第十二回 四面拒敵諸将帰 借刀殺人子弑父
董卓の罵声が、広壮な相国府の正殿を震わせた。その重々しくも荒々しい声は、かつて涼州の地で羌族と酒を酌み交わし、荒くれ兵たちを率いた若き日の豪傑の名残をわずかに留めていたが、今や肥満と驕慢で濁りきっていた。
「なぜ孫堅を討ち取らんのじゃぁ!この、この馬鹿者めがぁ!」
張済、華雄が武関から引き上げてきた報告を聞き終えた直後だった。董卓の巨大な体躯が玉座から立ち上がり、豪華な絹衣をまとった腹が波打つ。脂汗が肥満した頬を伝い落ち、細い目が怒りに赤く染まっていた。
「左様ですぞ!華雄殿、討ち取れば我らも今頃は洛陽に戻っておったのに……」
側に控える取り巻きの一人、董璜が声を潜めて、しかし確実に董卓の耳に入るように囁いた。他の側近たちも、声を合わせるようにして華雄を非難し始める。空気が重く淀んだ。
華雄は玉座の前で深く頭を垂れ、顔を上げようとしない。額の汗が冷たく垂れ、石畳に滴り落ちる。武関の激闘、孫堅軍の執拗な抵抗、張繍の殿軍としての奮闘……それらすべてが、この一喝の前で霞んでしまう。
「申し訳ございませぬ。某の力不足故に……」
「力不足だと!? 力不足で済むことか!」
董卓が唾を飛ばして怒鳴り返した。
「負けておったらお主の首を刎ねておるわ!もうよい!下がれ!」
華雄は一言も反論せず、ひたすら頭を下げたまま後退した。退出する背中が、屈辱と虚脱感で縮こまっているように見えた。背筋に走る冷たい戦慄。あれが、自分が命を懸けて仕えてきた相国か? かつて涼州で、荒々しくもどこか大らかな度量を見せ、配下の武勇をこそ愛した董卓は、いつからこんなに歪んでしまったのか? 華雄の胸中には、過ぎ去った日々への郷愁と、今この場に蔓延る腐敗した空気への嫌悪が入り混じった。
俺が賈詡の離間の計を阻止しようと西涼で動いていた頃、馬騰や韓遂ら西涼軍閥は、当初は董卓討伐に加わる気配だった。しかし、郭援という小物の造反が起きると、たちまち矛先を変え、董卓より目の前の敵を叩くことを優先した。その結果、高順の精鋭部隊に完膚なきまでに叩き潰され、馬騰の息子馬超は重傷を負い、腹心の龐徳も敗残兵をまとめるのが精一杯という有様だったらしい。西涼の雄たちの、なんとも小賢しい打算。華雄の耳にも、その報せは届いていた。この連中の三文芝居が、武関の戦局にどれほどの影響を及ぼしたかはわからぬが、結局は烏合の衆に過ぎなかったのだ。
一方、武関で敗れはしたものの、骨の髄まで武人である孫堅は、すぐさま軍を立て直してもう一戦を挑もうとしていた。その意気込みは、彼の軍旗が翻る場所からでも伝わってくるようだった。しかし、その熱意は袁術によって容赦なく打ち砕かれる。
「文台兄、ここに最早用は無い」
袁術の声には、常に鼻にかかったような高慢さが滲んでいた。彼は丹水方面を指さし、涼やかに言い放った。
「ここは丹水まで下がり、様子を見よう!なに、妾腹の兄上が破れたのでな、その尻を拭かねばなるまい?」
袁術の口から飛び出した「妾腹の兄上」という言葉は、孫堅にとって鋭い針のようだった。袁紹のことだ。反董卓連合軍の盟主でありながら、袁術が最も軽蔑し、敵視する異母兄である。その袁紹が、曹操と共に董卓軍主力との戦いで大敗を喫した報せが、ちょうど届いたばかりだった。袁術の言う「尻拭い」とは、その敗戦で空いた穴を埋めるため、孫堅の力を温存せよということに他ならない。
孫堅の顔が一瞬、強張った。歯を食いしばり、拳を握りしめる手の甲に青筋が浮かぶ。武関の前で、あと一歩のところまで追い詰めながら逃した董卓軍への無念。しかし、主君として立てる袁術の命令は絶対だった。
「……承知した」
かすれた声でそう答えるのが精一杯だった。悔しさが喉元まで込み上げてくるのを必死に抑え、孫堅は軍配を振るった。豫州の兵たちは、主将の無念を背に受けながら、袁術軍と共に丹水へと向かって退いていった。
