第十回 家中二婦如凶虎 四面受敵挡一方
赤。目に沁みるほどの赤だった。
洛陽の鎮北将軍府は、絹の帳から床に敷かれた錦に至るまで、血のように深く、火のように熱い赤一色に染め上げられていた。太師董卓の威光と、その第二の養子たる高順の婚礼という、二重の慶事を祝うためだ。文武百官が集い、酒宴のざわめきが梁を揺るがす。だが、新郎である高順の心は、氷のように冷たかった。
「ぶっはははははははは!めでたきかな、めでたきかな!皆、心ゆくまで楽しむがよいぞ!」
その豪快な笑い声こそが、高順をこの窮地に陥れた張本人、董卓その人である。厚かましいことに、彼は高順の「父親」として堂々と主賓の席に鎮座していた。高順の元々の武勇と才覚、そして未来からの知識によって急速に頭角を現した彼は、董卓の目に留まり、手塩にかけた養子の一人に加えられてしまったのだ。そりゃあ、目出度いのはテメェだろうよ、高順は内心で舌打ちした。娘を一人嫁がせて、有能な子分を一人増やしたようなものだ。
「義父上、この度は誠に過分なるお心遣い…深く感謝申し上げます」
歯の根が軋む思いだったが、形だけは整えねばならぬ。人の上に立ちながらも人の下で頭を下げる、中間管理職の悲哀よ、と高順は自嘲した。
「うむ、これよりは夫婦睦まじく、健やかな子宝に恵まれ、末永く幸せに暮らすがよい」
董卓は慈愛に満ちた笑みを浮かべている。しかし高順の脳裏には、肥満体で短気、残忍無比という定説通りの董卓のイメージがこびりついて離れない。まあ、せっかくの自分の結婚式をわざわざぶち壊すほどの愚か者でもない。彼は無表情のまま、儀式を粛々と進めさせた。
この地獄のような一日は、前日、董卓に呼び出された時から始まっていた。高順は良い知らせではあるまいと薄々感づきつつも、重い足取りで董卓の元へ向かった。
「おお、孝父よ、よく参った!さあ、近くへ来い!」
「はっ!」
董卓の至近距離に置かれ、雑談を交わしながら茶を啜る。その時、奥から一人の女が現れた。顔立ちは整っているものの、その体躯は華奢というよりは、遥か未来の中東の女性兵士を思わせるような、がっしりとした骨格と鍛え上げられた筋肉が垣間見える。目つきは鋭く、董卓の血を濃く引いていることを物語っていた。
「お父上、お呼びでございますか?」
「うむ、お前の縁談が決まったぞ。嫁ぐがよい。異論は聞かぬ!良いな!」
高順はこの親子の間で宙吊りにされ、困惑の極みにあった。董卓の娘は父の性分をよく知っているのか、観念したように、しかし自分の意思をはっきりと口にした。
「…かしこまりました。ただし、わたくしより弱い男には嫁ぎたくございません」
「うーむ…」
董卓は太い指で顎を掻き、高順をチラリと見た。
「というわけで孝父、すまぬが、娘と手合わせしてくれ!勝てば嫁にやる!」
は?どういうわけだ!おいオッサン、訳の分からんことぬかすんじゃねえぞ、この野郎!高順の心の叫びが轟いた。
「…はっ」
拒絶は死を意味する。校場に立つ二人。高順は愛用の長剣を、娘は柄が様に長く、幅広の刃を備えた巨大な斬馬刀を手にしていた。文字通りの真剣勝負の始まりだ。
数合が打ち合われる。娘の動きは予想以上に素早く、洗練されている。突く、払う、斬り下ろす。その動きの一端に、高順はある人物の剣戟を思い出した。呂布だ。流れるような、しかし破壊力に満ちた動き。高順の体は、かつて呂布と鍛錬を積んだ経験が、ほとんど無意識に敵の動きに対応していた。未来から来た高順の知識と、この高順の肉体が持つ戦闘本能が融合する瞬間だ。
見せ場を作る必要はない。高順は一瞬の隙を見逃さなかった。娘の斬馬刀が大きく振りかぶられた瞬間、彼は地を這うように滑り込み、鍛え抜かれた右足を、まるで鞭のようにしならせた。狙いは膝の裏。未来の格闘技で叩き込まれたローキックだ。
「ぐっ!」
娘は予想外の攻撃に体勢を崩し、膝をついた。高順の剣先が、間髪入れずにその喉元に届く。
勝負はついた。
しかし、勝利の代償が、この恐ろしい娘を嫁に迎えることだと悟った時、高順は心の底から「とんでもないクソ罰ゲームかよ!」と叫びたくなった。もちろん、声には出さなかった。
「…失礼いたしました」
娘はゆっくりと立ち上がり、汚れをはたき、高順をまっすぐに見た。
「董媛と申します。不束者ではございますが、これよりよろしくお願いいたします」
「え?あっ、いや…こちらこそ…」
高順は心の中で激しく自分を殴りたかった。顔を覆い、激しい後悔の念に駆られた。あの一瞬、わざと負けるべきだったのか?いや、董卓の前で露骨な手抜きは命取りだ…。
宴の片隅で、董卓は側近の李儒に小声で囁いていた。
「…これでうまくいったな」
李儒は頷いた。董卓が、丁原派の残党でありながら有能な高順を完全に手中に収め、その配下の張遼らをも取り込もうと腐心していることは承知していた。彼が、董卓の三女董媛を高順の側室とする策を進言した張本人だった。
「はぁ、これで鎮北将軍は、我らと切っても切れぬ絆で結ばれました」
「だが、もし裏切られでもしたら…媛の身が危うくなろうぞ?」
董卓の目が一瞬、冷たく光る。
「ご安心を。飛熊軍の中でも最精鋭の兵を十名、護衛として付けさせておりますゆえ」
「ふむ…それならばな」
李儒は深々と頭を下げた。
「はっ」
