第十一回 威逼利誘敵退兵 生死一線諫直言
曹操軍とぶつかる前に高順は又もや韓瓊に悩まされていた。
河内郡蕩陰の高順軍砦前は、異様な緊張に包まれていた。袁紹軍陣営から、一人の老将が単騎で駆け出し、高順の砦の前に立つと、雷のような声で罵声を浴びせ始めた。
「高順!臆病者め!昨日は女の尻に隠れておって、よくも恥ずかしげもなく鎮北大将軍を名乗れるものよのう!出て来い!この韓瓊と、正々堂々、一騎打ちを致そうぞ!出て来んか、腰抜け!」
その声は轟くが、老いた体には昨日の高順との激闘の疲労が明らかに滲んでいた。動きも鈍く、息も上がっている。明らかに無理をしている。
砦の櫓の上、高順は眉をひそめてその姿を見下ろした。張五が苛立ったように言った。
「大将軍!あの老いぼれ、調子に乗りすぎですぜ!昨日の負けを引きずって、無理に挑発してらぁ!どうしやすか?」
高順は沈黙した。韓瓊は武人としての誇りを傷つけられ、挽回の機会を求めているのか。それとも、袁紹か誰かの命令で、無理にでも高順を戦場に引きずり出そうとしているのか。いずれにせよ、今このタイミングで一騎打ちに応じるのは、曹操の奇襲を許した昨日の教訓からも愚策だ。ましてや相手は疲弊した老将。勝っても武名は上がらず、負ければ万事休す。
「…あの爺さん、わざわざ死にに来ているようなものだな」
高順は低く呟いた。
「はっ?ですが、このまま罵声を浴びせられ続ければ、味方の士気が…!」
高順の目が一瞬、冷たく光った。乱世の戦場に、無駄な情けや騎士道精神を挟む余裕はない。彼の目的は、自軍と守るべき民を生き延びさせることだ。
「…弓兵」
「へい!」
「櫓の上から、あの老将を射よ」
「え…?」
張五は目を見開いた。
「ですが、大将軍!一騎打ちの挑発を弓で…それは…!」
「戦場だ」
高順の声は氷のように冷たかった。
「彼がわざわざ射程内に立ち、避けようともしない。こちらの警告も無視している。ならば、排除するだけだ」
「…はっ!」
命令は絶対だ。張五は躊躇いながらも、櫓上に控える最精鋭の弓兵三名に合図を送った。弓弦が張られるかすかな音。
「高順っ!出て来い!この腰抜け!女郎大将!董卓の狗めっ!」
韓瓊の罵声はなおも続く。彼は高順が応じないことに業を煮やし、さらに数歩前へ出た。完全に射程の中心だ。
「…放て」
高順の低い合図と同時に、三本の鋭い矢が、風を切って放たれた。狙いは一点に集中している。
「ぬおっ…!?」
韓瓊はその瞬間、異変に気づいた。しかし老いた体は、その警告に素早く反応できない。咄嗟に体を捻ろうとしたが、遅すぎた。
ズドッ! ズドッ! ズドッ!
鈍い音が三響。一本は肩鎧の隙間を、一本は脇腹を、そして最後の一本は首筋を深く貫いた。
「が…ぐぅ…」
韓瓊は目を見開き、巨大な大刀を杖のように地面に突き刺して、何とか倒れまいと踏ん張った。しかし、その巨躯はみるみる力を失い、膝から崩れ落ちた。砂埃が舞い上がる。罵声は止み、朝もやの中に不気味な静寂が流れた。
袁紹軍本陣からは、悲鳴と怒号が一斉に上がった。
「大将軍ーーっ!」「卑怯者!」「許すな、高順め!」
高順は櫓の上で、冷然とその光景を見下ろしていた。心の中では、ささやく声が聞こえた。
しょうがないじゃないか。爺さんがわざわざ射程内に立って、避けようともしなかったんだ。警告も無視した。…俺、悪くないよな?
