第十七回 大仇得報江東喜 樹欲静而風不止
甘寧の奮戦によって、孫策軍は一時的に攻勢を止めたものの、夏口城の陥落は時間の問題であった。甘寧自身も、数々の傷を負い、満身創痍の状態であった。
「甘寧将軍、もう限界です!ここは一旦退き、態勢を立て直しましょう!」
副将の必死の進言に、甘寧は渋々頷き、残兵を率いて城内へと退却した。しかし、その傷は深く、戦線に復帰できる状態ではなかった。
甘寧が戦線を離脱したことで、黄祖軍の士気は急激に低下した。黄祖自身も、焦燥の色を隠せず、自ら軍を率いて孫策軍に当たることとした。
「孫策め!甘寧がいなくなった今こそ、貴様を討ち取る絶好の機会だ!」
黄祖は、残された兵を鼓舞し、城門を開いて孫策軍に突撃した。しかし、孫策軍の勢いは衰えておらず、黄祖軍は瞬く間に包囲され、混乱に陥った。
「黄祖!父上の仇!覚悟しろ!」
孫策は、赤き炎のような槍を振るい、黄祖軍を蹴散らしながら、黄祖へと迫る。その猛攻に、黄祖軍の兵士たちは恐れをなし、次々と逃げ出した。
「もはやこれまでか…!」
黄祖は、絶望的な状況を悟り、逃走を図ろうとした。しかし、その時、孫策軍の将、韓当が矢のような速さで黄祖に迫り、その首を槍で貫いた。
「黄祖討ち取ったり!」
韓当の雄叫びが戦場に響き渡り、黄祖軍は完全に崩壊した。孫策軍は、その勢いのまま夏口を制圧し、ついに父の仇を討ったのである。
甘寧は、城内でその様子を静かに見守っていた。黄祖の死、そして夏口の陥落。それは、甘寧にとって、自らの力の限界を痛感させられる出来事であった。
夏口での戦いで深手を負った甘寧は、劉表の庇護の下、ようやく傷を癒すことができた。しかし、劉表にとって甘寧は、かつて長江を荒らし回っていた錦帆賊の頭領であり、ただのゴロツキに過ぎなかった。
「甘寧か。夏口での奮戦は聞いたぞ。しかし、わが軍にはお前の様な粗暴な男が活躍できる場はない」
劉表は、甘寧の武勇を認めつつも、その素行の悪さから重用しようとはしなかった。甘寧は、その冷遇に深い失望を覚えた。
「劉表め…この甘寧の力を理解できぬとは…」
甘寧は、静かにそう呟き、劉表の下を離れることを決意した。彼は、かつて錦帆賊を率いていた頃からの手下たちを集め、劉表の領地を後にした。
「兄貴、どこへ行くんだ?」
「行くあてなどないさ。だが、このまま劉表の下にいても、俺たちの力は無駄になるだけだ」
甘寧は、手下たちにそう告げると、再び長江へと船を出し、新たな主を求めて旅立った。彼の胸には、かつての錦帆賊時代の誇りと、劉表への深い失望、そしていつか必ずや己の力を天下に示すという強い決意が宿っていた。
錦衣衛からの報告を受け、高順は甘寧の動向に深い関心を抱いた。甘寧の武勇は、高順もかねてより認めるところであり、彼を味方に引き入れることができれば、今後の戦局を大きく有利に導けると確信した。
「甘寧か…惜しい男を失ったものだ」
高順は、報告を聞き終えると、すぐに使者を立て、甘寧の元へと派遣した。使者には、高順の親書を持たせ、甘寧の武勇を高く評価し、高順の下へ来るように説得するよう命じた。
しかし、甘寧は高順の申し出を容易には信じなかった。
「高順だと?あの男が、なぜ俺を?」
甘寧は、使者の言葉を疑いの目で聞き返した。劉表に冷遇されたばかりの甘寧にとって、高順の申し出は、にわかには信じがたいものだった。
「高順将軍は、あなたの武勇を高く評価しており、ぜひとも配下にと望んでおられます」
使者は、甘寧の疑念を払拭しようと、必死に説得を試みた。
しかし、甘寧の心は、まだ警戒心を解いていなかった。
「俺は、かつて錦帆賊の頭領だ。そんな素性の俺を、高順が本当に受け入れるというのか?」
甘寧は、過去の自身の行いを振り返り、高順の真意を測りかねていた。
「大将軍は、過去の行いよりも、あなたの才を重んじております。どうか、一度高順将軍に会って、その真意を確かめていただきたい」
使者は、なおも粘り強く説得を続けたが、甘寧は首を横に振った。
「今はまだ、高順を信じることはできない。だが、もし高順が本当に俺の力を必要としているのなら、いずれ俺の耳にも届くだろう」