この結婚が、董卓による高順の「縛り」に過ぎないことは、高順自身が最もよく理解していた。かつて織田家の一部将だった羽柴秀吉が天下人豊臣秀吉となっても、譜代の家臣がほとんどおらず、晩年の悪政もあって政権は徳川に奪われたではないか。人間、裏切るときは何をされても裏切るものだ。現に、自分自身が、この短気で気まぐれ、民の心を掴むのが下手くそな権力者を、心の底では裏切りたいと願っているのだ。政略結婚など、乱世ではよくあることだ。
「孝父!式は明日じゃぞ!ならばちょうどよい。妾として、一緒に置いてやれ!」
董卓の声が高順の思考を遮った。それは、もう一人の女性の存在を告げていた。
「はっ!」
断る選択肢などなかった。拒めば即座に粛清の対象として消されるだけだ。
「今日はこれまでじゃ!帰ってよく休むがよい!明日はな、もっと体力が要るであろうからな!ふぁっはっはっはっ!」
助平爺め、と高順は心の中で吐き捨てた。退出しようとした時、李儒に呼び止められた。
「鎮北将軍、お待ちくださいませ」
「…何か?」
「これは、もう一方のご新造様、蔡琰殿の、嫁入り道具の目録でございます」
一枚の絹布が差し出された。高順はそれを無造作に受け取った。
「…助かった」
それが、この赤一色の地獄へと続く道筋だった。そして今、彼は二人の妻を前にしていた。
翌日、鎮北将軍府の奥座敷。婚礼の喧噪も遠く、重い空気が漂う。高順は頭痛を覚えた。新たに加わった難題だ。
「…夫君、いかがなさいます?」
蔡琰が静かに、しかし確かに高順の判断を促すように問いかける。その声は琴の音のようで、落ち着いていたが、底に強い意志を感じさせた。
「さあ、お前様は?」
高順は董媛の方を向いた。
「どう思う?」
「何を決めるのだ?」
董媛は眉をひそめ、腕を組む。その動作一つで、着物の下に隠された強靭な筋肉の動きがうかがえた。
「そりゃあ、決まっておるだろう」
董媛は蔡琰を一瞥した。
「この家の女主人は誰か、だ」
「うーむ…」
高順が口を開いた。
「分担、じゃダメか?」
「「ダメです/だ!」」
二人の声が、珍しくもぴったりと重なった。蔡琰の「ダメです」は礼儀正しくも断固としており、董媛の「ダメだ」は一蹴するような強さを帯びていた。
「まてまて」
高順は両手を上げて宥めるようにした。「古人曰く、『天、我に才を生ず、必ず用有り』(才能は必ず活かすべき所がある)とな。それぞれの得意分野で分担しようではないか。どうだ?」
「…悪くはございませんね」
蔡琰が慎重に言葉を選ぶ。
「では、具体的にどのように分担なさいますか?」
「悪くないだと?」
董媛の声が急に高く鋭くなった。
「貴様、本気で言っておるのか?この家を二つに割れと?」
「では、どうなさればよろしいのです?」
蔡琰の目が細くなった。その口元には、かすかに皮肉の影が浮かんでいるように高順には見えた。
「ここはすべて、『私が全権を握る』」董媛は顎をしゃくり上げた。「お前は子を産むだけの『お飾りの正妻』として、大人しくしていればそれでよい」
「あらまあ」
蔡琰の目がさらに細くなり、危険な光を宿した。
「ずいぶんと思い切ったお考えでいらっしゃること。だそうですよ?」
最後の言い回しは、明らかに董媛の言葉遣いを揶揄していた。
「全権は無理だ」
高順が即座に口を挟んだ。董媛が烈火のごとくこちらを睨む。
「お前にその器量もなければ、何より、この鎮北将軍府全体がそれを許すまい…お前が家中を牛耳れば、配下の将兵が黙ってるとでも思うのか?彼らは私に従っているのであって、お前に従っているわけではない」
董媛の顔が一瞬、強張った。高順の指摘が痛いところを突いていた。
「…恐らくは、太師か、李待中にそう言われたのであろう?」
高順はさらに追い打ちをかける。
「はん!」
董媛は顔を真っ赤にして、床を踏み鳴らした。
「お見通しってわけかい!道理でうちの親父が気に入るわけだ!いいさ、どうぞ好きになさい!殺すなり焼くなり!あたしゃ、戻ったところで居場所なんて何もないんだからね!」
「いや」高順はゆっくりと首を振った。「好きにはさせぬ。せっかく娶ったのだからな」
「…将軍?」
蔡琰が訝しげに高順を見つめた。彼の言葉の裏にある意味を測っているようだった。
「うん?どうした?」
「いえ…何でもございません…」
「そう怒るな、董媛よ」
高順は董媛に向き直った。彼女は唇を尖らせ、明らかに不機嫌だった。
「俺も男だ。『三妻四妾』があっても、誰にも何も言われはせんさ」
「怒っておりませんが」
董媛はそっぽを向きながらも、耳の先が少し赤くなっているのが見えた。
「何をお考えなのです…?」
「ふっ」
高順は含み笑いを一つ漏らした。
「今は教えられんよ。今はな!」
もちろん、本音は違った。ハーレムは男の夢だ!などと言えるわけがない。それ以上に、彼はこの場を、自分が扱いやすい「俗物」であるとアピールする絶好の機会と捉えていた。曹操のような全知全能の天才でもなければ、半グレ上がりの野心家劉備でもない。気づいたら独立していた孫権でもない。ただの、野心もそこそこにある、しかし扱いやすい武人だと思わせる必要があった。
「昭姫」
「はい?」
高順は少し間を置いた。これから言うことが、この才媛の心をどれほど傷つけるか、あるいは怒らせるか、予測がつかなかった。
「お前は…その…」
彼は言葉を探すように目を泳がせた。
「…男の肌を知っておろうか?」
「……………」