こうして、かつては董卓という共通の敵に向かって結束していたかに見えた反董卓連合軍は、その内側から確実に崩れ始めていた。袁紹派と袁術派の対立は最早修復不可能なほどに深まり、盟主袁紹自身の敗北は、多くの諸侯に「董卓を撃ち破るのは夢物語」という諦念を植え付けた。孫堅が治める豫州の地を巡っては、袁紹が派遣した周喁、周昂、周昕らと袁術・孫堅の間で激しい争奪戦が繰り広げられ、両袁氏の対立は決定的となった。連合軍は名実ともに瓦解し、群雄たちはそれぞれの野心に従って領土を拡げ、袁紹と袁術という二大勢力を軸に、新たな群雄割拠の時代へと突入していったのだった。
揚州では孫堅が鋭い爪を研ぎ、豫州の袁術は玉座を窺い、兗州の曹操は虎視眈々と機会を狙い、荊州の劉表は静観の構え。混乱に乗じて冀州と青州を手中に収めた袁紹、益州の劉焉、徐州の陶謙、幽州の公孫瓚…。そして、司隷、并州、涼州を固く掌握した董卓。大陸は、幾つもの牙城に分裂した。
洛陽の宮城、威儀を正した文武百官が見守る中、董卓の手による論功行賞が粛々と進められていた。武関の戦い、そして西涼での反乱鎮圧の功績に対する報いである。
「牛輔、臨洮侯、鎮国大将軍に任ず!」
「徐栄、襄平侯、上将軍に任ず!」
「李粛、槐侯、鎮西将軍に任ず!」
「呂布、温侯、前将軍に任ず!」
「高順、晋陽侯、衛将軍に任ず!」
「董璜、中軍校尉に復職!」
「樊稠、関内侯、中郎将に任ず!」
「張済、宛侯、安南将軍に任ず!」
「李傕、官職据え置き!」
「郭汜、関内侯、征西将軍に任ず!」
「賈詡、軍師将軍に任ず!」
「華雄、関内侯、左将軍に任ず!」
「張遼、并州牧、雁門侯に任ず!」
読み上げられる名と、それに続く輝かしい爵位や官職名。広間には、それぞれの武将の、満足げでありながらも緊張した空気が漂う。ほとんど全員が昇進、あるいは恩賞を受けている。武関で敗戦の責を負わされた華雄でさえ、左将軍という高位に引き上げられていた。董卓の苛烈な叱責は現実だったが、その実力はやはり無視できないと評価された形だ。
その中で、一人だけ異様に浮いていた。董旻。董卓の実弟である。彼は列の後方に立っていたが、読み上げが終わっても自分の名が呼ばれることはなかった。むしろ、宦官の高く響く声が宣告した。
「董旻、全ての官職を剥奪し、庶人に落とす!」
一瞬、水を打ったような静寂が広間を覆った。董旻の顔から一気に血の気が引き、蒼白になった。周囲からは、驚きと同情、そして密かな嘲笑の視線が注がれる。董卓は玉座から弟を一瞥したが、その目は氷のように冷たかった。些細な失敗が、血縁の情すらも吹き飛ばす苛烈な現実。史実では、呂布が温侯に封ぜられたのは董卓を暗殺した功績によるものであり、軍功ではなかった。この異変も、董卓が死なず、歴史の流れが大きく変わってしまった故の産物なのかもしれない。俺は列の端で、その光景を冷ややかに観察していた。董卓が死なないルートになってるじゃないか! それはさておき、王允はいつになったら動くんだろうか?じれったいほどの静観ぶりだ。
その疑問が頭をよぎったまさにその時だった。退廷の後、俺を呼び止めたのは王允その人だった。老人の細い目が、深い皺の奥で鋭く光っている。
「高将軍、少々お願いが…」
王允は周囲を見回し、声を潜めた。その内容は、思わず耳を疑うものだった。呂布が何者かを監禁している、咎めに行ってくれ、と。無茶な頼みだ。相手は呂布だぞ? しかし、王允の目には、拒否を許さない強い意志が宿っていた。
仕方なく、俺は呂布の屋敷へと足を向けた。重厚な門の前で、武装した門番が行く手を阻む。
「前将軍はいらっしゃるか?」
門番は一瞬、狼狽したような表情を浮かべた。