甘寧は、そう言い残すと、使者を追い返し、再び長江へと船を出し、新たな居場所を探し始めた。高順の申し出は、甘寧の心にわずかな希望の光を灯したが、同時に、彼の警戒心を強めた。
夏口城を陥落させた孫策は、父・孫堅の墓前に黄祖の首を捧げ、その勝利を報告した。
「父上、ついに仇を討ちましたぞ!黄祖の首、しかとご覧ください!」
孫策は、黄祖の首を納めた箱を墓前に置き、深々と跪いた。その表情には、長年の悲願を達成した喜びと、父への深い敬意が入り混じっていた。
母である呉夫人にも、孫策は黄祖討伐の報告をした。
「母上、黄祖を討ち取りました。父上の仇を討ち、ようやく長年の恨みを晴らすことができました」
呉夫人は、息子の凱旋を喜びつつも、夫の死を改めて悼んだ。
「策、よくやったね。お父様も、さぞかし喜んでおられることでしょう」
孫策は、盛大な儀式を執り行い、父・孫堅を偲んだ。夏口城の戦いで命を落とした兵士たちの霊を弔い、戦勝の宴を盛大に催した。
宴では、孫策は自らの武勇を誇り、父の仇を討った喜びを将兵たちと分かち合った。
「皆の者、よくぞ戦ってくれた!父上の仇、黄祖を討ち、我らはついに宿願を達成したのだ!今宵は存分に飲み、語り、勝利を祝おうぞ!」
孫策の言葉に、将兵たちは歓声を上げ、酒を酌み交わした。宴は夜遅くまで続き、孫策軍の勝利を盛大に祝った。
孫策が黄祖を討ち、江南の覇者としてその名を轟かせる一方で、孫策軍の内部では小さな波紋が広がっていた。それは、徐盛と朱然という二人の若き武将と、彼らを指揮する周泰との間に生じた軋轢だった。
徐盛と朱然は、共に若くして武勇に優れ、孫策軍の中でも将来を嘱望される存在だった。しかし、彼らは周泰の指揮下に入ることを、内心では不満に思っていた。周泰は、孫策軍の中でも古参の武将であり、その武勇と忠誠心は誰もが認めるところだったが、徐盛と朱然は、自分たちよりも若い周泰の指揮下に入ることを、誇りが許さなかったのだ。
二人の不満は、徐々に軍内に広がり始め、孫策の耳にも届くようになった。孫策は、このまま放置すれば軍の結束が乱れると考え、諸将を集めて濡須塢で盛大な宴を開くことにした。
宴の席上、孫権は突然立ち上がり、周泰に近づくと、その服を脱がせた。諸将は、何が起こったのか理解できず、戸惑いの表情を浮かべた。
周泰の体には、数々の傷跡が刻まれていた。それは、孫策を守るために受けた、数々の戦いの証だった。孫策は、その傷跡を一つ一つ指し示しながら、その由来を語り始めた。
「この傷は、私が未だ海上を駆けずり回っていた頃、敵の矢から私を庇って受けたものだ」
「この傷は、私が敵に囲まれ、絶体絶命の危機に陥った時、君が身を挺して私を救ってくれた時のものだ」
孫権は、涙ながらに周泰への感謝の言葉を述べた。
「私が今、こうして江南の覇者として君臨できるのは、偏に君のおかげだ。君がいなければ、私はとっくの昔に死んでいたかもしれない」
孫策の言葉に、諸将は深く感動し、周泰への尊敬の念を新たにした。徐盛と朱然も、その例外ではなかった。彼らは、周泰の忠誠心と武勇に改めて感服し、周泰の指揮下に入ることを心から納得した。
この一件以来、孫策軍の結束は一層強固なものとなり、孫策は江南の覇者として、その勢力を拡大していくのだった。
高順は、龐徳、閻行、成公英らを歓迎し、彼らの才能を高く評価した。しかし、彼らを自身の配下とするのではなく、洛陽に留め置かれている馬騰の下へと送り込んだ。
「馬騰殿は、西涼の地を熟知し、多くの人望を集めておられる。そなたたちの力は、きっと馬騰殿の役に立つだろう」
高順は、そう言って、龐徳、閻行、成公英らを馬騰に引き合わせた。馬騰は、息子・馬超の配下であった彼らを快く迎え入れ、自身の配下とした。
「大将軍の計らい、感謝する。そなたたちの力、存分に貸してくれ」
馬騰は、龐徳、閻行、成公英を高く評価し、彼らを信頼した。
成公英は、馬騰の護衛役を務めた。龐徳、閻行は馬騰を支えた。
高順のこの計らいは、馬騰を懐柔し、西涼の安定を図るためのものであった。龐徳、閻行、成公英らを馬騰の配下に置くことで、馬騰に恩を売り、彼を味方に引き入れようとしたのだ。