一瞬、座敷の空気が凍りついた。蔡琰の白磁のような頬が、みるみるうちに紅潮していく。その目は大きく見開かれ、驚きと、深い屈辱、そして怒りが入り混じった複雑な光を宿していた。彼女は蔡邕という当代随一の大学者の娘だ。その文才は天下に鳴り響き、節義を重んじる家柄の出身である。このような露骨で下品な問いかけは、彼女の存在そのものを侮辱するものだった。
「…ぇぇ…」
声にならない声が、震える唇の間から漏れた。彼女は拳をぎゅっと握りしめ、俯いた。肩が微かに震えている。
高順は胸が締め付けられる思いだったが、ここで引くわけにはいかなかった。この政略結婚の本質を、彼女に痛いほど理解させる必要があった。
「…すまぬ」
高順の声は低く、しかし重かった。
「だが、今回は…アレが先だ。董媛がな」
蔡琰は目を閉じた。長い睫毛が震えた。そして、かすかに、ほとんど見えないほどに、うなずいた。それは、運命への諦観にも似た、深い悲しみを湛えた動作だった。
「…かしこまりました」
その細く、震える声が、高順の心に鋭く刺さった。彼はそれ以上何も言えず、ただ立ち上がり、部屋を出ていった。
こうして、高順の夜の生活は「交互制」と決められた。それは彼の肉体と精神を容赦なく削っていく日々の始まりだった。後に子らが生まれる頃には、高順は疲労の果てに、まるで別人のように痩せ衰えていたと言われる。しかしそれはまだ先の話である。
時は流れ、王允の屋敷。高順は呼び出されていた。司徒という高位にある王允の部屋は、書物と墨の香りで満ちているが、そこには密談にふさわしい重い緊張感が張り詰めていた。
「ホッホッホ、鎮北将軍、折り入ってお呼び立てし申し訳ない」
「いえ、何のご用でしょう?」
「いつ決行なさるおつもりか?」
王允の声は低く、鋭い。
高順の目が一瞬、鋭く光った。
「それは…司徒様が動かれるべきでは?」
「数十万の軍勢を擁しながら、あの悪逆無道の董卓が、それほどまでに恐ろしいのかね?」
王允の口調には嘲りが混じる。
「太師のご威光、恐れ多いとでも言うのか?」
高順はゆっくりと首を振った。
「某が恐れているのは…洛陽から逃れおおせた民衆が、再び、それ以上に悲惨な目に遭わされるのではないか、という一点にございます」
「…民?」
王允は眉をひそめた。その口元には、高順の言葉が迂遠に過ぎるとの侮りが見えた。
「民無くば朝廷など…」
高順は一呼吸置き、王允の目をまっすぐに見据えた。
「…【知識を持った愚かな俗物】共の集まりに過ぎませぬ」
「ッ…!」
王允の老いた顔に怒りが走った。高順の言葉は、彼のような清流派知識人を痛烈に皮肉り、貶めている。
「もし、司徒様がお望みなら」
高順は平然と続けた。
「お好きになさってください。某は并州に帰らせていただきます」
「貴様ぁ!」
王允は机を叩き、立ち上がらんばかりの形相で高順を睨んだ。
「このまま董卓に報告したらどうなると思う?お前の立場が!」
高順は微塵も動じなかった。むしろ、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。
「どうぞお報告なさってください。もし城外の我が并州三十万の将兵と戦えるというのであれば、某もそれなりの準備を整えさせていただきましょう!」
王允の顔が血の気を失った。彼には、高順の配下の精強な軍団と正面から戦う力などない。それは火を見るより明らかだった。高順は内心で嗤った。お前の器量じゃ、俺を御するのは百年早い。董卓暗殺後の混乱を収めることすらおぼつかないお前が、どうしてこの乱世を治められるというのか。それは歴史書が証明しているではないか。
「…特に言う事が無ければ、これにて失礼させていただく」
高順は深々と一礼すると、王允の殺気立った視線を背に受けながら、涼しい顔で部屋を後にした。
高順が王允のもとを去った直後、各地から帰還した斥候たちが続々と報告を持ち込んだ。その内容は、歴史が大きく歪み始めていることを如実に物語るものだった。
反董卓連合軍は一度空中分解したものの、今や各地域ごとに再結集し、新たな勢力図を形成しつつあった。
袁紹と公孫瓚が連携し、幽州牧劉虞を名目上の盟主に担ぎ上げて河北に一大勢力を築きつつある。
東部は曹操が兗州を拠点に急速に勢力を拡大。袁術も南陽を中心に独自の動きを見せ、両者は微妙な対立関係にあった。
南部では荊州牧劉表が地盤を固め、孫堅がその傘下で江南に勢力を伸ばしている。
涼州の雄・馬騰と韓遂が手を組み、羌族の力を借りて再び董卓に対抗する動きを活発化させている。
まさに「四面楚歌」の様相を呈していた。かつての連合に名を連ねた冀州刺史韓馥、豫州刺史孔伷、兗州刺史劉岱、河内太守王匡、陳留太守張邈、東郡太守喬瑁、山陽太守袁遺、済北相鮑信、北海太守孔融、広陵太守張超、徐州刺史陶謙らの多くは、戦死したり、袁紹や曹操ら有力諸侯に吸収されるか、あるいは陶謙のように保身に走って静観を決め込んでいた。
「…以上が斥候の報告にございます」
「うむ…ご苦労、下がって休め」
高順は地図を睨みながら低く言った。洛陽の周囲を取り巻く敵勢力の多さに、眉間に深い皺が刻まれた。
「はっ!」
斥候が退くと、高順は拳を握りしめた。幷州に帰る大義名分がようやく得られた。都の近衛軍を動かすことはできぬが、州軍を率いる張遼らには東からの脅威に警戒を強めるよう命を飛ばせる。段煨、徐栄、張済ら董卓軍の将にも、いつでも戦端を開けるよう準備を整えさせねばならない。そして何より、自らが前線に立てるよう、洛陽の政務から距離を置く口実を作らねば。
「董媛!昭姫!」
