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第十七回 高孝父得而複失 公孫瓚身亡易京

春の日差しが冀州の平原を優しく照らしていた。しかし、その光は、未だ血の匂いと戦塵をたっぷりと吸い込んだ大地を温めきれてはいない。俺、高順は、新たに手中に収めた鄴城の政庁に腰を下ろし、壁に掛けられた大幅な地図を見つめながら、次の一手を考え巡らせていた。


手に入れたのは冀州の半分。確かに前進だ。だが、それだけでは全く足りない。河北の地を真に平定するには、北に蟠踞する狼、公孫瓚を完全に追い詰め、息の根を止めねばならん。幸い、手中には強力な切り札がある。常山の趙雲趙子龍、そして有能な幕僚である田豫、田楷、単経らだ。こいつらを牢にぶち込んでから、じっくりと時間をかけて説得を試みている最中だ。まあ、無理強いしても意味はない。心から腑に落ちなければ、いずれ叛かれる。腑に落ちるまで待つ。それだけの余裕が、今の俺にはある。盧植老師からの教えだ。


「ふむ…」


地図の上、易京と記された地点に指を当てる。あの頑固な白馬将軍、最後の拠点に籠もっている。兵糧も兵士の数も、最早俺方が圧倒的に上だ。力攻めにもすれば、いつでも落とせる。だが、無駄な血は流したくない。俺の兵士の血も、だが、時として敵兵の血すらも無駄にはしたくない。兵士は兵士で、所詮は同じ漢の民だ。できることなら、無用な殺生は避け、こちらに従うよう仕向けたい。それが、盧植老師が俺に説いた「仁」というやつなのかもしれん。


「文遠!」


声をかけると、すぐに背後から甲冑の触れ合う音がして、重厚で信頼できる声が返ってきた。


「将軍、何のご用で?」


振り向くと、張遼が直立不動の姿勢で待っている。その横に、もう一人、精悍な若武者が控えている。張遼の副将、牽招だ。


この牽招、ただ者ではない。若い頃は遊侠として北方一帯にその名を轟かせた猛者だ。面白いことに、あの劉備玄徳とは、故郷で刎頚の交わりを結んだ間柄らしい。演義なんぞには一切登場しないが、もしあの物語に彼が登場していたら、曹操の天下統一はもっと早まっていたかもしれん…。それほどまでに、統率力に優れ、智謀にも長けた有能な将だ。張遼の副将としては、少し役不足な気もするが、本人が望むならそれで良い。彼の才覚は、いずれ必ずや輝く時が来る。


「どうだ? 易京の動きは?」


「はっ! 当城の戦い以降、公孫瓚本軍の目立った動きはございません。籠城の準備を固めていると見受けます。兵の動きは鈍く、城外への積極的な動きは見られず」


「そらそうだ。あの戦で、奴の手足となる機動兵力はあらかた討ち取ったんだからな。動きようが無いのだろう。最早、あの白馬義従だけが牙だ」


「お言葉の通りです」


「諸将に伝達せよ。公孫瓚の本隊には直接手を出すな。周囲の支城を落とし、兵站を断て。兵糧が尽きれば、鶴の一声で落ちる見込みもある。時間はかかるが、兵の消耗は最小で済む」


「承知いたしました。しかし将軍、何故そこまで急がれずに…? 一気に攻め立てれば、早期決着も可能かと」


「幽州は最早我々の手中にあるようなものだ。だが、忘れるな。その東には、遼東に公孫度が潜んでいる。あの男、油断ならん。下手をすれば、高句麗なんぞと手を組みやがって、我々の背後を突いてくる可能性だってある。そうなれば、せっかくの冀州どころか、并州の安定すら脅かされかねん。其れだけは、今のところは避けたい。公孫瓚を急いて討てば、その隙を突かれる」


「はっ、左様でございますか。目の前の敵だけでなく、さらにその先まで見据えていらっしゃると。流石は将軍」


「うむ。それより、鮮卑の動きはどうだ? 公孫瓚が弱体化したと聞きつけて、騒ぎ出したりしてはおらんか? あの『白馬将軍』の威光は、胡族にとっては相当な抑止力だったはずだ」


「いえ、今のところ、部族間のいさかいこそあれ、我が方に対する変わった動きは見せておりません。ですが…公孫瓚が我々に打ち破られたとなれば、状況は変わりましょう。今まで『白馬将軍』の威光に押され、大人しくしていた連中も、牙をむき始めるかもしれませんな」


「ふっ、確かに。あの公孫伯圭、胡族に対しては鬼のように厳しく、恐れられていたからな。その抑えが外れたとなれば、羊の群れから狼が消えたように騒ぎ出すのも道理だ。文遠、お前のところの副将、牽招にも伝えとけ。并州の北境、鮮卑に対する警戒は怠るな、と。お前の直感力と牽招の現場の感覚を頼りにする」


「畏まりました!」


張遼は深く頷き、早速指示を伝えに立ち去ろうとする。牽招もそれに続き、一言「承知いたしました」と力強く返事をした。彼ら有能な部下たちがいるからこそ、俺はここまで来られた。并州と河内、上党の二郡だけという狭い土地で、よくぞここまで勢力を保てたものだ。いくら賈詡や張遼とともに生産力を上げ、兵を鍛えたところで、領土の広さと人口には限界がある。次の目標は、漠北高原と、遼東の安定だ。とはいえ、向こうから喧嘩を売って来ない限り、わざわざ危険を冒してまで出兵する気はないがな。


さて、しばし待つとしよう。公孫瓚という巨大な瘤が取り除かれるのを。じっくりと、だが確実に。


それから約一ヶ月。諸将から続々と報告が届く。徐栄が薊を占領。そのまま軍を東に向け、遼西に睨みを利かせて公孫度の動きを封じた。他の将軍たちは公孫瓚を易京に閉じ込め、包囲網を完璧なものにしている。兵糧の搬入路は完全に断たれた。 時期は来た。熟した果実は、自然と落下する時を待つのみだ。


「文遠! さあ、我らも易京へ赴こうじゃないか! 古き良き、と言うと言葉は悪いが、因縁浅からぬ友に、最後の挨拶をしてやるぜ!」


「はっ! お供いたします! 楽しみにしておりました!」


冀州の守備は張郃に任せた。あの袁本初め、ひょっこりとちょっかいを出してくるかもしれんからな。「もし袁紹が攻めてきたら、好きにやって反撃しても構わん。一切を委任する」と伝えてある。あの張儁乂、演義なんかでは熱血で猪突猛進な武将のように描かれているが、実際のところは冷静沈着、状況を俯瞰し、柔軟に采配を振るう智将だ。表情をあまり表に出さないから、何を考えているかわからんところもあるが、その能力は本物。任せて安心だ。何より、あの男は約束を守る。


