第十九回 両軍相対勇者勝 狭路相逢両者平
董勇は、高順の期待に応え、目覚ましい成長を遂げていた。かつての粗暴さは影を潜め、精悍な顔つきには、将としての威厳が漂っていた。高順から三万の兵を預けられた董勇は、北西の羌族討伐において、その才能を遺憾なく発揮した。
「羌の蛮族どもめ!董剛穎様のお通りだ!」
董勇は、先頭に立ち、祖父譲りの剛刀『飛熊』を 片手に、羌族の兵を容赦なく斬り伏せていく。その圧倒的な武力と、容赦のない進撃に、羌族は恐れをなし、次々と敗走していった。
董勇の軍は、羌族の部落を焼き払い、家畜や物資を略奪した。その苛烈なまでの討伐は、羌族に深い恨みを植え付けた。
「馬超の野郎、いつまで隠れているつもりだ!」
羌族を荒らし回る中で、董勇は頻繁にそう叫び、馬超の潜伏するであろう山岳地帯を挑発した。
「臆病者の馬超!貴様の故郷を、この董剛穎が踏み荒らしてやるわ!」
董勇の挑発は、遠く山奥にまで響き渡った。高順の命を受け、董勇は馬超をおびき出すために、わざと過激な行動に出ていたのだ。
「叔父御、見ててくれ!必ずや馬超を引きずり出し、この手で討ち取ってみる!」
董勇は、高順のいる天水に向かって、密かに誓った。彼の胸には、馬超への復讐心と、高順の期待に応えたいという強い決意が燃え盛っていた。羌族の地は、董勇の軍によって荒らされ、その怒りの矛先は、やがて馬超へと向かうことになるだろう。
洛陽の屋敷で、馬騰は董卓の孫の董勇が羌族を荒らし、馬超を挑発しているという知らせを聞き、複雑な思いに駆られていた。
(董剛穎…あやつもまた、血気盛んな若者よのう…)
董勇の武勇は耳に届いていた。高順の期待に応え、着実に力をつけているらしい。それは喜ばしいことではあったが、同時に、その矛先が実の息子である馬超に向いていることに、馬騰は深く心を痛めていた。
(まさか、このような形で刃を交えることになるとは…)
平原での敗戦後、馬超は復讐の念に燃え、いまだ潜伏している。董勇の挑発は、その馬超を戦場に引きずり出すためのものだと理解していた。高順の意図も察している。西涼の地で燻る火種を、この機会に完全に消し去りたいのだろう。
しかし、親として、息子同士が殺し合うなど、想像もしたくない。馬騰は、かつて共に故郷を守ろうと誓い合った息子たちの姿を思い浮かべ、胸が締め付けられるようだった。
(超よ…お前もまた、意地を張っておるのだろうな…)
馬超の頑なな性格もよく知っている。一度決めたことは簡単に翻さない。董勇の挑発に乗らずとも、いつか必ず復讐のために立ち上がってくるだろう。その時、相対する相手が董勇であるという現実に、馬騰は深く憂慮していた。
(わしに、何かできることはないのか…)
捕虜の身である自分が、今できることは限られている。高順に何かを訴えたとしても、聞き入れられる可能性は低いだろう。ただ、息子たちの身を案じ、静かに事の成り行きを見守ることしかできない。
夜も眠れぬ日々が続いた。馬騰は、息子たちの未来を案じ、一人、暗い屋敷の中で深く思い悩んでいた。
董勇が羌族の地を荒らし、挑発を繰り返す中、ついにその男は姿を現した。
