第十六回 袁公妙計出強兵 賠了半州又折将
時は建安四年、春。晋陽の街は、長く厳しい冬の終わりとともに、ゆっくりと息を吹き返し始めていた。路地裏には残雪がまだらに残るが、日差しは確かに暖かく、城壁の影でひそひそ話をするように咲く蒲公英の花が、春の訪れを告げていた。市場は活気を取り戻し、農民たちは畑を耕し始め、兵士たちの顔にも、冬の緊張感から解放された安堵の色が浮かんでいた。
そんなある穏やかな午後、高順は政務室で一枚の書簡を手にしていた。曹操が兗州に無事帰還し、密約に基づき軍備増強と内政安定に鋭意努めている、との報告である。高順は書簡を置くと、窓辺に立ち、遠くに広がる新緑の丘を見つめた。
「ふむ…曹孟徳め、さすがは動きが早いな。こちらの準備も急がねばならんわ」
広大な領土の統治、屯田制の行き過ぎた兵農分離から来る弊害への対策、そして将来的な府兵制への移行準備。彼の頭脳は、常に未来を切り拓く青藍の図面で埋め尽くされていた。領民の負担を減らしつつ、戦える兵力を如何に確保するか。この難問に、彼は日夜頭を悩ませていた。
「父上!父上!」
背後から元気な声が響き、続いてドタドタという足音。振り向くと、顔を紅潮させた長男が飛び込んでくる。その手には、小さな木でできた不格好な刀が握られていた。
「今日、僕、木登りで城壁のてっぺんまで登れたんだ!すごいだろ!」
高順は思わず笑みを漏らした。この子の元気さだけは、誰にも負けない。
「おう、すげえな!…って、おい!城壁は登る場所じゃねえだろ!落ちたら死ぬぞ!守備の兵士に怒られるぞ!」
「へへん、平気だよ!僕、将来は張遼叔父さんみたいな大将軍になるんだから!高い所なんてへっちゃらさ!」
「大将軍はまず軍律を守れっての。明日から城壁登りは禁止だ。わかったな」
「えーっ!ずるいよー!」
長男が不満そうに口をとがらせるその時、おっとりとした次男が、読んでいた分厚い竹簡をぱたんと閉じながら、冷静な口調で言った。
「兄上、『孫子』の『謀攻篇』に曰く、『其の戦わざるを善の善なる者と為す』。つまり、戦わずして勝つのが一番ってことですよ。城壁登りなんて無駄なリスクは避けるべきです。そもそも、城壁は防衛のための施設であり、遊び場では」
「うるさいな、学者バカ!お前はずっと本ばっかり読んでろ!僕は実際に体を動かすんだ!」
「学者バカとは失礼です。私は父上のような智将を目指しているのです。蛮勇とは違います」
「なんだと!この蛮勇が!」
「おいおい、食卓で兄弟げんかはよせよ」と高順がたしなめるが、その顔は少し緩んでいた。こんなささいな喧嘩も、守るに値する平和の証しだ。末娘が高順のひざの上でごろごろと喉を鳴らすように笑い、その様子を楽しんでいる。
夕餉の時間は、そんな家族の喧騒と笑い声に包まれた。呂芳が運んでくる温かい粟飯と野菜たっぷりの汁、蔡琰が静かに奏でる一曲の琴、董媛が武芸の話を興奮して語る様子。これら全てが、高順にとっては何物にも代えがたい宝であった。戦場での殺伐とした空気、策略渦巻く政務の場での緊張。それら全てを忘れさせてくれる、唯一の安息の時だった。
しかし、乱世の平和は所詮薄氷の如きもの。その脆い安寧は、一枚の早馬による泥汗にまみれた使者の到着によって、粉々に打ち砕かれた。
「緊急の報せでござる!冀州の袁紹、大軍を催し河内方面より我が領目指して進軍開始せり!先鋒は顔良、文醜でござる!」
息もつかせぬうちに、二人目、三人目の使者が続いた。
「同じく緊急を要する報せ!兗州の曹操、皇帝の詔を奉ずると称し、兵を動かし河内周縁に迫る!」
「さらに!幽州の公孫瓚、精騎を率い雁門郡に侵攻せんとす!その勢い、止まることを知りませぬ!」
袁紹、曹操、公孫瓚。河北と中原に覇を唱える三勢力が、期を同じくして、文字通り三方向からの侵攻の兵を挙げたのである。まるで示し合わせたかのような、完璧なまでの同時攻撃。背後に黒い知略の影を感じずにはいられなかった。使者たちの必死な表情、その報告内容の重みが、居間の温かい空気を一瞬で張り詰めた緊張感に変えた。子供たちもその異様な空気を感じ取ったのか、静かになった。
高順はゆっくりと立ち上がり、「わかった。直ちに軍議を始める。各将を招集せよ」と静かに、しかし強く命じた。彼の顔からは、さきほどまでの穏やかさは消え、鋼のような意志の色が浮かび上がっている。