とはいえ、この行為が膠着状態を一気に「一触即発」の危機へと陥れたことは明白だった。袁紹軍の怒涛の攻撃は時間の問題だ。
一方、西部戦線では、一人の若き猛将の存在が、董卓軍を震え上がらせていた。後世、東の島国で「ヴァーモキ」の愛称で親しまれることになる、馬騰の子馬超である。
その勇猛は天賦の才。銀甲に身を包み、白馬に跨った彼の姿は、戦場に現れるや否や、疾風の如く敵陣を駆け抜け、槍の閃光の後に董卓軍の兵士たちがなぎ倒されていく。後に王方、李蒙といった董旻配下の将を討ち取り、その武名を西涼に轟かせることになる、まさに西涼の麒麟児だった。
「父上!さっさと奴らを殲滅してやりゃあ、この戦も終わるじゃねえか!あの董旻なんぞ、震えて隠れてるだけだぜ!」
馬超は馬を止め、父馬騰に熱っぽく訴える。その目は、獲物を前にした若き狼のように輝いていた。
「孟起、焦るな」馬騰は落ち着いた、しかし重い口調で諭した。
「焦りというものは、周りが見えなくなる魔物だ。儂は以前、この焦りに囚われたばかりに…お前の母上と兄上を失ってしまったのだ」
馬超の若々しい顔に一瞬、陰りが走った。母と兄の死は、彼の心の深い傷だった。
「義兄、耳の痛い話をされていますな…」
飄々とした声と共に現れたのは、韓遂だった。彼は馬騰に軽く手を挙げ、馬超にはにやりと笑いかけた。
「文約か」
馬騰は複雑な表情を一瞬見せた。
「布陣は終わったのか?」
「んん〜?」
韓遂は肩をすくめた。
「そんなもの、いるか?孟起坊ちゃんがこんなにいるんだ。戦場のことは義兄に任せた方がずっと賢明だと思ってな!ハハハ!」
馬騰は内心、舌打ちしたいのをこらえた。韓遂この男への感情は複雑だった。馬騰自身、元は漢朝に忠実な官吏として順調な官途を歩んでいた。しかし、辺章の反乱が起きた際、西涼は混乱の渦に巻き込まれた。最後の最後まで官軍として戦おうとした馬騰だったが、戦いの苛烈さと同僚の裏切りに心が折れ、その場に居合わせた韓遂にほぼ強引に反乱側へ引きずり込まれたのだ。以来、開き直ったのか、韓遂は自らの軍閥を大きく育て上げた。第一次反董卓連合では韓遂と共に西涼の大小軍閥を代表して董卓側についたこともあれば、今回のように敵に回ることもある。要するに、利さえあれば豹変する「西涼軍閥の親玉」というわけだ。
「そうは言うがな」
馬騰は慎重に言葉を選んだ。
「お前の方でも、備えはしっかりしておかねばなるまいぞ?董卓軍も侮れん」
「なあに、どうってことねぇよ」
韓遂は涼しい顔で手を振った。
「ついこの間、名前もねえ、氐なのか羌なのか見分けのつかねえ小僧を拾ってきたんだが、坊ちゃんには及ばねえがなかなか使えるんだ。そばに置いて鍛えてるぜ」
馬騰の視線の先には、韓遂の親衛のように控える、十代半ばかと思われる痩躯の少年がいた。無表情で、しかし目だけは研ぎ澄まされた小刀のように鋭い。確かに、ただ者ではなさそうな気配を漂わせている。
「…名をつけてやらんとな」
韓遂は少年をちらりと見た。
「だったら、義兄がつけてくれよ!名付け親になってやるってのも、義理ってやつだろ?」
「うーむ…」
馬騰は少し考え、「ならば『英』と名付けよう。才知勇気に溢れた者となるよう願いを込めてな」
「ふん、いい名だ!なら姓は『成公』としようぜ!どうせ身元も分からんのだからな!成公英!どうだ、響きが良いだろ?」
馬騰は呆れながらも、韓遂の勝手を放っておいた。しかし、韓遂の言葉に、息子馬超の全身から迸る殺気が鋭く増したのに気づいた。韓遂もそれを感じ取り、目を細めた。
「父上!」
馬超の声は震えていた。
「いつまであの男と手を組まねばならぬのですか!この戦も、奴が…!」
「ふぅ…」
馬騰は深いため息をついた。
「またそれか」
「あの男のせいで母上と兄上は…!」
「言うな!」
馬騰の声が雷のように轟いた。その目は初めて馬超を真っ直ぐに見据え、強烈な威圧感を放つ。
「…息子といえども、許さんぞ」
「…っ!」
馬超は唇を噛みしめ、俯いた。「…申し訳ございません!」
「待っておれ、孟起」
馬騰の声は再び重く落ち着いたものに戻った。
「西涼には西涼のやり方があるのだ。焦るな。時は必ず来る」
「…はい」
「戦になる。玲明を呼んで参れ。そろそろ戦場の空気を覚えさせる時じゃ」