一方、中原では曹操が大仕事を成し遂げていたという報告が入っている。李傕、郭汜ら残党の争いによって荒れ果てた長安から、ようやく皇帝を救い出し、洛陽へと迎え入れたらしい。李傕と郭汜、段煨らは政治闘争に敗れ、河南尹へ左遷されたとのこと。都にはまともな将軍もおらず、曹操は旧董卓軍の残兵を含む十万の禁軍を吸収し、一気に中原最大の勢力へとのし上がった。ただし、そこは曹操。順風満帆とはいかず、左遷された李傕らや、奇襲を仕掛けてきた段煥との戦いもあったようだが、見事に打ち破ったとのことだ。


「陛下! 臣、曹操、ようやくにお迎えに上がれました」


「おぉ、曹卿…、ウゥッ!助かったぞ…! 朕は、もうだめかと思っていた…!」


「陛下…!どうかご安堵を。これよりは臣が、陛下をお守りいたします」


都を追われ、飢えと寒さに震えていた皇帝は、曹操の前に涙を浮かべ、嗚咽しながら感謝の言葉を述べたという。その日はすぐに休息を取り、次の日には数ヶ月ぶりとなる肉や温かな食事を与えられ、少しずつ生気を取り戻していった。当然、皇帝の曹操に対する信頼は絶大なものとなっていく。


この報告を聞いた俺は、ふと遠い異国の、まだ訪れていない未来の歴史を思い出した。うつけ者と囁かれた霸王が、世間知らずの僧侶将軍を奉じて都に入った…そう、織田信長と足利義昭の故事だ。信長も当時は、尾張と美濃という二国を支配するに過ぎない一大大名に過ぎなかった。しかし、将軍を擁し、大義名分を得て上洛したことで、天下人への階段を駆け上った。


曹操の状況も似ている。彼の本拠地である兗州は、司隷校尉部のすぐ東に位置する。地理的にも、皇帝を迎え入れるには絶好の位置だったと言える。流石は曹孟徳、時流を読む目は確かだ。天下への布石を、着々と打っている。


さて、我々の話に戻ろう。


易京は、完全に包囲され、孤立していた。文字通り、陸の孤島と化している。公孫瓚は従兄弟の公孫越を魏続に討ち取られ、配下の将兵の大半も失い、最早、三千ほどに減った白馬義従のみが最後の頼りだ。息子の公孫続は若さと血気に任せて包囲網に突撃を敢行したが、力及ばずあっさりと生け捕りにされてしまった。最も信頼していた趙雲や田豫らも俺の虜囚だ。もはや、公孫瓚に残された道はない。降伏か、死か、あるいは無理な突撃による玉砕か。


「ふふふ…袁本初め! この厄病神がっ! 全てはお前のせいだ! フゥー、フゥー…」


易京の楼閣の上。公孫瓚は独り呟き、荒い息を吐いていた。華美な甲冑もかつての輝きを失い、頬はこけ、眼光だけが異様に鋭く光っている。猜疑心と敗北感が彼の精神を蝕んでいた。


「将軍!」


「何だ!敵の総攻撃か!」


声は鋭く、いら立っている。


「い、いえ…。敵将、高順が城門前にて、隻身で、将軍との直接対話を望んでおります」


「高順?今更この俺を愚弄する気か! 会う必要はない! 矢を放って追い返せ!」


「ですが…、高順は隻身で来ております。数騎の供こそおりますが、明らかに戦闘態勢では…」


「…隻身で?」


興味と疑念が入り混じった声。


「はい」


「ふん…。ならば、会ってやろうではないか。最期の酒の肴にはなるわな!構えよ!」


重厚な城門が鈍い音を立てて開かれた。一人の武将が、飾り気のない白馬に跨り、悠然と門前に立っている。鎧は地味だが、洗練されており、その佇まいからは確かな気迫が感じられる。高順だ。背後には数騎の護衛が控えるのみ。


「吾は、幽州牧、公孫瓚である! 名乗られよ!」


威圧的な、しかしどこか虚勢の混じった声。


「并州牧、高順である。伯圭将軍、此度は応じてくださり、ありがとうございます」


平静な、落ち着いた口調。


「ほう?敵将自ら隻身で出てくるとは、ただの阿呆か? それとも、わざわざ死にに来たか?」


挑発するような嘲笑。


「では、将軍はその阿呆に討ち取られるという事になりますな?それはそれで面目ないでしょう」


軽くあしらい、逆に揺さぶる。


「ふん!口先だけは達者な!」


わずかにたじろいだ声色。


「まずは、お掛けください。ゆっくりと話をさせて頂きたい。地べたですが、用意してあります」


俺は地面に敷いた毛皮の上に腰を下ろした。公孫瓚はしばらく逡巡した後、意を決したように馬から降り、俺の正面にドカッと座り、見下すような、しかしどこか興味津々の視線を向けてきた。


「んで? 三姓の家奴の腰巾着が、この俺に何の用だ? 降伏を勧めるなら、百歩譲って聞いてやらんでもないぞ?」


これでも、一時は河北随一の勢力を誇り、袁紹すらも圧倒した男だ。そのプライドは並々ならぬものがある。


「はは、名門公孫家のご落胤でありながら、家を飛び出し、一から這い上がった将軍が、『名族の庶子』なんて他人の出身を偉そうに言えるもんですかい?」


その言葉は、俺自身への皮肉でもある。だが、公孫瓚には響いた。


「貴様ァ!」


怒声が上がる。やはり、彼のコンプレックスに触れたようだ。


「なんぞ、間違えたか?まあいい。本題に入ろう。降伏の話じゃない。令郎、公孫続殿についてだ」


わざと興味を引く話題を振る。


「なっ?!死んだのか? お前、息子を殺したな?!」


表情が一瞬で歪み、父親としての本能的恐怖が現れる。


「いや、生きておる。無事だ。さぁ、連れて来い!」


合図を送る。


合図と共に、後方から縄で縛られた一人の若武者が護衛に連れ出されてきた。顔には擦り傷やあざが目立つが、確かに公孫続だ。鎧は剥ぎ取られ、みすぼらしい姿だが、命に別状はない。