書斎では、壁に掛けられた巨大な羊皮紙の地図が、彼の領土を赤く、敵の侵攻路を黒い太い矢印で呪わしく示していた。圧倒的な兵力の差。高順軍は単独ではいずれの勢力よりも数的優位に立つ。しかし、三正面同時となれば話は別だ。兵力を分散させねばならず、各個撃破の危険は否めない。補給線は伸びきり、兵士の疲労は頂点に達する。まさに、かつての主君呂布が下邳で陥った窮地そのもの。無駄な戦いで将兵を死なせまいとする彼の信念が、この絶体絶命の状況に強い嫌悪感と怒りを抱かせた。
「……しゃあねえな。三正面とも戦うか。うちは兵力が多いのが取り柄だからな。人海戦術でいくか!(笑)」
高順は苦い笑いを一つ漏らし、そう吐き捨てた。しかし、その軽口とは裏腹に、彼の指先は無意識に顎に触れ、硬直していた。
「夫君」
静かに、しかし確かに障子が開かれた。現れたのは妻蔡琰であった。彼女は湯気がほのかに立つ白磁の茶碗を両手で丁寧に捧げ持ち、ゆっくりと室内へと歩み入る。その佇まいは、殺伐とした軍議の空気を、一瞬で穏やかなものに変えた。
「お茶を召し上がって。…何をそんなに深くお悩みで?」
「ん?悩んでないぞ?ただ、三つもの敵が同時に襲ってきやがって、ちょっと面倒だなぁ、と思ってるだけだ」
高順はわざとらしく肩をすくめて見せた。しかし、蔡琰の観察眼は鋭い。
「夫君のその『癖』、いつまでも治らないんですね。ふふっ」
「ちっ…、何で分かった?」
「何年も枕を共にしているのですから?当然分かりますよ。夫君が本当に難しい局面に立たされ、内心で大きく揺れ動いている時、無意識に顎に手をやるお癖が。新婚の頃からずっと、です。媛姉様も呂夫人も、皆知っていますわよ」
「な、全員かよ…」
高順は少し恥ずかしそうに顎から手を離した。
蔡琰は優雅に微笑みながら茶碗を書案の上に置くと、ゆっくりと語り始めた。その声は、琴の音のように澄んでいて、かつ落ち着きがあった。
「妾身は兵法韜略の一、二を粗く知るだけで、沙場の実際の塵一つ、血の一滴すら分かりはしません。ただ、媛姉様が申しておりました。『良い子ぶって、戦いを厭うくらいなら、家の中で首をくくれ』と。夫君は将軍です。戦うために生き、戦うことでこの乱世に秩序をもたらそうとされている。その覚悟を、今更翻されるおつもりですか?」
「けっ!昭姫までがうまく俺のケツを叩きに来たってわけね!あの虎娘の影響を受けすぎだぞ、昭姫」
高順は苦笑したが、蔡琰の言葉は確かに彼の心の襞に触れていた。
「ふむ、確かにな、俺も戦に嫌気がさしたのかもしれん…いつどこで誰が死ぬかを恐れているのかもな…家族ができて、守るものが増えたせいか、無様にも慎重になりすぎていたところがある」
「あら、意外ですね。夫君は沙場以外の場所では生きづらい方なのでは?と思っておりましたよ」
「あのなあ…、戦争はしないに越したことはない。と俺は思ってる。血を流させ、家族を引き裂く。最悪の悪だ。だがな、昭姫、その戦争もまた、俺たちが生きるこの世の、忌むべきほどに現実的な『営み』の一つだ。…『良い子ぶってる』か、確かにそうなのかもしれないな。平和を願いながら、戦いの技術のみを極め、戦いで領土を広げてきた。矛盾してるよな」
高順の言葉には、乱世の将帥としての深い諦観と、それでも尚戦わねばならぬ者としての悲壮感がにじんでいた。蔡琰は静かに彼の横に座り、そっと袖に手を添えた。
「矛盾など、誰のうちにもあります。大切なのは、その矛盾と向き合い、己の信じる道を愚直に進むことでは?夫君が戦うのは、单なる野心のためではありません。この晋陽の、并州の、夫君の領する全ての地の民が、今日のように夕餉の煙を安心して上げられるため。私たち家族が、笑い合えるため。そのための戦いなら、妾はたとえ血の海が眼前に広がろうとも、夫君を信じております」
蔡琰の機知に富み、かつ核心を愛に満ちた言葉は、高順の胸中の迷いの靄を、見事に吹き払った。彼は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。目の中に、曇りなく研ぎ澄まされた闘志の光が戻ってきた。