高順は二人の妻を呼んだ。簡潔に状況を説明し、洛陽が危険な情勢であること、自分が東部戦線に向かう間、二人は安全な幷州の本拠晋陽に移るよう命じた。蔡琰は静かにうなずき、董媛は「戦があるなら私も!」と主張したが、高順の「家を守れ」という一喝に渋々従った。
翌日、朝廷での会議。高順は大げさに憂慮の表情を浮かべて進言した。
「陛下!袁紹、曹操ら反逆の徒、再び決起の狼煙を上げた模様にございます!司隷以外の地は、再び大乱に陥りましょう!ここは臣、鎮北将軍としての本分を尽くし、賊徒を討伐すべく出撃のご裁可を賜りたく!」
玉座の幼帝・劉協は、隣に座る董卓を怯えたように見た。
「…太師に一任する…。太師よ、良きに計らうがよい」
「はっ!」
董卓は大きくうなずき、即座に指を差した。その采配は流石だった。
「鎮北将軍高順、河内郡に布陣せよ!東部の賊徒を防げ!」
「「はっ!」」
「張済!後将軍に任ずる!一軍を率いて宛城に布陣し、南部の脅威に備えよ!」
「徐栄!軍を率いて原武に布陣!曹操めと当たれ!」
「董旻!牛輔、李粛らを引き連れ、西涼の賊徒・馬騰、韓遂を討て!」
瞬く間に自軍の全戦力を配備し、四方に迫る敵に対応した。隙など全く見せない。歴史が変わっても、董卓の軍事的才覚は侮れぬものがある、と高順は内心認めざるを得なかった。
しかし、この均衡は長くは続かないだろう。袁紹らも董卓軍の動きを知れば、即座に動き出すに違いなかった。再結集したとはいえ、彼らの連合は最初から一枚岩ではなかった。互いの猜疑心は深く、少しのきっかけで内輪もめが勃発しかねない脆いものだった。
その予感は的中した。間もなく斥候から飛び込んだ報告は、高順をほっとさせた。
「…袁紹陣営内にて、裏切り者の風説が流れ、諸侯間で犯人探しが始まっております!曹操軍と袁術軍の間でも小競り合いが発生した模様!」
「ふっ…」
高順は思わず笑みを漏らした。これで時間が稼げる。彼はすぐさま董卓に短期決戦の策を具申した。膠着状態を打破し、一気に敵の一角を崩す作戦だ。裁可はすぐに下りた。
「張五!諸将を集めろ!戦だ!」
「へい!」
高順が率いる軍八万は、河内郡の要衝・蕩陰に駐屯した。ここは冀州と兗州の両方に睨みを利かせる絶好の位置だった。袁紹や曹操が河内に進出してくる可能性を、事前に封じ込める布陣である。まあ、ここから攻めてくるのは、まず間違いなく曹操なのだが…。
「張五!精兵三千を率いて前方を偵察して来い!いいか?絶対に戦うなよ?小競り合いも避けろ!敵の動向と地形を探るのが目的だ!よいな!」
「へい!お任せあれ!」
「呉資、章誑!二万を率いて、北東の高地に布陣せよ!袁紹本隊の動きを警戒しろ!」
「「はっ!」」
「魏種、趙庶!二万を率いて南東の河岸に布陣!曹操軍の渡河を阻め!」
「「はっ!」」
「汎嶷、張弘!二万を率いて朝歌を押さえよ!敵の別働隊が側面から来るのに備えろ!」
「「はっ!」」
高順自身は残りの一万と共に本営に残り、全体の指揮を執る。さあ、敵の出方次第だ。こちらは万全の態勢で待ち構えている。
高順が東部戦線で袁紹・曹操の連合軍と膠着状態に入っている間、他の戦線では激震が走っていた。
西涼討伐を命じられた董旻は、意気揚々と軍を進めたが、その采配は惨憺たるものだった。将兵を統率する力量に明らかに欠けていた。副将の牛輔、李粛らが必死に補佐するも、馬騰、韓遂率いる西涼騎兵の機動力と羌族兵の強靭さの前に、たちまち劣勢に立たされた。
「突撃!敵本陣を蹴散らせ!」
馬騰の子・馬超若き獅子の如き猛将が先陣を切り、董旻軍の前衛を粉砕した。董旻は本陣で震え上がった。
「ぎゃああ!嫌じゃあ!戦など嫌じゃああ!もう帰る〜…!牛輔!牛輔はどこじゃ!」
「大将軍!落ち着かれよ!ここは本営を固守なされば…!」
牛輔が必死に諫める。
「固守?守れるわけがなかろう!あの化け物どもがすぐそこまで…!逃げるのじゃ!全軍撤退じゃあ!」
董旻は恐怖の余り、半狂乱で叫んだ。
「大将軍!」
牛輔は董旻の腕を掴み、その目を真っ直ぐ見据えた。
「この際は本営にてきちっと構えて頂ければ、此の牛輔、必ずや敵を打ち破ってみせましょう!」
「本当か?本当なのか!?」
「この首を賭けます!もし打ち破れなければ、軍法に則り自ら断頭台に上がりましょう!」
「うむ、うむ…判った!任せたぞ!」
董旻は震える手で牛輔の肩を叩いた。
「はっ!」
牛輔は狂乱状態の董旻を何とか帳内に押し留めると、すぐに自らの陣幕へと向かった。顔が引き締まっている。
「文和!諸将を集めよ、至急作戦を練る!」
一方、南部の宛城を守る張済は、「江東の虎」孫堅の猛攻と、劉表の部将黄祖率いる軍による奇襲に晒されていた。張済は無理に防戦するよりも、戦略的な撤退を選択した。
「叔父上!これ以上退けば宛城は陥落しますぞ!」甥の張繍が血相を変えて訴えた。
「判っておるよ」
張済は落ち着いた口調で答えた。
「だが此処まで下がれば、逆に武関に近づく。援軍を要請しやすくなるし、何より…」
張済は張繍を見つめ、口元に笑みを浮かべた。
「其方にはそれなりの韜略が有るのは知っておる。其れを発揮したくてウズウズしてるのも判っておる。どうじゃ?この際、自身で一手動かしてみるか?」
張繍は目を輝かせたが、すぐに現実を見て肩を落とした。手元の兵力は宛城防衛戦での損耗が激しく、最早数千に過ぎない。この兵力で、孫堅、劉表連合軍の十数万から武関を守り通せというのは、あまりに無謀な話だった。叔父も遂に投げやりになったのか?