「はっ!今、取り込み中でして…」
取り込み中? 呂布が何か重要な軍務に当たっているのか? ならば邪魔はできない。
「左様か、ならば失礼する」
そう言って踵を返そうとしたその時、門の内側から、かすかに聞き取れる女の悲鳴と、呂布の低い唸り声のようなものが聞こえた気がした。危険な匂いがプンプンする。**門番の言葉を聞いて帰ればよかったと、心から後悔した。** しかし、後の祭りだった。
「高将軍!助けてください!」
突然、門の脇の小窓から、侍女と思しき若い女の顔が現れ、必死の形相で叫んだ。
「我らが殺されます!お願い、助けて!」
「安心せよ、取り計らってやる」
俺は思わずそう口に滑らせ、同時に自分の軽率さを呪った。大人二人して『取り込み中』だったんだから…。 まさか、呂布が女絡みで「取り込み」中だったとは。踏み込んだ泥沼に足を取られる予感しかしなかった。
結局、門を押し開けて中に入る羽目になった。応接の間にはおらず、奥の居室へと案内されると、そこには想像通りの、いや、想像を超える光景が広がっていた。呂布が、一人の美しい侍女を腕の中に抱き締め、抵抗する彼女の口を押さえつけようとしている。その傍らには、もう一人、恐怖で震える侍女がいた。呂布の顔は欲望に歪み、目は血走っている。
「将軍、急ぎ出られよ」
呂布は振り返り、俺の姿を認めると、一瞬苛立ったような、しかしどこか気まずそうな表情を浮かべた。腕の中の侍女を離す素振りもない。
「孝父、何用か?」
「王司徒に頼まれましてな」
呂布の眉がピクリと動いた。王允の名は、彼にとって特別な意味を持つらしい。
「なるほど、それで?」
「連れて帰ります」
俺は、震えているもう一人の侍女を指さした。呂布の目が鋭く光った。
「貴様にできると思うか?」
「太師に頼みます」
俺は即座に返した。董卓の名を出せば、さすがの呂布も無下にはできまい。呂布の顔に一瞬、躊躇いと屈辱の色が走った。彼は深く息を吸い込み、ようやく侍女の腕を離した。
「……良かろう。連れてけ」
侍女は一目散に俺の背後に逃げ込んだ。しかし、呂布は最初に抱き締めていた美しい侍女の方を再び見つめ、未練たっぷりに言い足した。
「此方は?」
「太師府の侍女だ。見初めて連れて帰った」
お前は馬鹿なのか!? いい年こいた大人が、他人の家の侍女を『お持ち帰り』すな!クソボケェ! 内心、怒鳴りたくなるのを必死でこらえた。太師府の侍女? 董卓の所有物に手を出すとは、呂布の度胸も大概だ。しかし、その瞬間、ある可能性が閃いた。ん?待てよ、この状況はよくよく考えたら董卓が死ねるぞ!ヤッホーイ!呂布よ、お前が馬鹿で助かったぜ!まさに美女連環の計の始まりではないか。この侍女こそが、王允が仕込んだ貂蝉かもしれない。いや、おそらく間違いない。
「では、旧知の誼で一つご忠言をさせて貰います」
呂布の眉間に深い皺が刻まれた。
「……言うな」
「もう一人いらっしゃるのであれば」俺は呂布が未練を残している美しい侍女を指さした。「差し出した方が良いかと……」
「……貴様ァ……!」
呂布の目が真っ赤に染まり、今にも飛びかかってきそうな殺気が迸った。しかし、俺は引かなかった。
「奉先将軍、今はまだ将軍の天下に非ず。どうか堪えられよ」
その言葉が、呂布の何かを揺さぶったらしい。彼は天井を見上げ、歯を食いしばり、苦渋の表情を浮かべた。かつて丁原を殺して董卓に鞍替えした時のように、主君を裏切る可能性が頭をよぎったのだろうか。彼は無言でうつむき、拳を握りしめたまま、ようやく絞り出すように言った。
「連れてけ……」
何だよ、その未練タラタラな顔は……。俺は内心で呆れながらも、呂布が差し出した侍女の方に目をやった。初めて間近で見るその顔は、確かに驚くべき美貌だった。肌は雪のように白く、瞳は漆黒の宝石のよう。この乱世にあっては、禍の元としか言いようのない美しさだ。確かに綺麗であるのは、この時代に限るが……。命知らずの呂布でさえ、これほど未練がましいのも無理はない。
