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第十五回 陳留大戦曹孟徳 飛将帰北赴塞外

長安の血煙がようやく沈静化した頃、俺が心血を注いで築き上げた并州の地は、異様な平穏に包まれていた。帝都の狂乱とは対照的に、北辺の空気は冷たく澄み切っている。呂布の影が長安から消え、王允が果て、徐栄らが和解した混乱の渦中にあって、俺は迷いなく、この北辺の拠点へと引き揚げる決断を下した。ここは、乱世に浮かぶ孤島だ。俺が己の手で、鉄と血と知略で鍛え上げた。


まず手を打ったのは治安の確立だった。軍による直接統制は、民に威圧感を与え、細やかな情報を掴み損ねる。俺は専任の治安維持、情報収集組織の創設を命じた。その名も「錦衣衛」。これは本来、後世の民王朝で生まれた機構名だが、この時代に先取りして使わせてもらう。軍を動かさずとも、領内の秩序を保ち、情報を掌握するための耳目として機能させるつもりだ。


六扇門の長には、厳選した人材を据えた。法に厳しく、情け容赦ない裁きを下せる一方で、市井の事情にも通じ、庶民の息遣いを感じ取れる者たちだ。彼らは黒衣に身を包み、街角に潜み、巷の声を拾い、密告を処理する。初めのうちは、街の喧騒の中に溶け込む彼らの存在に気付く者も少なかった。しかし、ある夜、酒場で刃傷沙汰を起こしたならず者三人組が、事件から一昼夜も経たぬうちに、六扇門の詰め所に晒し者として吊るされているのを民衆が目撃してから、その存在と冷酷な効率は一気に知れ渡った。并州の民は、この新たな組織に好奇と畏怖の眼差しを向け始めていた。陰で「黒鴉」と呼ばれることもあると、六扇門長の李粛が苦笑いしながら報告してきた。俺はそれを聞いて、むしろ満足した。恐れられることが、秩序の第一歩だ。


「李粛よ。鴉と呼ばれようが構わん。だがな、その鴉が、民の屋根の下に巣くう鼠を啄ばむことを忘れるな。ただ怖がらせるだけの存在であってはならん」


俺は李粛の目をまっすぐに見据えて言った。彼は無言で深々と頭を下げた。その背筋には、任務への覚悟が漲っていた。


長安で呂布が敗走し、李傕、郭汜の手に帝が落ちた報せが届くと、俺は即座に行動した。配下の信頼できる将、呉資、章誑、高雅、趙庶、張弘らを、河東、上党、太原、雁門、西河など并州の要衝の太守・城主に任命した。それぞれに厳命を下す。


「朝廷からの一切の詔勅、命令、使者を遮断せよ。勝手な介入を許すな。理由は問わぬ。ただ通すな。それが通れば、并州に再び血の雨が降る。お前たちの守る民が泣きを見る。わかっているな?」


これは、中央の混乱が并州に波及するのを防ぐためであり、何より、俺の計画が露見するのを避けるためだ。特に、あの呂布が敗残の身で流れ着く可能性は、極力排除しなければならない。かつて丁原配下として共に戦った旧友たちを北辺の守りに据え、俺はついに、并州九郡九十八城、およそ四百二十万の軍民を擁する、独立した勢力の主となったのだ。名目上は呂布の支配地だが、その実、全ての糸は俺の手の中にある。鉄の結束と、俺への信頼が、この脆い独立を支えている。


次に着手したのは文教である。乱世にあって武力は必須だが、長期的な統治と民の安定には、知の普及が不可欠だと痛感していた。兵士も、農民も、工匠も、商人も、文字一つ読めず、道理を弁えぬままでは、真の強さは生まれない。これは遠い未来を見据えた、科挙制度の萌芽とも言える構想だ。


当代随一の大儒、洛陽から避難してきた蔡邕を晋陽城内の屋敷に訪ねた。老いてなお気高さを失わないその風貌は、焼け落ちた都の残り香を纏っていた。


「蔡先生、俺は考えている。この并州に、学問を広めることを」


俺の言葉に、蔡邕は眉をひそめた。深い皺が刻まれる。


「高将軍…その志は尊い。されど、乱世に学問を広めるなど、絵空事に過ぎぬ。民は今日の糧を得るのに精一杯ではないか。明日をも知れぬ命、詩書に親しむ余裕などあろうはずがない」


その反応は予想通りだった。俺は膝を乗り出し、熱意を込めて訴えた。


「蔡先生、そのお言葉はもっともです。しかし、この争乱がいつか終わり、天下が太平となる日が来た時、為政者たる者が無知蒙昧であってはなりません。農工商の民であっても、文字一つ読めず、道理を弁えぬままでは、真の平和は訪れません。税の算術ができず、法令が読めず、悪徳商人に騙される民…そんなのは、俺の望む并州じゃない!」


俺は拳を握りしめた。


「并州を、乱世の灯台としたい。暗がりの中で、ほのかな灯火でもいい。人々が知識という杖を手に、明日を踏みしめていく…その礎を、今築かねばならないのです! 先生の力が必要だ!」


机の上に置かれた茶碗の湯気がゆらゆらと揺れる。長い沈黙が続いた。蔡邕の目は虚空を見つめ、過去の栄華と現在の荒廃を行き来しているようだった。やがて、彼はゆっくりと顔を上げ、俺を見据えた。その老眼には、微かな灯火が灯っていた。


「…高将軍の志、並々ならぬものを感じる。洛陽が焼け落ち、書簡が灰となり、多くの学びが失われたこの世にあって…貴公が言う『灯台』という言葉は、老いたるこの心に、奇妙な響きを持って届いた」彼は深いため息をついた。「…わかった。老骨に鞭打って、この無謀とも思える試みに加わろう。されど、道は険しいぞ?」


「ありがとうございます、蔡先生!」


俺は心からの笑顔を見せた。


「険しければ険しいほど、その先に得るものは大きいと信じています!」


蔡邕の協力が得られたことで、州内の郡県に学舎を設け、教材の編纂を始める道筋が立った。まずは太原の晋陽と、上党の長治に、「蒙学」と呼ばれる初等教育の場を設けることから始めた。教えるのは、ごく簡単な文字の読み書き、算術の基礎、そして蔡邕が編纂する「并州倫理」の素読だ。これは儒教の倫理観を基にしつつも、乱世を生き抜くための実践的な道徳隣人を助けること、約束を守ること、家族を大切にすることを平易な言葉で綴ったものだ。教師には、戦乱で職を失った下級官吏や、志ある若者を募った。報酬は決して多くはないが、食い扶持と、将来への希望が与えられる。


始めは、子供を働き手として使いたい親の反発もあった。しかし、「学んだ子は、将来、役所や商家で働く道が開ける」「算術ができれば、商いで損をしなくなる」といった現実的な利点を説き、さらに貧しい家の子弟には授業料を免除し、場合によっては昼食を支給することで、徐々にではあるが門を叩く者が増え始めた。それは小さな種火に過ぎなかったが、いつか燎原の火となる日を信じて、俺はこの政策を推し進めた。


後の世、海を隔てた東の島国日本では、明治維新という大変革期に「殖産興業、富国強兵」のスローガンの下、驚異的な速さで近代化が進められた。その原動力となったのは、世界でも類を見ない速さで整備された全国規模の義務教育制度だった。政府は「学制」を発布し、「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」と掲げ、ほぼ全ての子供に読み書き算盤そろばんを学ばせようとした。寺子屋の伝統が下地にあったとはいえ、国家が強力に推進したこの政策は、短期間で驚異的な識字率の向上をもたらした。


読み書きができる民衆は、新しい技術や思想を吸収し、工場労働者として産業を支え、徴兵された兵士は複雑な命令を理解し、新聞を通じて国家の意志を知り、自らも意見を述べる土壌が生まれた。まさに「民智の開化」が国力の源泉となった好例である。高い教育水準は、技術革新を促し、社会の効率を高め、結果として「富国強兵」を可能にしたのだ。


高順の目指す「学問を領内に広める」政策は、この遠い未来の成功事例を知らぬままではあるが、乱世を生き抜くための「富国」(安定した税収と生産力の確保)、そしてより良い未来への「強兵」(単なる武力ではなく、知性と規律を兼ね備えた兵士、有能な将校の育成という知的基盤)を志向する点で、奇しくも通底するものを感じさせる。高順は、知識こそが真の国力の礎であることを、乱世の只中で直感的に理解し始めているのだ。


并州の求賢令は、州内のみならず、中原の混乱を逃れた者たちの間にも広まった。まず名乗りを上げたのは、董昭、繆尚といった実務能力に長けた文官たちだ。董昭は行政手腕に優れ、繆尚は物資の調達・管理に抜群の才を見せた。彼らは中央でのしがらみに疲れ、新しい風が吹く并州に活路を見出したのだ。


