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第十八回 高孝父面臨強敵 曹操失智坑盟友

天下の諸侯たちは、深い悩みの淵に沈んだ。たかが一人の人間の死のために、目前の戦争という重大事を放棄し、葬儀に参列せよという話は、本来であれば愚の骨頂と言うほかなかった。しかし、死んだ人物が盧植である以上、話は別であった。盧植は後漢末期を代表する名将、大儒として広くその名声を天下に轟かせ、人望も極めて厚い人物である。大将軍として、あるいは一方の雄として、その前任者ともいうべき人物の葬儀に出席しないというのは、武人としても君主としても、その体面を大きく傷つける行為であり得る。しかしながら、葬儀への参加中に、隣接する勢力、特に猛将高順の奇襲を受ける危険性は、各々が強く懸念せざるを得ない事柄であった。曹操は丞相として、この難問を取り纏め、諸侯間の調整を行わなければならない立場にある。袁術もまた、その家格と地位から、表向きは出席せざるを得ない状況にあった。この状況下で、明確に出席しない意思を示したのは、益州の劉焉、漢中の張魯、西涼の韓遂など、地理的に遠く、直接の利害関係が薄い勢力に限られた。彼らの選択は、即座に他の諸侯、特に曹操や高順から見て、「敵」と認識されることを意味した。天下の趨勢は、一つの葬儀を境に、さらに複雑で緊迫した様相を帯び始めるのである。


私は高順である。この状況を打破し、自身の勢力を盤石なものとするため、曹操および孫策と緊密に書簡を交わし、軍政双方にわたる大規模な改革案の協議を進めていた。まず軍政においては、後世の明朝の制度を参考に、軍事の最高統括機関として「大都督府」の設置を構想した。さらに、この大都督府の権限と業務を分散化し、効率性と相互監視を図るため、天下を五つの管区(東西南北中)に分割し、それぞれに「都督府」を設置、総称して「五軍都督府」とする案を提示した。同時に、私は直轄の情報機関として「錦衣衛」の設立を計画した。これは、各地に密偵を派遣し、諸侯の動静、民心の動向、物資の流れなど、多岐にわたる情報を収集、分析することを目的とするものである。軍の規模が大きすぎて統制が困難であるならば、それを分割統治すればよいという発想に基づく。行政面においては、より根本的かつ理想主義的な改革案を打ち出した。すなわち、法とは単なる為政者の命令ではなく、「事物の本性に由来する必然的な関係」であると定義し、政治権力が一つの機関や個人に集中した場合、どうしても専制や恣意的な運用が生まれ、真の意味での政治的自由は保障されないと考えた。そこで、政治権力を立法・行政・司法の三つに分割し、それぞれが独立して相互に抑制と均衡を図るシステム、「三権分立」の導入を提案したのである。これは、後世のフランスの哲学者モンテスキューの思想そのものと言える。もしこの思想が何らかの形で後世に伝われば、それはそれで意義深いことではないか。たとえ現世では危険思想として罪人扱いされようとも、その功績は千年先まで評価されるかもしれない――そんな一種の挑戦的な気持ちも含んで、曹操に対してこの構想を打診したのであった。


曹操からの返書は、私の予想をある意味で裏切るものだった。彼は軍事面の改革案についてはおおむね賛同を示したものの、政治面の三権分立論については、強い難色を示したのである。彼の書簡にはこう記されていた。


「政治面の論理は、その理想としては素晴らしい。しかし、それはあまりに理想に偏りすぎている。少なくとも、天下が泰平となり、万人が法の精神を理解する世の中を前提として初めて機能するものであろう。今すぐに実行に移すには無理があり、現状では机上の空論と言わざるを得ぬ。軍事面の改革については、それぞれの支配地域で実践してみるほかない。まずは我ら、お前と俺の支配地域において試行し、その成果を見てからでも遅くはあるまい」


まさにその通りである。彼の指摘は痛烈であり、現実を直視せよという戒めでもあった。理想を語るだけでなく、目前の乱世を如何に生き抜き、如何に天下を平定するかという現実的な課題が眼前にある。そうなれば、我々が取るべき道は一つである。曹操と手を組み、最大の脅威である袁紹、そして袁術を打倒することに集中するしかない。


「忠権! この手紙を、急ぎ許昌の丞相の下へ届けてもらえるかな!」


「はっ!承知いたしました!」


張五、今は張亮と名乗る彼は、結婚してから初めての重大任務である。未だに私の使い走り的な役目ではあるが、その憎めない愛嬌と誠実な人柄から、上役には可愛がられ、下僚や兵士たちからは慕われる良い男に成長していた。