「承知いたしました!」
馬超は鋭い眼光を韓遂に向け一瞥すると、踵を返して去っていった。
馬騰が今回、韓遂と手を組みつつも主導権を握り反乱を起こしたのには、深い理由があった。実兄であり、漢朝の北軍中侯という要職にあった人物が、董卓の猜疑心によって長安に監禁されてしまったのだ。そこへ韓遂が「今こそ董卓を討ち、兄上を救う時だ」と焚きつけた。兄を救いたい思いと、韓遂の野心に利用された形だった。
「ふぅ…」
馬騰は西涼の広大な星空を見上げた。
「…兄上、どうか無事でいてくれ…」
彼は重い足取りで自らの陣幕へと戻った。星々が、兄の無事を祈るかのように瞬いているように見えた。
一方、牛輔に必死に励まされ、何とか正気を取り戻した董旻は、ようやく指揮官らしい采配を下し始めていた。李傕、郭汜を左右翼に配置し、樊稠を本陣守備に据え、そして参謀・賈詡に遊撃軍の指揮を任せた。その直後、牛輔は賈詡の陣幕を訪ねた。
「文和、おるか?」
「…ここにござります」
賈詡は地図の前に座り、無表情で顔を上げた。
「この度の戦、お主はどう見ておる?」
牛輔は賈詡の前に座り込む。
「馬騰、韓遂…あの連中、手強いぞ」
「…北軍中侯を解放すれば、西涼の反乱は自然と収束いたしましょう」
賈詡の声は淡々としていた。
「馬騰の不満の根源はそこにございます」
牛輔は苦い表情を浮かべた。
「…そうか。だが、それは太師が許すまい。兄貴は、人質を手放すような軟弱な真似はせん」
「でしょうな…」
賈詡の目には、ごくわずかな諦念が浮かんだ。
「ふむ、そなたの智略があればこそ、儂もここまで持ちこたえられた」
牛輔は賈詡を認めるようにうなずいた。
「そなたは…この先、どこまで見通しておる?」
賈詡は一瞬、目を細めた。その瞳の奥には、深い洞察力の光が静かに揺らいでいるようだった。
「…西涼の大小軍閥は、所詮、烏合の衆でございます」
「ほう?烏合の衆とな?」
牛輔は興味深そうに身を乗り出した。
「主な勢力は馬騰、韓遂、そして金城の郭援でございますが」賈詡は地図を指した。
「この郭援もまた、例に漏れず、『利』によって動く小物に過ぎません。ならば…」
賈詡の指が、地図上の勢力を結ぶ線をなぞった。
「…力で押さえつけるよりも、『利』をもって懐柔し、互いに牽制させあう方が、はるかに効率的でありましょう」
牛輔は深くうなずいた。
「わかった!そなたの言う通りじゃ!お主は遊撃に出つつ、奴らを懐柔してくれ。この戦、何が何でも勝たねばならん!太師の期待を裏切るわけにはいかん!」
「はっ…承知いたしました」
賈詡は深々と頭を下げたが、その目を上げた時、そこには深い倦怠と冷めた諦観の色が浮かんでいた。彼の心の内には、こうした思いが去来していた。
何奴も彼奴も…馬鹿ばかりだ。無益な戦を繰り返し、血を流し、民を苦しめる。この乱世で最も賢い生き方は、目立たず、争わず、平穏に暮らすこと。それに勝る利はないというのに…。
一方、武関を守る張済は、袁術、孫堅連合軍の猛攻に晒され、文字通り風前の灯となっていた。関の城壁は激しい攻撃で何度も崩れかかり、兵士の疲労は限界に達していた。
「叔父上!もう持たぬ!左翼の門楼が落ちかけていますぞ!」
甥の張繍が血相を変えて報告する。
「…くっ…!」
張済は歯を食いしばった。その時、関の背後から轟くような軍鼓の音と、大軍の蹄の音が響いてきた。
「何だ!?敵の別働隊か!?」
張済が振り返ると、そこには「華」の大旗を掲げた大軍が駆けつけていた。先頭には、赤兎馬にも引けを取らない巨大な黒馬に跨り、青竜偃月刀にも似た大剣を掲げた、筋骨隆々たる巨漢の姿があった。董卓麾下きっての猛将華雄である。
「張済!遅れたようだな!だが、華雄、参上!」
華雄軍が武関に突入し、あわや陥落せんとする地点を袁術軍の波から強引に押し返した。その力業はまさに一騎当千。張済軍の兵士たちから、どよめきと歓声が上がった。
「けっ!んで、なんでこんなに時間かかったんだ!?」
張済は安堵と苛立ちが入り混じった声で叫ぶ。
「もっと早く来いよ!」
「申し訳ござらん、ちょっとしたいざこざがあってな」
華雄は豪快に笑い、大剣を振るって敵兵を薙ぎ払う。