さらに驚いたのは、太原の名門、王允の一族の一部が、密かに接触してきたことだ。族長の弟王晨が代表として晋陽を訪れ、こう言った。


「高将軍、我が一族は漢室を思う気持ちは変わりません。しかし、今の長安は李傕、郭汜の跳梁跋扈する魔窟と化しております。并州に、漢室再興の一縷の望みを託したい…それが本心でございます」


彼らの持つ広範な情報網と声望は、地方豪族との繋ぎ役として貴重だった。俺は彼らを厚遇し、州政の相談役として迎え入れた。王允の名声は、多くの良識ある士人を并州に惹きつける磁石となるだろう。


こうして、かつては辺境と見なされていた并州は、鉄壁の防衛、六扇門による秩序、そして文教と求賢による新たな気風が徐々に醸成され、活気ある「別天地」としての様相を帯び始めた。市井では、中原の惨状を伝える噂話と共に、「并州ならば…」という期待を込めた囁きが聞かれるようになっていた。


しかし、その平穏は脆いものだった。并州の外では、相変わらず群雄が激しく争い、血で血を洗う戦いを繰り広げていた。


并州より東の幽州の公孫瓚と冀州の袁紹が華北の覇権を巡り、界橋を舞台に血みどろの攻防を続けている。袁紹は次第に優勢となりつつあった。


南東の中原の兗州の曹操が急速に勢力を拡大し、青州兵を吸収してその兵力は膨れ上がっていた。徐州の陶謙、豫州の袁術と緊張状態にあり、特に袁術とは一触即発の状況だ。


南の荊州では劉表が地盤を固め、揚州では孫堅がその武勇で勢力を伸ばし、周囲の小勢力と小競り合いを続けている。孫堅の動向は目が離せない。


西の長安では李傕、郭汜が帝を操りつつも、次第に仲違いの兆しを見せ始めていた。


大筋は、俺が知る「歴史」の流れに沿っていた。しかし、その細部には、俺の存在が既に小さな波紋を投げかけ始めている。并州が独立勢力として確立したことが、周辺勢力の思惑に微妙な影響を与えていたのだ。袁紹は并州の動静を警戒し、曹操は…この新たな北辺の勢力を、いつかは何らかの形で取り込むか、潰すか、と虎視眈々と狙っているだろう。


その波紋が明確なうねりとなったのは、劉備と曹操の連合軍が呂布の籠る濮陽を猛攻した時だった。呂布は奮戦したが、曹操の巧みな戦略と、劉備の義兄弟・関羽、張飛の猛攻の前に、ついに濮陽を捨てて敗走した。その報せが、諜報を介して晋陽の俺の元に届く。


「…遂に、か」


俺は届いた帛書を握りしめ、歯を食いしばった。呂布という厄介者が、再び俺の領域に流れ込んでくる可能性が高まった。もしくは…曹操の捕虜となるか。


「許されん…どちらもな」


俺は独り言で。呂布が捕らえられれば、并州に対する曹操の政治的、軍事的圧力は計り知れないものとなる。呂布が并州に逃げ込めば、その存在自体が混乱の種だ。どちらに転んでも、俺が心血を注いで築いた并州の平穏が乱される。


諸将を招集し、軍議を開いた。張遼、郝萌、曹性、魏続、成廉らが顔を揃える。緊張感が張り詰めた空気を震わせる。

「皆の者」俺は冷然と宣言した。「我らは出陣する」


一瞬、場が凍りついた。誰もが次の言葉を待つ。


「標的は兗州の曹操だ」


重臣たちの間に一瞬、ざわめきが走った。呂布から独立し、事実上并州を手中に収めた主君が、なぜ今さら旧主のために動くのか? その疑問と困惑が、彼らの沈黙と僅かに動揺した表情に現れていた。


「…致し方あるまい?」


張遼がようやく口を開いた。彼の目には複雑な想いが渦巻いている。呂布への義理と、俺への忠誠、そして現実的な判断が激しく葛藤していた。彼は呂布と共に長安を脱出し、その武勇を最も近くで見てきた男だ。同時に、并州で俺が成し遂げたことの意義も深く理解している。


「では…」


郝萌が続いた。彼は呂布時代からの古参だが、その実利主義的な性格から、俺の実力を認め従う道を選んでいた。しかし、曹操という強敵に挑む危うさは明らかだった。


「曹操を敵に回すのは…得策とは思えませぬが」


「うむ!」


俺は机を叩き、決然と言い放った。


「朝廷の動向など、今は眼中にない! 我が軍を陳留へ向けよ! このまま曹操に一泡吹かせて終わるわけにはいかん! 旧主たる呂奉先を見殺しにすれば、天下の笑い者となるだけだ!『高順は主君を裏切った上に見殺しにする不義の徒』と、曹操がどれだけ囃し立てるか、想像がつかぬか?」


「義」の名分それは乱世において、兵力以上に重いことがある。特に、俺のように「忠義」を売り物にしているわけではないが、一定の信頼と求心力を必要とする立場ではなおさらだ。見捨てれば、求賢令に応じた士人たちの心も離れるかもしれない。郝萌と張遼は俺の言葉と、その裏にある計算を理解したようだった。


「「はっ!!」」


二人がほぼ同時に声を上げ、深々と頭を下げた。他の諸将、曹性や魏続、成廉らは口を閉ざしたままだったが、その沈黙は、消極的な賛同の証と受け取った。反対はない。


俺は三十五万の兵を率い、并州を発った。兵站を担う董昭の手腕は見事で、大軍の移動にもかかわらず、食糧、物資の不足は全く見られなかった。并州の蓄えと組織力が、初めて大規模な外征で試される時が来たのだ。


河内郡に入ったところで、思わぬ援軍が加わった。かつて董卓配下で、後に長安の混乱から逃れ、北を目指す途中だった華雄と徐栄である。斥候の報告を受けて、彼らを迎えに行くと、街道の辻に立つ二人の姿があった。華雄は相変わらずの巨躯だが、かつての傲岸さは幾分和らいでいる。徐栄は、落ちぶれたとはいえ、鋭い眼光を失ってはいなかった。


「高将軍! お久しゅうござるな!」


華雄が豪快な声を響かせ、馬上で拳を上げる。


「徐将軍、華将軍! まこと暫くぶりでござる!」


俺も馬上から手を挙げて応えた。董卓軍時代、彼らとは何度か戦場を共にした。華雄の武勇、徐栄の用兵眼は侮れない。


「并州の求賢令、耳に入りましたぞ」


徐栄が控えめに、しかし目をしっかりと俺に向けて言った。その瞳には、流れ者としての不安と、新天地での活躍への期待が入り混じっている。


「我等のような者でも、使い道はありますかな?」


「来てくれたか!」


俺は心からの笑顔を見せた。


「歓迎する! まさに人手が足りておらぬ故、心強い限りだ! 華雄は我が本陣の護衛、徐栄は参謀として、その才を存分に発揮してもらう!」


「「ありがとうございまする!」」


二人の顔に安堵と喜びが広がった。特に華雄は、大きな声で笑い、周囲の兵士たちを驚かせた。彼らの戦力は、これから起こる戦いにおいて確実に役立つだろう。


旧友との再会を喜びつつも、進軍は止めない。洛陽が廃墟と化し、帝が李傕、郭汜に掌握されている現状は看過できない。赫萌に三万の兵を与え、厳命を下した。


「赫萌、貴様に三万を与える。洛陽へ向かい、廃墟の復興に着手せよ。そして…帝奪還の機会を窺え。六扇門とも連絡を取り、李傕、郭汜の動静を探れ。帝を奪還できれば、我らに大義名分が立つ。慎重に、そして迅速に動け」


赫萌は、何か企んでいるような含み笑いを浮かべながらも、「畏まりました。高将軍の御意のままに」と快諾した。彼の野心は見え透いているが、今はその才を利用する時だ。


残りの主力を率い、俺は黄河を渡った。濁流を越える船団の上で、冷たい風が頬を撫でる。南岸に足を踏み入れれば、曹操の縄張りだ。俺は曹操の本拠兗州の喉元とも言える陳留、そして呂布が囚われているかもしれない濮陽へと矛先を向けた。戦いの気配が、肌に直接触れるように感じられた。


曹操は、待ち構えていた。斥候からの報告通り、濮陽攻めの疲れも見せぬ精鋭を揃えた総勢六万の軍勢が、陳留の郊外に完璧な布陣を敷いて我々の進路を塞いでいる。流石は曹孟徳、隙がない。陣の構えは堅固で、士気は高い。中央には「曹」の大旗が翻り、その下に黒い甲冑をまとった曹操本人の姿が見える。その眼光は鋭く、しかしどこか探るような余裕も感じさせる。


…俺が攻めてくるとなれば、さすがに呂布の処刑は急いで止めたんだろうな。あの男の価値は、俺が動いたことで一気に上がったはずだ。まあ、俺だって、あの馬鹿を殺そうと思えばいつでも殺せる。だが今は…生かしておく価値がある。曹操よ、存分に付き合ってやろう!