「さて、呉資!諸将に招集をかけよ! これより軍議を開く!」


「はっ!ただちに手配いたします!」


急ぎ召集された諸将たちを前に、私は宣言した。


「諸将、良く集まってくれた。まずは、今までのことを詫びさせてくれ。儂はこれまで、覚悟が足りなかった。この乱世にありながら、争いを避け、平穏などという甘い考えを抱いていたようだ。しかし、これからは違う。我が敵となる者は誰であろうと打ち倒し、皆で心を一つにして、真の泰平の世を築き上げるまでだ!」


「「はっ!」」


「へん!遅すぎるんだよ、旦那ァ!」


「そのお言葉を、ずっと待っておりましたぞ!」


皆、やや張り切りすぎている感がある。もしかすると、彼らは内心、戦争を待ち望んでいたのだろうか?まあ、そうではあるまいか。しかし、その意気込みが無いよりは、はるかにマシである。そう自分に言い聞かせる。


「まずは、遼東の公孫度から始める!袁紹はその次だ!」


「「はっ!」」


「儁乂!此度の戦い、お前を先鋒としよう。遼東を攻め落とし、そのまま当地に留まり、高句麗や鮮卑、烏桓の動きを防げ!」


「はっ!任せてください!」


「文遠、徐将軍!お前たちは常山、河間から攻めよ!」


「「承知いたしました!」」


「華雄、樊稠、張繍!」


「「はい!」」


「お前たちは、俺と共に兗州から攻め入る!」


「「はっ!」」


「呼ばれなかった者は、塞外の辺防を決して怠るなよ?そちらも、今回の戦いと同じく、極めて重大な任務だからな!」


「「はっ!」」


こうして、私は高順、一世一代の大博打に打って出た。天下に覇を唱える最強の諸侯袁紹を打倒するという、あまりにも巨大な賭けである。


「文和殿、および諸先生方、袁紹討伐の檄文の作成を、どうかお願いいたします」


「承知いたしました。速やかに起草いたしましょう」


この動きは、当然ながら袁紹の耳にも入る。袁紹もまた、陳琳という当代随一の文章家に、高順曹操討伐の檄文を書かせたのである。


「ふん!逆賊めが、儂を討つだと? 笑わせてくれるわ! 董卓の爪牙に過ぎぬ小僧が! 叩き潰してくれる! 皆の者、何か良き策はないか!」


「私は反対です!」


「元皓、何故だ?」


「并州の高順は、百万の兵を擁し、その武略は幾度となく我が軍を脅かしております。さらに匈奴を味方につけ、并州、幽州、司隸の西半分を手中に収めております。高順一人だけでも手に余る状況であるというのに、さらに曹操までもが相手です。曹操は用兵に巧みで、兵力が少ないからといって軽んじてはなりません。持久戦に持ち込み、その間に外では四方の英雄と手を結び、内では兵事と農事を整えるべきです。敵の虚に乗じて奇襲部隊を派遣すれば、敵は奔命に疲れ、二年もしないうちに、居ながらにして勝利を収められるでしょう。成敗を一戦で決しようとするのは、あまりに危険です。もしも思いどおりにならなければ、悔いても及ばない。高順は、その後でゆっくりと片付ければよろしいかと…!」


これに対し、審配は田豊の意見を真っ向から否定した。


「否!明公は英明神武、我が軍は盛んで強し。兵を興し曹賊を討伐するなど、掌を返すがごとく容易きこと。兵を出すことに時間をかけるなど、以ての外であり、その意味がわかりませぬ」


沮授は田豊に賛同し、早期決戦に反対の立場をとった。


「戦いに勝つのは、必ずしも軍が盛んであるからだけとは限りません。曹操の軍は法が厳明で、その士卒は善く戦う者ばかりです。彼らは、公孫瓚のような、座して死を待つような愚は犯さないでしょう…。良策を棄てて、大義名分すら定まらぬ無名の師を起こすことは、結果として良からぬこととなると存じます」


郭図はこう主張した。


「曹操を征伐すると言うのに、無名の師と言えましょうや?明公、上には天の意、下には民の情が重なっておりますぞ! それに、鄭尚書より劉備づてに手紙が届いておりますではないですか? 劉備と手を合わせて、曹操を討ち滅ぼしましょう!」


荀諶と許攸も同調する。


「明公、強きを以て弱きを叩き、我が漢に仇なす賊を討ち、漢室の再興を目指すならば、今こそがその時でございますぞ!」


これら一連の主戦論を聞いた袁紹は、ようやく肯き、大軍を動かすことを決断した。


「お前たちの言うことは、どれも我が心意に合うことばかりである。よろしい、これより軍議を始める!」


「明公、大義を以て曹操を討つならば、まずは天下に曹操の罪状を知らしめなければなりません。その後に、大義名分を明確にした上で兵を出されるべきかと存じます」


この結果、袁紹陣営内では、謀士たち田豊、沮授、郭図、審配、逢紀、辛評、許攸、荀諶らによる、賛否両論が入り乱れる大激論が開始されることになる。錦衣衛を通じてこの情報を入手した私は、内心ほくそ笑み、いつでも青州、冀州に軍を出撃させられるよう準備を整えさせた。袁紹配下で、真に正面から軍勢を指揮できる人物は、袁紹自身とその三人の息子、そして甥の高幹、それに麹義、高覧、淳于瓊など、ごく限られていると分析していた。