「でもな、見ろ!間に合ったじゃねえか!」
「…そうかい」
張済は思わず笑みを零した。
「まあ、来てくれたんだ、けちくせえことは言わんよ。共に守り抜こう!」
華雄が率いる十万の援軍を得て、武関の守りは一気に磐石となった。袁術・孫堅連合軍の攻撃は、厚みを増した防衛線の前に、一時はね返されることになった。張済以下、諸将はほっと一息ついた。これでしばらくは安泰だ。
河内郡の南東、原武付近で曹操と対峙する徐栄は、斥候の報告に眉をひそめていた。
「…曹操め、動きが速すぎるな」
彼は油断していなかった。前回、反董卓連合軍を破ったのは、相手が寄せ集めで統制が取れておらず、曹操自身の直轄兵力も少なかったからだ。徐栄は決して自らの力で曹操を破ったとは思っていなかった。ましてや、同じ手は二度も通じまい。
しかし、その予想を裏切るかのように、東部及び北部の反董卓連合軍は、開戦して一ヶ月も経たぬうちに、空中分解の危機に瀕していた。その原因は、一人の男の動きにあった。
高順である。
彼は、河内の本隊を膠着状態に置きつつ、密かに幷州から精鋭の騎兵部隊を繰り出させていた。その部隊は、袁紹の本拠冀州と、公孫瓚の勢力圏幽州の奥深くへと分け入り、神出鬼没のゲリラ戦を展開していた。
夜襲を仕掛けては即座に撤退し、同盟軍が追撃に出れば逃げ切り、同盟軍が退けばまた別の地点を急襲する。まさに「一撃離脱」を繰り返す狼群戦術だ。狙いは兵站の破壊と、後方の攪乱。冀州、幽州の村々や補給路は高順軍の騎兵に荒らされ、袁紹や公孫瓚は本拠を守るために主力を後退させざるを得なかった。曹操軍も、高順本隊と徐栄に釘付けにされ、後方支援ができず、兵士と物資の消耗が激しく、疲弊の色が濃くなっていた。
「…もはや、このまま戦いを続けるのは得策ではない」
曹操軍本営で、曹操は地図を睨みつけながら低く言った。その横で荀彧が静かにうなずく。
「おっしゃる通りです。高順の狙いは、我らを消耗戦に引きずり込み、決戦を避けることにあります。ここは一旦、兵を引き、態勢を立て直すべきでしょう」
「ふむ…」
曹操の目が鋭く光った。
「では、講和を打診しよう。相手も、四方を敵に囲まれている。話に乗るはずだ」
曹操は、高順と徐栄という手強い相手を前に、勢力温存を図る現実的な選択をした。袁紹も、その高いプライドから講和に難色を示すかと思われたが、後方の攪乱と消耗の激しさに、意外にもあっさりと曹操に倣い、自らも講和の道を探り始めた。
こうして、東部戦線は「休戦」という形で戦いが終結した。その講和の条件こそが、高順の強硬な要求だった。
高順が袁紹に送りつけた講和条件は以下の通り
一、今回の戦いによる幷州軍の損害の一切を、冀州の物資と金銭をもって賠償すること
二、冀州牧韓馥、幽州牧劉虞の身柄を直ちに解放し、幷州に引き渡すこと
三、渤海郡以外の冀州内の全ての城、土地を直ちに放棄し、幷州軍の接収を認めること
四、今後、幷州より冀州、幽州へ出る商人を、手厚く保護すること
以上の条件のうち、一つでも履行されない、もしくは違反が確認された場合、幷州に控える百万の軍勢をもって直ちに冀州に侵攻する。
異論は認めない。
この要求文が届いた時、高順の配下の将軍たちは愕然とした。
「大、大将軍!」
呉資が声を詰まらせた。
「そ、そんな…割に合わないことを要求されて、袁紹が飲むはずが…!戦を再開する口実を求めているのですか!?」
高順は机の上の地図を見つめたまま、淡々と答えた。
「飲まなければ、戦うだけだ。講和を望んだのは向こうだ。こちらの要求を呑む意思がなければ、最初から講和など持ちかけるな、ということだ」
「しかし…あまりに強硬すぎはしませんか?」
章誑も不安げだった。
「強硬に見えるか?」
高順はようやく顔を上げ、口元に冷たい笑みを浮かべた。
「袁紹は冀州を奪った。我々はそれを取り戻す権利すら放棄し、ただ渤海だけを彼に残す。代償として、彼が奪ったものの正当な代価と、今後我が幷州の民が安全に商える道筋を要求しているに過ぎぬ」
彼は立ち上がり、窓の外、袁紹軍の陣営を見つめた。
「…ゆっくり待とう。彼が飲むかどうか、見ものだ」