「張五!」


俺は腹心の斥候隊長に命じた。


「敵陣の詳細を探れ! 兵力差はあるが、我らに勝機はないわけではない。弩兵隊を前面に、慎重に布陣せよ!」


「はっ!」


張五は素早く一礼し、影のように走り去った。彼の率いる斥候隊は、錦衣衛から選抜された精鋭だ。情報は迅速かつ正確だ。


間もなく、曹操自らが陣前に現れ、声をかけてきた。その声は朗々と響き渡り、兵士たちの耳にも届くように計算されていた。


「高将軍! 既に呂奉先より独立し、并州という立派な基盤を得られたというのに、何故わざわざ我が兗州に侵攻されるとおっしゃるのか! 貴殿の才覚を以てすれば、北辺に王道を築くことも叶おうというものを!」


(要するに、大人しくしていろ、と言うことか? ふん、甘いぞ曹孟徳。呂布は確かに愚かな主だが、今なお名目上は我が主君だ。見殺しにすれば、『高順は主君を裏切った上に見殺しにする不義の徒』という汚名を着せられる。この乱世、『義』の名分は時に兵力以上に重い。それに…ただで引き下がるほど、俺は大人しくない! 并州の力を、この目で見せつけてやる!)


「曹将軍、貴殿に個人的な恨みがあるわけではない!」


俺は大声で応じ、全軍に届くように言った。


「しかし呂布は、我が旧主! 主君の危急を見過ごせぬのは、臣下の道理というものだ! 速やかに呂将軍を解放されよ!」


「ふっ…ふははははは!」


曹操は突然、高らかに笑い出した。それは嘲笑にも聞こえ、またどこか感心したようにも響いた。


「皮肉なものだな! 天下に二つとない不忠不義の徒と謳われる呂奉先に、高将軍ほどの忠臣が付いていたとは! 天は時に、奇妙な縁を結ぶものよ! ははは!」


その笑い声が収まると同時に、曹操の眼光が一変した。鋭さが殺気に変わる。彼が右手を高く掲げた。


「…ならば、致し方あるまい! 全軍! 攻めよーーーっ!!」


曹操本陣から突如、地鳴りのような轟音が響いた。漆黒の重装騎兵団が、怒涛の勢いで我が陣へ突撃を開始した。その重厚な甲冑、磨かれた長矛、そして獰猛な馬のいななき虎豹騎だ! 曹操が誇る最精鋭部隊が、楔のように突き進んでくる! その迫力は、百聞は一見に如かずだった。大地を震わせる重低音が、兵士たちの鼓膜を叩く。


(騎兵か…流石だな。だが、想定の範囲内だ! このために用意してきた!)


「大楯兵、前へ押し出せ! 隙間を作るな! 弩兵隊、前進! 万弩斉射、用意っ!!」


俺の怒号が戦場を駆け抜ける。


訓練を重ねた弩兵たちが、一糸乱れず前線へ展開する。彼らが持つのは、并州の工匠が改良を重ねた強力な蹶張弩だ。通常の弩より射程が長く、貫通力が高い。大楯兵が鉄壁の防壁を築き、その隙間から無数の弩の先端が冷たい殺気を放つ。弩兵たちの目は一点を見据え、呼吸を整えている。恐怖は感じられるが、動揺はない。日頃の訓練の賜物だ。


「目標、騎兵隊正面! 距離、百歩! 撃っ!!」


指揮官の号令と共に、空が一瞬暗くなった。数千、いや万を超える弩矢が、死神の群れのように唸りを上げて飛翔する。その密度は凄まじく、太陽の光さえ遮った。矢は重力に引かれながらも、猛スピードで虎豹騎の頭上から降り注ぐ。


ドスン! ドスン! バキッ! ガチャン! ヒヒーン!


衝撃音、甲冑を貫かれる鈍い音、木っ端微塵に砕ける盾の音、そして馬と兵士の断末魔の悲鳴が入り混じる。虎豹騎の猛進は見事なものだったが、完璧に整列した密集陣形は、強弩の集中射撃の前では格好の的となった。先頭を切った部隊は瞬く間に薙ぎ倒され、無惨な人馬の死骸が累々と積み上がった。鮮血が大地を染め、砂埃と混ざって異様な泥を形成する。突撃の勢いは見る見る鈍り、半分ほどの損害を出したところで、残存部隊は慌てて退却していった。虎豹騎の誇りは、蹶張弩の前で無残に打ち砕かれた。


曹操軍本陣から、一騎の若き武将が猛然と駆け出してきた。その顔には屈辱と怒りが漲っている。虎豹騎を率いる立場にある者だ。


「我が名は曹休、曹文烈なり! 敵将高順! 卑怯な弩など使わず、我と一騎打ちせよっ!!」


若さゆえの血気だな。しかし、その勇気と、虎豹騎を率いる立場にあることからしても、曹操の一族の中でも有望な若武者なのだろう。この挑戦を拒むわけにはいかない。俺の武勇を示す絶好の機会だ。曹操が制止しようとする声がかすかに聞こえた。


「文烈! 待て! 相手は江東の猛虎・孫文台を破った高順だ! 軽々しくかかってはならぬ!」


「叔父上、ご安心を!」


曹休は振り返り、若々しい、しかし歪んだ笑顔を見せた。


「我が曹家の男児、沙場に屍を晒すは本望! この文烈、千里の駒たるを見せてみせまする!」


陳留郊外、両軍が見守る中、名乗りを上げた二騎が中央の空間へと駆け寄った。歴史を歪めるかもしれない一騎打ちが、ここに始まろうとしていた。戦場全体の喧騒が一瞬止み、全ての視線が一点に集まる。


「我が名は曹休なり! 高順、覚悟せい!」


曹休は愛用の長柄の大刀を振りかざし、烈風を切って斬りかかってくる。その切っ先は確かに鋭く、速い。俺は長槍「破軍」を素早く抜き、その斬撃を流し受けつつ、反撃の突きを繰り出す。槍の穂先が陽光を反射して銀色に輝く。


カン! カン! カカーン! 火花が散る。馬上での激しい打ち合いが続く。曹休の技量はなかなかのものだ。力もある。しかし、その攻撃は直線的で、経験の浅さが滲む。俺は彼の拍子を読み、わざと隙を見せておびき出す。六合ほど打ち合ったところで、互いの力量がほぼ見えた。曹休は若いが、曹操の血筋に恥じぬ武芸の才と度胸を持っている。しかし、経験と鍛え上げられた技量、そして生死の境で磨かれた勘では、歴戦の俺に及ばない。


「ふっ…ここまでだ、若者よ」


俺は一呼吸置き、槍を背に担ぎながら言った。


「死なせるには惜しい器量だ。退け」


「まだまだぁっ! このままでは引けませんぞ!」


曹休の目はさらに燃え上がった。誇りが退くことを許さない。彼は再び大刀を振り上げ、渾身の力で斬りかかってくる。しかし、その動きは既に読まれていた。


(…仕方あるまい。大人しくさせてやるか!)


「ならば…覚悟!」


俺は一瞬息を詰め、馬腹を蹴った。瞬間、槍の動きが加速する。虚実織り交ぜた八つの槍影が曹休の眼前に炸裂した——「八荒」彼の大刀は必死に防ぐが、その速さと変化について行けず、一瞬の隙を突かれる。


ズドッ!


槍の石突きが、曹休の胸甲を強打した。鈍い衝撃音と共に、彼は馬上から吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。直ちに待機していた俺の兵が駆け寄り、動けぬ曹休を縛り上げた。


「ぐっ…うう…」


曹休は苦悶の表情を浮かべ、もがくが、兵士たちにしっかりと抑え込まれる。


その刹那、曹操本陣から黒い嵐が吹き荒れた。一人の巨漢が、信じられないほどの速さで駆け寄ってくる。その巨躯は華雄を凌ぐかもしれぬ。髪は乱れ、目は血走り、双戟を構えたその姿は、まさに鬼神の如し。


「わしの名は典韋! 高将軍! 休公子を返していただけぬかっ!!」


(悪来だ!)


その姿は、ゲームや漫画で見るような無骨なスキンヘッドではなく、むしろ筋骨隆々の体躯に乱れ髪をまとめた、荒々しい山賊大将の風貌だった。しかし、その放つ気迫と、地面を揺るがすような足音は、紛れもなく「古の悪来」そのものだ! 俺の背筋に冷たいものが走る。


(はあ…驚いてる場合じゃねぇ! こいつ、マジでバーサーカーだ! こいつと渡り合えるか…?)


迷っている暇はない。典韋の双戟が、風圧を伴って俺の頭上に襲いかかる。俺は間一髪で体勢を崩し、槍で受け流す。


カン! ガガガガガン!


