第三回 神仙憂愁小凡人 修羅王野心肥大
妖界での無限とも思える戦いの中、高順の脳裏に浮かんだのは、単なる力の限界ではなかった。何千何万と妖怪を薙ぎ倒しながら、彼の心は乾ききっていた。その乾きを潤したのは、泥と血にまみれ、それでも自分を信じてついてきた者たちの顔だった。張五、呉資、章誑といった古くからの配下たち。そして、修羅界で共に死線をくぐり抜けた戦友、張遼、張燕、昌豨らの姿。彼らとの絆こそが、高順の心を支え、この孤独な戦いを切り抜ける原動力となった。
「……やはり、俺は、一人じゃねぇ」
高順は、己の内に湧き上がる熱い感情に気づいた。力だけでは、真の平穏は築けない。共に戦い、共に生きていく仲間がいてこそ、理想の世界は現実となる。その思いを胸に、高順は妖界での戦いを終え、太乙真人のもとへと帰還した。
太乙真人は、高順の目の奥に宿る、以前にはなかった光を見た。それは、より深く、より広がりを持った、確固たる意志の輝きだった。
「戻ったか、高順。妖界での経験は、お前に何をもたらした?」
高順は深々と頭を下げた。
「太乙真人様。私は、己の力の限界と、真に築くべき世界の姿を悟りました。私一人では、何も成せぬと。故に、私には仲間が必要でございます」
太乙真人は静かに頷いた。
「見事な気づきよ。力とは、他者を導き、守るためにある。お前の願い、確かに受け止めた」
そして、太乙真人は、一人の仙人を高順の前に連れてきた。
「高順。この者は、お前の師兄、哪吒よ。彼もまた、己の道を見出すために、多くの苦難を乗り越えてきた仙人。お前には、彼からさらなる学びを得るべき時が来た」
哪吒は、精悍な顔つきの若き仙人だった。三尖両刃刀を手に、どこか挑戦的な目をしている。
「へえ、あんたが高順か。師匠がそこまで言うんだ、大したものなんだろうな」
高順は哪吒に向き直り、静かに言った。
「修羅界の高順と申します。ご指導、よろしくお願いいたします」
哪吒はニヤリと笑った。
「堅苦しいのは性に合わねぇな。だが、お前の目には、俺と同じ匂いを感じるぜ。よし、今日から俺のやり方で鍛えてやる。いいか、お前がいくら法力を極めようとも、武が伴わなきゃ絵に描いた餅だ。特に、近接での法力と武の連携はな」
哪吒の指導は、太乙真人のそれとは全く異なる、実践的で苛烈なものだった。
「おい、もっと法力を込めろ! その程度の法力じゃ、妖魔の皮一枚も切れやしねぇぞ!」
哪吒は火尖槍を振るい、雷鳴のような一撃を放つ。高順はそれを間一髪で躱し、自身の法力で受け流す。
「槍術は、ただ突くだけじゃねぇ! 槍先に法力を集中させ、貫通力を極限まで高めるんだ! それから、受け流す時も気を流せ! 敵の気を乱し、隙を生み出すんだ!」
哪吒は、高順が習得した万物の理、天地の力を、いかに「戦い」の中で応用するかを徹底的に教え込んだ。法力で身体能力を強化し、槍術の速度と威力を飛躍的に向上させる。また、法力で作り出した結界を即座に展開し、敵の攻撃を防ぎながら反撃に転じる術。さらには、自身の気を相手の法力にぶつけ、その流れを断ち切る「破法」の技まで。
「いいか、高順。法力は無限じゃねぇ。だが、使い方次第で、無限に匹敵する力を生み出せる。無駄なく、最小限の消費で最大の効果を得る。それが、生き残るための戦い方だ」
哪吒の指導は時に厳しく、時に理不尽に思えるほどだったが、高順は食らいついた。かつての配下たちの顔を思い出し、彼らが望む世界を創り出すため、そして、そのためにはどんな困難も乗り越えなければならないと理解していたからだ。