「ふふふ、やはり兵が少ないと動かしづらいか?」
張済は張繍の心を見透かしたように笑った。
「案ずるな。援軍の手配はしてある。しばし待て」
「はっ!」
張繍の顔に生気が戻った。
こうして、西では敗退、南では後退、東では膠着、北では隙を見せない…。反董卓連合軍と朝廷軍は、互いに一歩も引かぬ睨み合いを続けていた。この状況に、各地の諸侯の反応は様々だった。
「ハァ…」
袁紹は巨大な地図の前で深いため息を吐いた。
「公孫瓚以上の勇将が一人でもいれば…顔良や文醜はまだ戦場に出せる段階ではない…切り札は最後まで温存せねばならんのだ」
「袁公!今こそ攻め時ですぞ!」
公孫瓚が熱っぽく進言した。彼は騎兵の名手として、早期決戦を望んでいた。
「伯珪よ、そう焦るな」
袁紹は首を振った。
「我らは董賊を討つその日まで、兵力を温存せねばならん。その時になれば、儂も手放しでお主に好きなだけ戦わせてやるのだがなぁ…」
河北随一の勇将と謳われる「四庭柱一正梁」の存在が、袁紹に慎重な姿勢を取らせていた。四本の柱とは高覧、張郃、顔良、文醜の四人。そして一本の大黒柱が、老将韓瓊だった。彼はかつて丁原に仕えた時代からその武名を轟かせ、綽名を「河北金刀王」あるいは「韓一刀」と称された。元は「河北槍王」と呼ばれたが、同門の師兄・童淵に槍の才能がないと断じられ、逆に奮起して大刀の道を究めたという逸話の持ち主である。
高順はその名を知っていた。その実力は未知数だが、老境に入ってから趙雲に敗れたという伝承があるとはいえ、今の彼はまだ衰えを知らぬ猛虎のはずだ。
「太守、何故儂に行かせぬのじゃ?」
韓瓊が雷のような声で迫った。
「聞けばあの高順、それなりに将として使えるそうではありませぬか!此処は儂が生け捕りにし、太守の為に忠節を尽くさせましょう!」
「ハハハハ、将軍のお気持ちは有難いが」
袁紹は苦笑した。
「あちらは三軍の主将、そう簡単に前線に出て来るものかね?」
「ふふふふ!太守もまだまだ青いですな!」
韓瓊は豪快に笑った。
「ほう?その意味を聞かせてもらおうか」
「儂が挑発し乗ってくれば、彼奴は儂の力の前になす術もなく敗れる!もし乗ってこなければ、賊軍の士気は地に落ちよう!後は煮るなり焼くなり、我ら次第と言うものですぞ!」
袁紹の目が鋭く光った。これは悪くない。韓瓊の武勇は確かだ。高順が敗れれば敵の戦意は大きく挫ける。たとえ相手にされなくても、自軍の士気は上がる。
「将軍!」
袁紹は声に力を込めた。
「将軍の深謀遠慮には佩服致しますぞ!ではその様に手配致しましょう!明日、是非ともお願いいたします!」
「うむ!確かに承った!」
こうして高順の知らないところで、彼にとっては『かったるい』この上ない事態が着々と計画されていた。
曹操は、広げられた地図の一点、河内郡蕩陰の位置を、鋭い眼光でじっと見据えていた。その口元に、思わぬ獲物を見つけた肉食獣のような笑みが浮かんでいる。
「ふふふ…董卓め、良き将を持ちよるな…!」
「孟徳、敵を褒めてる場合ではなかろう?」側に控える夏侯惇が呆れたように言った。
「元譲よ、お主もいつの間にか心の狭い男になったものだ…!」
曹操はふざけるように言い、突然夏侯惇の巨大な拳が目の前に迫ってくるのに気づいた。
「いっ…!?」
「妙才〜!助けろ〜!」
曹操は冗談めかして叫んだ。
「兄貴〜!おらァ何もしてねぇよぅ!八つ当たりは他所にして来い!」
遠くで夏侯淵が手を振って逃げた。
曹操の信頼厚い一族の将軍たち冷静沈着な副将格夏侯惇、猪突猛進の先鋒夏侯淵、智勇兼備の勇将曹仁、忠実無比の親衛隊長曹洪がいることで、曹操は常に心強さを感じていた。
「兄者!どうするか早く言ってくれ!」
曹洪がせっついた。
「子廉、急くな」
曹操は地図の河内を指差した。
「決まっておる!高順と言う男と、一度、手を合わせてみたい!」
「うむ、孟徳」
曹仁が慎重に口を開いた。
「兵を袁紹軍と合わせて動くのは…構わんか?彼の思う壺になりかねぬ」
「致し方あるまい?連合の体を保たねばならんからな」
曹操は首を振り、すぐに目を輝かせて拳を地図に叩きつけた。
「だが、我らは…敵の本陣を突く!高順が東で釘付けになっている隙に、一気に洛陽の喉元へ迫るのだ!」
曹操はこの時、まさかこれから激闘を繰り広げるこの敵将が、やがて終生の盟友となるとは、夢にも思っていなかった。
そして翌日、高順の本営に、一本の矢文が届けられた。矢の柄には、一筋の金箔が細く巻かれている。差出人の格を物語っていた。高順がそれを広げると、力強い、しかしどこか古風な筆致で書かれた挑戦状が現れた。
『韓瓊、高順なる者に告ぐ。貴様ごときが、儂の相手を務め得るか?明日の暁、陣前にてその力量、存分に見せてもらおうぞ。覚悟せよ』
高順はその文面を一瞥し、そっと机の上に置いた。顔には、大きな面倒が降りかかってきたという、少し疲れたような、しかしどこか戦慄を帯びた笑みが浮かんでいた。
高順は机の上の矢文を指で軽く弾いた。羊皮紙がかすかな音を立てた。そこには、力強くも古風な筆致で書かれている。
「…面倒な老いぼれが、わざわざ名乗りを上げてくれたようだな」