衝撃は、今までのどの戦いよりも重く、腕に痺れが走った。馬がひざまずきそうになるのを必死に抑える。一撃一撃が命を削る重みを持つ。彼の動きは力任せに見えながらも驚くべき速さを秘め、双戟が描く軌跡は凶暴な竜の如し。攻撃は豪快だが、無駄がなく、隙が少ない。俺は槍を駆使し、刺突、払い、受け流し、時には間合いを詰めて打撃を加える。五十合を過ぎても、互いに一歩も引かぬ激闘が続く。汗が額を伝い、息が荒くなる。筋肉が悲鳴を上げている。しかし、不思議と心地よい高揚感があった。これほどの強者と死力を尽くして戦えること自体が、戦士としての誇りをくすぐるのだ。俺の槍と彼の双戟がぶつかる度に、火花と金属音が炸裂し、周囲の兵士たちは息を呑んで見守っている。


「…ふぅ…流石は悪来典韋! その名に偽りなし!」


俺は間合いを一歩引き、槍を水平に構えながら、心からの称賛を口にした。肺がヒューヒューと音を立てている。


「褒められても、手加減はいたさんぞ!」


典韋は歯を剥いて笑い、再び突進してきた。しかし、その眼光には、敵ながらに認める敬意のようなものが宿っているように見えた。俺の槍捌きが、彼をして本気を出させたのだ。


遠く曹操本陣で見守る曹操は、深い感嘆の声を漏らした。


「ほう…文烈を一蹴した上に、悪来と互角以上に渡り合うとは…! まさに驚天動地の武勇よ! この高順…是非とも我が麾下に欲しい将だ! 呂布の配下だけのことはある…『強将の下に弱卒無し』とは、まさにこのことよ! 欲しい…まことに欲しいのう!」


曹操の目が、獲物を見る鷹のように鋭く光る。


「孟徳、またその『癖』が出ておるぞ?」


傍らにいた夏侯淵が呆れたようにツッコミを入れた。彼は曹休の武芸の師でもある。


「兄者ぁ! 欲しがってる場合か! 休めが捕まってるんじゃ!」


夏侯淵が剣幕で怒鳴った。弟子の危機に心を痛めている。


「堅いこと言うな妙才よ。休がお主の弟子なのは知っておるわ。だが、あの高順の武芸は本物じゃ」


曹操は目を細め、俺と典韋の死闘を貪るように見つめながら呟いた。


「いつか必ず…わがものと見せてくれようぞ…」


典韋との一騎打ちは、百合近くに及んだが、ついに決着はつかず、日が傾き始めたことで、両軍とも金鑼を鳴らし、兵を収めた。互いに深く息を切らし、一歩も譲らぬ睨み合いをして引き分けた。兵士たちは疲労と安堵でその場に崩れ落ちる者も多かった。この日の戦いは、高順軍の弩兵の脅威と、高順・典韋という両雄の武勇によって幕を閉じた。


翌朝、全身の筋肉痛に苛まれながら陣幕の中で横になっていると、朝も早くから挑戦の声が曹操陣営から響いてきた。


「高将軍! この夏侯淵、一騎打ちを所望する! 昨日の続き、いや、新たに我と勝負せよっ!!」


(朝からうるさい奴め…!)


俺は思わず布団を蹴飛ばした。


(昨日の典韋との死闘で、全身が悲鳴を上げておるというのに…筋肉痛で動くのも辛いわい…ましてや夏侯淵の速射…この馬鹿野郎、タイミングを見計らってやがる…)


「…まぁ、今日は休むとしよう…」と寝床で呟いたその時、斥候の張五が血相を変えて飛び込んできた。


「報せでござる! 濮陽方面より、劉備、関羽、張飛らを先鋒とする曹操軍の別働隊が、敗残の呂布将軍を捕らえ、こちらへ向かっております! 間もなく曹操本陣に合流する模様!」


(畜生…! やられたな!)


俺は飛び起きた。


(濮陽陥落の報せはあったが、呂布が捕らえられたとは…! 曹操は時間稼ぎをしていたのか! こうなったら…切り札を切るしかない! 人質交換だ!)


鎧を急いでまとうと、馬に飛び乗り、陣前に出た。朝靄の中、挑発を続ける夏侯淵の姿が見える。


「夏侯将軍!」


俺は声を張り上げた。


「今日の一騎打ちは御免蒙る! 曹操公に伝えてくれ! 我が捕らえた曹休を、貴方がたが捕らえた我が将呂布と引き換えにしたい! 速やかに伝言を願いたい!」


夏侯淵は一瞬、不満そうな表情を浮かべたが、事の重大さを悟ったのか、無言でうなずき、馬首を返して本陣へと戻っていった。


間もなく、曹操陣営から使者が来た。交換に応じるという返答だ。しかし、謀士たち、特に陳留の地元豪族出身の者たちは猛反対したらしい。


「呂布という猛虎を野に放つなど、自殺行為だ! 高順を攻め立て、曹休公子を奪還すべきだ!」と。しかし、荀彧と郭嘉の二人の知将は、冷静に異を唱えたという。


彼らの意見は、こうだ。


并州の実権は高順にあり、呂布は既に看板に過ぎない「高順は并州を完全に掌握し、民政から軍政まで一手に担っている。錦衣衛という耳目を持ち、文教政策まで推し進めている。呂布は武勇はあれど、人心も基盤も失っており、高順にとって代わる力はない。彼を返しても、并州が呂布の手に戻ることはない」


高順の目的は呂布救出であり、全面戦争ではない「高順が曹操を滅ぼそうとしているなら、もっと大軍を動かし、長期戦の構えを見せるはずだ。彼は呂布を救い出し、并州に連れ帰ることを第一としている。目的を達成すれば、戦意は失われるだろう。今、袁紹との対決が目前に迫っている中で、高順と徹底抗戦して兵力を消耗するのは避けるべきだ」


当面の脅威は北の袁紹、高順との関係構築が重要「我々の真の大敵は、北で勢力を拡大する袁紹である。ここで高順と徹底抗戦し、兵力を消耗することは愚策だ。むしろ、呂布という厄介者を返すことで高順に恩を売り、少なくとも敵対関係を解消し、北に集中すべきである。高順は現実的な人物、恩義を感じれば、将来の駆け引きの材料となる。『敵の敵は味方』ではないが、当面の脅威を減らすには有効だ」


この三つの重い現実分析を前に、曹操は渋々ながらも了承したのだ。使者は日時と場所を定めるよう伝えてきた。


俺は迷わず、自ら曹休を連れて交換の場へ赴くことを決めた。これには諸将、特に張遼が猛反対した。


「貴殿は総大将であらせられる! 総大将が御自ら危地に赴かれるとは何事か! 万一のことがあれば、軍は崩壊いたしますぞ! それに…曹操は信用なりませぬ!」


張遼は真っ赤な顔で、剣の柄を握りしめながら詰め寄った。彼の目には本物の心配が浮かんでいる。


「文遠よ」


俺は彼の肩を叩き、静かに、しかし強く言い放った。


「我は確かに、此度の軍の総大将ではある。だが、それはお前たちの総大将ではない。我が身は、我が心のままに動かす。そして…曹操は信用ならん。だからこそ、俺が行く。彼の目を、俺が直接見る」


この言葉は、俺の決意の固さを示すと同時に、彼らへの信頼も含んでいた。俺がいなくとも、彼らはしっかりやってくれるという確信だ。張遼は言葉を詰まらせ、やがて深くうなだれた。


「…お気をつけて」


こうして、縄目を解かれ、馬に乗せた曹休を伴い、わずかな護衛のみで、曹操の本陣が置かれた天幕へと近づいた。周囲を取り巻く曹操軍の将兵たちの視線は、好奇、敵意、侮蔑、そして昨日の一戦から生まれたであろうある種の畏敬と、様々な感情が渦巻いていた。俺はそれを全く意に介さず、天幕の前に立った。典韋が曹操のすぐ後ろに仁王立ちしている。その眼光は、俺の一挙手一投足を監視している。


「某、左将軍高順、参上。此度の交換、ご快諾いただき、深く感謝申し上げる」


俺は曹操に向かって、礼を欠かさずに言った。形式を重んじることも、時には武器になる。


「高将軍! 過分なる御礼、恐縮至極!」


曹操は大きく手を広げ、心からの歓迎の笑みを浮かべた。しかし、その目は冷静に俺を測っている。


「悪来と渡り合い、しかも単身で我が陣中に乗り込むとは…その胆力、まさに天下一品! 畏敬いたしますぞ!」


「ふっ、曹将軍の御前では赤子同然」俺は軽く笑った。社交辞令の応酬だ。「さて、我が将呂奉先を、お返しいただけますかな?」


「うむ、もちろんだ! 呂布将軍をこちらへ!」


曹操が命じる。しかし、すぐに彼は首をかしげ、周囲を見渡した。


「…だが、文烈は? 何処におる? 見当たらぬが?」


その声には、わずかな苛立ちが混じっている。


(さあ、来た…)