「昭姫、助かった。お前の言葉で、吹っ切れた。《二人》の妻に言われてな(董媛の分も含めて)。この戦、必ず勝ってくる。俺が守るべきものは、領土や権力なんかじゃない。お前たちや子供たち、そして俺の旗下で生きる全ての者たちの平穏な暮らしだ。それを壊そうとする者には、たとえ袁紹であろうと曹操であろうと、全力で歯を食いしばって戦うまでだ」
「はい!それでこそ、大漢朝の前将軍にして我が夫、單臂にて天を擎げ、独騎にて山河を傲る高孝父ですわ!」
蔡琰の目尻が、わずかに潤んだ。高順は立ち上がると、書案に向かい直した。蔡琰は一礼して静かに退出し、夫が没頭する時間を妨げない配慮を見せた。
明け方近くまで、高順の書斎には硯の音と、時折つぶやく計算ずくの声だけが響いていた。地形に対する兵の配置、兵站の確保、各将の特性を生かした戦術の組み立て。彼の頭脳はフル回転し、河北の大地を巨大な盤面とし、敵味方の軍勢を駒として縦横無尽に操っていく。三正面作戦の不利は、兵力の絶対数と、敵の思惑の違い、そして何より「時間」を味方につけることで打破する。そう決意した彼の筆は、止まることを知らなかった。
高順の居城、晋陽の将軍府奥向きは、乱世の梟雄の住まいとは思えぬ、整然とした穏やかさと活気に満ちていた。それは、才色兼備で性格も役割も全く異なる三人の妻たちが、奇妙な調和をもってそれぞれの持ち場を守り、高順という巨大にして時に危険なほどの戦争装置を、内側から支え、制御していたからに他ならない。
蔡琰は、当世随一の才女として名高い正室である。父蔡邕から受け継いだ古典、歴史、儀礼に関する深遠な知識、培われた現実を冷徹に見据える眼光は、高順の苛烈なまでに実利を追求する軍政や外交を、内側から補完し、磨きをかけ、時にブレーキをかける役目を果たした。彼女は高順の非公式な最高参謀として、古の戦例や故事成句をさりげなく引き、彼自身の中にある答えや覚悟を引き出すことに長けていた。その助言は常に高順の自尊心を損なわず、かつ核心を突くものだった。今回のように、高順が内心で迷い、癇癪を起こしそうな時には、静かに寄り添い、彼の本来の強さを引き出す潤滑油であった。子供たちの教育係も一手に引き受けており、昼間は学問所で彼らに読み書きを教える優しい師匠の顔も持つ。しかし、時折見せる皮肉なユーモアは鋭く、高順が調子に乗っている時には「夫君、そのお顔、『井の中の蛙、大海を知らず』という故事そのものですわよ」と、さらりと痛いところを突くこともあった。また、彼女の奏でる琴の音は、家族皆の心を落ち着かせ、荒んだ空気を浄化する力さえ持っていた。
董媛は、逆賊董卓の娘という禍々しい出自を持つ、高順の二人目の妻である。外面は父譲りの荒々しさを隠さない女傑で、普段から実用一点張りの革服を好み、府中の警備と高順直属の私兵部隊の統括を一手に引き受けていた。その統率する府兵は、彼女の厳格ながらも公正な采配で精強を誇り、将兵たちからは「鬼夫人」の異名で畏敬の念を抱かれている。高順の出陣時には、自ら甲冑に身を固め、城門まで見送りに行くのが常である。「死ぬんじゃねえぞ、お前。もし死んだら、俺がすぐ後に追っかけて地獄でも殴りのめしてやるからな」と、喧嘩を売るような言葉で送り出すのが、彼女なりの無骨な愛の表現であった。そんな剛胆無比の彼女の内側には、高順に対する一途で激しい想いが秘められており、彼が無事帰還すると、誰よりも先に駆け寄り、わずかな傷にも鋭く反応する。武芸の師として、長男の手解きをしていることもあり、子供たちからは「強い母さん」として慕われている。料理は壊滅的に下手で、台所に立つと必ずといっていいほど鍋を焦がし、兵士ですら引くほどの殺人料理を完成させるが、本人はいたって真面目に作っているため、家族は試食を命じられた時にどうやって逃げるかで暗黙の同盟を結んでいる。先日は「精力がつく!」と称して奇妙な薬草スープを作り上げ、高順が一口飲んで悶絶するという事件も起きた。