修行の日々が続く中、高順の法力と槍術は、かつてないほどの融合を見せていた。彼の槍は、法力の光を帯びて稲妻のように走り、一突きで空間を震わせた。一歩踏み出すたびに大地が揺れ、拳を握れば空気が唸る。彼は、かつての武の頂点を超え、法力と武を完全に一体化させた、新たな「仙武」の境地へと足を踏み入れていた。
高順の心には、仲間と共に創り上げる「自身の仙界」という、揺るぎない願いが刻まれている。そして、その願いを叶えるため、彼は今、更なる高みへと歩みを進めていた。
高順が哪吒のもとで新たな境地へと足を踏み入れている頃、太乙真人は師である元始天尊の元を訪れていた。高順の修行の進捗と、彼が抱く「自身の仙界を創る」という願いを報告するためだ。
「師よ、高順の成長は目覚ましく、その法力は仙界の神々に匹敵する域に達しました。しかし、彼の心には、既存の仙界への失望と、自らが理想とする世界を築きたいという、強い願いがあります」
太乙真人の言葉に、元始天尊は静かに目を閉じた。彼の顔には、仙界の最高位に立つ者としての重責と、深い思慮が浮かんでいた。
「……高順か。その名は確かに、天命に縛られぬ異質な輝きを放っているな。だが、彼が望むものが仙界の秩序を揺るがすものならば、看過はできぬ」
しかし、元始天尊は高順の真意を理解していた。その願いが個人的な野心に留まらず、仙界の腐敗を憂う純粋な動機から来ていることも悟っていたのだ。直接的な介入は、かえって事態を複雑にする。仙界の最高神である彼でさえ、個人の魂の願いに易々と手出しはできない。
そこで元始天尊は、ある方策を思いついた。
「太乙よ、高順の願いは、彼の器に見合うだけの力が必要となる。彼の力を増幅させることで、彼自身の願いが、より清らかな形で成就する可能性もあろう」
彼はそう言うと、太乙真人に静かに告げた。
「師兄、太上老君の元を訪ねよ。彼ならば、高順の装備をさらに強化する術を知っていよう。ただし……」
元始天尊は言葉を切った。太乙真人は彼の視線の先に、微かな懸念を感じ取った。
「太上老君は今、孫悟空が天庭で大暴れした後で、心身ともに疲弊しておる。その上、天界の均衡が崩れかねない、極めて難しい時期にある。故に、慎重に、そして丁重に願い出るのだ」
太乙真人は師の命を受け、太上老君の住まう兜率宮へと向かった。
兜率宮は、普段ならば仙薬の甘い香りが漂い、穏やかな空気に満ちているはずだ。しかし、この時の兜率宮は、どこか乱雑で、香炉の煙もいつもより心なしか薄く感じられた。
太上老君は、いつものように仙丹を練る炉の前に座っていたが、その表情には深い疲労の色が浮かんでいた。白く長い髭もわずかに乱れ、普段の泰然とした雰囲気は影を潜めている。
「太上老君様」
太乙真人は恭しく頭を下げた。
太上老君はゆっくりと顔を上げ、太乙真人の姿を認めると、ため息をついた。
「おお、太乙よ。何か用かね? まったく、この老いぼれの休まる暇もない。先日はあの猿が、この兜率宮で好き放題やりおって……まったく、私の仙丹のほとんどを平らげた上、炉まで傷つけおったのだぞ」
彼は疲れた様子で、炉の横にある小さな凹みを指差した。その声には、明らかに苛立ちと困憊の色が滲んでいた。
太乙真人は、恐縮しながらも、本題を切り出した。
「申し訳ございません、太上老君様。しかし、至急お願いしたいことがございまして。弟子の高順のことでございます」
太上老君は眉をひそめた。