「さきほど、夏侯淵将軍がお迎えに参り、公子をお連れになりましたが…?」


俺は平静を装って答えた。天幕の入り口付近で、夏侯淵が曹休を連れて行くところを、わざと曹操の目撃者となる兵士の視界に入るように仕向けていたのだ。


曹操の目が一瞬、鋭く光るのを感じた。彼は俺の言葉の意味を即座に理解したのだ。夏侯淵が曹休を「確保」したのは、交換が決まってもなお呂布を奪還する機会を伺うためか、あるいは単に師として弟子の無事を確かめたかったのか。いずれにせよ、曹操の完全な統制下にはなかったことを意味する。曹操の顔に一瞬、陰りが走ったが、すぐに豪快な笑いに変えた。


「…ははは、そうであったか! 淵め、余計な心配をする! よし、呂布将軍を速やかに!」


呂布が護衛に囲まれて現れた。彼の顔は憔悴し、かつての傲岸さは影を潜めていたが、それでも猛将の風格は失っていない。しかし、その目には深い屈辱と疲労が刻まれていた。俺を見つめ、微かにうなずいた。


「孝父…礼を言う」


呂布の声は低く、しかし確かに感謝が込められていた。この男が感謝の言葉を口にするのは珍しい。


「将軍、お気になさるな。これが臣下の務め」俺は深々と頭を下げた。主従の形式は守らねばならない。


曹操は酒宴を設けると告げた。これは断る理由もない。むしろ、曹操の本心を探る好機だ。宴席では、曹操が自ら杯を勧め、天下の行く末や武勇談に花を咲かせた。俺は程よく応じつつ、警戒を怠らない。典韋にも改めて杯を差し出し、昨日の一戦への敬意を表した。彼は無言で杯を受け、一気に飲み干した。その巨体に似合わぬ上品な所作に、少し驚いた。呂布は終始無言に近く、俯いて酒をあおっていた。その沈黙が、かえって危険な気配を醸し出していた。


酒宴も中盤に差し掛かった頃、俺は曹操に向かって、わざとらしい笑みを浮かべて言った。


「曹操殿、曹操殿は西楚の覇王ではありますまい。それがしも高祖皇帝ではござらぬ。どうか、これがかの鴻門の会の再現ではなきことを願っておりますが?」


その瞬間、一人の若い将軍が席を叩き、剣幕で叫んだ。


「高将軍ご安心なされ! 我が主君は、三姓にも仕えたような奴隷と違って、卑怯なる真似は決してなさらぬ! 鴻門の会ごとき、真似られるかっ!」


言ったのは李典だ。彼は呂布に殺された叔父李乾への復讐心に燃えている。その言葉は呂布への露骨な侮辱に他ならない。呂布の目が一瞬、危険な光を宿した。手が腰の剣へと滑る。曹操と典韋の表情が一瞬で硬くなる。


(…そろそろ潮時だな。こんな時限爆弾を抱えたまま酒を飲めるほど、呑気ではない)


「曹将軍、此度は厚く御礼申し上げる。またいずれ、何処かの地でお会いしましょう」


俺は立ち上がり、礼を述べた。呂布も無言で立ち上がる。その目は李典を一瞥し、冷たい殺気を漂わせたままだった。


「高将軍、どうか御身お大事に。乱世は長いぞ?」曹操は深い含みのある笑みを浮かべ、見送った。その目には、確かに「いつか必ずわがものに」という執念が光っていた。


無事に軍営に戻った俺たちは、速やかに陣を引き払い、并州へと帰還した。呂布は憔悴した様子だったが、無事であることに安堵していた。赫萌の洛陽復興作業も順調に進んでいるとの報告が届いていた。


しかし、晋陽に戻って間もなく、并州から緊急の飛報が届いた。盧植、皇甫嵩、朱儁の三名が連名で、帝を李傕・郭汜の手から奪い、洛陽に迎え入れる計画を進めたいとの打診だった。三人は漢朝再興を願う忠臣たちの中心的存在だ。彼らは赫萌の復興作業を見て、洛陽を拠点に帝を奪還する機会と見たのだろう。


(…厄介な話を持ち込まれたな)


俺はすぐに返書をしたためた。


「李傕、郭汜、二賊は帝の御側に控え、兵も厚し。容易に近づくことは叶わぬ。然れど、帝を奉迎せんとの志は、臣たる者、肝に銘ずる所なり。洛陽の復興は赫萌、張遼をして急がしめ、帝の行宮整備にも着手せしめておる。時節到来を待ち、必ずや帝を長安より奪還し、洛陽の都に迎え奉る所存なり」


要するに「時期尚早、準備が整うまで待て」という言葉を込めたのだ。盧植らは理想に燃えるが、現実の兵力差は厳しい。無謀な行動は、帝の身を危うくするだけだ。


赫萌一人では心許ない。張遼に命じ、洛陽へ向かわせた。彼の将才と人望は、復興と帝奪還の準備に不可欠だ。張遼は先の陳留の戦いで、曹操配下の勇将蔡陽を一騎打ちで討ち取っている。その名は着実に知れ渡りつつある。彼の成長は目覚ましく、やがては名将として名を轟かせるだろう。大きな期待をかけた。


俺と呂布は、本拠である晋陽へと戻った。呂布の妻子正妻の厳氏と娘の呂玲綺は、俺が事前に長安から密かに晋陽へ移しておいた。呂布は妻子と再会し、安堵のため息をついた。家族への愛情は、この男の数少ない人間らしい部分だ。


「孝父…礼を言う」


呂布は、以前よりも深い感謝を込めて言った。家族を守ってくれたことへの想いが強かったのだろう。


「将軍、お気になさらぬでください。これも臣下の務め」


俺は恭しく答えた。


しばらく平穏な日々が続いた。呂布は城内に居を構え、武芸の鍛錬に励む日々を送っていた。しかし、その心の奥底には、濮陽での敗北と捕虜となった屈辱が燻り続けていた。ある日、呂布が突然、俺の元を訪れ、口を開いた。


「兵五万を貸せ!」


「…何のためです?」


俺は警戒して尋ねた。嫌な予感がした。


「洛陽へ行き、李傕、郭汜の二賊を討ち果たしてやる!」


呂布の目には、屈辱を晴らさんとする激しい怒りが燃えていた。復讐心が理性を押し流している。


(ああ…またか)


俺は内心で溜息をついた。彼の衝動的な性格は変わらない。洛陽で盧植らが動こうとしているこのタイミングで、呂布が暴走すれば全てが台無しだ。


「将軍、まずは御身を落ち着けられよ」


俺は静かに、しかし強く言い放った。


「心ここにあらずでは、勝てる戦も勝てませんぞ。李傕、郭汜は長安で兵を養い、その勢力は衰えておらぬ。今は力を蓄え、時を待つべきです」


「…」


呂布はしばらく俺を睨みつけた。その目には一瞬、反抗心が走ったが、やがて肩の力を抜いた。


「…わかった。貴様の言う通りにしよう。しばらくは…な」


こうして、呂布は表向きは平静を取り戻した。并州は再び、束の間の平穏を取り戻した。六扇門は領内の秩序を保ち、学舎では子供たちの読書の声が響き、農地では収穫の準備が進んでいた。


しかし、この平穏は長くは続かなかった。問題は、やはり曹操から起こった。しかも、凄惨な形で。


曹操が兗州を掌握し、豫州にいた父・曹嵩を呼び寄せようとしたのは、俺が長安から并州に戻る少し前のことだった。曹嵩は喜んで応じ、一族郎党と莫大な財宝を車に積み、徐州を通って兗州へ向かう途中、徐州の太守陶謙の歓待を受けた。陶謙は曹操に気に入られようと、手厚くもてなした。ところが、その護衛を命じられた陶謙配下の将張闓が、何を血迷ったか、曹嵩一行を宿泊先で皆殺しにし、金品を奪って逃亡してしまったのだ。張闓は行方をくらまし、曹操は当然、責任は陶謙にあるとして、怒り狂った。


中国には古くから、こういう故事がある。《醉翁之意不在酒、在乎山水之間也》「酔翁の意は酒に在らず、山水の間に在り」大まかに言えば、「酔っ払いが本当に楽しんでいるのは酒そのものではなく、酒を飲むことによって得られる別のもの(周囲の景色や雰囲気)である」という意味だ。これを今の曹操に当てはめれば、「復讐(酒)」は表向きの大義名分に過ぎず、真の目的は「徐州という肥沃な土地(山水)を手に入れること」にあると言える。


曹操の怒りは凄まじく、「父の仇」を掲げて大軍を率いて徐州に侵攻した。その過程で、報復と称して凄惨な虐殺を繰り広げた。城を落とすごとに、抵抗したかどうかに関わらず、軍民合わせて数十万とも言われる無辜の民を惨殺したのだ。老人も子供も容赦なく。その残虐さは、かつて董卓が洛陽で行った蛮行を彷彿とさせるものだった。泗水は血で染まり、屍が累々と積み上がったという。