その日、俺は震えながらも端麗な顔を保つ侍女を連れ、王允の屋敷へと向かった。王允は門前で待ち構え、侍女が無事であるのを確認すると、深々と俺に礼を言った。その目には、計画が順調に進んでいるという安堵と、何かを達成したような鋭い光が宿っていた。
時は流れ、数日後。王允は董卓を自邸に招いた。何やら密談があると称して。そして、その席上、あの侍女貂蝉を董卓に献上したのだ。その報せを聞いた呂布の怒りは、想像を絶するものだった。彼は王允の屋敷に怒鳴り込み、剣を抜いて問い詰めようとした。
「司徒!そなたの娘を、太師が奪いおったとは何事だ!約束はどうした!」
王允はわざとらしく驚き、悲しみにくれるふりをした。
「なんと…!太師が、わが娘を…?まさか!太師はわが娘を将軍に娶わせると、確かに仰せではありましたが…」
「あの老賊は貂蝉を独り占めしたのだ!」呂布の声は怒りに震えていた。「今更この俺に与えるなど到底無理な話だ!司徒はそれを見逃すつもりか!」
王允は深く溜息をつき、狡猾な目を光らせながら言った。
「太師は我が娘を穢し、貴方の妻を奪いました。誠に天下の笑い者ですな!いやいや、決して太師を笑っているわけではございませんぞ、天下が笑っているのはこの老骨と将軍でしょうな!しかし、儂は歳を重ねており、今更笑われようと動じるものはございませぬ…」
王允は言葉を切ると、わざとらしく呂布をじっと見つめた。
「惜しいかな、将軍は蓋世の英雄でありながら、このような屈辱を受けるとは…!」
「ぐぬぬっ…!」
その言葉は、呂布のプライドをズタズタに引き裂くには十分すぎた。彼の目に、理性の光が消えた。代わりに、狂気じみた殺意が渦巻く。
「あの老賊を殺すことで我が恥を雪ぐ!ここに誓ってやる!」
「おお…!将軍、そのお言葉こそ真の英雄のそれ!」
王允の目が一瞬、勝利の輝きを宿した。毒は確実に埋め込まれた。二人の間に決定的な亀裂が走り、修復は不可能となった。
現代風に言うと、貂蝉は董卓とは夫婦、呂布とは恋人同士だ。…まるで韓国ドラマか!** 俺は内心でツッコミを入れつつ、呂布が延々と愚痴をこぼすのを聞かされる羽目になった。高順や張遼ら并州の仲間は、丁重に避けているらしい。なんだよ、このみんなが打ち上げに行ってるのに俺だけ残業みたいなシチュエーションは…。 呂布の怒りと悲しみ、屈辱にまみれた独白は、いつ果てるともなく続いた。
しかし、美女連環の計がここまで進んだのなら、あとは王允が仕掛けるだけだ。確かこの後、董卓は呂布に殺され、配下は王允に恭順するが、王允はそれを許さずに徹底的な粛清に走る。皇帝すら危険に晒す、とんでもない老獪な男だ。
董卓の太師府。呂布の心は焦りと恐怖でいっぱいだった。奥御殿にいる貂蝉に会いたい。しかし、董卓の目を盗まねばならない。ある日、董卓が朝廷での議論に招かれた隙を見計らい、呂布はこっそりと太師府に潜入した。警戒の目をかいくぐり、ようやく貂蝉がいる部屋にたどり着く。
「貂蝉よ…!」
「奉先様…!」
貂蝉は呂布の胸に飛び込むと、涙を堰き止めることができなかった。その美しい顔は悲しみに歪み、涙が玉の首筋を伝い落ちる。
「どうかお助けください…!この身は花のようにはかなく、玉のようにはかないのに、あの…あの董卓という老賊の下で、虐げられております…」
呂布は胸を締め付けられる思いだった。
「許さん…!必ず…!」
貂蝉は涙に濡れた瞳を呂布に向け、三つの苦しみを絞り出すように訴えた。
「一つには…わたくしの力の無さゆえに、あの老賊に抗うことも叶わぬこと」