呂芳は、呂布の姉という政略的な色彩もあった縁組で嫁いだ、三人目の妻である。蔡琰の知性や董媛の武勇とは無縁の、ごく普通の、むしろやや内気な女性だった。戦乱の世を生き延びてきたが、それ故に争いを深く厭い、平和な日常を何より尊ぶ。高順の霸業を直接支えるような才覚はなくとも、妻としての務めを誠実に懸命に果たそうとした。戦場から疲弊して帰還した高順のために、わざわざ台所に立って好物の素朴な手料理を用意し、子供たちの日常の世話のほとんどを一手に引き受けて、府内に穏やかな笑い声を絶やさない。高順は、何の衒いもない彼女の「普通の温もり」に、殺伐とした日々の中でほっとする安らぎを見出していた。子供たちにとっては、いつも優しく包み込んでくれる「優しい母さん」である。唯一の特技(?)は、誰がいつどこで何を失くしても、彼女に聞けば大概見つけ出してくれることで、府中では「呂芳様の神探し」として有名であり、高順が大事な印綬を無くした時も、彼女が庭の犬の小屋から見事発見したという伝説がある。また、彼女の作る刺繍は非常に精巧で、戦に出る将兵たちはこっそりと彼女に守り袋の作成を頼みに来るほどだった。
この三人が、時に反発し合いながらも、奇妙なバランスで高順という一点を中心に回っていた。蔡琰の知略が董媛の武勇を補い、董媛の強さが呂芳の優しさを守り、呂芳の温もりが蔡琰の冷徹さを和らげる。高順の内政と軍備の安定は、この三人の妻の存在なくしては語れなかった。
高順の側近には、様々な個性の将兵がいたが、中でもひときわ異彩を放っていたのが張五という男であった。元はごく普通の兵士だったが、何故か高順の目に留まり、側近として取り立てられた。武芸は人並み以上だが、どちらかと言えば不器用で、間が抜けており、なぜか憎めない愛嬌があった。天然の失敗やとんちんかんな発言が、緊張した空気をふっと和ませる、いわばコメディリリーフ的な存在であった。
出陣の準備が進む中、張五は武器庫で戟の手入れをしていた。…というより、戟に絡まった紐を解こうとしてもがき、逆に自分が絡まって転びそうになっていた。
「うぉっ!? おい、この紐め、なかなか手強いな… ん? あ、張五さん、大丈夫ですか?」
通りかかった若い兵士が心配そうに声をかける。
「お、おう!平気平気!これはな、新しい戦法の訓練じゃ!敵の足を絡め取る技だ!」
「は、はあ…(明らかに自分が絡まってるだけだろ…)」
そこへ高順が視察に来た。
「張五、お前、また何やってんだ。その姿、まるで繭だぞ」
「あ、将軍!これはですね、えっと、その…」
「いいから早く準備しろ。お前には重要な任務を与える」
張五の目が輝いた。
「はっ!なんですか!?敵将の首を取れとですか!?それとも密偵!?」
「…いや、お前のその愛嬌を利用して、敵を油断させろ。小競り合いで、派手に負けてみせ、俺たちが弱いと思い込ませるのだ」
張五は一瞬ぽかんとしたが、すぐに得意げな顔に。
「任せてください!負けることなら、誰にも負けませんぜ!」
「…褒めてるんじゃねえからな」
高順はため息をついたが、内心ではこの男の持つ奇妙な効果を買っていた。
夜を徹して練り上げられた作戦は、翌早朝、主要な将軍たちを集めた軍議で明らかにされた。三正面への対応である。重臣たちが集まった政務室は、緊張感に満ちていた。
まず、北の公孫瓚に対する雁門方面軍の総大将には、最も信頼を置く張遼を任じた。兵三十万。配下には、かつて董卓麾下で華北の戦いに明け暮れた歴戦の将、徐栄、黑山賊時代に山岳戦や機動戦を極めた張燕、そして呂布軍時代からの古参で冷静な射手、曹性らを付けた。特に徐栄には、その旧縁を利用して遼東の公孫度への工作を指示し、公孫瓚の背後を撹乱させ、可能ならば牽制行動を取らせるよう命じた。張遼の将才と、これらの将たちの特性を生かせば、公孫瓚の精騎といえども容易には突破させまい。高順はそう読んだ。
「文遠、北の守りは任せた。公孫瓚は猪突猛進だが、騎兵の運用には長けている。油断するな」
「承知いたしました。必ずや賊軍を撃退してご覧に入れます」
主戦場となるのは、袁紹本軍との対峙である。高順自らが華雄、李粛ら古参の将と共に兵二十五万を率い、河内と并州の境目に築いた堅固な関塞壱関へと赴く。華雄の豪胆さと李粛の慎重さは、好相補うと高順は判断した。
「華雄、お前の力は袁紹軍を震撼させるのに十分だ。李粛、華雄の暴走を止め、計略で補え」
「お安い御用だ!」
「かしこまりました。華雄将軍、どうかご乱暴のほどはお控えくださいな」
「なんだと、小賢しい!」