これに対し、平原の相劉備が救援に駆けつけ、必死に抗戦。劉備の義兄弟関羽、張飛の奮戦もあり、曹操軍の進撃は一時的に鈍った。さらに、追い詰められた陶謙が、兗州に潜伏していた呂布に密使を送り、曹操の本拠を突くよう依頼したのだ。この動きは、曹操の内部に潜む大きな不満を利用したものだった。


呂布が兗州でこれほどの成功を収められたのは、ひとえに陳宮の存在による。陳宮は元々曹操に仕え、彼を兗州刺史の座に押し上げた立役者の一人だった。しかし、曹操が兗州を掌握すると、その治世は穎川(荀彧、郭嘉、程昱ら)出身の士族を重用し、兗州の地元豪族を冷遇する傾向にあった。陳宮はその代表格で、次第に曹操に失望を深めていった。彼が理想とした仁義を重んじる主君像と、曹操の現実主義的で時に冷酷な手法は相容れなかった。


そして、決定的な引き金を引いたのが、兗州の名士にして当代の大儒者辺譲だった。彼は曹操という新興勢力を心底見下し、公の場で侮蔑的な言動を繰り返した。曹操も、舐められたら終わりの「元ヤン」根性が爆発し、辺譲を処刑してしまったのだ。(笑)


この事件は、曹操に対する兗州士族の不信と恐怖を頂点に達させた。曹操の親友でありながら、その苛烈さに危惧を抱いていた陳留太守張邈をはじめ、多くの兗州豪族が、密かに反曹操の意志を固めた。


そこに、流浪の身となっていた呂布が現れた。陳宮は即座にこれに飛びつき、張邈らと共に呂布を擁立して反旗を翻したのだ。


「呂布は勇将なり。これを擁して兗州を保たん!」


陳宮の熱弁が、不安を抱える豪族たちを動かした。呂布と陳宮のコンビは見事に機能し、曹操が徐州で暴れている隙を突いて、兗州の大半を奪い取った。鄄城、範、東阿の三城を除く全てが、呂布の手に落ちたのだ。


(陳宮の運命は…曹操に任せた。私は関知しない!)


俺は晋陽の城壁の上に立ち、南の空を見つめながら思った。冷たい風が、鎧の隙間を吹き抜ける。陳宮は理想を追い求め、呂布という危険な刃を選んだ。その結末は、歴史が示す通りだろう。郭嘉は病に倒れ、荀彧は理想と現実の狭間で苦しみ、程昱は現実主義者として生き延び、賈詡はしたたかに世を渡る。そして司馬懿…あの男は、智将として、あるいはペテン師として、長い乱世の最後に笑う者となるのだろう。諸葛孔明は、その対極にあるリヒテ〇ラーデのような純粋な理想の政治家か…。


風の音が、遠くで戦塵の匂いを運んでくるようだった。平穏は、次の嵐が来るまでの、束の間の休息に過ぎなかった。曹操は徐州から引き返し、呂布・陳宮との激突を開始するだろう。袁紹は公孫瓚をほぼ制圧し、その巨大な矛先をいつ南に向けるか。孫堅は…。


「大将軍」背後で声がした。振り返ると、錦衣衛の李粛がいた。彼の手には、一枚の密書が握られている。


「洛陽より、緊急の報せです。赫萌殿と張遼殿より」


俺は密書を受け取り、目を通した。その内容に、俺の眉間に深い皺が刻まれた。盧植、皇甫嵩らが、待ちきれずに動き出そうとしている…しかも、帝奪還どころか、危険な行動に出ようとしているらしい。


「…行くぞ、李粛」


俺は密書を握りしめ、城壁の石畳を踏みしめた。


「洛陽の火種を、消しに行く」


乱世は、まだまだ終わらない。并州の孤島は、再び激しい波に揉まれる時が来たのだ。


晋陽城内、蔡邕の屋敷は静謐な空気に包まれていた。書物の香りが漂う書斎で、俺、高順は当代随一の大儒である義父蔡邕と向き合っていた。并州の文教政策は、蔡邕の指導のもと、蒙学の拡充や教材の編纂が進み、ようやく軌道に乗り始めていた。しかし、その根本にある思想について、深い議論が交わされることとなった。


蔡邕は茶碗を置き、深いため息をついた。その目には、洛陽の炎上、散逸した書簡、そして崩れゆく漢王朝への無念が色濃くにじんでいる。


「…婿殿よ」


蔡邕は静かに、しかし重い口調で切り出した。


「老いたる身に問いたい。漢は…何故、一度滅んだのか? 四百年の永きにわたり天下を治めたこの王朝は、何故、黄巾の賊に始まり、董卓の如き凶賊に蹂躙され、今や李傕、郭汜の傀儡と化したのか?」


彼の問いは、単なる歴史の分析を超え、自身の人生と信念そのものへの根源的な問いかけのように響いた。


俺は一呼吸置き、率直に答えた。


「強すぎたからでございます」


「ほほう?」


蔡邕の白眉がピクリと動いた。意外な答えに興味を引かれたようだ。


「強すぎた故に滅ぶ? それは如何にも逆説的じゃが…」


「栄枯衰退の理、古より滅び無かった国は有りませぬ」俺は言葉を続けた。


「夏は暴傑の無道により湯尹に取って代わられ、商もまた姫昌、姫発に取って代わられた……」


蔡邕が口を挟んだ。


「ほぅ? つまり、紂王が暴君では無いと? 享楽を貪った酒池肉林、忠臣を蠆盆に落としたその所業が、暴君の証左では無いと申すのか?」


「果たして、北の夷狄を征伐する事が暴君の仕業でしょうか?」


俺は反論した。


「あるいは、人の留守を狙った火事場泥棒が、聖人君子の行いでしょうか? 周の武王は、紂王が東夷征伐で主力を東方に釘付けにしている隙を突いて、盟津で諸侯を糾合し、牧野で決戦を挑んだ。紂王は急遽帰還したが、主力は疲れ切り、奴隷兵は裏切り、敗れた。紂王の所業が非道であったかはさておき、周の行為は、果たして『義戦』と呼べるのでしょうか? 単なる好機を捉えた攻略では?」


「…」


蔡邕は沈黙した。その目は鋭く俺を見据えている。儒教の聖人とされる周王朝の創業神話に疑問を呈することは、彼の信仰心を揺さぶるに十分だった。


「であるから礼法が必要であろうが!」


蔡邕は声を強めた。


「上下の秩序、君臣の義、これらが乱れた故に、天下は乱れる! 礼こそが、秩序を保つ根幹じゃ!」


「孔子の礼など、クソの役にもたちませぬ」


「何!?」


蔡邕の目が大きく見開かれた。顔色が一瞬で変わった。当代随一の碩学の前で、儒教の始祖を侮辱するとは、常識では考えられない暴言だった。しかし、俺は引き下がらなかった。


「孔子の礼…それは市井の無頼と何ら変わりませぬ」


俺は言葉を選びつつも、核心を突く。


「孔子が説くのは仁、即ち人と人しかも一対一の礼にございます。確かに、隣人を思いやる心は大切です。しかし、国を統治するのは、そのような個人の道徳だけでは不可能です。国を統治するのは法で有り、秩序に御座います。明確な法と、それを公正に運用する仕組みこそが、広大な領土と多様な民を治める根幹です。孔子の礼は、その法の上でこそ、初めて意味を成すのです」


蔡邕は息を詰めて聞いていた。その表情は怒りを通り越し、むしろ衝撃に近い。


「しかし、問題はここにあります」


俺は指を立てた。


「皇帝はその理の外に在って、理の中には御座いません。皇帝は法を超越した存在とされる。それ故に、万人が皇帝を尊び、同時に妬み、羨むのです。権力の座が絶対化されれば、それを巡る争いもまた絶対的なものとなる。これが、王朝が繰り返す乱の根源ではありませぬか?」


長い沈黙が書斎を支配した。蔡邕は机の上の硯を見つめながら、深く考え込んでいる。その老いた顔には、信念が揺さぶられる苦悶の色が浮かんでいた。俺はハッとした。


(しまった…この時代にこの議論は過激すぎたか。釈迦に説法とはこの事である)


「岳父様……」


俺は深々と頭を下げた。


「とんでもない非礼、過激な妄言をお詫び致します。どうかお許しください」


「…いや


」蔡邕はゆっくりと顔を上げた。その目は依然として鋭かったが、驚きと、奇妙な納得のようなものが混ざっていた。


「…非礼ではある。妄言ではある。しかし…」


彼は言葉を探すように間を置いた。


「…しかし、邪法と言えなくもないが……理にかなっておる……特に、『皇帝が法を超える故に争いが絶えぬ』との指摘は…老いたる心に重く響く……」


蔡邕は従来型の儒教思想に染まった人物だが、その知性は硬直してはいなかった。一方の俺は、未来人の典型的な国家観、法治主義の視点でそれに対抗した。漢胡の違いを除けば皆同じ人間である。わざわざ夷狄と差別する必要も無い。そして官僚や軍人は、国家そのものと、そこに生きる国民に対して忠誠を誓うべきであって、皇帝という一個人に忠誠を誓うからこそ、主君が代わるたびに裏切りや混乱が起こり、今のような惨状が生まれたのだ。