荒涼とした山岳地帯の一角。吹き荒れる風に、翻る旗印はかつての馬家のものか。その下に現れたのは、紛れもなく馬超であった。
長らく潜伏していた間に、その身には羌族の戦装束が馴染んでいた。獣の皮をあしらった飾りや、独特の意匠が、彼の精悍な顔立ちを一層引き立てる。しかし、
その下には、かつて父馬騰と共に戦った漢の鎧が確かに身につけられていた。それは、彼の誇りと、漢の武将としての矜持を今もなお示しているようだった。
精悍な顔つきは、長年の苦難と復讐への決意によって、一層厳粛に引き締まっている。鋭い眼光は、遠く天水を睨みつけ、燃えるような怒りを宿していた。背に負った槍は、今にも大地を突き刺さんばかりの威圧感を放ち、腰に佩いた剣は、静かにその切っ先を光らせている。
羌族の荒々しさと、漢の武将としての威厳。その二つが 혼然一体 となった姿は、まさに「神威天将軍」の名に恥じない威容であった。
「董勇…!貴様の好きにはさせんぞ!」
馬超の短い唸りのような声が、山々に木霊した。その声には、抑えきれない怒りと、積年の恨みが込められていた。ついに、復讐の時が来たのだ。馬超は、その足で大地を踏みしめ、董勇の軍へと向けて、静かに歩き出した。
山岳地帯を抜け、平原へと差し掛かったその刹那、馬超の軍勢は疾風の如く現れた。長らく潜伏していたとは思えぬほど統率された動きで、董勇の先遣隊へと襲い掛かる。
「うおおおおおお!」
馬超自らが先頭に立ち、槍を振るう。その一撃は空を切り裂き、敵兵を鎧ごと吹き飛ばすほどの威力を持つ。神速の如き馬術で、瞬く間に敵陣を駆け抜け、その行く手には、なぎ倒された兵士たちが折り重なる。
羌族の戦装束に身を包んだ兵士たちも、馬超に呼応するように猛然と襲い掛かる。地の利を知り尽くした彼らの動きは巧みであり、董勇の先遣隊は、為す術もなく蹂躙されていく。
「何だ!?何が起こった!?」
董勇は、本陣で事態の急変を知り、愕然とした。斥候からの報告も途切れ途切れで、正確な状況を把握できない。
その混乱の中、駿馬を跨った一騎の武者が、砂塵を巻き上げながら董勇の本陣へと迫ってきた。その騎乗の人物こそ、紛れもなく馬超であった。
赤兎馬にも劣らぬ駿馬に跨り、槍を平に構えた馬超の姿は、まさに孤高の荒鷲のようであった。その眼光は鋭く董勇を射抜き、周囲の喧騒などまるで意に介していない。
「董勇!貴様が俺の故郷を荒らした張本人か!」
馬超の声は、戦場の騒音を切り裂き、董勇の耳に直接届いた。その威圧感に、董勇の周囲の兵士たちは、思わず息を呑んだ。
董勇は、目の前に現れた馬超の威容に、一瞬言葉を失った。神威天将軍の名は伊達ではない。その姿は、まさに戦神そのものであった。
馬超の予期せぬ登場に動揺した董勇だったが、すぐに気を取り直し、将兵たちに号令をかけた。
「怯むな!あれはたった一人だ!数で圧倒して叩き潰す!」
董勇は、自らも祖父譲りの剛刀『飛熊』を血に染め、馬超へと向かって突撃した。
「馬超!貴様のような卑怯者には、この董剛穎が相手をしてやる!」
董勇の雄叫びに応じ、周囲の将兵たちも武器を構え、馬超へと襲い掛かった。数で優位に立つ董勇軍は、四方八方から馬超を包囲しようとする。