そして、残る曹操軍および偽帝劉協を奉じるであろう朝廷軍からの侵攻に対しては、河内周辺の防衛を固める。ここには華雄と並ぶ勇将樊稠に兵二十五万を預け、堅固な防御陣地を構築して迎え撃たせる。曹操は優れた軍略家だが、正面から堅陣を突破するのは得策ではないと見るだろう。袁紹の動向を見て、じりじりと圧力をかけてくる程度と高順は予想した。何より、彼と曹操の間には「密約」がある。曹操が本気で高順を潰しに来るとは思えなかった。これは賭けでもあった。
「樊稠、曹操は狐のように狡い。正面からの衝突は避け、じっと耐えろ。時間を稼ぐのがお前の役目だ」
「任せとけ!一歩も引かねえよ!」
各将に細かい指示を与え、軍議が終わると、晋陽の街は巨大な蟻塚の如く活気に満ちた。兵士たちの甲冑の触れ合う音、馬の嘶き、武器や糧秣を運ぶ車輪の音が喧騒を極め、出陣の緊張感が街全体を包み込んでいった。
城門では、三人の妻と子供たちが見送りに立っていた。蔡琰は静かに深く一礼し、瞳に誓いの光を宿す。董媛は腕組みをして、わざとらしく舌打ち一つ。「アンタ、無事に帰ってこいよ。この城と家族は、俺が命にかけて守るから。…アンタが死んだら、本当に後追いするからな」。呂芳は、うつむき加減だが、しっかりと高順の目を見つめ、小さくこぶしを握りしめて「ご武運を…必ず、お戻りください」とだけ呟いた。子供たちも、いつもと違う父の姿に少し緊張しながらも、「父上、頑張って!」「負けないでね!」と声を上げる。
高順は三人を順番に見つめ、軽く会釈すると、愛馬の鞍に足をかけひときわ大きく「出陣する!」と号令をかけた。その背中は、家族を守る者の確かな覚悟に満ちていた。
行列の後方では、張五が家族に手を振っていた。
「親父、お袋!行ってくるぜ!」
「将軍、家族いるのかよ!」と隣の兵士にツッコまれるのもお構いなしであった。彼なりの決意表明だった。
壱関は、太行山脈の支脈に築かれた天然の要害であった。関の前は比較的开けており、大軍の展開が可能だが、左右は険しい山岳地帯が続き、大部隊的迂回や伏兵の潜むには絶好の地形を成していた。
高順が関に着陣して間もなく、袁紹の大軍がその威容を現した。旌旗は天を覆い、鎧や武器のきらめきは遠くまで続く。その数、優に三十万は下らない。さすがは河北随一の大勢力、その兵力は圧巻である。
高順は諸将の意見を容れ、当初は関に立て籠もる堅実な姿勢を見せた。関門は固く閉ざされ、城壁には無数の弓兵と弩兵が配置され、袁紹軍を迎え撃つ構えを見せる。
これを見た袁紹は、さしたる疑いもなく軍を進め、関前の開けた地に大々的に布陣した。兵力で優り、精強を誇る自軍の力をもってすれば、堅関といえども力攻めで落とせると踏んだのである。先鋒大将麹義率いる先陣は、関前に肉薄し、罵声を浴びせて挑発を開始した。
高順はこの動きを待っていた。彼は到着早々、直属の精鋭六千を、関の周辺の複雑な地形に分散させ、伏兵として潜ませていた。そして、いよいよ「驕兵の計」の始動である。
最初の数日間は、小規模な部隊を関外に出しては袁紹軍と小競り合いを繰り返し、わざとらしく敗走を重ねた。華雄や李粛ら歴戦の将たちは、この危険な作戦を忠実に、そして見事に演じきった。敗走のふりとはいえ、損害を最小限に抑えつつ、敵に「敵は思った以上に弱い」という印象を刷り込んでいく。袁紹軍の兵士たちの間には、次第に驕りと油断が蔓延し始めた。
ここで、張五の出番である。高順の指示通り、彼は小部隊を率いて出撃した。そして、袁紹軍の前で、わざと派手に転び、「うわぁぁ!強いぞー!袁紹軍は怪物か!?逃げるぞー!」と大声で叫びながら、鎧の裾をわざと引っ掛けてまた転び、袁紹軍の兵士たちを失笑させた。さらに、馬から落ちそうになりながら必死にしがみつく姿は、もはや芸の域だった。
「見ろよ、高順軍のあの滑稽な奴!」
「あんな役立たずがいるようじゃ、勝つわけないな!」
袁紹軍の中から嘲笑の声が上がる。高順は城壁からそれを見て、額に手を当てた。
「あのバカ…、やりすぎだ。…まあ、敵の嘲笑を買うって意味では成功かもしれんが……」
李粛が冷静に分析する。
「張五のあの芸達者ぶりは、逆に敵の疑念を買わないでしょうか。あまりに出来すぎてはいませんか?」