儒教には儒教の良さはある。人倫を教え、共同体の絆を強める点では優れている。しかし、広大な帝国の統治の根本を、個人の道徳や「礼」のみに委ねるのは、あまりに危うい。国家の統治の根幹は、明確で公正な「法」と、それを運用する「制度」でなければならない。


「…国家の存亡と比べれば、個人の自由と権利に比べれば、たいした価値のあるものじゃない」


俺は思わず、心の内の考えが口をついて出た。国家という抽象的な概念の存続が、個々の民が生き、自由を求める権利よりも優先されるべきではない、という意味だった。この時代にはあまりに過激な思想だった。


蔡邕は鋭い目で俺を見た。


「…婿殿、その言葉の意味を、老いたる身にもう少し噛み砕いてくれぬか?」


(…深みにはまったな)


俺は内心で舌打ちしたが、ここまで来て引き下がれない。


「つまり、岳父様」俺は慎重に言葉を選んだ。「『漢王朝を守らねばならない』という思いは、確かに尊いものです。しかし、そのために、無数の民が塗炭の苦しみを味わい、家族を失い、明日をも知れぬ命を落とすことが、果たして正しいのでしょうか? 王朝の名が変わろうとも、その地に生きる民が安心して暮らし、子を育て、未来を信じられること。その方が、一つの王朝の名にこだわることよりも、はるかに大切なのではないでしょうか? 個人が生きる権利、自由に生きる権利こそが、国家が守るべき根源的なものだと、私は考えます」


蔡邕は再び深い沈黙に落ちた。その表情は複雑だった。古い価値観と、突きつけられた新しい視点との間で激しく葛藤しているようだ。やがて、彼は深いため息をついた。


「…難しい話しよのう。老いたる頭では、すぐには飲み込めぬわい。されど…」


彼は俺をまっすぐ見た。


「…貴公が并州で成そうとしていること。蒙学を広め、法に基づく秩序を築き、民の暮らしを安定させようとするその根底に、このような考えがあるのなら…それは単なる武力や野心とは違うものかもしれぬ。…もう少し、考えさせてくれ」


対話は決着を見ぬまま終わったが、蔡邕の心に、確かな一石が投じられたことは間違いなかった。


呂布は晋陽城内の一郭に居を構え、表向きは静かに暮らしていた。しかし、濮陽での敗北と捕虜となった屈辱は、彼の心の奥底で燻り続けていた。その鬱屈は、時に無謀な出兵要求となって噴出したが、俺はその都度抑え込んでいた。


そんなある日、呼廚泉をはじめとする南匈奴の首長たちが、恒例の胡市の交易条件と、并州北部の遊牧地の境界について協議するため、晋陽を訪れた。匈奴との関係は、并州の北辺防衛と物資調達にとって極めて重要だった。豪華な毛皮や馬具を身に着けた首長たちが、護衛を引き連れて城内に入ってくる様は壮観だった。


広間で会議が始まり、順調に進んでいた。しかし、呼廚泉に従う一人の老兵が、控えの間で呂布の姿を見かけると、突然、その場に固まった。その老兵の目が呂布の顔を凝視し、次第に驚愕と懐かしさに満たされていった。老兵は震える足で呂布に近づき、突然、深々と跪いた。


「…おお、天よ…まさか…まさか、この目で再びお姿を拝めるとは…」


場が一瞬、静まり返った。呂布も眉をひそめ、老兵を見下ろす。


「何者だ? 何の用だ?」


老兵は涙を浮かべながら答えた。

「…わたくしめは、かつて北匈奴の単于…夫羊単于様に仕えた者でございます…」


老兵の言葉に、呼廚泉ら匈奴の首長たちも驚きの声を上げた。北匈奴はかつて強大だったが、漢や鮮卑、烏桓の攻撃で分裂衰退し、その王族の多くは行方知れずとなっていた。


「…貴公…貴公の御尊顔は…若き日の夫羊単于様に、瓜二つでございます…!」


呂布の顔に一瞬、動揺が走った。彼の出身地、并州五原郡九原県は、まさに漢人と匈奴、鮮卑などが入り混じる地域だった。呂布自身、その豪快で直情的な性格、並外れた騎射の腕前、漢人離れした巨躯は、しばしば周囲の噂の種となっていた。


「…わしの父は、呂良という漢人だ」


呂布は低く言ったが、その声には確信が欠けていた。


老兵は首を振った。


「…呂良様は、おそらく…夫羊単于様が漢地に身を隠す際に名乗った偽の名ではございますまいか? 単于様は、部族内の激しい抗争に敗れ、傷つき、わずかな供を連れて南へ逃れた…そして消息を絶った…その時期と、貴公がこの世に生を受けた時期は…」


老兵の証言は詳細で、かつての北匈奴の王族の特徴や、呂布の父と称される人物の言動の細かい一致点を挙げていった。呼廚泉も、遠い親族筋に当たる北匈奴の王族の血筋を認めざるを得ない様子だった。


(…なるほどな)


俺は心の中で合点した。


(道理で、この男の所業が理解できる。呂布は、チンギス・ハーンが自身の友であり、三十年近く苦楽を共にした最初の忠臣ボオルチュに言い放った、あの有名な言葉そのままの生き様だ。)


俺の脳裏に、かつて読んだ歴史書の一節が鮮明によみがえった。


「人間の最も大きな喜びは、敵を打ち負

かし、これを眼前よりはらい、その持てるものを奪い、その身よりの者の顔を涙にぬらし、その馬に乗り、その妻や娘を抱くことである」


呂布はまさにこれを地で行っていた。丁原、董卓への離反と殺害、各地での略奪と女漁り…それは単なる残虐性や欲望ではなく、草原の王者の血を引く者にとっての「当然の喜び」「勝利者の権利」と信じて疑わない行動原理に基づいていたのだ。


会議は一時中断となった。呂布は複雑な表情で自室に戻った。その夜、呂布が俺の元を訪ねてきた。


「孝父…わしは、考えた」


呂布の目には、久しぶりの明確な意志の光が宿っていた。


「ここにいても、張り合いが無い。呼廚泉たちと共に、草原に戻る」


この申し出は、俺にとっては願ってもないことだった。晋陽にいる限り、呂布は常に不安定要素だ。匈奴の地に戻れば、その武勇は匈奴の勢力をまとめ、并州の北辺の防衛力強化に寄与するかもしれない。何より、厄介払いができる。


「…お気が変わらぬのであれば」


俺は慎重に答えた。


「将軍のご意志を尊重いたします。漠北の地で、将軍の力が真に発揮されることを願っております」


呂布は微かにうなずいた。そして、意外な言葉を付け加えた。


「…姉の一人、呂芳がおる。わしが去った後、そなたが彼女を妻として迎え、面倒を見てくれぬか? 彼女はしっかり者で、そなたの后宅をよく取り仕切ってくれるであろう」


(…はあ?)


内心で呆れた。蔡琰、董媛に加え、さらに妻を迎えろとは。しかも呂布の姉だ。断る理由もすぐには思いつかず、渋々ながら了承した。厄介払いの代償は大きい。


呂布が匈奴に身を寄せる準備を進めているという報せは、当然ながら秘密にしていた。特に、董卓の娘・董媛には絶対に知られてはならない。彼女にとって呂布は、父を裏切り殺した不倶戴天の仇敵だ。


しかし、秘密はいつか漏れるものだ。ある日、董媛が侍女たちの囁きを耳にしてしまった。


「…呂将軍が、どうやら匈奴の貴種だとか…」


「…え? あの呂将軍が? でも、確かに…」


「…それで、高順様が、匈奴に送り出すらしいですよ…」


その瞬間、董媛の顔から血の気が引いた。そして、怒りが沸騰するのが目に見えてわかった。彼女は一言も発せず、自室に戻ると、愛用の斬馬刀、長大な柄を持ち、馬ごと斬り伏せることを想定した重厚な大刀を手に取り、鎧もつけずに、呂布が逗留している西の離れへと猛然と駆け出した。


折り悪く、張五が配下の者と城壁の警備巡回をしていた。董媛が斬馬刀を手に、鬼のような形相で駆けて行くのを見つける。


(まずい!)


張五は即座に状況を把握した。


「お前、急いで大将軍に知らせろ! 俺が止める!」と部下に命じると、董媛の進路に飛び出した。


「董媛夫人! お待ちください! どうかなさらずに!」


「どきなっ!」


董媛は怒声を上げ、斬馬刀の柄底を、盾のように構えた張五の胸板に思いきり打ち込んだ。

ゴンッ!