そして驚いたことに、袁紹は、この一見理不尽とも思える要求を、何の躊躇なく、あっさりと飲んだのである。高順の読みは的中した。袁紹は、冀州を完全に掌握できておらず、後方の攪乱に手を焼いていた。渤海という足場さえ確保できれば、いずれ再度冀州を奪い返せると踏んだのだ。何より、高順の「百万の軍勢」という脅しが効いた。幷州兵の精強さは、彼も身に染みて知っていた。
劉虞とその配下たち公孫紀、斉周、鮮于銀、鮮于輔、孫瑾、張逸、趙該、張瓚、程緒、尾敦らが、無事に高順の陣営に合流した。その帰路、一人の若者が高順軍に斬りかかってきた。
「董卓の手先め!劉使君を離せーっ!」
若者・田疇は、劉虞が董卓軍に拉致されたと誤解し、救出に現れたのだった。劉虞が慌てて止める。
「何と!公孫伯珪が儂を殺そうと?何の権限があってのことか!」
田疇は高順を睨みつけながら叫んだ。
「子秦、落ち着け!」
劉虞が必死に諭す。
「こうして無事に助け出されたではないか!高将軍は我らを救ってくださったのだ!」
高順は田疇の剣先をじっと見つめ、口を開いた。
「悪いが、お前は帰ったら鎮北将軍府の役人として働いてもらうぞ。その腕前と忠義心、無駄にはせん」
田疇は一瞬呆然としたが、劉虞のうなずく姿を見て、ようやく事態を理解した。彼は深々と頭を下げた。
「ははは!」
田疇は苦笑した。
「命をお助けいただいた恩。これくらいの瑣事、遥かに安い御礼でございますぞ!将軍!」
「刺史殿には感謝いたします」
高順も劉虞に礼を述べた。
さらに、以前袁術の元に人質として派遣されていた劉虞の息子劉和も合流し、鎮北将軍府の人事は一気に充実し、高順も内心ほっとした。
曹操は兗州に戻り、領内の安定に努めると宣言した。徐栄からは
「曹操はしばらくは攻めて来ないだろう」
との伝令が届いたが、高順はただちに返書をしたためた。
相手が曹操である以上、油断は禁物。凱旋する部隊は最小限とし、主力は河内、兗州境の守備に充てよ。敵は「攻めない」と見せかけつつ攻めてくるか、「攻める」と見せかけて奇策を弄する。それが曹操という男だ。
こうして、各地に数万の守備軍を残し、高順と徐栄は洛陽へ凱旋し、董卓への報告に向かった。
「鉄玄、孝父!よく戻った!」
董卓の豪快な笑い声が広間を揺るがした。二人は深々と頭を下げる。
「はっ!」
「フハハハハハハハ!これで東はしばらく安泰じゃのぅ!お前ら二人の働き、天下一品じゃ!」
「誠に、喜ばしい限りでございます」
李儒が取り成す。
高順は内心、少し驚いていた。徐栄の字が鉄玄だったとは…知らなかったな。今そっちに驚いている。
「そこでじゃ」
董卓の声が少し重くなる。
「戻ったそなたらに悪いのだが、武関と西涼の援軍に行ってはくれまいか?あちらの戦いは、まだまだ予断を許さぬ」
「…」
高順と徐栄は顔を見合わせた。
「太師のお心は…?」
徐栄が慎重に尋ねる。
「うむ、孝父が西涼へ、鉄玄が武関だ。どうかね?」
董卓は二人を交互に見た。
高順は一歩前に出た。「太師、某が西涼に赴けば、軍中に不和が生じかねませんが…。大将軍のご尊顔を潰すことにもなりましょう」
「ふん!」
董卓は鼻を鳴らした。
「役立たずの身内より、外から来た有能な婿の方が百倍良いわ!そちの功績と力量を見れば、誰も文句は言うまい!」
「…そういうことでございましたら」
高順は深く息を吸った。
「某は西涼に赴きましょう」
「そういうことだ。鉄玄」
「はっ!直ちに武関に参ります!」徐栄は即座に答えた。
「二人ともそう焦るな」
董卓は手を振った。
「三日後に出発せよ。その間、よく休み、家族と過ごすがよい」
「はっ!」
二人は宮殿を後にする。長い石段を下りながら、徐栄が高順に尋ねた。
「孝父、西涼の戦、どう勝つつもりかね?あの馬超という若造、聞くところによれば並みの武将ではないそうだが」
高順は西の空を見つめ、少し考え込むように答えた。
「ふむ…某は西涼の地理、諸勢力の思惑に詳しくはございませんので…。ただ、現地の将兵を信じ、彼らの知恵を借りるしかあるまい」
「ははは!」
徐栄は豪快に笑い、高順の肩を叩いた。
「なあに、心配無用じゃ!そちの配下や、あの賈詡という知恵者がどうにかしてくれるだろう!今回の戦いでの孝父の文韜武略、この徐鉄玄も心底敬服いたしましたぞ!」
「はは…」
高順は苦笑した。