「…いや、あの天然ぶりを見せつけられれば、誰もが『こいつら本当にダメな連中だ』と信じるだろうよ。あれは演技じゃない、本性だ」
案の定、袁紹軍の将兵の間では「高順軍にはあんな役立たずもいるらしい」という噂が広がり、さらに油断に拍車がかかった。張五は帰還後、「将軍!如何でした!見事な負けっぷりでしょう!」と誇らしげに報告し、周囲の失笑を買った。
ついに先鋒の麹義が、自らの武勇で関を落とせると判断し、単騎で関門前に駆け出し、名乗りを上げて一騎打ちを挑んできた。
「我こそは冀州の麹義!高順、出て来い!この腕前、見せてくれようぞ!」
高順はこれに応じ、単騎で関を出て行った。両将は激しく打ち合い、二十合ほどが経過する。高順はわざと互角の勝負を見せ、麹義の力量を探る。麹義もまた、流石は河北の名将、槍捌きは鋭く、力も強い。しかし、高順にはもっと大きな目的があった。
やがて、麹義が何かを企んだように、わざとらしく刀を緩め、馬首を返して自陣へと退却し始めた。囮の退却である。高順を深く誘い込み、弓隊の射程内に捉えしようという魂胆だ。
しかし、高順は追わなかった。むしろ、馬を止め、麹義の背中に向かって大声で嘲笑った。
「ほう、逃げるか!河北の誇る勇将も、所詮はその程度か!」
そして、彼が合図のように手を挙げると、関の城壁上一帯に配置された高順軍の兵士たち総がかりで、決め台詞を囃し立て始めた。
「匹夫驍勇来独闘、技不如人逃回営!」(隻身で勇猛に一騎討ちを申し込んだが、技量及ばず逃げ帰ったぞ!)
その嘲笑の大合唱は、関前の平原にこだまし、袁紹軍全体に流れ込んだ。麹義は顔を真っ赤にして怒り狂ったが、高順はすでに関内に引き上げている。この見事な心理戦は、袁紹軍の士気を確実に蝕み、将兵の驕りを決定的なものに変えた。高順の罠は、順調に仕掛けられつつあった。張五はその場限りのアイデアで、「逃回営!逃回営!麹義、尻尾を巻いて逃げたぞー!」と一番大声で連呼し、後で高順に「やりすぎだ。軍律違反だ」とこっぴどく叱られるのであった。しかし、そのおかげで袁紹軍の怒りはさらに増幅したとも言える。
そうして数日が経ち、袁紹軍の攻勢が強まり、関の防戦も幾分苦しくなりかけた頃、高順と曹操の密約が動いた。
河内方面から袁紹軍の側翼に布陣していた曹操軍が、突如として陣を引き払い、戦線を離脱し始めたのである。偽詔によるものと称していたが、その動きは整然として慌てず、明らかに計画的であった。曹操の本営では、参謀荀彧が冷静に指揮を執り、損失を最小限に抑えながら、着実に戦線を後退させていった。
「曹阿瞞!曹操、曹孟徳!…、己え、愚の骨頂だな。この好機を逃して退き返りおって…!!」
袁紹の本陣では、怒号が渦巻いた。最大の援軍であり、戦力を左右する鍵であった曹操の離脱は、袁紹の戦略の根幹を揺るがすものだった。焦りと怒りに駆られた袁紹は、冷静さを失い、残存する主力部隊である顔良、文醜らに強攻を命じた。もはや戦略もへったくれもない、力ずくでの関攻略である。参謀の田豊や沮授が懸念を示すのも聞かず、袁紹は自らの権威と兵力にものを言わせようとした。
「総攻撃じゃあっ!顔良、文醜!関を叩き潰せえっ!高順の首を取った者には褒美を取らすぞ!」
しかし、高順の罠は既に完成していた。深く関の目前まで誘い込まれた袁紹軍主力は、逆に包囲殲滅の危機に晒される形となった。高順が伏せていた六千の精鋭が、袁紹軍の側面と背後から猛然と襲い掛かったのである。山岳地帯から現れた彼らは、地の利を生かし、袁紹軍の大軍を分断し、混乱に陥れた。華雄や李粛も関門を開いて打って出り、挟撃の態勢を整える。
さらに高順は、別働隊からの報告を受けていた。袁紹軍の一部隊、高覧と張郃率いる軍勢が、本戦場から離れて何らかの移動を開始したとの情報である。これを好機と見た高順は、機先を制して、予備として温存していた別動隊に、袁紹軍の背後にある魏郡周辺の諸城への奇襲攻撃を指示した。これにより、袁紹軍の兵站線と退路が脅かされることとなった。
戦場の趨勢は、見る見るうちに高順軍優位に傾いていった。袁紹の焦りから生じた無理攻めが、高順の緻密な罠にはまり、完全に機能し始めたのである。張五も、いつもより少し真面目に、必死に戟を振るっていたが、やはり足を掬われて転び、隣の兵士に助けられるというお約束のパフォーマンスを見せていた。しかし、その転んだ勢いで偶然敵兵の足を払い、友軍がとどめを刺すという僥倖もあった。