「父上!」


「息子よ!無事であったか…!」


思わず涙ぐみそうになるのを、必死でこらえる公孫瓚。その目は一瞬、父親としての安堵の色に曇ったが、すぐに鋭い武将の眼光に戻る。場の空気を読んだ。


「高将軍! 後生だ、息子はどうか生かしてやってはくれまいか? この公孫瓚、最期は犬死に見せはせん。貴公の手柄として、首を差し出すとも!」


これも人情というものだろう。自分がどうなろうとも、子どもの命だけは助けたい。よし、それなら…


「…、良いだろう。公孫続の命は、助ける」


即答する。


「父上! そんな…! 生き恥を晒すくらいなら、死んだ方がマシです! 私など見捨てて、父上は最後まで戦ってください!」


いきがり坊主の若者はみんなそう言うよな。だが、その潔さは時に愚かだ。命あっての物種というのに。


「このたわけ! 命を粗末にするでない! 良いか、聞け! お前の父は、これより死んだと思え! そして、お前の父の仇は…」


公孫瓚はわずかに間を置き、俺を一瞥した。複雑な眼差しだ。感謝か、憎悪か、あるいは計算か。


「…袁紹だ! 袁紹こそがお前の父の仇だ! わかったな!」


わざとらしく、大声で宣言する。


「だ、だとしても! 父上の敵は目の前に!」


公孫続は俺を睨みつける。


「黙れ!大丈夫たる者、能く屈し、能く伸ばす。其れにお前には、城に残る母や妹たちの面倒を見ねばならん! お前が生きておれば、儂も安心して死ねる! 母上と妹たちを…頼んだぞ!」


父親としての最後の言葉。覚悟が伝わる。


「父上ェえええーー!!」


公孫続は号泣した。全てを悟り、絶望し、そして父の決意を受け入れた。


公孫瓚はわが子から目を逸らし、俺に強く頷いた。全てを託す、という合図だ。


「…、連れて行け」


護衛に指示する。


「高将軍、息子と家族のことは…頼んだ」


声が震える。これが最後の会話になるだろう。


「俺に言うな。面倒だ」


わざと冷たくあしらう。


「貴様に頼まずに済むのなら、誰も頼みはせん!この言葉だけは、受け取れ!」


必死の、しかし誇り高き叫び。


「…そうかい。じゃあ、とっとと死ね。せいぜい派手に散ってみせろよ、『白馬将軍』らしくな」


これが、俺のできる最大の餞別だ。


男には、どうしても引くに引けない時がある。公孫瓚にとって、今がその時なのだろう。意地とプライド、そして全てを失った絶望が、彼を死へと追いやる。彼なりの美学がある。


ほどなくして、易京の城門が再び開かれた。三千の白馬義従が、女子供を含む公孫瓚の家族を護りながら、整然と城外に出てきた。先頭に立つのは、白馬義従を統率する陳籌という男だ。忠誠心の厚い、有能な部将と聞く。


「白馬校尉、陳籌と申します! 前将軍に拝謁いたします!」


恭しい態度。


「何の用だ?」


わざととぼける。


「はっ!主公孫瓚の命により、これよりは前将軍の麾下に入れとのこと。我等と、主のご家族の保護をお願いいたしたく…」


迷いのない口調。


「けけけ!子守りと敗残兵の面倒みるのは大変だぞぉ? 俺のところは、そんなに甘くはないぜ?」


試すようにからかう。


「ふっ、主は某にそう命じた。それくらいはやり遂げてみせます。其れに…奥方やお嬢様方の今後を思えば、将軍のような人物を頼るほかありません」


陳籌の言葉には迷いがない。公孫瓚への忠義が、そのまま新しい主への忠誠へと切り替わろうとしている。良い武将だ。


「判った。引き取ろう。ならば、戦は終わりだ! お前ら! 聞け! 公孫瓚は降伏した! 戦は終わったぞ! これより并州に帰還する!」


大声で宣言する。


「「おぉー!」」


「やった!これで故郷に帰れる!」


「よっしゃあ!帰ったら思いっきり酒を飲むぜ!」


兵士たちの歓声が平原に響き渡る。長かった遠征と戦いが、ようやく終わる。張遼に大部分の兵の指揮を任せ、帰還の準備をさせた。俺は少しばかりの手勢を連れ、薊に入城し、徐栄と落ち合う。幽州の統治は、彼に任せよう。彼ほどの将であれば、北の異民族や公孫度に対する抑えとしても十分務まる。冷静沈着で、かつ情にも厚い。


そして、もう一つやらねばならない仕事がある。捕虜とした田楷、田豫、単経、趙雲の四人の処遇を決めることだ。この四人の才覚を無駄にはできん。


薊の政庁に四人を呼びつける。それぞれに縄はかけていないが、周りには武装した兵士が厳重に警備している。緊張した空気が漂う。


「さて、皆さん、どうしたい?」


単刀直入に問いかける。


四人は沈黙したまま、俺を見つめる。屈辱と諦め、そしてわずかな希望のようなものが入り混じった複雑な眼差しだ。敗軍の将としての自覚は十分にある。


「では、先ずは田楷兄、どうしたいね?」


年長者から順に聞いていく。


「…、我らは敗軍の将。首を刎ねられるのは覚悟の上。今更、我々に選択の余地などあるのか?」


諦観に満ちた声。


「あるさ。俺の下についてくれ、と言いたいところだが…、諸君ら自身は、どうしたいのだ?」


選択肢を与える。


「貴公の下に付く?それが我らに何の得があるというのだ? 恥を忍んでまで生き延びる価値が?」


田楷は反発する。


「ふむ…。得?そんなものは無いな。ただ、このまま何もせずに死ぬか、あるいは俺と共に、これからも国境を守り、時に塞外の異民族と戦い、この乱世を生き抜くか、だ」


将来の大義を示す。


「…」


沈黙が続く。


「不満かね?」


催促する。


「当然であろう!生け捕られたこと自体が恥。その上で敵将の下に付くとなれば、二重の屈辱だ!」


田楷の声が強くなる。


「ごちゃごちゃうるせぇなぁ…!」


俺はわざとらしく席を立ち、四人の目前まで歩み寄る。威圧するためだ。


「理屈や体面はどうだっていい! 俺は聞いている! 未来だ! お前たちの力と知恵を、俺と共に天下の安定のために使う気があるか、ないか! 付くか付かないか、どっちだ! はっきり答えろ!」


雷のような大声で問い詰める。


「…!」


一瞬、張り詰めた空気が流れる。その時、一人の若者が一歩前に出た。田豫だ。聡明で現実的な眼光をしている。


「この田豫、前将軍にお仕えいたします!私の力、お見せいたします!」


その決断の早さに、他の三人も動揺を隠せない。未来を見据えた選択だ。


「うむ、良いだろう。判った。では、他の者たちは?」


田豫の決断が流れを変えた。


「…わかりました。我ら、田楷/単経も、将軍にお仕えいたします」


田楷と単経は互いに顔を見合わせ、諦観の表情でそう告げた。死よりはましだ、という選択だろう。


しかし、最後の一人、趙雲だけは頑なに俯いたまま、答えようとしない。彼の信念は固い。


「そうかい、ありがとう。では…趙子龍、お前はどうすんだい?」


直接問う。


「私は…」


声が出ない。葛藤がひしひしと伝わる。


「決心がつかない、か。無理強いはせん。よし、三日やる。それでも決心がつかないなら、出て行け。ただしな、その代わりに俺の管轄内の土地に足を踏み入れた時は、容赦なく殺す。良いな?」