「二つには…この身は一つしかなく、奉先様と常に共に居られぬこと」
「三つには…」貂蝉の声が強くなる。「奉先様が、天下無双の武勇を持ちながら、それに見合うお覚悟が足りず、愛する女一人すら救い出せぬこと!」
「っ…!」
その言葉は、呂布にとって鋭い刃となって胸深く突き刺さった。彼は俯き、拳を握りしめて震えた。屈辱と自責。貂蝉の言うことは、すべて正しかった。
「…わかっておる…」
呂布の心に、冷たい殺意が渦巻き始めた。董卓への憎悪が、沸騰する熔岩のように心の奥底から噴き上がってくる。彼は貂蝉を抱きしめ、時が経つのも忘れて、その肌の温もりと涙の味に浸っていた。
その甘くも危険な時間は、永遠には続かなかった。
「奉先!何をしておるか!」
雷のような怒声が、部屋の扉を叩きつけたように響いた。董卓が立っていた。彼の巨大な体躯が怒りで膨れ上がり、細い目が呂布と貂蝉を捉えて燃え上がっている。
「た、太師!」
呂布は思わず貂蝉を離し、後ずさった。董卓の顔は怒りで真っ赤に染まり、血走った目は狂気の色を帯びていた。
「此度は申し訳ございませんでした!」
「貴様ァ!」
董卓は傍らにあった装飾用の手戟を掴むと、怒りに任せて呂布めがけて投げつけた!呂布は反射的に身をかわした。手戟が風を切り、呂布の耳元をかすめて壁に突き刺さり、柄がぶるぶると震えた。
「太師、落ち着かれよ!」
間髪入れず飛び込んできたのは、軍師李儒だった。彼が董卓の腕を必死に押さえつける。
「なぁにぃ!?貴様、これを見てどう落ち着けと言うのじゃ!貴様ら文人の言葉を借りると、父を殺した仇、妻を奪う恨み、同じ天を共に戴かんと言うであろうが!」
「しかし、それも時と場合によります!」李儒は冷静に、しかし強く言い放った。「太師は女子一人のために天下を放棄なさるのですか?女子一人ならば賞として与えれば良いではありませんか!」
董卓の怒りに染まった顔に、一瞬、迷いが走った。李儒の言葉が、彼の野望を直撃したのだ。
「うむ……、それもそうだな」
董卓の声のトーンが、わずかに下がった。巨大な体を揺らしながら、呂布を睨みつける。
「奉先、怒鳴りつけて悪かった。今日の護衛はもう良い、その侍女を連れて下がれ」
「はっ、誠に申し訳ございませんでした…」
呂布は深く頭を下げ、素早くその場を離れた。背中には董卓の冷たい視線が刺さっていた。この屈辱は、決して忘れぬ。
ちょうどその時、太師府に董卓への決裁を求める書簡を持って訪れていた李粛が、遠くからこの一部始終を目撃していた。彼の薄い唇が、わずかに歪んだ。
「ふふふ…何と嘆かわしいことだ。我々はあの女どもに踊らされて滅ぶと言うのか…」
李儒もまた、董卓をなだめながら、全く同じことを考えていた。彼の冷徹な頭脳は、王允の策謀と、その中心にいる貂蝉の危険性を看破していた。しかし、董卓の耳には、今は届かない。
董卓は、部屋に残された貂蝉の方を向いた。怒りは収まっていない。
「なぜ、呂布と密通しておった?」
貂蝉は即座に、女の最強の武器を発動した。大粒の涙が、長い睫毛から玉のようにはらはらとこぼれ落ちる。彼女は震える声で訴えた。
「奴家は元々、庭にある花を見ておりました。そしたら、いきなり呂将軍が奴家に無理やり抱きつき、やりたい放題しておりました。幸い太師がちょうどいい時に現れてくださいました。そうでなかったらと思うと…」
「そうか」
董卓の目が細くなった。疑いが完全に消えたわけではない。
「そこで一つ考えがあるのだが……お前を呂布に与えようと思う、どうか?」
これは明らかな試しである。貂蝉の真意を探る罠だ。それを察した貂蝉の反応は、ドラマティックそのものだった。彼女の顔から一気に血の気が引き、絶望の色が広がる。そして、突然、董卓の寝室の壁に掛けてあった装飾用の剣に走り寄り、鞘から鋭い刃を引き抜いた!