「恐れ入ります。某も、武関の堅守、徐将軍のご健闘を祈っております」
「ははは、これからもよろしく頼むぞ!」
徐栄は笑いながら去っていった。
高順はその背を見送りながら、思わずつぶやいた。
「…意外に良い人だった。董卓軍の中の良心と言えば、この人しかいないのも確かだな……。」
その時、振り返った徐栄が声をかけた。
「おお、孝父!差し出がましいようだが、一つよろしいかな?」
「何じゃ?」
徐栄は周囲を見回し、声を潜めた。
「この度の戦は、袁紹、曹操は敗れたものの、袁術、劉表、孫堅と西涼の諸勢力がまだ健在でございます。我らは守備を強めたところで、四方八方に手を広げ、疲弊するのは我らでございます」
高順は真剣にうなずく。徐栄の指摘は核心を突いていた。
「ここは機を見て」
徐栄の目が鋭く光った。
「奇兵を放ち、一撃必殺で相手の首脳を仕留めるのがよろしいかと…。長期戦は我らの首を絞めるだけです」
高順は目を見開き、すぐに深くうなずいた。
「うむ!鉄玄、助かった!その策、胸に刻んでおく!ではな!」
「はっ!」
高順は馬に乗り、鎮北将軍府へと急いだ。ようやく帰れる安堵感と、三日後の出征への焦りが入り混じっていた。しかし、その安堵は門をくぐった瞬間に吹き飛んだ。
「このバカ旦那ーーっ!」
庭に立つ二人の妻、蔡琰と董媛が、鬼の形相で高順を睨みつけていた。董媛は手にした巻物をブンブン振り回している。
「手紙の一つもよこさないで、どこをほっつき歩いていたのさ!?戦が終わったって知らせぐらい、人を寄越せるだろうが!」
「これに関しては…」
蔡琰は静かな口調ながら、その目は鋭く高順を射貫いていた。
「…媛の言う通りです。夫君、お答えいただけますか?洛陽に戻られた後、なぜ何の連絡もなかったのです?」
高順はきょとんとした。
「?何をじゃ?戦は終わった、無事だと分かっておるだろう?」
「何をって…!?」
董媛が高順の鼻先に巻物を突きつけた。
「あたしたちが『妊娠』したことを書簡にまとめて、ちゃんと送ったじゃないか!ちゃんと読んだの!?」
「え?」
高順の目が点になった。
「嘘…、そんな書簡…知らなかった…、は…はは…」
確かに、凱旋後の慌ただしさの中で、家からの書簡はまだ開封もせずに机の上に積んだままだ。
董媛は大きくため息をつき、膨らみ始めた腹をさすりながら、芝居がかった口調で嘆いた。
「あーあ、この子もかわいそうだねぇ!こんな無頓着で戦バカな父親を持ってしまって…将来が思いやられるわ」
「うーん…」
蔡琰も微かに眉をひそめたが、すぐに表情を和らげた。
「…ひとまずは、お帰りなさいませ、夫君」
「ああ、ただいま…と言いたいところだが」
高順は申し訳なさそうに首をかいた。
「三日後にはまた出るぞ」
「何だって/ですって?」二人の声が重なった。
「聞いてないか?さっき宮中で決まった。俺は西涼へ、徐栄は武関へ、支援に向かうことになった」
「んなっ…!?」董媛の声が跳ね上がった。「また戦!?戻ったばかりじゃないか!」
「ふぅ…」蔡琰も珍しく声に疲れを滲ませた。「まあ、致し方ありませんね…。戦が終われば、また会えますから」
「短すぎやしないかい?」
董媛が唇を尖らせた。
「せっかく戻ってきたのに!赤ん坊が生まれる前に、あんたが死んだらどうするのよ!」
高順は思わず本音を漏らした。
「しょうがないだろ?これも食い扶持のためだ。食い扶持がなければ、うちは貧乏将軍府になるぞ?」
「そんなもの…!」
董媛は一歩前に出て、高順をじっと見据えた。
「そんなものはアタイの俸禄でどうにでもなるよ!」
「え?」
高順は目を見開いた。
そうなのか?逆玉じゃん!俺…転生してよかったかも…!
「知らなかったのかい」
董媛は得意げに胸を張った。その姿は、武将としての誇りと、母親になる自覚が不思議に混ざり合っていた。
「あたしゃ関内侯に列せられているのよ。ちゃんと領地も俸禄もあるんだから!」
「それは…知らなかったな」
高順は率直に認めた。確かに、董媛の武勲と身分については深く考えたことがなかった。
「はぁ…」
董媛は呆れたようにため息をついた。
「しょうがないわね。戦バカの旦那様だもの…」
高順は苦笑した。
しょうがないじゃん!結婚してすぐに出征なんてさ!