最大の寛容を示す。彼ほどの将は殺したくない。


「…ありがとうございます」


趙雲はわずかに顎を引いただけだった。感謝はしているようだ。


そして二日後。趙雲は監視の目を巧みにかいくぐり、置き手紙一つを残して薊から姿を消していた。手紙には、「ご厚意に感謝する。然れど、今はまだ貴公に仕える時ではない。許されぬなら、いずれ相まみえる場で」とだけ記されていた。 …やはりな。あの男を簡単には折れんわ。筋を通す男だ。いずれ、また会う機会があろう。


田楷、単経、田豫の三人は、幽州を任される徐栄の副将として配属した。その才覚を活かしてくれるだろう。公孫度も、こちらが易京を落としたとの報を受けるや、速やかに恭順の意を示してきた。これで、北側の戦争はとりあえずの終結を迎えた。ひとまず、北の憂いはなくなった。


一方、その頃。曹操は皇帝を許昌に迎え入れ、見事に丞相の座についたという報告が入った。その政治手腕は遺憾なく発揮され、皇帝の権威を巧みに利用しながら、中原での地盤を着実に固めつつあった。まさに彼の本領発揮だ。


当然、袁紹はこの状況を面白く思わない。自分こそが天下の盟主たるべきという自負がある。加えて、冀州で彼の残党らが暗躍し、再び冀州を手に入れようと画策しているという噂が流れてきた。俺はそんな厄介事とは露知らず、のほほんと并州への帰路についていた。しかし、甘かった。


鄴に残した張郃は頭を悩ませていた。袁紹派の者たちによる攪乱工作は思った以上に根深く、隣接する幽州の徐栄や、并州の張遼らに連絡を取り合い、対応に追われる日々が続いていた。袁紹の奸計はまんまと当たったのだ。彼が抱える名門士族の人間たちが、その影響力と権力を駆使し、冀州の至る所で小さな嫌がらせ、叛乱の火種を撒き散らした。それらが連鎖反応を起こし、最終的には冀州全土の支配を不可能にした。張郃は止む無く冀州から撤退し、并州と冀州の境目に軍を駐屯させて、袁紹軍の侵攻に備えざるを得なかった。俺の不在中に、状況は悪化していた。


一方、易京に残った公孫瓚は、家族と白馬義従を送り出した後、虚ろな笑いを漏らした。傍らにあった酒壺を手に取り、がぶがぶと喉を鳴らして飲み干す。


「ふぅ…、我が人生、最早ここまでか…。袁紹、袁本初…お前のせいだ…。高順…、高順、高順、こうじゅん、高ゥゥゥゥゥ順ゥゥゥンンンン!!」


「ふふ、はは、フハハハハハ!」


彼は狂ったように笑い転げると、やがてぴたりと止み、何かを悟ったような、奇妙に澄んだ表情になった。そして、愛用の宝剣をゆっくりと鞘から抜き放つ。


「陳籌!おるか?! 返事をしろ!」


「はっ!ここにございます!」


城外にいたはずの陳籌が、なぜかすぐに応じた。おそらく、主の最期を見届けるため、近くで待機していたのだろう。忠義の士だ。


「我が最後の命令を聞いてくれるか?」


「何なりとお申し付けください」


「儂は…道を誤った。袁紹に唆され、冀州を分治しようなどという甘い言葉に乗り、今日の滅亡を招いた。儂はもう、生きてゆくことすら叶わん…。最後の命令だ。お前はここを離れ、続のところに行け!そして、一族の者たちを守れ! その後、お前たちがどうするかは…皆の意思に任せる!」


「しかし!お供いたします!」


「バカめ!命令だ! 行け!」


公孫瓚はそれ以来、外部の者と顔を合わせることを一切拒んだ。常軌を逸した猜疑心に囚われ、鉄の門を構えた高い楼閣に籠り、七歳以上の男子は一切近づけるなと命じた。側に侍るのは側妾のみ。文書のやり取りですら、階下から縄でかごを釣り上げて取り寄せ、大声を出すよう訓練した女性たちに、数百歩離れた距離から叫ばせて報告させ、そうして命令を下すという有様だった。賓客や部下たちも遠ざけ、最早誰一人として信じようとしなかった。当然、失望した部下たちは少しずつ離反していった。孤独と猜疑心が、最後の最後まで彼を苦しめた。


後日、公孫瓚が易京の楼閣で自刃したとの報告が届いた。最後まで孤独だったろう。あの誇り高き「白馬将軍」の最期としては、実に哀れなものだった。


并州に戻った俺は、すぐに公孫続を呼び出した。父の死から数日、彼の顔には深い悲しみと怒り、そして困惑が刻まれている。


「良く来た、かけたまえ」


「…、何のご用でしょうか、高将軍」


警戒するような、冷たい口調。 そう構えられると、こっちも話しづらい。しかし、はっきりさせねばならんことがある。


「君の父上は、既に天に召された。お父上は最期に、この俺に君のことを頼んだ。だからな、その前に、君自身が今後どうしたいのかを聞かせてほしいんだ」


率直に伝える。


「…、わかりません。父の葬儀も済み、やるべきことは…もうない。ただ一つだけ、引っかかることがあります。父はなぜ、最期に『仇は貴公では無く、袁紹だ』と仰ったのでしょうか?父を追い詰めたのは、貴公ではありませんか!」


激しい口調で詰め寄る。


「一つだけ、言っておこう。お前の父親は、俺に殺されたのでも、袁紹に殺されたのでもない。…自分自身に殺されたのだ」


核心を突いた本音を告げる。


「っ!死してなお、父を侮辱されるのですか!」


怒りで顔を紅潮させる。


「侮辱?違うな、これは事実だ。正直に言っているまでだ。何が悪い?」


動じない。


「ですが…!」


詰めよる。


「良いか、聞け。お前の父親は確かに才能があった。この河北で覇を称えるほどにな!だが、その間違いは、寒門出身の者を優遇し、名門士族を軽んじたことにある。この乱世、兵や民の支持だけではどうにもならん。物資や情報、人脈を握る連中を敵に回せば、こうなるまで時間の問題だ」


現実を説く。俺のいた時代で言えば、インフルエンサーやマスコミ、経済界を敵に回してしまったようなものか。その影響力は絶大だ。


「くっ…!」


歯噛みする声。


「今は乱世だ。そんなに理屈や義理が大事なら、お前が直接、仇を討てば良かろう?袁紹を恨むなら、袁紹のところへ行くがいい。ただし、その行く先が俺の敵となるなら、次会った時は容赦はせん」