「ぐはっ!?」


鍛えられた張五ですら、その一撃で吹き飛ばされ、地面を転がった。董媛は一瞥もくれず、そのまま離れへ突入していく。


張五は苦悶の表情で起き上がり、すぐに正室蔡琰の居所へ向かうのが最善と判断した。一方、配下の者は必死で俺の元へ走った。


董媛は離れの扉を蹴破って乱入した。中には、呼廚泉ら匈奴の客や、呂布、そして偶然居合わせた俺もいた。皆、胡市の詳細について話し合っている最中だった。


「呂布!この裏切り者め!」


董媛の怒号が天井を震わせた。その目は真っ赤に充血し、斬馬刀の切っ先が呂布を指していた。


「父上の仇!よくも…よくも堂々とこの地に潜んでおったな!」


場が凍りついた。呼廚泉らは何が起こったか理解できず、呆然としている。呂布の表情は一瞬硬くなったが、すぐに複雑な、あるいは諦めに近い表情に変わった。


「小妹…」


呂布は重苦しい口調で言った。


「うるさい!呼ぶんじゃないよ!」


董媛の声はさらに鋭くなった。


「さぁ、答えな!どうやって死にたい?いや、簡単には死なせないよ!父上の苦しみを、身をもって味わってもらうからね!覚悟しな!」


「「……」」


重い沈黙が流れた。匈奴の首長たちは、あまりの剣幕に言葉を失い、ゆっくりと後ずさり始めた。呂布は俺を見た。その目には「どうする?」という問いかけがあった。


その時、張五に導かれた蔡琰が息を切らせて駆け込んできた。


「媛妹! まて!」


蔡琰は、普段の穏やかさとは一変した強い口調で叫んだ。そして、董媛と呂布の間に割って入るように進み出た。


「ここは高順夫君の屋敷! 夫君の賓客が居られる前で、何とするのです!」


蔡琰の威厳ある叱責と、何より「高順の屋敷」という言葉が、董媛の怒りに一瞬のブレーキをかけた。蔡琰はその隙を逃さず、董媛に静かに、しかし力強く語りかけた。


「媛妹、貴女の怒り、悲しみは痛いほどわかります。しかし、刃を振るって仇を討てば、貴女はどうなりますか? 夫君は? そして、貴女が守るべき并州は? 一時の激情が、全てを台無しにします!」


次に、蔡琰は呂布に向き直り、深々と一礼した。


「呂布将軍、突然の非礼、深くお詫び申し上げます。しかしながら、董媛夫人の心中、どうかお察しください。彼女にとって貴殿は、父を奪った仇敵なのです」


蔡琰の見事な調停により、張り詰めた空気が少し和らぐ。董媛は悔しそうに唇を噛みしめ、呂布は複雑な表情で蔡琰の礼を見つめていた。


「…ならば」


俺が口を開いた。


「ここで刃を交えるわけにはいかぬ。もし、どうしても決着をつけたいのであれば…校場で、比武として決着をつけるのはどうだ? 武器は木刀とし、怪我のない範囲で」


董媛は即座に答えた。


「いいわ! それでいい! アイツを叩きのめしてやる!」


その目は依然として呂布を睨みつけている。


呂布は俺を見て、微かにうなずいた。俺に近づき、囁いた。


「…孝父、心配するな。怪我はさせぬ。約束する」


俺はその言葉を信じた。少なくとも、この場で董媛を殺すつもりはないだろう。


こうして、一同は緊張した面持ちで城の広大な校場へと移動した。兵士たちも何事かと集まり始め、異様な熱気が漂う。董媛は軽装だが、斬馬刀を構えるその構えは、紛れもなく猛将の娘、そして高順の妻にふさわしい気迫に満ちていた。一方の呂布は、訓練用の長柄の木槍を手に、どこか気楽な様子すら見せている。


「行くわよ! 呂布!」


董媛の怒号を合図に、決闘が始まった。董媛は父董卓に鍛えられた本物の剣戟の腕前を披露する。斬馬刀を自在に操り、烈風を巻き起こしながら呂布に襲いかかる。その攻撃は切れ味鋭く、通常の武将なら一撃で倒されかねない。しかし、相手は呂布だ。木槍は無駄のない動きで斬馬刀の軌道を外し、受け流し、時に軽く打撃を加える。まるで猛牛を巧みに操る闘牛士のようだった。


「動け! 動くんだよ! 逃げるな!」


「ふん…なかなかやるな、小妹」


「うるさい! 黙ってろ!」


両者の掛け合いが飛び交い、木と木がぶつかる乾いた音が校場に響き渡る。五十合、百合…董媛の呼吸は次第に荒くなり、汗が額を伝う。呂布は相変わらず余裕の表情だ。ついに、董媛の動きが明らかに鈍り、一撃を大きく外した隙を、呂布は見逃さなかった。彼は素早く間合いを詰め、木槍の柄底を董媛のわき腹に軽く、しかし確かに当てた。


「ぐっ…!」


董媛はバランスを崩し、その場に膝をついた。斬馬刀を地面に突いて必死に体を支えるが、明らかに限界だった。呂布は一歩引き、木槍を立てた。


「…これで終わりだ、小妹。そなたはよく戦った」


「…くっ…くそっ…!」


董媛は悔しさで唇を噛みしめ、肩を震わせたが、立ち上がる力も残っていなかった。勝負は決した。


「皆、すまぬが前庁で待って貰えぬか?」


俺が声をかけると、集まっていた者たちは、緊張が解けた安堵と、奇妙な満足感を漂わせながら、静かに前庁へと引き上げていった。呼廚泉らも、複雑な表情で去っていく。校場には、膝をつく董媛と、彼女を見下ろす呂布、そして俺と蔡琰だけが残った。


俺は董媛に近づき、そっと腕を差し伸べた。


「…もういい。よくやった」


董媛は抵抗せず、俺に支えられてようやく立ち上がった。その体は激しい疲労で震えていた。


俺は疲れ切った董媛を、ほぼ抱き抱えるようにして彼女の寝室まで運んだ。彼女をベッドに寝かせ、湿った布で汗を拭ってやる。董媛は目を閉じたまま、かすかな声で呟いた。


「…アンタ、済まないね……」


「何がだ?」


俺は問い返した。


「何がって…!」


董媛は目を開け、怒ったように言ったが、すぐに力なく俯いた。


「…アイツの姉を…迎えるハメに…なっちゃったじゃないか…それに…騒動を起こして…」


「そうだな…そうなってしまったな」


俺はため息をついた。


「しかしな、董媛」俺は彼女の目をまっすぐ見た。「娘が父親の仇を討とうとしただけの事だ。我が妻は何も間違っておらん。むしろ、その気概は立派だ」


「でも…」


董媛は言葉に詰まった。


「出来ればな…」


俺は続けた。


「お前が比武に勝ち、呂布を討ち取ってくれれば、呂芳を迎える必要もなかったんだが…」


「アンタ!?」


董媛は驚いて目を見開いた。


「アタイが…アタイが勝つ事を望んでたって言うのかい!?」


「当たり前だ」


俺は即答した。


「妻だからな! お前が勝って、胸を張って仇を討ったと誇ってほしかった」


董媛は一瞬、呆けた顔をした。そして、さっきまでの感動を返せと言わんばかりの表情に変わり、さらに…次第に、怒りに満ちた笑みを浮かべ始めた。


「…そ、そう…アタイが勝つ事を望んでたんだ…」


彼女はゆっくりと起き上がった。


「…それに…」


「ああ?」


「…それに、『三人も妻を迎えたら俺の身が持たねぇだろ?』って…そう思ってたんだな?」


(…あ、やばい。つい本音が…)


俺は顔を背けながら、余計な一言を言ってしまったことを後悔した。しかし、時すでに遅し。


董媛の顔が、にこやかで、しかし底知れぬ怒気を湛えた恐ろしい表情になった。


「そう…そういう事だったのね…高順…」

次の瞬間、董媛は思いきり、俺の頬を引っぱたいた。

パシンッ!


「…この、大バカめ!!!」


頬に熱い痛みが走ったが、それ以上に、妻の怒りと、これから始まる複雑極まりない家庭事情を思うと、頭痛がしてきた。呂芳を迎え、蔡琰、董媛とのバランスを取らねばならない。しかも、董媛と呂芳は、それぞれ呂布を巡って対立する立場だ。


「…まあ、どうにかなるだろ」


俺は赤くなった頬をさすりながら、独り言ちた。


「これも乱世の将の宿命か…」


しかし、心の奥底では、この騒動が、晋陽の平穏な日々が、いかに脆い基盤の上に成り立っていたかを痛感させられた。匈奴との新たな関係、呂布という火種の移し替え、そして増えた妻たち…并州の孤島は、新たな波風を孕んでいた。

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