第二回 高孝父拝師学芸 関聖帝練兵備戦
高順は修羅界での戦いの日々に戻っていた。東岳大帝から授かった武具と神獣・大黒、そして元始天尊から学んだ真の武の極意は、彼の力を飛躍的に高めていた。彼はもはや、かつての高順ではなかった。その圧倒的な強さは、修羅界の勢力図を塗り替えつつあった。
しかし、彼の心には常に、さらなる高みへの渇望があった。関羽との敗北が、彼の中に深く刻まれていたからだ。
そんなある日、高順は修羅界の片隅で、奇妙な老人と出会った。ぼろを纏い、背中を丸めた老人は、高順の猛々しいオーラにも臆することなく、にこやかに話しかけてきた。
「おお、若き修羅王よ。そなたの武、見事なものよな」
高順は警戒心を露わにした。この修羅界で、何の武器も持たず、これほど悠然としている人間など、いるはずがない。
「何者だ、てめぇ。こんな場所でぶらぶらしてると、俺の槍の錆になるぜ」
老人は高順の威嚇にも動じず、穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「わしはただの旅の者よ。しかし、そなたの持つ力、まだ伸びしろがあるのを見ておった」
高順は眉をひそめた。
「伸びしろだぁ? これ以上、何を学べってんだ」
老人はゆっくりと首を振った。
「そなたの武は、確かに天下一品。しかし、それはまだ仙界の基礎を知らぬゆえ。わしはそなたに、法力を教えることができるぞ」
高順は、老人の言葉に鼻で笑った。
「法力? 仙界の基礎? はっ、胡散臭ぇ話だな。そんなフワフワしたもんで、この修羅界がどうにかなるってのか? 俺はな、槍と力で全てをねじ伏せてきたんだ。てめぇみたいな怪しい老人の言うことなんざ、信じるかよ」
高順は老人を一瞥すると、すぐに背を向けた。仙界だの法力だの、そんな抽象的な話は、彼が身を置いてきた戦場の理とはかけ離れていた。彼は相変わらず、力と力でぶつかり合う、戦いの日々を送り続けた。老人の言葉など、まるで耳に入っていなかったかのようだった。
それでも、老人は高順のそばを離れず、静かに彼の戦いを見守り続けていた。
高順がどれだけ苛立っても、老人は決して諦めなかった。修羅界での激戦の最中だろうと、休息を取るわずかな時間だろうと、老人は常に高順の視界の端にいた。決して話しかけてこないが、その存在は高順の神経をじわじわと蝕んでいく。
「ちっ…本当にしつけぇジジイだな!」
高順は舌打ちをした。修羅と斬り合い、血と砂塵にまみれていても、老人の姿が脳裏をよぎる。まるで、自分の行動を監視されているような、奇妙な感覚に襲われた。
ある日、高順は大規模な修羅の群れと激突し、いつになく深手を負った。神獣・大黒もまた疲弊し、その場で倒れ込んだ。高順は、満身創痍の身体を引きずりながら、かろうじて身を隠せる岩陰に倒れ込んだ。その時、老人が静かに高順の傍に現れた。手に持っていたのは、小さな瓶に入った、淡く光る液体だった。
「若き修羅王よ。その傷、癒さねばならぬ」
老人は瓶を差し出した。高順は警戒心を露わにした。
「なんだ、てめぇ。毒でも盛るつもりか?」
老人は穏やかに首を振った。
「これは、仙界の霊水。そなたの傷を癒し、疲弊した気を補うものよ。信じられぬか?」
高順は老人の澄んだ瞳をじっと見つめた。そこには、何の悪意も感じられない。むしろ、純粋な心配の色が宿っているように見えた。彼は迷った。この修羅界で、見ず知らずの老人の言葉を信じるなど、かつての自分には考えられないことだった。だが、今の彼は、元始天尊の修行を通して、見えるものだけが全てではないと学び始めていた。
「…チッ、好きにしろ」
高順は渋々ながらも、瓶を受け取った。液体はひんやりと心地よく、喉を通すと身体の内側から温かい力が湧き上がってくるのを感じた。みるみるうちに傷の痛みが和らぎ、疲労が回復していく。大黒もまた、同じ霊水を飲ませると、すぐに息を吹き返した。
「な…なんだ、こりゃ…」
高順は驚きを隠せない。これは、彼が知るいかなる薬とも違う、まさに奇跡としか言いようのない力だった。老人は、高順の驚きに満足そうに微笑んだ。
「これは、法力のほんの一端に過ぎぬ。真の法力は、生命を癒すだけでなく、万物を動かし、天地を操ることも可能にする」
高順は老人の言葉に、初めて真剣に耳を傾けた。この老人は、本当に「仙界の基礎」を教えてくれるのかもしれない。これまで胡散臭いと一蹴してきた考えが、彼の心の中で少しずつ形を変えていく。
「おい、ジジイ…」
高順は、老人の顔をまっすぐ見た。その瞳には、疑いの色に代わり、探究心が宿っていた。
「その法力ってやつ、俺にも教えられるのか?」
老人は、待っていたとばかりににこやかに頷いた。