郭図の意見を受け入れた袁紹は、陳琳に檄文の作成を命じた。出来上がった文章は、後世に伝わる名文として、また曹操の祖父、父、本人をことごとく罵倒した悪文として、歴史に残るものとなった。その内容は、以下のようなものである。


(以下、陳琳の檄文の漢文と意訳)


【漢文】 蓋聞明主圖危以制變、忠臣慮難以立權。是以有非常之人、然後有非常之事、有非常之事、然後立非常之功。夫非常者、固非常人所擬也。 曩者、強秦弱主、趙高執柄、專制朝權、威福由己、時人迫脅、莫敢正言、終有望夷之敗、祖宗焚減、汙辱至今、永為世鑒。及臻呂后季年、產、祿專政內兼二軍、外統梁、趙、擅斷萬機決事省禁、下陵上替、海內寒心。於是絳侯、朱虛興兵奮怒、誅夷逆暴、尊立太宗故能王道興隆、光明顯融、此則大臣立權之明表也。 司空曹操祖父中常侍騰、與左悺、徐璜並作妖孽、饕餮放橫,傷化虐民。父嵩乞匄攜養、因贓假位輿金輦璧、輸貨權門竊盜鼎司、傾覆重器。操贅閹遺丑、本無懿德僄狡鋒俠、好亂樂禍。 幕府董統鷹揚、掃除兇逆。續遇董卓、侵官暴民、於是提劍揮鼓、發命東夏、收羅英雄、棄瑕取用。故遂與操同諮合謀、授以裨師謂其鷹犬之才、爪牙可任。至乃愚佻短略、輕進易退傷夷折衂、數喪師徒。幕府輒復分兵命銳、修完補輯、表行東郡領袞州刺史、被以虎文、獎成威柄、冀獲秦師一剋之報。而操遂承資跋扈、恣行凶忒、割剝元元、殘賢害善。 故九江太守邊讓英才俊偉、天下知名直言正色、論不阿諂身首被梟懸之誅、妻拏受灰滅之。自是士林憤痛、民怨彌重、一夫奮臂、舉州同聲。故躬破於徐方、地奪於呂布彷徨東裔、蹈據無所。幕府惟強幹弱枝之義、且不登叛人之黨、故復援旌擐甲、席捲起征。金鼓響振、布眾奔沮。拯其死亡之患、復其方伯之位。則幕府無德於兗土之民、而大有造於操也。 後會鑾駕返旆、群賊亂政。時冀州方有北鄙之警、匪遑離局故使從事中郎徐勛、就發遣操、使繕修郊廟、翊衛幼主。操便放志專行脅遷、當御省禁卑侮王室、敗法亂紀坐領三臺、專制朝政爵賞由心、刑戮在口所愛光五宗、所惡滅三族、群談者受顯誅、腹議者蒙隱戮百僚鉗口、道路以目尚書記朝會公卿充員品而已。 故太尉楊彪典歷二司、享國極位。操因緣睚眥、被以非罪榜楚參并、五毒備至觸情任忒、不顧憲綱。又議郎趙彥忠諫直言、義有可納、是以聖朝含聽、改容加錫。操欲迷奪時權、杜絕言路、擅收立殺、不俟報聞。又梁孝王先帝母昆、墳陵尊顯桑梓松柏、猶宜肅恭而操帥將校吏士、親臨發掘、破棺裸屍、掠取金寶。至今聖朝流涕、士民傷懷。操又特置發丘中郎將、摸金校尉、所過隳突、無骸不露。身處三公之位、而行盜賊之態、污國害民、毒施人鬼。加其細政慘苛、科防互設罾繳充蹊、坑阱塞路舉手挂網羅、動足觸機陷是以袞、豫有無聊之民、帝都有吁嗟之怨。歷觀載籍、無道之臣、貪殘酷烈、於操為甚、幕府方詰外姦、未及整訓加緒含容冀可彌縫。而操豺狼野心、潛包禍謀、乃欲摧撓棟梁、孤弱漢室除滅忠正、專為梟雄。往者伐鼓北征高順、強寇桀逆、拒圍一年。操因其未破、陰交書命、外助王師、內相掩襲。會其行人發露、瓚亦梟夷、故使鋒芒挫縮、厥圖不果。今乃屯據敖倉、阻河為固、欲以螳螂之斧、御隆車之隧。 幕府奉漢威靈,折衝宇宙;長戟百萬、驍騎千群、奮中黃、育獲之士、騁良弓勁弩之勢、冀、青州涉濟漯大軍汎黃河以角其前、荊州下宛葉而犄其後、雷震虎步、並急虜廷、若舉炎火以炳飛蓬,覆滄海以沃熛炭、有何不滅者哉?又操軍吏士、其可戰者,皆出自幽、冀、或故營部曲、咸怨曠思歸、流涕北顧。其餘袞、豫之民、乃呂布之餘眾、覆亡迫脅權時苟從、各被創夷、人為讎敵。若回旆反徂、登高崗而擊鼓吹,揚素揮以啟降路、必土崩瓦解、不俟血刃。方今漢室陵遲、綱維弛絕、聖朝無一介之輔、股肱無折衝之勢、方畿之內、簡練之臣、皆垂頭搨翼、莫所憑恃、雖有忠義之佐、脅於暴虐之臣、焉能展其節?又操持部曲精兵七百、圍守宮闕、外託宿衛,內實拘執、懼其篡逆之萌、因斯而作。此乃忠臣肝腦塗地之秋、烈士立功之會、可不勗哉? 操又矯命稱制、遣使發兵。恐邊遠州、郡過聽給與、違眾旅叛、舉以喪名、為天下笑、則明哲不取也。即日青、冀両州並進。書到荊州、便勒見兵、與建忠軍協同聲勢。州郡各整義兵、羅落境界、舉武揚威、並匡社稷、則非常之功於是乎著。 其得操首者、封五千戶侯、賞錢五千萬。部曲偏裨將校諸吏降者、勿有所問。廣宣恩信、班揚符賞、布告天下、咸使知聖朝有拘迫之難。 如律令。