選択肢を示し、警告もする。


「…わかりました!ありがとうございます! 己の進む道が、はっきりと見えました!」


彼の目に決意の灯がともった。


「そうかい。ならば、とっとと行け。せいぜい生き延びろよ、小僧」


これが最後の言葉だ。


公孫続は塞ぎ込んでいた顔が、怒りと決意によって、かえって晴れやかになったように見えた。彼は無言で一礼すると、踵を返し、駆け出して行った。俺の言ったことなんか、すぐに忘れるだろう。いや、忘れないかもしれん。だが、彼を生かして逃がすことこそが、北で覇を争った好敵手、公孫伯圭への最後の餞だ。男の美学というやつだ。


「陳籌!」


呼びつける。


「ここに」


すぐに現れる。やはり近くにいたか。


「お前の主が遺した忘れ形見を、どうにかしてやれ。面倒を見るのはもう御免だ」


放任を宣言する。


「はっ!」


陳籌は深く頭を下げると、城外へと走り去った。ほどなくして、城外に待機していた三千の白馬義従が、公孫続を追いかけて行く気配がした。忠義の士たちだ。


「公子! お待ちくだされ!」


「なっ!?お前たち、なぜ…!」


「一人で行かれるとは水臭いではありませんか!我々も、ご供いたします!」


「だが、俺について来たところで、未来は約束されんぞ?流浪の旅になるかもしれん」


「こうなれば、皆で流浪の旅に出ましょう!主の御遺志です!」


「ふん!どうなっても知らんぞ!」


「それでも、公子について参ります!」


「そうか…!ならば、目指すは徐州だ! 彼処には劉叔父上がおるからな! 必ずや我々を迎え入れてくれるだろう!」


劉備を頼るようだ。


「はっ!」


一行は袁紹の勢力圏をどう潜り抜け、遥か徐州までたどり着くのか。それはもう、俺の知ったことではない。彼らなりの運命を切り開くのだろう。


こちらの事情もまた、厳しかった。袁紹の奸計はまんまと当たった。冀州を失い、勢いづいた袁紹は、大将軍の位を笠に着て、俺に対して高圧的な態度を見せ始めた。


俺はわざとらしく嫌味な書簡をしたためた。


「袁紹殿、見事に冀州を再び取り戻されたとの由、誠に慶賀の至りに存じます。どうか、そのお手並み、今後とも拝見させていただきたく」


当然の如く、袁紹は激怒した。怒りに任せて幽州に攻め込んでくるが、守備を固めていた徐栄に見事に撃退された。さらに、曹操が皇帝を許昌に迎え入れ、丞相にまで上り詰めたとの報せは、彼の怒りと焦りをさらに募らせる結果となった。自分こそが主導権を握るべきだという思いが、彼をさらに苛立たせた。


この頃、天下の大勢力と言えば、兗州を支配下に置き皇帝を擁する曹操、冀州と青州を制圧した袁紹、并州と幽州を押さえる俺・高順、荊州の劉表、益州の劉璋、豫州と淮南の一部を支配する袁術、揚州の大半を手中に収めつつある孫策、そして西涼の馬騰、韓遂らがいる。一応言っておくと、天下の諸侯は反董卓連合以来、殆どが袁紹派と袁術派のどちらかに与した。どちらにも付かなったのは、俺と馬騰、李傕、劉焉くらいのものだ。


袁紹派の代表格は曹操、劉表。袁術派の代表格は孫堅、公孫瓚。国そっちのけで、二袁の代理戦争をやっていたようなものだ。公孫瓚の滅亡は、その構図に大きな変化をもたらした。


丞相となった曹操は、形式上はまだ袁紹に従属していたため、人事の干渉を受け、袁紹が自ら大将軍に就任した。これにより、官位としては袁紹の下にある俺は、形式上は袁紹に頭が上がらなくなってしまった。ちなみに劉備もこの頃、徐州を失い、一時的に曹操の下に身を寄せていたりする。面白い巡り合わせだ。


俺は皇帝の無事帰還を祝うため、形式上ながら許昌に赴き、曹操らと面会した。都は活気を取り戻しつつあったが、どこか慌ただしい空気が漂う。


「陛下、御無事で何よりでございます…」


形式的な挨拶。


「うむ、其方も建壮で何よりだ。誰ぞ、勅令をしたためよ」


皇帝の声は以前より力強い。


「はっ!」


側近の宦官が動く。


「これより、并州、幽州、冀州は、衛将軍高順が差配するものとする!」


この皇帝判断には、さすがの曹操も顔を曇らせた。冀州の実効支配は袁紹が握っているのに、その統治権を俺に与えるとは、袁紹を刺激する明らかな嫌がらせだ。皇帝なりの権力バランス策だろう。しかし、曹操はぐっと堪えた。今、最大の敵は淮南で皇帝位を僭称しようとしている袁術であることを、彼はよく理解していた。冷静さを保っている。


「孟徳、今のお前にとって最大の敵は袁術と、其の身の内に沸き起こる怒りだぞ。平静を失うな」


わざとらしく忠告する。


「判っておる!判っておるが…、この歯痒さ!」


曹操は拳を握りしめる。袁紹への鬱憤がたまっている。


「沈めろ、その怒りを。時は必ず来る。其れまで待つのだ」


俺は平静を装う。


「…!」


曹操は深く息を吸った。


俺は傍らにいた曹操の長男、曹昂に話しかけた。


「子脩、お前の父親は既に乱心し始めておる故、暫くは閉じ込めた方が良いぞ?目を離すなよ」


冗談半分に。


「叔父上、我が家の事に口を出すのは如何なものかと?父は冷静です」


曹昂はきっぱりと言い返す。しっかりしている。


「出過ぎた真似かもしれぬがな、しかし、お主の父がこの怒りに任せてでもしでかしたら、其れこそ我が大漢朝の亡国の秋となりかねんぞ?」


大げさに言ってみる。


「なっ!?」


曹昂はたじろいだ。


そらそうだ。劉備なんていう、仁義に厚い皮を被って現実を見誤る男に、この乱世を収めさせられるかどうかは甚だ疑問だ。仮に収められたとしても、曹操ほどの政治力、軍略で円滑に治まるとは思えん。南の孫権に任せるにも、心許ない。俺は…俺は己の保身と、できるだけの平和しか考えていない。天下を統一し、新たな秩序を築くほどの大志も器量もない。そうなると、この時代で唯一、超世の英傑と呼ぶに相応しい曹操以外に、この国を立て直せる者はいないのだ。彼には乗り越えてほしい。


「さて、そろそろ引き取るとするか。袁本初の手の者に気付かれる前に戻らねばな」


席を立つ。


「もう、行くのか?」


曹操は残念そうにする。


「うむ、俺が長くここに居たら、お前の立場も悪かろう?袁紹の機嫌を損ねるかもしれん」


現実的な理由を述べる。


「うむ、長く留められぬのは残念ではあるが…、いずれ、また会おう!」


曹操は力強く握手を求めてきた。


「あぁ、何れな。其の時は、腹を割って話そう」


握手を交わす。


俺は許昌を後にし、并州へと帰路についた。しかし、その帰路の途中で、袁紹の手の者と思わしき一団に出くわした。待ち伏せか?