しかし、馬超は一顧だにせず、 一匹狼のように董勇軍の中を駆け巡る。槍は空気を切り裂き、剣は光のごとく敵兵を薙ぎ倒していく。その動く標的は捉えがたく、董勇軍の包囲網は容易に突破されていく。
董勇もまた、剛刀を振るい、馬超に肉薄しようと試みるが、馬超の素早い動きに翻弄され、なかなか有効な一撃を与えることができない。
「くそっ!速すぎる!」
董勇は、馬超の速さに舌打ちをした。それでも、董勇は諦めなかった。彼は、将兵たちを鼓舞し、馬超への攻撃の手を緩めない。
「囲め!囲んで槍衾を敷け!決して奴を逃がすな!」
董勇の指揮の下、董勇軍は再び体勢を立て直し、幾重にも包囲網を築こうとする。しかし、馬超はそれを嘲笑うかのように、さらに激しい攻撃を仕掛けてくるのだった。
接戦の中、両雄は互いに一歩も譲らぬ激しい攻防を繰り広げていた。董勇の剛刀『飛熊』は、唸りを上げながら幾度となく馬超に迫り、その重さと勢いで追い詰める。
「どうだ、この一撃は!」
董勇の声が戦場に響く。対する馬超の槍捌きは神速であり、まるで空気を切り裂くかのように董勇の懐を深く突き刺そうとする。「甘い!」馬超の声は冷静そのものだ。
董勇は、祖父から受け継いだ剛刀術に絶対の自信を持っていた。一撃の重みで相手を粉砕するその剣技は、まさに猪突猛進の体現であった。しかし、馬超の予測不能な動きと、研ぎ澄まされた槍の切っ先は、徐々に董勇の体力を奪っていく。焦燥感が募る中、董勇は渾身の力を込めて横薙ぎの一撃を放った。
「喰らえ、これが俺の全てだ!」
狙いは馬超の胴体。だが、寸前のところで馬超は紙一重で身を翻し、鋭い刃は董勇の右肩を深く切り裂いた。鮮血が噴き出し、董勇の顔が激しく歪む。
「ぐっ…ああああ!」
一方の馬超も、完全に無傷というわけにはいかなかった。董勇の捨て身の一撃を防ぎきったものの、その際にほんの僅かに体勢を崩した隙を突かれ、董勇の振るった剛刀が太腿を浅く斬りつけたのだ。痛みは一瞬走ったが、馬超は眉一つ動かさず、研ぎ澄まされた眼光で董勇を捉え続ける。
(浅いな…だが、油断は禁物。この男、まだ何か隠し持っているかもしれん)
互いに傷を負い、息遣いも荒くなる中、戦場の空気は一層張り詰めていた。負傷によって、両者の動きには僅かながらも変化が生じていた。董勇は右肩を庇うように動きが鈍り、得意の豪快な一撃の威力が僅かに落ちた。
「くそっ、効きやがったか!だが、まだ終わらんぞ!」
対して馬超は、太腿の傷を意識しつつも、その動きの速さと正確さを維持しようと努めていた。
(この痛み…集中力を途切れさせるわけにはいかない)
深手を負った董勇の表情には焦りと苦痛が滲み出ていたが、その奥には狂気にも似た執念が宿っている。彼は、この一撃で終わらせるという強い意志を漲らせ、再び剛刀を血に濡れた手で強く握り直した。
「貴様のような小癪な男に…俺が負けるわけにはいかんのだ!」
一方、馬超は冷静に自身の傷を確認し、次の行動を瞬時に判断していた。彼は、この僅かな隙を見逃すつもりはなかった。董勇の焦りと痛みを鋭く察知し、一気に勝負を決める絶好の好機と捉えたのだ。
(好機…この一瞬で全てを決める!)
