っております。麹義将軍の并州侵攻こそ、次の焦点でございます」
「……そうだな」
袁紹は怒りを必死で鎮め、麹義からの報告を待った。
しかし、待ち受けるのは捷報ではなく、衝撃的な敗報であった。
「本初公! 大変でござる!」
郭図が顔色を失って駆け込んできた。
「麹義将軍、河内郡にて高順軍の張遼、張郃の軍に待ち伏せに遭い、壊滅的な打撃を受けたと申します!」
「な……っ!?」
袁紹はその場に呆然と立ち尽くした。
「待ち伏せ?なぜだ? 并州は空虚ではなかったのか!?」
「それが……どうやら高順は洛陽に来る際、晋陽の新兵と河内郡の精兵を密に入れ替えていたようです」
逢紀が悔しげに報告する。
「河内郡の守りは固く、麹義将軍は完璧な罠にはまってしまいました……」
「ぐ……っ……高順……め……!」
袁紹は机を激しく叩きつけ、悔しさの余り唇を噛みしめた。自分は完全に高順の術中にハマっていたのだ。国葬への参加も、挑発的な態度も、すべては袁紹の注意を引きつけ、油断を誘うための芝居だった。
「しかも陛下には、諸侯の面前で、あのように……」
審配が呟く。
「我が軍の非道を訴えられ、援軍の偽装工作まで見抜かれるとは……」
「あの小賢しい……!」
袁紹の屈辱は頂点に達した。もはや、正面からの衝突は避けられない。高順を討たねば、袁家の名は地に落ちる。
「全軍、準備をせよ!」
袁紹は咆哮した。
「高順討伐のため、我らは冀州に帰還する!あの奸物を叩き潰してくれる!」
その報せは、すぐに高順の下にももたらされた。
「袁紹、激怒して帰還したとのことです」
曹操が高順の宿舎を訪れ、含み笑いを浮かべて報告する。
「孝父、見事なやり口だ。しかし、これで袁本初との全面戦争は避けられぬぞ?」
「最初からそうなることは分かっていた」
高順は平静を装う。
「孟徳、お前は約束を守れよ。黄河北岸には手を出すな」
「ふむ……約束だな」
曹操の目が一瞬、鋭く光る。
「だがな、孝父、もしお前が袁本初に敗れ、瀕死の状態になれば話は別だ。その時は、俺が漁夫の利を得るまでよ」
「そうサギ師みたいなこと言うなよ」
高順は苦笑する。
「それより、お前はお前で、袁術と劉備をどうにかしろ。あの偽皇帝志願のバカ殿下と、人徳者の皇叔が手を結びでもしたら、こっちも面倒だ」
「任せおけ」
曹操は悪戯っぽくウインクした。
「劉備め……あの男は油断ならん。だが、その『仁徳』が仇となる日も来るだろうさ」
曹操は去っていった。高順は、この奸雄との危険な同盟関係がいつまで続くか分からないという緊張感を改めて感じる。
さあ、これからだ。
高順は、配下の将軍たちを召集した。張遼、張郃、魏越、成廉、呉資、章誑ら錚々たる面々が、主君の下に集う。
「諸将、聞け!」
高順の声は凛と響いた。
「袁紹との雌雄を決するときが来た! だが、忘れるな!我らの真の敵は、袁紹でも曹操でもない! この乱世そのものを終わらせ、神州を真の意味で統一せんとする者こそが、最後に笑うのだ!」
「おおおっ!!!」
将軍たちの鬨の声が響き渡る。
高順は、并、冀州へと続く道を見つめた。黎陽、官渡……やがて来る決戦の地を思い浮かべながら。
「行くぞ! 天下の趨勢を決める戦いへ!」
こうして、盧植の国葬は、河北の霸権を賭けた高順と袁紹の全面衝突という、新たな天下大乱の幕開けを告げる号砲となったのである。奸智に長けた新興勢力・高順。名門の威信を背負い怒涛の進撃を開始する袁紹。その傍らで虎視眈々と機会を狙う曹操、孫堅、劉備群雄たちの欲望と戦略が、再び神州を震撼させる大戦へと突き進んでいく。