馬超は、龐徳、閻行、成公英らが馬騰の配下となったことを知り、激怒したが、もはや彼らを追いかける力は残っていなかった。彼は、孤独と絶望の中、復讐の機会を待ち続けることとなった。
西涼の土地は、暫くの間、朝廷の管理下に置かれ、刺史は置かれず、司隷校尉が管理することとなった。
「長年の戦乱で荒れ果てた西涼を、再び人の住まう地に…」
高順は、荒涼とした西涼の地を前に、深く息を吐いた。
「まずは民の生活を安定させねば。食料と住居の確保、そして治安の回復が最優先だ」
高順は、そう呟き、早速行動を開始した。
「兵たちよ、まずは民に食料を配給する。家を失った者には、仮の住まいを建ててやるのだ」
高順の指示の下、兵たちは食料や資材を運び、困窮した民たちに分け与えた。
「ありがとうございます、大将軍…!」
「これで、ようやく飢えずに済みます…!」
民たちは、高順の施しに涙を流して感謝した。
「盗賊どもは、容赦なく討伐せよ。民を苦しめる者は、誰であろうと許さん!」
高順は、治安の回復にも力を注いだ。盗賊たちは次々と討伐され、西涼の治安は徐々に回復していった。
「大将軍のおかげで、安心して暮らせるようになった…!」
「大将軍は、我らのために力を尽くしてくださる…!」
民たちは、高順を信頼し、その働きに感謝の言葉を述べた。
「馬騰殿、力を貸していただきたい。西涼の復興には、あなたの力が必要不可欠です」
高順は、馬騰にも協力を仰いだ。
「高順将軍、私にできることなら何でも協力しましょう。西涼の民のため、共に力を尽くしましょう」
馬騰は、高順の要請を快く受け入れ、西涼の有力者たちとの繋がりを活かし、復興事業を支援した。
「高将軍と馬将軍のおかげで、西涼は再び活気を取り戻しつつある…!」
「二人の力を合わせれば、必ずや西涼は再び豊かな土地となるだろう…!」
民たちは、高順と馬騰の連携に希望を抱き、復興への道を共に歩み始めた。
「しかし、まだ課題は山積みだ。完全な安定には、まだまだ時間がかかるだろう…」
高順は、そう呟き、西涼の復興に全力を尽くすことを誓った。
高順は西涼の復興に尽力する一方で、頭を悩ませる問題があった。それは、董卓の孫であり、妻の董媛の甥にあたる董勇の存在である。
董勇は、董卓の血を引く若者でありながら、その性格は粗暴で傲慢、周囲に横暴な振る舞いを繰り返していた。高順は、董勇の素行の悪さを度々耳にし、彼が西涼の治安を乱すことを懸念していた。
「董勇か…。あの男、また何か問題を起こしたのか…」
高順は、部下からの報告を聞き、深くため息をついた。
「はい、高順様。董勇は、町の住民に暴行を働き、金品を奪ったとの報告が…」
「またか…。このまま放置すれば、西涼の民からの信頼を失いかねない」
高順は、董勇の行動を黙って見過ごすことはできなかった。しかし、董勇は妻の甥であり、安易に罰することも憚られた。
「董勇を呼び出し、厳しく叱責する。それでも改心しないようなら、しかるべき処罰を下すしかない」
高順は、そう決意し、董勇を呼び出した。
「董勇、貴様の素行の悪さは、私の耳にも届いている。西涼の民を苦しめるような真似は、二度と許さん」
高順は、董勇を厳しく叱責したが、董勇は全く反省の色を見せなかった。
「うるせぇよ!俺は董卓の孫だ。貴様のような三下に指図される覚えはない」
董勇の傲慢な態度に、高順は怒りを覚えた。しかし、ここで感情的になっても事態は悪化するだけだと考え、冷静に言葉を続けた。
「董勇、貴様の行いは、西涼の治安を乱し、民を苦しめている。もし、貴様がこのまま改心しないのであれば、私は貴様を処罰せざるを得ない」
高順の言葉に、董勇は初めて恐怖の色を浮かべた。しかし、それでもなお、その傲慢な態度は変わらなかった。
「貴様ごときが、この俺を処罰できるとでも思っているのか?」
董勇の言葉に、高順は静かに首を横に振った。
「俺は、大将軍として西涼の安定のためならば、誰であろうと容赦はしない。たとえ、それが私の妻の甥であろうとも…」
高順の言葉に、董勇は完全に言葉を失った。高順の目は、本気であった。
高順は、董勇を厳しく処罰し、その悪行を西涼の民に知らしめた。これにより、西涼の治安は一時的に安定を取り戻したが、高順の心には、新たな火種が生まれたことを予感させるものが残っていた。