【意訳】 聞くところによれば、明君は危険を予測して変化に対応し、忠臣は難局を考慮して臨機の権力を立てるという。だからこそ、非凡な人物がいて、その後には非凡な事業が起こり、非凡な事業があって、その後には非凡な功績が立てられるのである。そもそも非凡なものは、固より凡人には企てられないのである。 昔、強大な秦に幼弱な君主が立ち、趙高が権柄を執り、朝権を専制し、刑罰と恩賞を己の思いのままにし、当時の人々は脅迫され、敢えて正しいことを言う者もなく、終には望夷宮での敗亡を迎え、祖宗の祀りは絶え、その汚辱は今日まで伝わり、永く世の戒めとなっている。また呂后の末年に至っては、呂産、呂禄が政権を専断し、内では二軍を兼ね、外では梁、趙を統治し、万事を擅に断じて禁中で事を決し、下位の者がのし上がり上位の者が廃れ、海内の人心を寒からしめた。この時、絳侯と朱虚侯が兵を興して奮い怒り、逆暴を誅夷し、太宗を尊立したので、よく王道を興隆させ、光明を顕わに融和させることができた。これこそ、大臣が権力を立てる明らかな表れである。 司空曹操の祖父である中常侍の曹騰は、左悺、徐璜らと共に妖孽となり、貪婪の限りを尽くし横行し、教化を傷つけ民を虐げた。父の曹嵩は乞食同然で引き取られ養われた身であり、賄賂によって官位を得、金や宝玉を車に積んで権門に贈り物をし、三公の位を盗み取って国家の重器を傾覆させた。曹操は宦官の醜い残り物であり、元より美徳などなく、軽薄で狡く、短気で侠気を振り回し、乱を好み禍を楽しむ。 幕府は、勇士を統率して凶逆を掃除した。続いて董卓が官職を侵し民を暴く事態に遭遇し、そこで剣を提げ鼓を揮い、東夏に対し命令を発し、英雄を収羅し、欠点を捨てて才能を用いた。そこで遂に曹操と共に謀議し、副将の職を授け、その鷹犬の才、爪牙としての任務を担えると考えたのである。ところが彼は愚かで軽佻、策略は浅く、軽率に進み易々と退き、傷つき敗れ、幾度も軍兵を喪った。幕府はその度ごとに兵を分け精鋭を命じ、補修して整え、上表して東郡の行いを兼ねて兗州刺史とし、虎の皮を着せて威勢を助け、秦の師が一度の勝利で恩に報いたようなことを期待した。しかし曹操は、その資産を承けて跋扈し、恣に凶悪な行いを尽くし、民衆から搾取剥奪し、賢者を傷つけ善人を害した。 故九江太守の辺譲は英才俊偉で、天下に名を知られ、直言正色で、論ずるに諂うことなく、その身は梟首の刑に処され、妻子は滅亡の憂き目に遭った。これ以来、士林は憤痛し、民怨はますます重くなり、一人の男が奮臂するや、州を挙げて同声となった。故に曹操自身は徐州で敗れ、領地は呂布に奪われ、東の辺境を彷徨い、拠る所もなくなってしまった。幕府はただ強幹弱枝の大義と、叛人の党に加わらないことのため、再び旌を援き甲を擐き、席を巻く如く征伐を起した。金鼓の響きは震い、呂布の軍勢は奔り沮んだ。彼を死亡の患いから救い、方伯の位に復させたのである。すなわち幕府は兗土の民に対しては何の恩徳もないが、曹操に対しては大いに貢献したのである。 後に天子の車駕が戻り、群賊が政を乱した時、冀州では丁度北鄙の警報があり、慌てて離れるいとまもなく、故に従事中郎の徐勛を遣わして曹操に出動を命じ、郊廟を修繕させ幼主を輔衛させた。ところが曹操は勝手に志を放ち専行し、脅迫して遷都させ、禁中を支配して王室を卑しめ侮り、法を敗り紀を乱し、座ったまま三台を領し、朝政を専制し、爵賞は心のまま、刑戮は口先次第、愛する者は五宗まで栄えさせ、憎む者は三族まで滅ぼし、群れて談ずる者は公然と誅され、腹で議する者は密かに殺され、百官は口を箝み、道路では目配せで会話し、尚書は朝会の記録を取り、公卿は員数を埋めるだけの存在となった。 故太尉楊彪は二司を歴任し、国を享けて極位にあった。曹操は些細な怨みによって、無実の罪を着せ、鞭打ちの刑を併せ用い、五毒をことごとく備え、感情に任せて悪事を働き、憲法綱紀を顧みなかった。