高順の口元に、苦笑とも嘲笑ともつかない、複雑な笑みが浮かんだ。韓瓊。かつて丁原に仕えていた頃、その武名は耳にしていた。童淵の同門でありながら槍を捨て、一刀の道を究めたという異色の猛者。その実力は未知数だが、衰えを知らぬ猛虎であることは間違いない。袁紹が、わざわざこの老獪な切り札を繰り出してきたということは、膠着状態を打破するための一手だ。士気を上げ、あるいは高順を討ち取ることで、連合軍の勢いを一気に盛り上げようという魂胆だ。
「張五」
「へい、将軍!」
「この矢文、皆に見せて回れ。袁紹様がわざわざ老将の韓瓊を送り込んで、儂の首を狙ってくれたそうだ」
高順の声は平然としていたが、その目は冷たく光っていた。
「…どうやら、儂が此処にいることが、彼らにとっては目の上の瘤らしいな」
張五が矢文を受け取ると、顔を強張らせた。
「くっ…老獪な!挑発に乗れと?」
「無論、乗るさ」
高順は即答した。立ち上がり、壁にかけた愛用の長剣に手を伸ばす。鞘から抜かれた刃は、帳内の松明の火を冷たく反射した。
「乗らねば、味方の士気が挫ける。何より…」
彼は刃先をじっと見つめ、低く呟いた。
「…あの老将と剣を交える機会など、そうあるものではない」
翌日。河内郡蕩陰の地、両軍が対峙する広大な平野に、冬の冷たい霧が立ち込めていた。夜明け前の闇と霧が入り混じり、人影はぼんやりとかすんで見える。緊張が張り詰めた空気を、金属の冷たさが刺すように伝わってくる。
袁紹軍本陣の前、霧の中に一人の巨躯が浮かび上がった。韓瓊である。彼は馬には乗らず、地に足を着けていた。その身にまとうのは、磨き上げられた金の飾りを散りばめた重厚な筒袖の鎧。手には、柄が異様に長く、幅広の刃が鈍く光る巨大な大刀を軽々と構えている。その姿は、霧の中に忽然と現れた古の戦神のようだった。白髭を蓄えた老いた顔には、剣戟で刻まれた無数の皺が深く刻まれ、しかしその眼は鷹のように鋭く、覇気に満ちていた。
「高順!出て来い!」
韓瓊の声は雷鳴のごとく轟いた。霧さえも掻き分けるような重低音が、平野全体に響き渡る。袁紹軍の兵士たちからは、畏敬と期待の混じったどよめきが起こった。対する高順軍の陣営には、一瞬の動揺が走った。
「…静まれ」
高順の低い、しかし鋭い声が自軍の動揺を鎮めた。彼は黒い戦馬にまたがり、ゆっくりと陣門を出た。身に着けているのは、いつもの実用本位の重札鎧。手に持つのは、装飾も少ない、真っ直ぐな長剣。その姿は、華やかさとは無縁だが、無駄のない強さを感じさせた。
「待たせたな、韓瓊殿」
高順は馬上で軽く一礼した。その態度は礼儀正しいが、卑屈さは微塵もない。
「ほう…」
韓瓊は高順の姿を上から下まで見下ろすように見た。その目は、獲物を探る老練な狩人のようだった。
「見かけによらぬ、骨太な若造じゃのう。丁建陽の下で、少しは鍛えられたと見える」
「過分なお言葉」
高順は淡々と応じた。
「では、早速お相手を」
「待て!」
韓瓊は大刀を地に突き立て、轟音を立てた。
「馬から降りろ!馬上で老いぼれを侮る気か!」
高順は一瞬沈黙し、やがて静かに馬から降りた。地面に足を着ける。冷たい土の感触が伝わる。
「…これでよろしいか?」
「ふん、それでこそ話になろう!」
韓瓊はにやりと笑い、大刀を振るう。風を切る重い唸り。その動きは老いを感じさせない。むしろ、長い年月で研ぎ澄まされた無駄のない動きだ。重い刀身が、まるで彼の手足の延長のように軽やかに動く。
「かかれ!」
「では、失礼」
高順の動きは電光石火だった。剣を鞘に収めたまま、地を這うように滑り込む。間合いを詰める。韓瓊の懐へ。目にも止まらぬ速さで剣が抜かれる。一の太刀、喉元へと突きに掛かる。
「小賢しい!」
韓瓊の大刀が、巨大な扇のように横に払われる。高順の剣先が、大刀の幅広い刃面に火花を散らして弾かれる。衝撃が高順の腕に走る。その重さと威力に、思わず後退を余儀なくされた。
「儂の前で小手先の速さなど通用せんぞ!」
韓瓊は一歩踏み込み、大刀を上段から豪快に振り下ろす。天地を分かつような一撃。高順は間一髪で横に飛び、土煙を上げて斬撃をかわす。刀が地面に深く食い込み、土塊が飛び散る。
「逃げおったか!」
追撃の横薙ぎ。高順は低い姿勢で刀の下をくぐり抜け、再び韓瓊の懐へ飛び込む。剣の閃光が、鎧の隙間を狙って数度、鋭く突き出される。しかし、韓瓊の鎧は分厚く、致命傷には至らない。逆に、韓瓊の肘打ちが高順の肩口を捉えた。
「ぐっ…!」
鈍い衝撃が走る。高順は歯を食いしばり、間合いを離れた。肩の感覚が鈍い。老獪な戦いぶりだ。鎧を盾にし、体術も交えながら、圧倒的な大刀の威力で押し切ろうとする。
「どうした!鎮北将軍とやら!これが貴様の力量か!」
韓瓊の挑発が飛ぶ。袁紹軍からは歓声が上がる。高順軍は静まり返った。
高順は息を整えた。未来の知識が頭をよぎる。様々な格闘技、人体の急所、効率的な殺傷技術…。しかし、目の前の老将は、そうした知識だけでは太刀打ちできない、古の戦場で磨かれた「生き残るための武」の塊だった。彼の動きには隙らしい隙がない。力ずくで押し切るか、一瞬の隙を突くしかない。
(…よし、仕掛けるか)
高順は剣を中段に構え直し、ゆっくりと韓瓊に歩み寄る。その歩みは慎重で、地を這う蛇のようだ。
「ほぅ…覚悟を決めたようだな」韓瓊も大刀を腰に据え、迎え撃つ体勢に。
二人の距離が詰まる。張り詰めた空気が、霧の中でピンと張り詰めた。
次の瞬間
「夫君!あんた何やってんのよ!!」