優位に立った高順は、ここで一転して驚くべき行動に出た。袁紹のもとに講和の使者を送ったのである。このまま追い討ちをかけ、袁紹本軍を殲滅することも可能かもしれない。しかし、高順はそうしなかった。袁紹を完全に滅ぼすことよりも、現時点で確実に利益を引き出し、将来の真の敵である曹操との対決に備える。彼の頭には、冷徹無比な政略家的判断が働いていた。また、無駄な血を流すことを厭う彼の本性も、この判断に影響していた。
劣勢に加え、曹操の離脱による不安から軍内に動揺が走る袁紹は、この講和の申し出を渋々ながらも受け入れるしかなかった。高順の提示した条件は過酷だった。
冀州西部五郡(常山国、中山国、安平国、趙国、鉅鹿郡)の割譲。そして、智勇兼備の将として名高い張郃の身柄の引渡し。
領土の割譲は痛いが、まだしも理解できる。しかし、有能な将軍の引き渡しは、袁紹の自尊心と軍の士気を深く傷つける屈辱的な要求であった。袁紹は激怒したが、郭図ら追従する者たちの「今は屈して時を待つべきです」という意見もあり、苦渋の決断でこの条件を呑んだ。田豊は「この屈辱を忘れるな!将来の糧とせよ!」と叫んだが、袁紹の耳には届かなかった。
こうして高順は、莫大な戦果を得た。広大な冀州西部を手に入れ、河北における勢力図を一変させた。だが、彼自身が最大の収穫と考えたのは、智将張郃その人であった。
張郃との対面は、質素な陣営の一角で行われた。張郃は敗将としての礼を尽くしながらも、どこか諦観と覚悟を帯びた落ち着いた態度を崩さない。彼は主君に売られたという事実を受け入れ、潔く死を覚悟しているようにも見えた。
高順は余計な駆け引きはせず、直截かつ現実的な説得で迫った。
「どうだ?この俺の下で戦わぬか?」
張郃は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに平静を取り戻す。彼は高順が駆け引きなく本音を語っていることを感じ取った。
「将軍のお言葉は光栄ですが…今更袁紹の所に帰ったところで、私の居場所はないのでしょうか?」
「ないだろうな。お前を見殺しにした上に、講和の条件として差し出したんだぞ?袁紹のところに戻れば、間違いなくお前は殺される。あるいは、二度と表舞台には立てまい。お前の才能を、袁本初は本当の意味では理解していなかった。俺はそう見ている」
「…では、断ればどうなるのです?」
「殺すしかないな」
高順の言葉に嘘はなかった。
「なぜです?私のような敗軍の将に、そこまでの価値が?」
「価値は十分にある。お主ほど有能な将を生かし、いずれ敵として戦場で相まみえるのは、いささか堪えるからな!ならば、今ここで始末するしかあるまい?それが乱世の倣いだ。しかしな、張儁乂、俺はお前の才を惜しんでいる。袁紹の下であれほど目立たなかったお前が、ここぞという時に見せた機略や用兵の確かさは、俺の目に狂いはないと証明している」
高順の言葉は残酷だが、嘘や偽りがなく、戦国乱世の真理を突いていた。同時に、張郃の力量を高く評価していることも伝わってきた。張郃は深く息を吐いた。己の置かれた状況、高順の人物、そして未来が見通せた。袁紹の下では、その才を十分に発揮できなかった。派閥争いや、顔良、文醜のような華やかな将軍たちの陰に隠れていた。しかし、この高順という男は、才を見極め、恐れ、そして活用しようとしている。冷徹だが、無駄な殺生は好まない。その美学すら感じた。
「…、分かりました」
張郃はゆっくりと跪き、深々と頭を垂れた。その動作には、もはや悔しさや未練はなく、新たな主君への恭順の意が込められていた。
「この張儁乂、不肖ながら、将軍の御仁徳と御器量に感じ入りました。故に、この身命を賭して将軍の為に、持ち合わせる物全てを捧げます!どうか、お見捨てなきよう!」