「高将軍、しばしお時間、宜しいでしょうか?」


物腰柔らかな、しかし油断のならない男。


「ほぅ?宜しいか宜しくないかは、其方が名乗らぬ限り、此方も何とも言えぬな。袁紹の使いか?」


警戒する。


「ハハハ、これは失礼。応劭と申します。確かに袁紹公のご意向を受けて参りました」


応劭。有能な文官で、袁紹の側近の一人だ。やはり来たか。説得か、脅しか。


「ケッ! 袁紹の者が、俺に何の用だ? 大将軍殿下のご威光を笠に着て、説教でもしに来たのか?」


嫌味を言う。 袁紹は確かに、天下の群雄の中でも最強の一人だ。家柄、兵力、領土、人材、全てにおいて圧倒的な力を有している。総合的に見れば、間違いなく最強だ。しかし、その器の大きさや人徳は、その地位に見合っていない。だからこそ、後々、曹操に官渡で打ち破られるのだ。近頃の袁紹は、曹操が皇帝を迎え入れたことに業を煮やし、自分が大将軍になった権威をふりかざして、《大将軍である自分の命令には従え》と、手紙でほざくようになっていた。滑稽だ。


最初から従う気など毛頭ないから、聞く耳持たんがな。今の俺の最優先事項は、長安に残る李傕ら残党を討ち、かつての恩人である盧植将軍を救い出すことだ。袁紹の野望など、其れからだ。


計画を立て、俺は河東郡まで進軍し、其処で張五らと合流した。今回の軍事行動は極力小規模に抑える。俺、樊稠、張郃の三人と、精鋭一万八千。目立つ動きを取らず、ひたすら長安へと向かう。道中、特に邪魔もされず、すんなりと長安城外までたどり着くことができた。幸い、肝心の李傕は、西涼の馬騰・韓遂らとの戦いに出陣中で、城中の守備は手薄だった。俺は援軍を名乗り、何とか城門を開けさせ、城内に入り込んだ。


「この度の援軍、痛み入る。李将軍はご不在とのこと、我々がしばらく城の守備を預かるとしよう」


厚かましく宣言する。 礼を欠いた態度の守将は、後で始末すればよい。まずは目的を果たす。俺は張五に合図を送り、盧植将軍が幽閉されている牢獄の場所を探らせた。


夜陰に乗じて、俺たちは長安の牢獄に忍び込んだ。腐敗した食物と瘴気が充満する薄暗い牢内で、一人の老将が痩せ細った体を板の間に横たえていた。盧植だ。かつての面影はなく、ただ無念さだけがその顔に刻まれている。見るからに衰弱している。


「将軍、盧将軍! お目を覚ましてください!」


張五が声をかける。


「うぅむ…、誰だ…?孝父か? ふふ、遂に幻でも見るようになったか…。情けないな」


かすれた、弱々しい声。胸が締め付けられる。


「将軍…、すぐにここから連れ出します。もう大丈夫です」


俺が声をかける。


「…最早、遅いようだな。儂を置いて、お前たちは早く逃げよ…」


死を覚悟した言葉。


「とんでもない!そんなことはございません! さあ、急ぎます!」


俺は盧植の体を背負い、張五らに周囲の警戒を命じた。


ついでに、同じく囚われていたと思われる人物を探させると、司馬防も見つかった。取り敢えず、こっちも連れて行く。将来、あの陰険で人を食ったような司馬懿に恩を売っておくのも、悪い投資じゃあるまい。投資と言っては失礼か。


「先生、お疲れでしょう。共にお連れします。申し訳ございませんでした、お救いするのが遅れまして」


丁重に声をかける。


「…高将軍か。ならば、この混乱に乗じて、あの賊を討伐するのだな?」


司馬防は冷静だ。


「はい。まずは御安全な場所へ」


急ぐ。


作戦は単純だ。張五らが城内の各所で火を放ち混乱を引き起こす。樊稠が城外で待機し、脱出する俺たちを迎え撃つ。城を脱出したら、そのまま東へ向かい、許昌を目指す。そういう寸法だ。


幸い、戦闘らしい戦闘もなく、すんなりと城門までたどり着けた。樊稠の軍と合流し、東へと急いだ。背後では長安城内が騒然となっている。


四日間、馬を走らせ続け、高陵まで来た時、盧植の体がついに限界を迎えた。あまりの衰弱ぶりだ。


「ふふ…、孝父、助けてくれたは良いが、儂はどうやらもうダメみたいだな…。この体、長年の無理が祟ったようだ」かすれ


「…最早、遅いようだな。儂を置いて、お前たちは早く逃げよ…」 盧植の声はかすれ、息も絶え絶えだった。


「とんでもない! そんなことはございません! さあ、急ぎます!」


俺は盧植の体を背負い、張五らに周囲の警戒を命じた。盧植の体は驚くほど軽かった。長年の牢獄生活が、彼の肉体と精神を着実に蝕んでいた。


ついでに、同じく囚われていたと思われる人物を探させると、司馬防も見つかった。彼もまた憔悴しきっていたが、眼光だけは鋭く、状況を理解しているようだ。取り敢えず、こっちも連れて行く。将来、あの陰険で人を食ったような司馬懿に恩を売っておくのも、悪い投資じゃあるまい。投資と言っては失礼か。


「先生、お疲れでしょう。共にお連れします。申し訳ございませんでした、お救いするのが遅れまして」


丁重に声をかける。


「…高将軍か。ならば、この混乱に乗じて、あの賊を討伐するのだな?」


司馬防は驚くほど冷静だ。


「はい。まずは御安全な場所へ」


急がなければ。


作戦は単純だ。張五らが城内の各所で火を放ち混乱を引き起こす。樊稠が城外で待機し、脱出する俺たちを迎え撃つ。城を脱出したら、そのまま東へ向かい、許昌を目指す。そういう寸法だ。


幸い、戦闘らしい戦闘もなく、すんなりと城門までたどり着けた。樊稠の軍と合流し、東へと急いだ。背後では長安城内が騒然となっている。李傕の残党たちの怒号や、混乱する兵士たちの声が遠くまで響いていた。