「うむ。ただし、法力を得るには、そなた自身の心を開き、新たな理を受け入れる覚悟が必要となる」
高順は立ち上がった。彼の目の前に広がる修羅界は、以前と変わらず血と争いに満ちている。だが、その風景が、彼には少し違って見えた。
「覚悟…か。くく、面白い。どうせこの修羅界で永遠に戦い続けるんなら、新しい力を手に入れるのも悪くねぇな。てめぇの言うこと、聞いてやるよ。ジジイ」
高順の言葉に、老人はさらに深く微笑んだ。修羅界に、新たな学びの時間が始まろうとしていた。
高順が老人のもとで法力の修行を始めようとしたその時、修羅界の空が突如として裂け、まばゆい光が降り注いだ。その光の中から現れたのは、世界の創造神である女媧と、そして東岳泰山斉天仁聖大帝であった。二柱の神々が揃って姿を現したことに、高順は驚きを隠せない。隣にいた老人は、神々の出現にも動じることなく、静かに微笑んでいる。
「高順よ。貴方の苦難は、我々神々にとっても看過できぬものであった。関羽の行いは、天の理に反する」
女媧が、慈愛に満ちた眼差しで高順を見つめた。東岳大帝も、深く頷いた。
「我は汝を修羅界に突き落とした関羽の不義を天庭に訴えたが、無視された。故に、女媧殿に助けを請うたのだ。この老人…いや、太乙真人は、私の師の元始天尊の五番弟子にして、法力の源流を司る者。彼がそなたを導き、真に仙界の道を開くことを願う」
高順は、その全てを理解した。自分は、神々の壮大な計画の一部であり、関羽との因縁も、全ては自分を導くための試練だったのかもしれない。そして、この謎の老人が、まさか太乙真人という高名な仙人であり、さらに神々の中でも特別な存在である元始天尊の五番弟子であったとは。
「なるほどな…俺は、てめぇらの手のひらで転がされてたってわけか。だが、悪くねぇ」
高順は不敵に笑った。彼の心には、もはや憎しみだけではなかった。自身の内に秘められた無限の可能性、そして神々からの期待を感じていた。
「太乙真人様、改めてよろしくお願いします。俺は、アンタの言う法力ってやつで、この修羅界の全てをひっくり返してやる。そして、関羽…今度こそ、てめぇに真の力の差を見せつけてやるぜ!」
高順の言葉には、確固たる決意と、新たな目標に向かう強い意志が宿っていた。太乙真人はにこやかに頷き、女媧と東岳大帝もまた、高順の成長を静かに見守っていた。
太乙真人のもとでの法力の修行は、高順の武をさらに深遠なものへと変えていった。それは単なる力技ではない。万物の理を理解し、気を操り、ついには天地の力すらも己の内に取り込む、精緻で壮大な道のりだった。
最初の段階は、己の「気」を感じ、操ることから始まった。高順はまず、自身の内に流れる生命の源、気の巡りを感じ取る訓練を重ねた。目を閉じ、呼吸を整え、心の目で身体の隅々まで意識を巡らせる。最初は漠然とした感覚だったが、太乙真人の導きのもと、彼はやがて指先一本、毛髪一本にまで意識を通わせ、微細な気の流れを制御できるようになった。それは、自らの身体を、これまで知らなかった別の感覚で捉え直すような体験だった。
次に、彼は「外界の気」との同調を学んだ。修羅界に満ちる荒々しい気、あるいは自然の中に存在する穏やかな気、高順はそれらの「気」を感じ取り、自身に取り込む訓練を始めた。風の気、土の気、水の気、火の気――天地のあらゆる要素が持つ気を、彼は繊細に感じ分け、己の内に流し込む。最初は気が暴走し、身体が痺れたり、熱を持ったりすることもあったが、回数を重ねるごとに、彼はそれらを自身の法力へと変換する術を習得していった。この段階で、大黒との連携もさらに深まった。大黒の力強い気と、高順の緻密な気が融合することで、彼らの動きはまさに一対の神獣のように、修羅界を縦横無尽に駆け巡るようになったのだ。
修行の核心は、「万物の理」の理解にあった。法力とは、単なる力の行使ではない。それは世界の成り立ち、因果の連鎖、そして生命の循環といった深遠な「理」と一体となることで、真の力を発揮する。太乙真人は高順に、ただ法力を教えるのではなく、天地創造の神話、仙界の古文書、そして様々な事象に隠された法則を説いた。高順は座禅を組み、瞑想を重ね、宇宙の広大さと己の存在の小ささ、そしてその中に息づく無限の可能性を感じ取っていった。彼は、木々が葉を茂らせ、川が流れ、星々が運行する、その一つ一つに内在する「理」を肌で感じ、理解しようと努めた。
この理解が深まるにつれて、高順は新たな境地に到達した。それは、「天地の力を己が内に取り込む」術だった。単に気を取り込むだけでなく、それはより根源的な力、すなわち天地そのものが持つエネルギーを、自身の法力として顕現させることだった。高順が手をかざせば、大地が震え、空気が唸り、空間そのものが彼の意思に呼応して変容する。それは、彼がもはや単なる修羅の王ではなく、自然の摂理の一部となったかのようだった。彼の放つ法力の光は、以前にも増して清らかでありながら、底知れぬ深淵を宿すようになっていった。