「…まあいいや。今日のところは疲れたから、寝ることにした」
高順はそう言うと、二人の妻に軽くうなずき、自室へと向かった。心身の疲労がどっと押し寄せていた。
高順は、深い眠りから、何か気配で目を覚ました。目を開けると、背筋が凍るような光景が広がっていた。
寝床のすぐ傍らに、巨大な影が二つ立っている。一つは、肥満体ながらも威圧感満点の董卓。もう一つは、当代随一の学者として知られる、高順の岳父蔡邕である。二人とも、無言で高順を見下ろしていた。
「ぬわっ!?」
高順は飛び起き上がった。心臓が口から飛び出そうだった。
「岳父!太師!驚きましたぞ!なぜ、このようなところに…!?」
「フハハハハハハハ!」
董卓の豪快な笑い声が部屋を揺るがした。
「言ったであろう、伯喈先生!ハハハ!どうじゃ孝父!驚いたか?わざわざお前の寝顔を見に来たのじゃよ!」
「…胆を冷やしました」
高順は必死に動悸を抑え、床に平伏した。
殺される…?何かまずいことをしたか…?
「ふふふ」
蔡邕は口元に微笑を浮かべたが、その目は探るように高順を見ていた。
「太師、鎮北将軍はどうやら、その豪胆を戦場に置いてきたらしいですぞ?少々お疲れのご様子」
「衣冠を整えますので、何卒、前堂でお待ちくださいませ!」高順は慌てて叫んだ。寝間着姿で、当代の権力者と大儒学者を前にするのは、あまりにも無礼この上ない。
「うむ、早うせよ」
董卓は大きくうなずくと、蔡邕と共にゆっくりと部屋を出ていった。
高順は震える手で衣服を整えた。
何だ…?いったい何事だ…?
衣冠を整えた高順が前堂に入ると、董卓と蔡邕が上座に待っていた。重い空気が張り詰めている。
「太師、岳父殿、遅れて申し訳ございません」
高順は深々と頭を下げた。
「何のご用件で、このような早朝に…?」
董卓は茶を一口啜り、ゆっくりと口を開いた。
「ふむ、実はのう…三公を廃し、新たに丞相、御史大夫、大司馬の三職を置こうと思っておる」
「はぁ…」
高順は慎重な反応を示した。三公は朝廷の最高職。それを廃して新たな三職を置くとは、董卓の権力掌握がさらに進むことを意味する。
「何じゃ?その気の抜けた反応は!」
董卓は不満そうに机を叩いた。
「わざわざお前に意見を聞きに来たのじゃ!」
「…一介の武官である私に、このような朝廷の重要人事についてお話いただいても、あまり意味はないかと存じます」
高順は低く答えた。これは明らかに危険な話題だ。下手なことを言えば命に関わる。
「そうか」
董卓は目を細めた。
「じゃが、聞け。丞相、御史大夫、大司馬の三職には誰を推すか、婿殿の意見を聞きに来たのじゃ!あくまで聞くだけじゃ」
「…はっ」高順は深く息を吸った。逃れられない。ならば、乱世を生き抜くために必要な人材を推挙するしかない。たとえそれが董卓の意に沿わぬものであっても。
「では、僭越ながら…」
高順は顔を上げ、董卓をまっすぐ見据えた。
「丞相には、王允王司徒を。御史大夫には、司馬芳大人を。大司馬には、盧植盧大人を推挙いたします」
一瞬、堂内が水を打ったように静まり返った。董卓の顔がゆっくりと曇っていく。蔡邕も息を飲んだ。
「…ふむ」
董卓の声は低く、重かった。
「良い選び方をしておるのぅ…。しかし」
董卓の目が、刃のように高順を刺す。
「…わしの考えはな。大司馬に徐栄、丞相に王允、御史大夫に李儒じゃ」
高順の背筋に冷たい汗が走った。王允以外、全て董卓の腹心か、直接の部下ばかりだ。これでは朝廷が完全に董卓の私物になる。
「孝父」
董卓の声に圧力が増している。
「わしの推す人選と、お前の推す人選は違うようじゃな。その理由を聞かせよ。まずは丞相からじゃ」
高順は覚悟を決めた。ここで媚びへつらえば、自分がこの場を生き延びられるかもしれない。しかし、それではこの国は確実に破滅へ向かう。彼は口を開いた。
「丞相は…国家全体の政務を見なければなりません」
高順の声は静かだが、確固としていた。
「今の朝廷は、董卓様のご威光によって辛うじて維持されております。この混乱の最中、急に人を変えれば、政務の運営に大きな支障が出ましょう。王司徒は、長年朝廷に仕え、政務に精通しております。ゆえに、王司徒をそのまま丞相に…」
董卓は無言でうなずいた。次に高順は、最も危険な領域に踏み込んだ。