鋭い女の怒声が、凍りついた平野を切り裂いた。
高順も韓瓊も、思わずその声の方へと目をやった。
霧の中から、一騎の軍馬が駆け抜けてきた。馬上の騎手は、赤い戦袍を翻し、長い髪を乱して風になびかせている。その手には、韓瓊のものよりやや小振りながら、同じく威嚇的な斬馬刀が光っていた。
「董媛…!?」
高順は目を見開いた。彼女は晋陽にいるはずだった。
「大将軍!?」
張五の声も驚きに満ちている。
董媛は高順の陣前まで駆け抜けると、馬から飛び降り、ズンズンと歩み寄ってきた。その顔は怒りに紅潮し、目は剣のように鋭く高順を睨みつけている。
「あんたバカなの!?このボロ雑巾みたいな老いぼれに、一人で挑もうだなんて!将軍の分際で、みっともないったらありゃしない!」
「媛、ここは戦場だ!お前は何故…」
「何故じゃあないよ!」
董媛は高順の言葉を遮り、斬馬刀で韓瓊を指さした。
「あたしの旦那が死んだら、あたしの立場どうなると思ってるの!?正妻様の前で、『旦那を守れなかった無能な側室』ってレッテル貼られて、一生笑い者よ!それに…!」
彼女の口調は荒々しいが、その目は一瞬、高順の負傷した肩を捉え、鋭く光った。
「…それに、あんたが死んだら、あたし、困るんだからな!」
董媛は高順の前に立ちはだかった。斬馬刀を風車のようにブンッと一振りし、韓瓊を挑発するように言い放つ。
「おい、ボロ雑巾!相手変わるわよ!あんたみたいな古臭い爺さんの相手は、あたしで十分でしょ?ねえ、夫君?」
高順は言葉を失った。妻が突然戦場に現れ、自分を罵倒しつつ守ろうとしている。その図々しさと、どこか憎めない思いやりに、怒りと呆れと、わずかながらの温かさが入り混じった感情が湧き上がる。
「…随分と口の悪い娘じゃのう」
韓瓊は董媛の罵声にも微動だにせず、むしろ面白そうな目を細めた。
「董卓の娘と聞いたが、その剽軽さは父譲りか?しかし…」
韓瓊の目つきが急に鋭くなる。
「…戦場で女ごときが口を出すな!高順、貴様、女に守ってもらうつもりか!」
その言葉に、高順の目が冷たい炎をともした。彼は董媛の横に立った。
「董媛、下がれ。ここは俺の戦いだ」
「でも…!」
「下がれ!」
高順の声に、今度は命令の重みが込められていた。
「戦場の掟を破るな」
董媛は唇を尖らせ、一瞬躊躇したが、高順の側面に一歩下がった。しかし、その斬馬刀はまだ構えたままだ。
「…分かったわよ。でも、あの爺さんが卑怯な真似したら、あたしがぶった切るからね!」
高順は剣を再び韓瓊に向けた。
「妻の無礼、詫びる。しかし、韓瓊殿、貴殿の言葉は我が妻への侮辱である。これを看過することはできぬ」
「ふん、ならば、その剣で詫びさせてみよ!」
韓瓊の大刀が再び動いた。しかし、その動きは先ほどとは明らかに違っていた。董媛の乱入と罵倒が、老将の心の平静を乱したのか、あるいは高順の妻を守ろうとする姿勢に隙を見たのか。その一撃には、初めの完璧な統制が欠けていた。
高順は見逃さなかった。未来の格闘家の反射神経と、この高順の戦場で培った経験が融合する。韓瓊の大刀が振り下ろされる軌道を読み、わずかに体を捻り、斬撃の威力線を外れる。そして、剣を突くのではなく、柄で韓瓊の大刀の柄元を強打した。
「ぬっ!?」
予想外の攻撃に、韓瓊の構えが一瞬崩れる。高順はその隙を逃さず、地を這うように再び懐へ飛び込み、剣で韓瓊の膝裏を強打した。これは打撃技だがそれを斬撃に応用した。
「ぐおっ…!」
韓瓊は思わず膝をついた。その老躯に、一瞬の隙が生まれた。高順の剣先が、間髪入れずに韓瓊の喉元に届こうとする――!
「大将軍!」「韓老将軍!」
袁紹軍から悲鳴にも似た叫びが上がった。
しかし、高順の剣は止まった。刃先は、韓瓊の喉仏に触れんばかりの位置で静止している。高順の目は冷徹だった。
「…勝負はついたな、韓瓊殿」
一瞬の静寂。霧がゆっくりと流れる。韓瓊は膝をついたまま、天を仰ぎ、深いため息をついた。その老いた顔には、悔しさと、どこか清々しい諦念が浮かんでいた。
「…はっはっはっ!老いの涙金か!見事じゃ、高順!」韓瓊は豪快に笑い、大刀を地に放り出した。
「儂の負けじゃ!思い知ったぞ、貴様の力量!」
高順はゆっくりと剣を収めた。勝ったが、心から喜べる気分ではなかった。韓瓊は武人として堂々としていた。この老将を討つことが、本当に良い選択だったのか。
「韓瓊殿、武運を…」
高順の言葉が続く前に、異変が起きた。
「大将軍!南東より敵襲!曹操軍の旗印です!魏種、趙庶両将軍が激戦中!」
「なに…!?」
高順と韓瓊の一騎打ちに固唾を呑んで見守っていた両軍の兵士たちが、一斉にざわめいた。まさかのタイミングでの曹操軍の奇襲だ。
「くっ…曹孟徳、待ってましたとばかりに…!」
高順は歯を食いしばった。曹操がこの一騎打ちの隙を狙っていたのか。あるいは、韓瓊の挑発自体が、この奇襲の陽動だったのか。
「ふむ…」
韓瓊はゆっくりと立ち上がり、投げ出した大刀を拾った。その目は高順に向けられていた。
「どうやら、儂の役目はこれまでらしいな。若造よ、生き延びてみせよ。次に会う時は、真剣勝負を…楽しみにしておるぞ」
韓瓊はそう言うと、颯爽と自軍の陣へと歩き去った。袁紹軍は、韓瓊の敗北に動揺しながらも、曹操軍の来襲を知り、慌ただしく陣形を立て直し始めている。
「大将軍!どういたしましょう!?」