修行が進むにつれて、高順の心には、ある願いが芽生え始めていた。それは、関羽に打ち勝つという個人的な復讐心を超えた、より大きく、そして仙界をも巻き込むほどの、静かなる決意だった。
「法力とは、こんなにも奥深く、そして途方もない力を秘めているものなのか…」
高順は、自身から放たれる法力の光を見つめながら呟いた。その光は、彼自身の心象風景を映すかのように、清らかでありながらも、底知れぬ力を宿していた。太乙真人は、その横で静かに頷いた。
「その通りよ。法力は、仙界を支える根源の力。正しき心で用いれば、万民を救い、邪な心で用いれば、世界を滅ぼすことさえも可能にする」
太乙真人の言葉を聞きながら、高順の心の中では、ある考えが膨らんでいく。
(神々…奴らは俺を見捨てた。関羽の横暴を見て見ぬふりをした。この修羅界で、永遠に戦い続けることなど、誰も望んじゃいねぇ。だが、奴らは何も変えようとしない。仙界に招かれたとて、あの腐りきった秩序の中で、関羽と相容れぬまま生きていくなど、俺にはできねぇ。ならば…)
高順の瞳に、ギラリとした光が宿った。それは野望の光ではなく、深い諦念と、それでもなお前を向こうとする、揺るぎない決意の光だった。
「太乙真人様…この法力があれば、俺自身の、新たな世界を創ることは叶いますか?」
高順の言葉に、太乙真人は一瞬、表情を固めた。彼女の目に映ったのは、高順の内に秘められた、計り知れない苦悩と、それを乗り越えようとする強い意志だった。
「高順よ…それは、仙界の秩序から逸脱した、危険な道よ。遥か古より定められた天地の理に逆らうもの…」
しかし、高順は太乙真人の言葉を遮るように言い放った。
「古かろうが新しかろうが、腐りきった秩序なんざ、俺には関係ねぇ。俺は、俺のやり方で、この世界…いや、全ての世を変えてやる。俺は、俺が信じる平和のために、俺自身の仙界を創り上げる。この法力でな」
高順の言葉には、確固たる決意と、もはや誰にも止められないほどの強い意志が漲っていた。それは、修羅界という混沌の中で生まれ、神々の思惑を超えて成長した高順だからこそ抱きうる、壮大な、そして何よりも切実な願いであった。
仙界の神々は、高順のこの新たな願いを知る由もない。彼らはただ、高順が関羽という個人の因縁を乗り越え、更なる高みへ進むことを願っていたに過ぎない。しかし、高順の心には、彼ら神々の想像を遥かに超える、仙界全体を巻き込むほどの変革への願いが芽生えていたのだ。
高順が新たな世界を創造する静かなる決意を固める一方で、仙界の片隅では、別の戦いの予兆が色濃くなりつつあった。関羽は、高順との因縁が避けられぬものと確信し、来るべき大戦に備え、自身の天兵をさらに厳しく鍛え上げていた。
関羽の天兵の訓練は、もはや単なる武術の習得に留まらなかった。彼らは「天の気」との同調を深く追求し、神聖な力をその身に宿す術を叩き込まれた。日の出とともに始まり、日没まで続く過酷な修行は、兵士たちの肉体と精神の限界を試した。
訓練場には、関羽の厳しくも揺るぎない声が響き渡る。
「慢心するな! 法力とは、ただの力ではない。それは心と技、そして天への畏敬が一つになった時にのみ、真の力を発揮する!」
彼は自らも訓練に参加し、青龍偃月刀を振るい、雷霆の如き法力を放つ。その姿は、兵士たちにとって畏敬の対象であり、絶対的な目標だった。
特に重視されたのは、連携と統率だった。個々の兵士がどれほど強くとも、統率が取れていなければ大軍には敵わない。関羽は、兵士たちに「心を一つにする」ことの重要性を説いた。彼らは、互いの気を読み取り、呼吸を合わせ、まるで一体の巨大な龍のように動くことを徹底された。集団で放つ法力の連携技、敵の法力を打ち破るための陣形、そして何よりも、いかなる状況下でも崩れない不屈の精神が植え付けられた。
また、仙界の秩序を重んじる関羽は、高順の力を危険視していた。彼の持つ修羅の気質と、底知れぬ法力の成長は、仙界の均衡を揺るがしかねないと見ていたのだ。彼にとって、高順との戦いは個人的な復讐だけでなく、仙界の安定を守るための聖戦でもあった。
関羽の天兵は、日ごとにその精鋭さを増していった。彼らの鎧は天の光を宿し、武器は法力を帯びて鋭さを増す。瞳の奥には、主への絶対的な忠誠と、来るべき戦への揺るぎない覚悟が宿っていた。
仙界の空には、高順が創り出す新たな世界の胎動と、関羽が鍛え上げる天兵の殺気が、互いに拮抗するように満ち始めていた。避けられぬ宿命の戦いが、刻一刻と近づいていた。