高順の心の中では、歓喜の声が上がった。彼は、この稀有な智将の獲得が、天下争覇においてどれほど大きな意味を持つかを十二分に理解していた。顔や言葉には出さないが、内心では小躍りするほどの大勝利であった。後日、張五が張郃に「よ、よろしくな!俺は張五!…って、張郃さんも張か!よし、これで張一族の絆だ!」と無邪気に話しかけ、張郃を当惑させたのは言うまでもない。しかし、張五のその無邪気さが、逆に硬い空気を和ませ、張郃が新たな環境に馴染むきっかけの一つとなったことも事実である。
講和が成立し、袁紹軍が撤退すると、高順は速やかに新たな支配体制の構築に取りかかった。獲得した領土を安定させることは、戦うこと以上に重要であった。
新たに獲得した冀州西部五郡の統治には、かつて冀州牧であり、当地に人脈と知識を持つ韓馥を起用した。実務能力に優れる彼が、民心の安定と戦後復興に当たるのが最適と判断したのである。韓馥は以前の失態を悔やんでいただけに、この信任に感激し、その能力を遺憾なく発揮することとなる。防衛は、山岳戦やゲリラ戦に長けた張燕と、冷静沈着な曹性に託し、袁紹からの反攻に備えさせた。
そして、最大の戦利品である張郃も、この地に配した。袁紹への最前線であるとともに、張郃の軍事的才能を存分に発揮させるには、独立した指揮権と広い舞台が必要だと考えたからである。高順は張郃に一定の軍権と自治権を与え、その力量を試すと共に、信頼を示した。この措置は、張郃の自尊心を大いに満たし、忠誠心をより強固なものにした。
自身は直属の精鋭部隊を率い、北の戦線へと向かった。張遼軍との合流である。雁門方面で公孫瓚軍を破り、大勝を収めたとの報せが届いていた。詳細な報告書を読みながら、高順は張遼の手腕に感心すると同時に、一抹の複雑な思いを抱いた。
報告書によれば、張遼は公孫瓚の精騎を、見事な伏兵と機動戦術によって殲滅寸前まで追い込んだ。公孫瓚軍の主力は壊滅し、公孫瓚自身も深手を負ってわずかな手勢とともに幽州へ敗走した。しかし、その激戦の中、一人の将だけが突出した働きを見せ、張遼軍の包囲網を突破して脱出に成功していた。その将の名は趙雲、趙子龍。元は公孫瓚麾下ながら、その主家を見限り、劉備に心寄せているとの風聞がある男だ。
報告書には、その戦いの一部始終が記されていた。
張遼は、公孫瓚軍を峡谷におびき寄せ、四方から伏兵を繰り出して包囲した。谷は血で染まり、公孫瓚軍は完全に分断され、もはや絶望的な状況に陥る。その中で、ただ一騎、白馬に跨り銀槍を閃かせる若き将が、獅子奮迅の働きを見せた。その槍捌きは凄まじく、張遼軍の兵士たちを次々と薙ぎ倒し、包囲網の一角を破ろうとする。
張遼自らがこれを迎え撃つ。両雄の一騎打ちは三十合に及び、互いに一歩も引かぬ死闘を繰り広げた。張遼は後に「あれほどの槍使いは久しく遇ったことがない。油断ならず、あの若さであの力量は只者ではない」と語っている。
しかし、趙雲の目的は勝つことではなく、主君公孫瓚の脱出の時間を稼ぐことであった。公孫瓚の旗印が遠ざかるのを確認すると、趙雲は虚を突くように槍勢を変え、張遼の攻撃をかわすと、一気に包囲網の外へ躍り出た。その動きは電光石火、まるで風のように軽やかであった。
張遼は追撃を命じるが、趙雲は追っ手の矢を悉く槍で弾き落とし、わずかな隙をついて戰場の塵にまみれて消え去った。
高順は報告書を閉じ、遠く北の空を見つめた。
「趙雲、趙子龍か…。張遼をして只者ではないと言わしめるとは。逃がしたのは惜しいが、あの男は公孫瓚に屈する器ではあるまい。いずれ、再びその名を聞くことになるだろう」
この趙雲という将の存在は、高順の記憶の片隅にしっかりと刻まれた。乱世には、まだ知られざる英雄が数多く潜んでいる。彼はそのことを改めて痛感し、次の標的である公孫瓚討伐への決意を新たにした。
河北の地図は、袁紹、公孫瓚という二大勢力が並び立つ従来の構図から、高順が最大の勢力として北に聳え立つ、全く新たな局面を迎えようとしていた。高順の霸業は、三人の妻の絶妙な支えと、冷徹無比な軍政両略、そして新たに得た稀代の智将張郃の力により、着実に、そして獰猛に進行していったのである。次の戦いの風雲は、すでに幽州の地に渦巻き始めていた。張五は、新しい土地でまた何をやらかすか、ハラハラさせながらも一行に加わっていた。「幽州か!寒そうだな…でも、新しい食材があるかもしれねえ!よし、冒険だ!」と、相変わらずのんきなことを言いながら。