「覚悟しろ、董勇!」
戦況は、この一瞬の攻防によって、より一層予断を許さないものとなっていた。互いに傷を負い、疲労の色も見え始める中、どちらが先に決定的な一撃を放つのか。戦場の兵士たちは息を潜め、二人の英雄の次なる一挙手一投足から、決して目を離そうとはしなかった。
激しい一騎打ちの余波は、周囲の戦場にも深く刻まれていた。意識を集中させていた董勇と馬超の耳にも、次第に周囲の異変が届き始める。斬り結ぶ合間に、あるいはほんの僅かな間合いが開いた瞬間に、二人はそれぞれ周囲の状況を認識した。
見渡せば、かつては密集し、怒号と金属音で満ちていた戦場は、嘘のように静まり返っていた。大地は赤黒く染まり、無数の兵士たちが力尽き、重なり合うように倒れている。両軍ともに、激闘の末に生き残った兵はほんのわずか。息も絶え絶えに、あるいは茫然とした表情で、地に伏せている者もいる。
董勇の周囲には、かつて彼の号令に応じ、勇敢に突撃していった兵士たちの姿はほとんど見当たらない。誇らしげに翻っていたはずの旗は地に落ち、風に寂しげにはためいている。彼の突撃を援護しようとした兵士たちは、馬超の神速の槍の前に次々と倒れていったのだ。生き残った数少ない兵士たちも、恐怖と疲労の色を濃く浮かべ、遠巻きに董勇と馬超の戦いを見守るしかなかった。彼らの瞳には、もはや攻めかかる力は残っていない。
一方、馬超の背後にも、同様の光景が広がっていた。彼の迅速な攻撃に呼応し、董勇軍に果敢に挑んでいった兵士たちも、数の優位に立つ敵軍の猛攻の前に、多くが倒れた。馬超の軽快な動きに翻弄されながらも、董勇軍の包囲網を維持しようとした兵士たちの屍が、彼の進んだ道筋に点々と横たわっている。
生き残ったわずかな兵士たちは、傷つき、疲弊しきっており、もはや戦う意思すら失いかけているようだった。彼らは、ただただ、信じる将の戦いの結末を、祈るように見守るしかなかった。
静まり返った戦場には、時折、負傷兵の呻き声や、風の音だけが虚しく響いている。かつての激しい 전투 の痕跡だけが、そこかしこに残されていた。
董勇は、肩の痛みに顔を歪めながら、その光景を क्षण的に 捉えた。
「…まさか、ここまで…」
彼の声は小さく、自分への驚きと、周囲の惨状に対する意識が入り混じっていた。
馬超もまた、太腿の傷から滲む血を感じながら、静かに周囲を見渡した。
(ここまで…か)
彼の表情には他の感情は見られなかったが、その瞳の奥にはこの戦闘の凄惨さを物語っていた。
両雄の激闘は、周囲の兵士たちの命運をも 결정づけていた。残されたのは、疲弊しきった両者ら疲労と戦い、倒れていった兵士たちの無数の屍だけだった。
静まり返った戦場に、重い沈黙が漂っていた。周囲の惨状を目の当たりにした馬超と董勇。両者ともに、このまま無益な戦いを続けても、更なる犠牲を増やすだけだと悟っていた。
先に動いたのは馬超だった。研ぎ澄まされた双眸で董勇を睨み据え、僅かに頷くと、血痕の残る槍をゆっくりと地面に突き立てた。
「今日は、ここまでとする」
その声は静かだが、確固たる意志が込められていた。深手を負った太腿を庇うように体勢を低くし、背を向け、ゆっくりと自陣へと歩き始めた。彼の後方には、生き残った僅かな兵士たちが、疲労困憊の体でよろめきながらも続いた。彼らの表情には、安堵の色と、明日への不安が入り混じっていた。
馬超の退却を見届けた董勇も、深く息を吐いた。右肩の激痛が全身に響く。それでも、彼は誇りを失わず、毅然とした態度を崩さなかった。血に染まった剛刀『飛熊』を杖代わりにしながら、辺りに散らばる自軍の残兵たちを一瞥した。
「退くぞ」
短く手勢に、生き残った兵士たちは、安堵と同時に、拭いきれない敗北感を滲ませた表情で、よろよろと立ち上がり、董勇の後を追った。彼らの足取りは重く、戦いの激しさを物語っていた。
両雄は、互いに背を向け、一言も言葉を交わすことなく、それぞれの陣へと戻っていく。
その背中には、今日の戦いの重要さと、明日へのそれぞれの思いが明るく映し出されていた。引き際において、両者ともに敵に対して弱味を見せることはなかった。それは、互いを認め合う敬意の表れでもあったのかもしれない。
夕焼け空の下、赤く染まった大地には、両軍の無数の屍が横たわり、そよ風が静かに吹き抜けていく。この激戦の結末は、この信じ難い光景の中に、深く刻まれていた。
馬超と董勇、二人の英雄の今回の戦いは思いもよらない形で幕を閉じたのだった。