四日間、馬を走らせ続け、高陵まで来た時、盧植の体がついに限界を迎えた。あまりの衰弱ぶりに、最早これ以上は無理だと悟った。


「ふふ…、孝父、助けてくれたは良いが、儂はどうやらもうダメみたいだな…。この体、長年の無理が祟ったようだ」


彼はかすれ声で言い、わずかに笑った。その笑顔は、苦しみよりも安らぎに満ちていた。


「何を仰いますか!もう少しだ! 許昌まで!」


俺は必死で叫んだが、それは自分自身への叱咤でもあった。


「自分の事は自分が一番わかる。気休めは良い…。息子を…頼んだぞ?」


盧植の目が、はっきりと俺を見据える。


「お身体に触りますので、もう此処まで…。ゆっくりお休みください」


俺は彼の手を握りしめた。冷たくなりかけていた。


「ふふ…、司馬大人…、どうか、陛下をお頼みいたします。此の国を…」


最後の力を振り絞って、司馬防に宛てた。


「…承知いたしました」


司馬防は深く頷いた。


「大将軍…、何ということに…」


盧植はそう呟くと、静かに息を引き取った。その顔は、苦しみよりも安堵に満ちているように見えた。長い苦しみから解放されたのだ。


俺はその亡骸を、道中で調達した楠の木の棺桶に丁寧に収めた。盧植老師ほどの人物に、これしかできない己が情けなくなる。行軍を再開し、重い空気の中、河内郡まで来た時、司馬防をその地に送り届けるよう樊稠に命じた。司馬防は「いずれ恩は返します」とだけ言い、去っていった。俺は急ぎ晋陽へと駆けつけた。并州の状況が気がかりだった。


途中、ふと考えた。弘農郡あたりは、奪取できないものか? ついこの間まで、領土拡大にあまり興味を示さなかった俺が、急に? と思われるかもしれんが、専守防衛に徹していると、相手はこちらの弱腰と見て、どんどん調子に乗ってくる。袁紹が良い例だ。だから、ある程度はこちらの力を示すため、積極的に領土を拡大する示威行為も必要だ。特に、司隷校尉部の一部を手中に収めれば、皇帝や曹操に対する発言力も増す。何より、李傕さえ完全に討ち取れば、司隷の大半は我が手中に収まる可能性すらある。賈詡なら、そう助言するだろう。


「皆! 辛いだろうが、あと少しの我慢だ! 張五!」


「へい!なんでござんしょ?」


相変わらずの軽口だが、目の下に隈ができている。よく働いてくれた。


「軍を集めよ!目標は弘農だ!」


決断を下す。


「へい!どのくらいお集めしましょう?」


張五の目が輝く。


「文和先生に伝えれば、こちらの意図を察して必要な兵を準備してくれているはずだ。すぐに晋陽へ走れ!」


賈詡の読みには絶対の自信がある。


「へい!」


張五は馬を走らせ、晋陽へと向かった。果たして、賈詡は既に兵を揃え、待ち構えていた。張五に渡された兵数は十五万。郝萌、魏続、曹性らの将も付いている。流石は賈詡、こちらの考えを先回りしている。


「将軍には、『お好きなだけ浪費されると良いとでも伝えておけ』と、文和先生が申しておりました」


張五が賈詡の嫌味とも本心ともつかない言葉を伝える。


「へい!ところで先生、ひとつ聞いても良いですかい?」


張五が突然、真面目な顔になる。


「何かね?」


賈詡は眉をひそめる。彼が真面目な時は大概、とんでもないことを聞いてくる。


「あのう…、この前町で見かけた娘さんを口説きたいんですが…、どうしたら宜しいんですかね?」


やはりだ。


「…」


賈詡は絶句した。


「…」


張五は真剣な眼差しで待っている。


賈詡は無言で張五をじっと見つめ、深くため息をついた。その表情は、「知るか!」の一言に尽きるものだった。


しかし、何せこの張五は高順のお気に入りである。余り出過ぎた事を控え、なる可く事を荒立てずに過ごしたい賈詡としては、適当にあしらうしかなかったのだろう。


「…早く行かねば、高順将軍に叱られますぞ?」


賈詡はそっけなく言い放っただけだった。


弘農攻略戦は、準備万端の軍勢によって容易く成功した。準備されすぎているほどだった。弘農の地は、かつて張済が治めていたこともあり、その甥である張繍に任せることにした。これで西方への備えも多少は安心だ。張繍も賈詡も、元は董卓軍の流れをくむ者同士、気が合うかもしれん。


「さて、これからは戦が起こらんと良いな! しばしば、内政に力を入れられるぜ」


俺は呟いた。


「へい!あっしもやっと、あの町の鈴ちゃんと…」


張五がニヤニヤしながら近づいてくる。


「ん?誰だ?」


聞き返す。


「へ?あぁ、実はあっし、結婚することにしたんでさ…。報告が遅れてすんません」


照れくさそうに言う。


「ほぅ?儂らには告げずにか? ずいぶんと内緒にするじゃねえか!」


わざと怒ったふりをする。


「す、すんません…」


張五が縮み上がる。


「よぅし!皆、聞け! 戻ったらコイツの結婚祝いだぞ! 思いっきり祝ってやれ!」


大声で宣言する。


「「おぉ〜!やったぜ!」」


兵士たちの歓声が上がる。


「そうだ、お前、めでたいことだ。今度から名前を『亮』に変えろ!字は…、そうだな、忠権で良いだろう! 明るく、権威に忠実な将になれ」


俺は冗談半分に言った。


「へ、へい!うぅ…、張亮、でございます…。俺ァ幸せもんだぁ〜…」


張五、いや張亮は涙を浮かべて喜んだ。


「ハハハ!いい男になるんだぞ、啜り泣いてんじゃねえ!」


俺は彼の頭を軽く叩いた。


こうして張五は、張亮として新たな人生を歩み始めることになった。何だかんだで、俺も嬉しいものだ。


さて、并州に戻り、真っ先に賈詡のもとを訪れた。彼は相変わらず、薄暗い書斎で書物を読んでいた。蝋燭の灯りだけが、彼の知性的な顔を浮かび上がらせる。


「文和先生、久しぶりだな」


声をかける。


「…お帰りなさいませ、将軍。ご成功のご様子、何よりです」


賈詡は顔を上げ、わずかに笑った。彼にしては上機嫌だ。


「ああ、助かった。だがな、先生。この高順、考えを改めた」


俺は正面から告げる。


「ほう?」


賈詡は興味深そうに眉を上げた。


「天下を取る、というほどの大それた野望ではない。だが、このまま北の辺境で大人しくしていても、狼どもが勝手に暴れ回り、結局は巻き込まれてしまう。袁紹のように。ならば、俺ももっと積極的に動く時が来たのではないかと思うた」