また議郎趙彦は忠を尽くして直言し、その義には採用すべき点があったので、聖朝は含んで聴き、顔色を改め賜物を加えた。曹操は時権を迷い奪い、言路を杜絶しようとし、勝手に捕らえて即座に殺し、上奏して聞かせるのを待たなかった。また梁孝王は先帝の母弟であり、その墳陵は尊く顕れ、桑や梓、松や柏でさえも肅恭すべきであるのに、曹操は将校吏士を率い、自ら臨んで発掘し、棺を破り屍を裸にし、金宝を掠め取った。今も聖朝は涙を流し、士民は傷み懷う。曹操はまた特に発丘中郎将、摸金校尉を設置し、通過する所では破壊し突入し、骸を露わにしないものはない。身は三公の位にありながら、盗賊の態を行い、国を汚し民を害し、その毒は人鬼に及ぶ。加之その細政は惨苛で、科条や防備を互いに設け、罾繳で小道を充たし、坑阱で道を塞ぎ、手を挙げれば網羅に掛かり、足を動かせば機械の罠に触れ、兗州、豫州には聊みなき民がおり、帝都には吁嗟の怨みがある。歴史上の書籍を見渡すと、無道の臣で、貪残酷烈な点では、曹操が最も甚だしい。幕府は外奸を詰問している最で、未だ整訓する暇がなく、余裕を持って含容し、縫い合わせることができることを望んでいた。しかし曹操は豺狼の野心を抱き、潜かに禍謀を包蔵し、乃ち棟梁を摧き撓め、漢室を孤弱にし、忠正を除滅し、専ら梟雄となることを欲している。以前、鼓を伐って北征し高順を討った時、強寇は桀逆にして、一年にわたって抵抗した。曹操はその未だ破られざるにつけ、密かに書命を交わし、外では王師を助けるふりをし、内では相掩い襲わんとした。ちょうどその使者が露見し、公孫瓚もまた誅夷されたため、その鋒芒は挫かれ縮み、その図りは果たせなかった。今は敖倉に屯據し、河を阻んで固めとし、螳螂の斧を以て、隆車の隧(進路)を御がんと欲している。 幕府は漢の威霊を奉じ、宇宙を折衝する。長戟百万、驍騎千群、中黄、夏育、烏獲の士を奮い起こし、良弓勁弩の勢いを騁せ、冀州、青州の軍は済水・漯水を渡り、大軍は黄河を泛びてその前から角突き、荊州の軍は宛、葉から下りその後ろから犄え、雷震虎歩して、併せて虜廷を急襲すれば、炎火を挙げて飛蓬を炳すが如く、滄海を覆して熛炭を沃ぐが如く、何ぞ滅ばざる者があろうか。また曹操軍の吏士で、戦える者は皆、幽州、冀州の出身か、または以前の営の部曲であり、皆怨み旷しく帰りを思い、涙を流して北を顧みている。その他、兗州、豫州の民は、呂布の残党であり、滅亡を迫られ脅されて一時的に苟も従っているだけで、各々傷つき、人々は仇敵となっている。もし旌旗を返して進み、高崗に登って鼓を撃ち吹き、白旗を揚げて降伏の路を開けば、必ず土崩瓦解し、血刃を待たずして終わるであろう。方今、漢室は陵遅、綱維は弛絶し、聖朝には一人の輔佐もおらず、股肱には折衝の勢いがなく、畿内之内では、簡練の臣も皆、頭を垂れ翼を塌ろし、恃む所がなく、忠義の輔佐有りと雖も、暴虐の臣に脅迫され、いずくんぞその節を展べることができようか。また曹操は部曲の精兵七百を持ち、宮闕を囲んで守り、外では宿衛と託つけ、内実は拘執であり、その篡逆の萌しが、これによって起こることを懼れている。此れ乃ち忠臣が肝脳を地に塗る秋、烈士が功を立てる会である。努め励まないでよいものか。 曹操は又、命を矯り制と称し、使者を遣わして兵を発する。邊遠の州郡が過って聽き從い、これに与すれば、衆に違い旅たび叛き、挙げて名を喪い、天下の笑いとなることを恐れる。是れ明哲の取らざる所である。即日、青、冀両州は併せて進む。書が荊州に到り次第、直ちに現兵を勒え、建忠将軍と協同して声勢とせよ。州郡各々義兵を整え、境界に羅落し、武を挙げ威を揚げ、併せて社稷を匡せば、則ち非常の功は是において著しくなるであろう。 其の曹操の首を得る者は、五千戸侯に封じ、賞錢五千万を賜う。部曲偏裨将校諸吏で降る者は、咎める所あること勿かれ。広く恩信を宣べ、符賞を班ち揚げ、天下に布告し、咸な聖朝に拘迫の難有るを知らしめよ。 律令の如し。