「高順? ……いや、確か修羅界の王であったか。彼に何用がある?」
「はい。彼は自身の仙界を創るという、壮大な願いを抱いております。その願いを成就させるため、彼の身につける装備を、さらに強化していただきたく、元始天尊様の命を受け、参上いたしました」
太上老君は、仙丹を練る杓子をぴたりと止めた。その疲れた眼差しの中に、警戒の色が浮かんだ。
「自身の仙界、だと? 太乙よ、それは仙界の秩序を根本から覆しかねない、危険な願いではないのか? しかも、そのような大それた企みに、この老いぼれの力を貸せというのか」
太上老君の声は、明らかに不快感を帯びていた。孫悟空の一件で疲弊し、仙界の均衡が危ういと感じている今、新たな混乱の種を持ち込まれることに、強い抵抗があるようだった。
太上老君は、孫悟空の一件で疲弊しきった心身に鞭打ち、弟弟子である元始天尊と共に、仙人の祖と称される鴻鈞老祖の元を訪れた。彼の住まう場所は、天地の始まりから存在すると言われる仙界のさらに奥、時間の流れすら曖昧になるような秘境にあった。
鴻鈞老祖は、宇宙の根源たる「道」そのものと一体化した存在であり、その御前は常に静寂に包まれていた。彼の姿は定まることなく、時には光の柱のように、時には古木の根のように、そしてまたある時は、広大な宇宙そのもののようにも見えた。
太上老君は、仙界の現状と、高順という特異な存在が抱く「自身の仙界を創る」という願いについて、重々しく語り始めた。孫悟空の件で揺らぐ天庭の秩序、高順の計り知れない法力、そして彼の願いが仙界にもたらすであろう影響。元始天尊もまた、静かにその言葉に耳を傾けていた。
太上老君は、疲労と困惑を滲ませた声で問いかけた。
「師よ、この高順という存在は、果たして仙界の秩序を乱す者なのでしょうか? 彼に力を貸すことは、天命に逆らうことになるのでしょうか? この混乱の極みに、我々はいかに振る舞うべきなのでしょうか」
元始天尊もまた、師の裁きを求めた。
「師父。高順の願いは、確かに異端ではございます。しかし、その根底にあるのは、現仙界の腐敗への嘆きと、真の平和を求める心。我々は、彼の力を封じるべきか、あるいは…」
広大な空間に、太上老君と元始天尊の声だけが響き渡り、やがて静寂が戻った。鴻鈞老祖は、瞑目したまま微動だにしなかった。二人の最高神は、師からの明確な答え、進むべき指針を待った。
しかし、鴻鈞老祖から発せられたのは、彼らの期待するような言葉ではなかった。彼の口から出たのは、天地創造の昔から変わらぬ、深遠にして無常な、ただ一言だった。
「流れるがままに、為せ」
その言葉は、肯定でもなく、否定でもない。善悪を断じるでもなく、介入を促すでもない。ただ、宇宙の摂理に従い、事象の展開をあるがままに受け入れよ、という、絶対的な真理の響きだった。
太上老君と元始天尊は、互いに顔を見合わせた。鴻鈞老祖の言葉は、彼らにとって重い意味を持っていた。それは、高順の願いを阻止する明確な指示ではない。かといって、彼を全面的に支援せよ、というわけでもない。ただ、この世の全てがそうであるように、高順という存在もまた、宇宙の大きな流れの中で、自らの道を切り開いていくべきだということなのだろうか。
「流れるがままに……」
太上老君は、疲れた顔に複雑な表情を浮かべ、呟いた。この言葉は、仙界の秩序を司る彼らにとって、ある種の重荷であり、同時に、一つの指針でもあった。高順の願いが仙界に何をもたらすか、それは誰にも予測できない。しかし、この瞬間、彼の運命は、より大きな力の導きの下、その軌道を定められたようだった。