「……わかりました……!」
「おぉ〜!待て待て!」
「太師様に不義を疑われては生きて行けませぬ…!」
董卓は慌てて飛びつき、貂蝉が自らに刃を向けるのを必死に押さえつけた。剣が床に落ち、鈍い音を立てた。
「これはわしが悪かった!すまぬ!許せ!」
董卓は本気で慌てていた。この美貌を損なってはならぬ。彼は必死に貂蝉を抱きしめ、慰めた。その日の内に、董卓は重大な決断を下した。長安を離れ、堅固な要塞である郿塢城に移ることにしたのだ。百官はその行き先の変更に驚きながらも、董卓の威光の前ではただ拝送するしかなかった。
こうして、董卓と呂布の間に深く刻まれた溝。その報せを聞いた王允の老いた目に、ついに「好機到来」の確信が灯った。漢王朝に忠誠を誓う丞相王允は、董卓の専横を心の底から憎んでいた。彼は静かに、しかし確実に、最後の一手を準備し始めた。
王允と呂布は、同じ并州の出身という絆があった。その同郷の誼を利用し、王允は以前から呂布に様々な便宜を図り、信頼を得ることに成功していた。呂布の方も、粗暴ながらも、この老賢人をある種の父親のように慕う節があった。その関係性こそが、王允の計画を可能にしたのだ。
歴史が歪んだこの年、王允の懇願と約束を受け入れた呂布は、懐に詔書を隠し、自らの手で董卓を討つ決意を固めた。詔書があれば、それは帝の命令。謀反ではない。
長安城外、郿塢城へと向かう董卓の大行列を見送る高台に、一人の男が立っていた。呂布である。彼は無言で、土煙を上げて遠ざかっていく隊列をじっと見つめていた。その瞳には、複雑な感情が渦巻いていた。かつて、丁原を殺し、この男に仕えた日のこと。武人としての誇りと、父と慕った男への恩義。そして今、その男に奪われた女への激しい愛憎。怒りと悲哀が入り混じり、胸中は煮えたぎるようだった。
「なぜため息を吐くのか?」
背後から聞こえたのは、王允の声だった。呂布は振り返らず、遠くに消えていく塵煙を指さした。
「司徒の娘、貂蝉嬢のためですよ。為す術なく董卓に奪われました」
王允はわざとらしく驚きの声を上げた。
「董卓は将軍と貂蝉を結ばせるはずでは?!」
「あの老賊は貂蝉を独り占めしたのだ!」
呂布の声が怒りに震えた。
「今更この俺に与えるなど到底無理な話だ!」
王允は深く溜息をつき、哀れみと義憤に満ちた口調で言った。
「太師は我が娘を穢し、貴方の妻を奪いました。誠に天下の笑い者ですな!いやいや、決して太師を笑っているわけではございませんぞ、天下が笑っているのはこの老骨と将軍でしょうな!しかし、儂は歳を重ねており、今更笑われようと動じるものはございませぬ…。惜しいかな、将軍は蓋世の英雄でありながら、このような屈辱を受けるとは…!」
「あの老賊を殺すことで我が恥を雪ぐ!」
呂布の怒声が天を衝いた。
「ここに誓ってやる!」
王允の目が一瞬、鋭く光った。彼は計画を三段階に分けて呂布に伝えた。
第一段階、郿塢城に偽の詔を届け、董卓を長安に呼び戻す。
第二段階、宮中に伏兵を配置し、呂布自らが董卓を討つ。
第三段階、董卓配下の西涼軍団を、徹底的に粛清する。
最も肝心なのは第一段階。董卓を騙して長安に呼び戻さねば始まらない。その使者として王允が選んだのは、李粛であった。彼は董卓の古参配下でありながら、呂布と同じ并州出身という縁があった。呂布を董卓陣営に引き入れた張本人でありながら、その功績に見合う地位を得られず、密かに不満を抱いている。その不満を利用するのだ。
「李粛殿、如何かな」
王允の屋敷で、密かに呼び出された李粛は、王允の提案を聞いて薄く笑った。