(意訳終わり)


「この野郎! ちゃっかり俺のことまで混ぜやがって!」


要するに、高順と曹操は同類の悪党だと言いたいのであろう。しかも、俺の首には五千戸侯と賞金五千万の価値があるとは、なかなかどうして…。へぇー!どこか別の世界の、一個の大秘宝を求めて海を渡るゴム人間のような反応をしてしまったが、まあいい。てか、孟徳は結局、袁術ではなく袁紹の相手をすることになったのか。


因みに、正史の流れでは、袁紹は官渡の戦いで即座に滅亡したわけではない。官渡の敗戦後も勢力を保ち、一年後の倉亭の戦いでも敗れた後、さらに一年間各地の反乱の鎮圧に奔走し、その後、憂悶のうちに病死したとされる。彼自身に能力が全くなかったわけではない。まあ、良家の貴公子として育ったため、現実を直視しきれない部分、人心掌握の拙さがあったのだろう。官渡で大敗した後でも、一度は勢力を盛り返しているのであるから。


孟徳は、書簡で「袁紹に喧嘩を売ってごめん! てへぺろ」的な内容が此方に届き、彼は「袁紹と手を組んでお前を滅ぼしてやろうか?」とさえ思ってしまった。「まさか、手を組んだ盟友を陥れるような奴はいないよねぇ?」と思ったら、いたのである。天下の奸雄、曹孟徳こそがそれだ。引いてしまうわ〜。身の振り方を考えさせられる…というか、それくらいこっちもイラついたからね? という心境であった。


曹操はこの陳琳の檄文を読んで、最初は恐怖し、後に最大級の賛嘆を送ったという。


「この文書を書いたのは誰だ?」


「はっ、陳琳と言う者でございます。」


「そうか、倅どもを呼べ。」


「はっ!」


そして、曹操の息子たち、曹昂、曹丕、曹植が呼ばれた。武勇一辺倒の曹彰は、呼んでも意味がないとして呼ばれなかったようだ。


「お前たち、この文章を読んでみろ」


「「はい」」


曹昂、曹丕、曹植の三人は激怒した。


「父上!今すぐ兵を発し、この愚かな文章を書いた者の首を刎ねるべきです!」


「兄上の言う通りです!父上!」


「その通りでございます!」 「


ふふふ、倅たちの忠孝、嘉すべき也!然れども、未だ未だだな! 子建、お前は文章を能くすると言うが、これを見て憤るとは未だ未だ青いな! それに、お前は文人能士を食客に囲っているくせに、このような文章を書く人間が居ないというのは己の目が節穴と同じだぞ? 以後はその様な酒嚢飯袋どもと付き合うな! 陳琳のような者と付き合え! お前たち、良く覚えておけ、文章を書くならこのような文章を書け! そして、己の敵を尊敬しろ。憤怒はお前たちの目を曇らせ、判断を鈍くするだけだ。儂も最初見た時は憤ったが、読むうちに冷や汗が止まらず、更にこれを書いた陳琳という者を賞賛せずにはいられなくなったわ! 見よ! ここに書かれた曹操という人物を考えると、読んだ儂自身でさえ怒り心頭に発するわい! いやぁ…、見事な文章ぞ! 大事を成す者は武略と文事を互いに補わなければならんが、陳琳の文事がいくら良くとも、如何せん袁紹は武略が足らぬからなぁ…」