鴻鈞老祖の「流れるがままに、為せ」という言葉は、太上老君と元始天尊の間に複雑な思索をもたらした。彼らは高順の願いを完全に阻止することも、全面支援することもできず、ただ事態の推移を見守るしかなかった。その頃、哪吒との修行で「仙武」の境地に至った高順は、自身の仙界を創るという願いを具体的に実現するための次なる一手へと動き出していた。
高順が真っ先に考えたのは、やはり「仲間」だった。妖界での孤独な戦いを通じて、彼は個人の力の限界を痛感していた。張五、呉資、章誑、張遼、張燕、昌豨彼らがいてこそ、高順は真の力を発揮できる。しかし、彼らは既にこの世にはいない。
そこで高順は、ある壮大な計画を胸に、東嶽大帝の元を訪れた。東嶽大帝は、泰山府君とも呼ばれ、五嶽大帝の一柱として、人間界の生死や冥界を司る神だ。彼の許可なくして、冥界に囚われた魂を取り戻すことは不可能だった。
高順は、深々と頭を下げ、東嶽大帝に自身の願いを述べた。
「東嶽大帝様。私は自身の仙界を創り、真の平和を築きたいと願っております。しかし、その道は一人では成し得ません。私には、共に戦い、共に生きた仲間が必要なのです」
東嶽大帝は、その威厳に満ちた瞳で高順を見据えた。
「修羅の王よ、そなたの願い、確かに聞いた。だが、死者の魂を冥界から呼び戻すことは、天地の理に背く大罪ぞ。況や、そなたの個人的な目的のためとあらば、なおのこと」
高順は顔を上げた。その目に宿るのは、私欲ではなく、切なる願いの光だった。口調も元に戻っていた
「大帝よ。アイツらは俺の配下だったんだぜ?かつての『陥陣営』だ。彼らがいなければ、アイツらが居なけりゃ何も出来ねぇ。そして、あの長髭野郎との戦いに、この身一つじゃぁ対抗しきれねぇしよ。楊戩が草頭神を兵としてる様に、俺にもかつての部下たちが必要ってわけ。奴らは俺と共に乱世を駆け抜いたんだ。アイツらだってただ死んで地獄に落ちたまんまじゃ俺もいい気はしねぇ」
高順は、楊戩が自らの力で草の頭を持つ神々を創り出し、兵とした例を挙げた。しかし高順が望むのは、生前の絆をそのままに、魂のままに共に戦う兵士たちだった。それは、楊戩の創造とは全く異なる、冥界の秩序に深く関わる禁忌にも近い願いだった。
東嶽大帝は、静かに目を閉じた。高順の言葉には、私利私欲を超えた、兵を思う主としての深い情と、来るべき戦への強い覚悟が滲み出ていた。冥界を司る神として、死者の魂の安寧は彼の管轄だ。しかし、同時に、高順の願いが仙界全体に与える影響も理解していた。
長い沈黙の後、東嶽大帝はゆっくりと目を開いた。
「高順よ。そなたの願いが、真に平和を築くためであるならば……。しかし、この冥界の理を覆すことは、容易ではない。冥界の深淵には、死者の魂を縛る多くの試練がある。それを乗り越えられぬ限り、たとえ私とて、彼らをそなたの元へ返すことはできぬ」
それは、完全な許可ではなかった。しかし、同時に、拒絶でもなかった。東嶽大帝は、冥界の深奥へと続く道を示すことで、高順に新たな試練を与えることを決めたのだ。
高順の瞳に、強い決意の光が宿った。
「わァったよ、大帝。どんな試練であろうと来やがれってんだ」
こうして、高順はかつての陥陣営を取り戻すため、冥界の深淵へと足を踏み入れることになった。彼の「自身の仙界」を創るという願いは、今、死と生の境界を越える、壮大な冒険へと変貌しようとしていた。冥界での再会は、果たしてどのようなものとなるのだろうか。