腹の内を明かす。


「ふぅ…、天の風雲は不測だと言うが、真だな。将軍までが、その風雲に動かされるとは」


賈詡は深く感慨にふけるように言った。


「…ふふふ、『謀事は人に在り、成事は天に在り』ってやつだな! やるだけやってみるさ!」


俺は力強く宣言する。


「で、まずはどうされるおつもりで?」


賈詡は核心を突いてきた。


「袁紹を叩く。あの男がいる限り、河北に平和は訪れん」


はっきりと目標を告げる。


「ほう?袁紹は強大ですぞ?」


賈詡はわざとらしく危惧の色を見せる。


「だからこそだ。これより天下は恐らく、高、曹、孫、劉の四家に別れるだろう。いや、ならせる」


俺は自信を持って言い切った。


「何故、そこまで?」


賈詡の目が鋭くなる。本気で聞いている。


「ふふ、この高順には、文は天下無双の先生が有り、武には張文遠が居る。天下を縦横するに余りある!文官の首は先生、武将の首は文遠、其れに儂がついていれば、天下を一統し、太平の世を築くことだって夢じゃない!」


思わず熱が入る。


「ははっ!そのお言葉、光栄の至りに存じます」


賈詡は苦笑いしながらも、内心では認めたようだ。


「さあ、始めようぜ!先ずは政戦両略を論じ、その後、国事を議しよう!」


俺は拳を握りしめた。


かくして、一ヶ月後。高順軍の文臣武将が一堂に会する会議が、晋陽で開かれることとなった。この会議が、その後数年、天下の諸侯を悩ませ、震撼させることになるとは、この時、誰も予想だにしていなかった。


会議場は重苦しい空気に包まれていた。中央に座る俺を囲み、右側に賈詡を筆頭とする文官団、左側に張遼を首席とする武将たちがずらりと並ぶ。張郃、徐栄、郝萌、曹性、魏続、そして新たに加わった田豫や田楷、単経の面々。皆、これからの方針に期待と不安を抱いている。


「皆、集まったな」


俺は重々しく口を開いた。


「今日集まった理由は、一つ。俺たちの進むべき道を決めるためだ」


場内の空気が一層張り詰める。


「今、天下は乱れている。皇帝は曹操に擁され、袁紹は大将軍として我が上に立ち、袁術は淮南で勝手な真似をし、孫策は揚州で勢いを増し、劉表は荊州で高見の見物を決め込んでいる」


「我々は、北の辺境でここまで勢力を保ってきた。しかし、もはや傍観しているだけでは済まない。袁紹の野心は収まらず、いずれは我が領土にも牙をむいてくるだろう」


武将たちから低い唸り声が上がる。


「故に、俺は言う! 攻勢に転じる時が来たと!」


「おぉー!」


武将たちの歓声が上がる。特に張遼の目は輝いていた。


「しかし、無闇な進攻は避ける」


俺は手を挙げて沈静化を図る。


「まずは、河北の地を固め、民心を安定させなければならない。その上で、袁紹の弱点を突くのだ」


賈詡がゆっくりと立ち上がった。


「では、将軍。具体的な策を述べさせていただきます」


皆の視線が賈詡に集まる。


「まず、袁紹の弱点はその内部にある。長男の袁譚と次男の袁熙、三男の袁尚の後継争いが既に始まっております。これに郭図、審配、逢紀ら重臣たちがそれぞれ派閥を作り、内部は分裂状態です」


「外部から見れば強大な袁紹軍も、内実は脆い。我々はこの分裂を助長し、内部から崩していけばよい」


「具体的には?」


張遼が鋭く問う。


「袁譚派には『袁尚が後継者に内定している』と囁き、袁尚派には『袁譚が兵を集めている』と流す。単純な策ですが、猜疑心の強い連中には十分効きます」


賈詡は冷ややかに笑った。


「そして、最も重要なのは、曹操との連携です」


「曹操か…」


俺は腕を組む。


「あの男も油断ならんが、今は袁紹が共通の敵だ。手を結ぶ価値はあるだろう」


「その通りです」


賈詡が頷く。


「曹操は皇帝を擁している。大義名分を得るには、彼と組むのが得策です。ただし、いつまでその関係が続くかは分かりませんがな」


「わかった」


俺は決断した。


「文和先生、曹操への使者を頼む。袁紹討伐の同盟を結びたいと伝えよ」


「承知いたしました」


「次に、軍備だ」


俺は張遼を見る。


「文遠、兵士の訓練はどうなっている?」


「はい! 并州兵は常に万全の状態です! 新たに加わった幽州兵の統率も順調に進んでおります。いつでも出陣できます!」


張遼は力強く答えた。


「良い! 郝萌、曹性、魏続、お前たちは国境の守備を強化しろ。袁紹の不意打ちに備えよ」


「「「承知いたしました!」」」


「徐栄、張郃、お前たちは幽州の守りを固め、公孫度や鮮卑の動きを監視しろ」


「「お任せください!」」


「田豫、田楷、単経、お前たちは旧公孫瓚軍の兵士たちをまとめ、新たな部隊を編成せよ。その経験を活かしてくれ」


「「「はい! 必ずやご期待に沿います!」」」


三人は熱意に満ちて答えた。


「そして、最後に…」


俺は深く息を吸った。


「俺は直接、袁紹の本拠地である鄴を衝く」


場内が騒然となる。


「将軍、それは危険では?」


賈詡が眉をひそめる。


「確かに危険だ」俺は認める。


「だが、最も効果的でもある。袁紹の注意を引きつけ、内部の混乱を助長できる」


「しかし、兵力数的に不利です」


張遼も心配そうだ。


「だからこそだ」


俺は笑った。


「少数精鋭で奇襲をかける。俺と文遠、そして選りすぐりの兵だけで十分だ」


「では、私もお供を!」


張遼が即座に申し出る。


「もちろんだ。お前がいなきゃ話にならん」


俺は張遼の肩を叩いた。


「それと、牽招も連れて行く。彼の北方での経験が役立つだろう」


「ありがとうございます!」


牽招は感激した様子で頭を下げた。


「会議はこれまでだ。各々、準備に取りかかれ!」


俺は宣言した。


「「「おぉー!!」」」


武将たちの熱気に包まれながら、俺は賈詡の方を見た。彼は静かに頷き、何事かを考えているようだった。


「先生、何か思うところでも?」


「いえ、ただ…将軍の覚悟が本物だと確信いたしました」


賈詡はかすかに笑った。


「これからが本当の戦いですな。どうか、お気をつけて」


「ああ、心配するな」


俺は自信に満ちて答えた。


「天下の趨勢は、ここから動き始める。俺たちの手でな」


かくして、高順軍は新たな段階へと進んだ。静かにたぎる戦雲は、やがて河北全体を覆い、天下を巻き込む大乱へと発展していくのである。

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[良い点] 更新ありがとうございます。 改稿もされているので読み直しをして 楽しませていただきます。
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