「御史大夫には…司馬芳大人を推挙いたします」
「ほう?なぜじゃ?」
董卓の目が鋭くなる。司馬芳は、董卓の専横を公然と批判したことで左遷された、硬骨の官僚だ。
「彼は以前、治書御史を勤めておられました」
高順は一歩も引かない。
「その法の運用は厳格にして、かつ公正無私。決して権勢に媚びず…」
高順は一呼吸置き、言葉を強めた。
「…御史大夫という職は、朝廷の綱紀を正し、百官の監察を司る、まさに『法の番人』でございます。並の人間では務まりません。朝中の孤臣にして諍臣でなければなりません。たとえ…」
高順は董卓の目をしっかりと見据えた。
「…たとえ、太師を相手にしても、その非を正々堂々と指摘できる胆力と覚悟を持つ者でなければ、その職は務まらぬと存じます」
「ッ…!」
董卓の顔に一瞬、怒りの色が走った。蔡邕が慌てて高順に合図したが、高順は続けた。
「そして、大司馬には…盧植盧大人を推挙いたします」
「…その理由は?」
董卓の声は冷たかった。
「盧大人は、平時は文臣として政務を執り、乱世には武将として戦場に立てる、稀に見る柔軟さと胆力をお持ちです」高順は盧植の武人としての側面を強調した。「朝廷にあっては文武両道に精通され、その人柄は公正にして、人望厚し。その方が大司馬の位につかれれば、京畿の内外、誰も朝廷を軽んじ、乱そうとはしないでしょう」
「…うむ、わかった」
董卓はゆっくりとうなずいた。しかし、その目はますます険しくなっていく。
「しかし、この孝父の人選…いかにも儂への掣肘に思えるのだが、儂の思い違いか?」
いいえ、その通りでございます!全く間違ってはいないのですが、ただ、あんたに悟られたくなかっただけです!高順の心の声が叫ぶ。
しかし、ここで嘘をついても意味がない。高順は腹を括った。
「いいえ」
高順の声は静かでありながら、堂内に響き渡った。
「違ってはおりません、太師」
「何…だと?」
その瞬間、董卓の巨躯が立ち上がった。腰の剣がガチャリと音を立てて鞘から抜かれ、鈍く光る刃先が高順の喉元を指した。殺気がみなぎる。
「ほう…」
董卓の声は氷のように冷たい。
「貴様、その返答次第では、首と胴が異なる場所にあることになるぞ?」
死の危険が肌を刺す。高順は一瞬、目を閉じた。しかし、すぐに目を見開き、剣の刃を避けず、逆に一歩前に出て董卓を見据えた。その目には、諦めではなく、ある種の覚悟が宿っていた。
「太師も…人間でございますから…!」
高順の声は、静かな中に強烈な力を秘めていた。
「…過ちの一つや二つ…いや、数えきれぬほどの過ちを犯すこともありましょう!されど…!」
声がさらに力を増す。
「…ただの人であればまだしも、太師は今や、この乱れきった国家を支える『柱石』でございます!その柱石が傾けば、国は崩れ、民は塗炭の苦しみを味わいます!その過ちを正面から正せる者でなければ、その高位についても、朝廷を支えることも、無駄でございます!」
「ッ…!」
董卓の目が剥かれた。怒りと、何か言い知れぬ衝撃が走る。これほどまでに直言する者など、彼の周りにはいなかった。
「ごもっともなことよ、太師!」
その時、蔡邕が高順の横に進み出て、深々と頭を下げた。
「孝父の言、まことにごもっともにございます!ここで婿殿の首を刎ねれば、かえってこ奴の忠義と剛直の名を高める結果になりましょう!天下の賢士が、太師の元を去ること必定です!」
「…………」
長い沈黙が流れた。董卓の剣先が微かに震えている。その巨躯から放たれる殺気と、葛藤が入り混じった重い空気が堂内を圧迫した。
やがて、董卓は深い、深いため息をついた。
「…ふむ」
剣がゆっくりと鞘に収められる。
「…わかった。お前たちの言うことも、一理ある。参考にするわ」
高順と蔡邕は、思わず息を吐いた。背中が冷汗で濡れていた。
「ははっ!ありがとうございます!」
高順は深々と礼を取った。
「では、二日後に西涼へ向かえ!しっかりと準備せよ!」
「はっ!」
こうして、命からがらというべき「寝起きハラハラショー」は終わりを告げた。高順は兵をまとめ、物資を調達し、新たに徴募した新兵十五万を率いて、西の戦乱の地西涼へと向かう準備を粛々と進めた。その心には、董卓との危うい対決と、新たに命を宿した子の存在が、複雑な思いとともに刻まれていた。戦いは、まだまだ終わらない。