張五が駆け寄ってきた。
高順は頭をフル回転させていた。南東で魏種、趙庶が曹操軍と激突。主力をそちらに向ければ、正面の袁紹本隊に突かれる。しかし、袁紹軍は韓瓊敗退で動揺している…。
「張五!呉資、章誑に伝えろ!北東の兵力の半分を、魏種たちの援軍に回せ!残りで袁紹本隊を睨み続けろ!」
「へい!」
「汎嶷、張弘!朝歌の兵を二手に分けろ!一手は此処の予備に、一手は南東の戦線に急行しろ!」
「「はっ!」」
「儂は直に南東へ向かう!董媛!」
高順は振り返った。
「何よ!」
董媛はまだむくれていたが、目は真剣だった。
「貴様は…」
高順は一瞬言い淀んだ。
「…此処に残れ。袁紹軍の動きを見張っていろ。何かあれば、すぐに知らせろ」
「…分かったわよ」
董媛は不満そうだったが、重大さを理解したようで素直にうなずいた。
「でも、無茶はするなよ?死んだら許さないからな!」
高順は苦笑すると、手近な馬に飛び乗った。
「行くぞ!」
高順本隊の精鋭が、主将を先頭に南東へと駆け出した。董媛はその背を見送りながら、斬馬刀をしっかりと握りしめた。
「…バカ旦那め」
南東の河岸は、血と怒号の修羅場と化していた。曹操軍の波状攻撃が、魏種、趙庶が守る防衛線を激しく圧迫している。曹操軍の旗印の下、一人の巨漢が獅子奮迅の働きを見せていた。夏侯惇である。彼の手にする長戟は、高順軍の兵士を薙ぎ払い、防衛線に次々と穴を開けていく。
「押せえーっ!敵将の首を取れーっ!」
「くっ…!防げ!絶対に渡河させるな!」
魏種が必死に指揮を執るが、数的劣勢は否めない。
そこへ、地鳴りのような蹄の音が近づいた。
「魏種!趙庶!退け!」
高順の声が響く。高順本隊の精鋭が、楔のように曹操軍の側面に突撃をかけた。
「大将軍!」「援軍だ!」
高順軍の兵士たちの士気が一気に上がる。高順自らが先頭に立ち、長槍を閃かせて敵兵を薙ぎ倒していく。その剣さばきは、韓瓊との一騎打ちでさらに研ぎ澄まされたかのように鋭く、無駄がなかった。
「高順…!来たか!」
夏侯惇の隻眼が、遠く馬を駆る高順を捉え、輝いた。
「来い!元譲、貴様を討ってみせる!」
夏侯惇は長戟を高く掲げ、高順めがけて突進を開始した。その巨躯が敵兵を押し分けていく。
一方、少し離れた小高い丘の上。曹操は馬上から、戦況を悠然と眺めていた。側には、鋭い眼光の参謀荀彧、そして猪突猛進の夏侯淵が控えている。
「ふふ…高順、流石だな」
曹操は感嘆の声をもらした。
「韓瓊という猛者を退け、直ちに此処に転進…。統率力、決断力、武勇…申し分ない」
「しかし孟徳様」
荀彧が低く言った。
「彼が此処に釘付けになっている隙に、別働隊が洛陽に迫る計画は…」
「うむ、順調じゃ」
曹操はにやりと笑った。
「高順は、目の前の危機に全力を注がねばならん。背後を衝く好機だ」
「兄者!高順め、元譲兄貴とやり合っておりますぞ!」
夏侯淵が興奮して叫んだ。
「此処は儂も…!」
「待て、妙才」
曹操は手を挙げて止めた。
「高順と元譲の勝負は見物じゃ。何より…」
曹操の目が、乱戦の中で縦横無尽に駆ける高順の姿に釘付けになった。その瞳には、強い興味と、ある種の羨望の色さえ浮かんでいた。
「…あの男は、討つには惜しい。いや…宝だ。何としてでも、我が陣営に迎え入れたいものよ」
その時、一人の伝令が息せき切って駆け上がってきた。
「報、報告!朝歌方面より高順軍の別働隊、数千が南東戦線に突如として参着!我が軍の左翼を強襲中です!」
「なに!?」
荀彧の声に驚きが滲んだ。
「朝歌の兵を二手に…?まさか、ここまでの兵力を割くとは…!」
曹操の笑みが一瞬消えた。彼は地図を頭の中で駆け巡らせた。朝歌の守将汎嶷は凡将のはず。その凡将が、自軍の危険を顧みず、主力を二手に分けてまで援軍を送る決断などできるはずがない。
(…高順…。貴様は…)
曹操は丘の下、夏侯惇と激闘を繰り広げる高順の姿を見つめた。彼は、自軍の劣勢と曹操の狙いを見抜き、朝歌というリスクを冒してでも、ここに援軍を送り込むという豪胆な一手を打ったのだ。
「…ふっ」
やがて、曹操の口元に、むしろ楽しげな笑みが戻った。
「ますます、面白くなってきたわい、高順」
曹操は手を挙げた。
「伝令!別働隊には、予備の李典を当たらせよ!元譲には…高順と存分に戦えと伝えよ!」
「「はっ!」」
曹操の目はますます輝いていた。高順という男は、単なる武勇の将ではない。戦略眼を持ち、決断力に優れ、配下を最大限に活かす器量を持つ。まさに、乱世を生き抜く「将」の才に溢れている。
(洛陽急襲は…一旦、見送るか。これ以上、高順を刺激するのは得策ではない。何より…)
曹操は、激闘の中心で火花を散らす二人の勇将を見つめながら、心の中で呟いた。
(…この男を味方に引き入れる可能性を、潰したくはないのだ)
戦いはなおも続いていた。高順と夏侯惇の一騎打ちは、両軍の兵士すら見惚れるほどの激しさだった。しかし、高順軍の劣勢は、朝歌からの援軍と高順自らの奮戦で、何とか持ち直しつつあった。血で濡れた河岸に、乱世の将たちの戦いは、まだまだ終わる気配を見せていなかった。
この時、両者は終生の友になるとは予測していなかった。
韓瓊に関しては架空の人物なのであんまり出て来ないでしょう!此処は創作の場ですので余程常軌を逸して無ければ問題無いという前提で好き勝手に書かせてもらってます!