曹操は嬉々として、その文章を何度も読み返したのである。父祖三代を罵り尽くした文章であるにもかかわらず、後の建安文学の領袖にして、李白、杜甫らが憧れた「三曹」の一人である曹操は、文学的な完成度の高さに最大の賛辞を送ったのであった。


「報告! 袁紹は既に兵を発し、黎陽まで軍を進めたとのこと!」


「良し!此方も兵を出して敵を迎え撃つぞ! その前に軍議じゃ!」


文臣武将を集め、曹操は軍議を始めた。文臣の大半は、袁紹の大軍を前にして講和を主張する穏健派である。


「袁紹の配下に使える者など居りません。和平する必要も当然ございますまい」


「しかし、袁紹の支配している地域には、士は広く集まり、民は多くおります。配下の許攸、郭図、審配、逢紀らは皆、智謀に長けており、田豊、沮授は忠臣として名を馳せております。顔良、文醜もその勇は三軍の冠となるもので、高覧、淳于瓊らは当世の名将でございます。袁紹の下に使える人間がいないとおっしゃるのは…」


「幾ら袁紹の兵が多いと言えども、所詮は烏合の衆に過ぎぬ。田豊は剛毅を持って上意を犯し、許攸は欲張りにして智が足りず、審配は威張るだけで謀が無く、逢紀は有能だが使えない。それぞれまるで火と水のように互いに相容れぬ。顔良、文醜なぞ、匹夫の勇を誇るだけの輩、相手にするまでもない。その他は凡庸な者ばかり。百万の大軍だろうが、相手としては不足なものよ。」


この報せを聞いた私は、歴史に残る有名な決戦「官渡の戦い」の幕開けであると思った。また、現代人的感覚では、『レッドクリフ』よりも、この官渡の戦いの方が、よりドラマチックで撮り甲斐がありそうだなぁ…などとも思わず考えてしまった(笑)。


しかし、そんなことはどうでもよいのだ! 袁紹の野郎、二面作戦で来やがった! てめぇは二十世紀の芸術家もどきのイカれた小ひげか! 失敗するぞ? いや、失敗させる!


「良いか?皆! 計略が少し遅れるだけだ! 気にするなよ? どうせ彼奴らの主戦場は曹丞相の方だ。俺達は彼奴らの糧秣が尽き、内部から崩壊するのを待ってから攻めりゃいいんだから!」


「「はっ!」」


そこに異を唱えたのは張郃である。彼はむしろ、今こそ攻め時だと主張した。


「将軍!我らは袁紹に今まで迫害されて来たではありませんか! ならば、今こそその大義名分を使って攻めるべきかと! それに袁紹は一軍の将として優柔不断なので、必ずや内訌が起きます!」


「ははは!流石は儁乂、袁紹の事をよく知っておる。勿論使うさ、だが、敵の糧秣が尽きるまで守り、その後で一気に攻めに転じるさ! これは出征する前に、文和が授けてくれた策ぞ! 安心せい! あの賈詡、賈文和の策じゃ!」


「はっ…、出過ぎた真似をお許しください。」


「良い良い!将たる者、戦に出たとあらば、勝ちに行かぬは愚の骨頂よ!」


「ありがとうございます!」


因みに、この世界では、孫堅が劉表と争わなかったためか、袁術はまだ劉備に成敗されておらず、また曹操も陳留で俺と一戦を交えたためにタイミングが悪く、劉備に徐州を明け渡してしまっていた。 こうなると、もはや歴史の流れは大きく変わってしまい、未来予知の知識を活用することも、極めて困難になってしまったのである。


袁紹は黎陽に大本営を設置し、それぞれ白馬と延津に顔良、文醜を派遣し、曹操本体を叩こうと画策した。さらに、北と西には、長男の袁譚、次男の袁煕をそれぞれ主将とし、副将として高覧、淳于瓊を派遣し、高順軍に対抗させようとした。三男の袁尚は手元に残し、曹操との戦いで活躍させる意図が見える。そして甥の高幹を本拠地鄴の留守居役として備えにつけた。 これでは、史実通りの官渡の戦いなど、果たして起こるのだろうか?という心配が頭をよぎった。変数が多すぎて、未来の知識を活用しようにも、どう活用すべきか全く分からなくなってしまったのである。