「ふむ…司徒殿はわたくしを、死地に送り込もうとなさる?」
「死地などではござらぬ」王允は静かに言った。「むしろ、新たな天下への扉を開く役目とお考えいただきたい」
李粛の目が、冷たく光った。彼は董卓の気性をよく知っていた。この役目は危険極まりない。しかし、成功すれば、今の不遇な地位からのし上がるまたとない機会でもある。長年の鬱屈が、危険を冒す
決意へと変わる。
「…引き受けましょう」
数日後、李粛は郿塢城に到着した。董卓は豪華な部屋でくつろいでいた。
「ご報告致します」
李粛は深々と頭を下げ、最も誠実な表情で言い放った。
「陛下曰く、『大病を患って以来、朝政はすべて太師によって運営されており、今、病は癒えたが、朕には天下を治める気力がなく、大位を太師に禅譲しよう』と心をお決めになられました」
一瞬の沈黙。そして、董卓の巨大な体躯が揺れ、爆笑が部屋に響き渡った。
「ハァッはっはっはっ!儂が帝と称すれば、其方には執金吾を奉ずるぞ!」
董卓の目は、玉座を目前にした男の欲望に輝いていた。禅譲。彼が密かに夢見てきた頂点。さらに、この機会に高順ら実力者たちの力を削ぐこともできる。一石二鳥だ。
「はっ!臣、詔を領し、その恩を謝罪します!」
李粛は即座に臣下の礼を取った。内心では、計画の第一歩が成功した安堵と、董卓の愚かさへの嘲笑が渦巻いていた。
長安へ向かう前、董卓は九旬の老母に別れを告げに行った。
「この頃、なぜか身体が落ち着かないのよ。何か悪いことでも起こりそうね…」
老母の不安げな言葉を、董卓は笑って退けた。
「母ちゃんよ、あんまし気にすんでくれねぇよ。なぁに、事を終わらせりゃすぐ帰ってくるよ!」
腹心の李傕、郭汜、張済、樊稠らを郿塢城の守備に残し、董卓は護衛を引き連れ、長安へと凱旋するかのような気分で出発した。
翌日未明。長安の街は未だ暗く、董卓の大行列が宮城へと向かっていた。威風堂々たる儀仗隊、重々しい車輪の音。董卓は豪華な車中に座り、帝王となる未来を夢想していた。
その時、忽然と道端に一人の男が現れた。青い袍に白い頭巾、手には長い竿。竿の先には、上等の白布が約一丈垂れ下がり、両端にはそれぞれ『口』の字が書かれていた。
「あれはなんだ?」
董卓が眉をひそめて李粛に問う。李粛は一瞥し、涼やかに答えた。
「あれはイカれた者でございましょう」
「邪魔だ、追い出せ!」
兵士が駆け寄ると、男は飄々と立ち去った。何か不吉な予感が董卓の背筋を走ったが、すぐに消えた。帝王となる自分の運命を、誰が阻めようか。
宮城北掖門。群臣が道の両側に整列し、恭しく董卓の車駕を迎えている。李粛は車の側を歩き、その手には何やら包んだ細長いものを握りしめていた。宝剣である。
門をくぐり、宮廷の広場へと入った時、董卓は異変を感じた。王允、黄琬、士孫瑞ら重臣たちが、それぞれ剣を手にしているではないか。
「李粛、何じゃ? 何故彼らが剣を…?」
李粛は答えず、ただ車をさらに押し進めた。その沈黙が、董卓に不気味な予感を走らせた。
「逆賊がここに居るぞ!衛兵はどこか!?」
王允の鋭い叫び声が、朝もやの中に炸裂した。
次の瞬間、両側の建物の陰から、二百人余りの武装兵が怒涛のごとく躍り出た!剣戟の刃が朝日にきらめき、一斉に董卓の車駕めがけて殺到する!
「ぬわっ!?」
董卓は唖然としたが、武人の本能が体を動かした。車駕から飛び降りる!襲いかかる兵士の槍が、董卓の豪華な衣装を貫こうとする。が、鋭い金属音と共に、刃は跳ね返された。衣装の下には、分厚い綿襖甲が隠されていたのだ!