「報告! 丞相、袁紹が黎陽まで兵を進めました! 間もなく戦いが始まるようです!」


「よし!皆、袁紹が兗州境内に入り次第、軍を発せよ! 我が命令待たずして、青州、冀州を一気に奪い取るぞ!」


「「はっ!」」


漁夫の利を狙い、袁紹を壊滅に追い込まないと気が済まないのだよなぁ…。反董卓連合以来の因縁を、ここで断つ! そして、絶対にこの世を平穏に暮らせるようにしてやる! これが、この理不尽な世界に放り込まれた者として、唯一「神」へと反抗できる方法なのだろう…。 まあ、こうなることは、盧植の葬儀の頃から計画は練ってはいたがな!曹操は史実と違って、食料問題はある程度解決していたというより、むしろ、この戦いを短期決戦で勝負を挑むつもりでいるようだった。


もちろん、袁紹側も動く。延津、白馬方面には顔良、文醜、麹義らが進軍し、曹操軍と対峙した。北方面の高順に対する備えには、袁譚、袁煕がそれぞれ兵を進めた。劉備と袁術は小競り合いを発展させており、袁紹の援軍どころではなくなっていた。 公孫続も、白馬義従を率いて袁紹の後方を攪乱しようとしたが、袁尚に阻まれた。


「ふん!落ちぶれ公孫家の小僧が! 大人しくその首、貰うぞ!」


「舐めるな!」


二人の若き将が撃ち合い、その兵たちも激しく殺し合った。だが、単純な戦闘力で言えば、異民族との戦いで鍛えられた白馬義従に軍配が上がる。袁尚の兵も、呂曠、呂翔ら有能な武将がおり、それに引き率られる兵士たちも甘く見れるものではなかったが、歴戦の両軍が激突した結果、公孫瓚が遺した貴重な白馬義従は、三千から千にも満たない数まで消耗してしまった。


一方、一万の兵で三千を討ちに行った袁尚も、負傷者、死者、逃亡者を合わせ、残った兵は六千余りであった。


「クソ…!」 「


仕方ありませぬ…、流石は白馬義従と申しましょう…」


結果は、両者痛み分け、あるいは袁尚軍のやや不利といったところであった。


ここで、袁家の三兄弟について簡単に紹介しておこう。 長男袁譚、字は顕思。袁紹の死後、後継者となれなかった不満から、軍を率いて青州の溪陽に赴き、自ら車騎将軍を称して弟の袁尚と決別した。功績としては、広大な青州を征服したことが挙げられる。優れた武人ではあったが、政治力や人望に欠けた。


次男袁煕、字は顯奕。袁紹により幽州刺史に任命された。後に敗走してきた袁尚を受け入れるが、曹操の攻撃を受けて遼西に逃亡し、最終的には公孫康に殺害された。劉表からは「非凡で寛大な人物」と評されたという記録がある。


三男袁尚、字は顕甫。武勇に優れ、母劉氏の偏愛と自身の美貌から袁紹に最も寵愛された。袁紹の死後、家督争いの焦点となるが、曹操に敗れて遼西に逃れ、袁煕と共に公孫康に殺害された。 結論として、三人とも完全な無能というわけではない。むしろ、ある程度の能力は持ち合わせていた。しかし、膨大な文臣武将がひしめく環境の中で、複雑に入り乱れた人間関係とそれぞれの思惑が絡み合い、最終的にあのような悲惨な滅び方を迎えたのである。


曹昂の方も、流石は優等生版の曹操である。袁紹の甥高幹を相手に難なく撃退し、曹操自身も、軽く捻るように高覧と淳于瓊を破り、本隊の袁紹軍本体と合流することに成功した。しかし、袁紹軍三十万の兵も、この時点で二十万にも満たないほどの損害を出していたという。


「ふふふ、我らはやれる事はやった。引き上げるぞ!子脩にもそう伝えろ!」


「丞相…」


「ん?公達、何か言いたい事はあるか?」


「はっ、恐れながら、このまま兵を北進させ、冀州を…」


「うむ、皆もそのつもりであろう?言いたい事はわかっておる。しかしな、袁紹と戦った後に、山西の奴を相手に戦えるか? 否、仮に勝てたとしても、我らは司隸、兗州を失うだろう…。それよりは東の徐州…あの大耳野郎が先だ」


「はっ!公の慧眼…感服致しました…」


「うむ、勝ちを求め過ぎると、必ず何かを見落とす。皆もわかっておると思うが、今一度己を戒めよ」


「「ははっ!」」


さぁ、高順よ、貴様のお手並みを拝見させてもらおうか! 此方はやる事はやった。約定通り、黄河南岸は我らの物だ! 曹操は、袁紹との一連の戦いを一段落させると、兵を東へと推進し、劉備が占める徐州征伐へと向かっていったのである。これにより、天下の情勢は、袁紹対高順、曹操の構図から、さらに複雑な様相を呈し始めるのであった。

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