「無駄な真似よっ!」
董卓も怒り狂い、護衛の持つ刀を奪い取ると、斬りかかる兵士を何人も斬り伏せた。しかし、数に勝る伏兵の波は止まらない。四方八方から槍や戟が突き出される。董卓は必死に防ぎ、肩に一撃を受けて唸り声を上げた。恐怖と怒りが入り混じった叫びが、広場に響いた。
「息子の奉先はどこじゃあ!孝父!早くこの父を助けんか!」
その呼びかけに応えるように、一人の巨漢が、壊れた車駕の陰から悠然と姿を現した。呂布である。左手には愛用の戟、右手には黄絹の詔書が握られている。その眼光は、かつての主君を射すくめるように冷たかった。
「天子の詔を奉り、逆賊を討つ!」
呂布の声は、広場全体に響き渡る。
「そのほかの者らは不問とする!」
「ぬぁにぃ!?おのれぇ……!謀りおったな!?」
董卓の顔が、恐怖で歪んだ。彼は必死に周囲を見渡した。高順の姿はない。
「孝父……?孝父!はよ出てよ!」
しかし、返答はなかった。
高順は決起の日を知っていたからこそ、配下の軍をすべて長安の防衛に配備し、あえてこの場には現れなかった。
彼は、董卓と呂布、どちらにも与さない選択をしたのだ。
「董卓、今日がお前の最期だ!」
呂布の叫びと共に、広場にいた文武百官の多くが一斉に声を上げた。董卓への憎悪が爆発した瞬間だった。
「逆賊董卓を討てーっ!」
呂布は巨体を一気に躍らせた。手にした戟が、太陽の光を反射して一閃する!そのあまりの速さに、董卓は避ける間もなかった。
「ぐはっ…!」
戟の穂先が、董卓の太い首筋を鮮やかに貫いた。血しぶきが朝日に輝く。巨大な体躯が、ゆっくりと後ろに倒れ込む。
「ぐぐっ…お、おのれ…呂…布…」
董卓の目玉が、信じられないというように見開かれ、呂布を睨みつける。その目に、かつての義父への情など、微塵も見えなかった。呂布の目は、憎悪と解放感で燃えていた。
「はあっ!」
李粛が飛び出し、手にした宝剣を振り下ろした!董卓の首が、胴体から見事に切り離され、血潮を噴き上げながら石畳を転がった。
静寂が広場を包んだ。そして、次第に湧き上がる、安堵と解放感に満ちた声。呂布は偽の封禅台の上に躍り上がり、血塗られた戟を高々と掲げて叫んだ。
「董卓の暴虐を助けたのはすべて李儒である!捕らえてくる者はおるか!」
「この、李粛めにお任せあれ!」
呼応するように、北掖門の方向から声がかかった。李儒の屋敷の使用人だった。彼らはすでに、主人を縛り上げていた。
「連行せよ!」
王允が厳命した。
「市井に引きずり出し、斬首に処す!」
さらに王允の命令は続く。
「呂布、皇甫嵩、李粛!兵五万を率い、董卓の邸宅を包囲せよ!財宝を没収し、一族を捕らえよ!」
郿塢城もまた、包囲攻撃を受けた。董卓の九十歳の老母、弟の董旻、甥の董璜ら、血縁者と見なされた者は、容赦なく捕らえられ、長安の市街で次々と処刑されていった。富と権力の象徴であった郿塢城は、財宝を略奪され、一族の血で染まった。
霸業成時為帝王,不成且作富家郎。誰知天意無私曲、都塢方成已滅亡。
(覇業成る時は帝王と為り、成らざれば且つ富家郎と作る。誰か知らん天意私曲無きを、都塢方に成りて已に滅亡す)
董卓の一生を超訳すればこうなる。貧しい農家に生まれ、若き日は侠客として羌族と交わる。やがて軍門に投じ、勇猛さと狡猾さで頭角を現し、各地の太守、刺史、州牧を歴任。何進と十常侍の争いに乗じて中央政界に進出し、圧倒的な武力で朝廷を掌握。己のやり方で漢王朝を立て直そうとしたが、その横暴と猜疑心が災いし、最期は寵愛した義子の手で非業の死を遂げた。
王允が背後から近づき、囁くように言った。「将軍、これよりが真の始まりですぞ」。その目には、西涼軍残党を粛清する冷たい決意が光っていた。
長安の空は晴れ渡っていた。しかし、街中に流れる血の匂いは、新たな乱の幕開けを告げる不吉な前兆に満ちていた。王允の目は、次なる標的である西涼軍残党の粛清へと、冷たく向けられていた。