第一回 輪廻転世乃虚構 現代人回真古代
皆さん、初めまして
文章を書くのは得意ではないので気軽に読んでいただければ幸いです。
初投稿です。三国志のマイナー武将を重点に書いた物語です。
未だに描きかけです。忘れないように投稿しているだけです。
男は酒を煽っていた。もう何本飲んだのか、記憶の糸がすっかり切れている。視界は歪み、天井の明かりが幾重にもぶれて見える。店のカウンターには、少なく見積もっても数十本の空き瓶が、倒れかかるように積み上げられていた。琥珀色や深緑のガラスが鈍く光り、男の狂った飲みっぷりの証拠として無言で佇んでいる。店中が彼に注目していた。ざわめきが消え、箸の音さえ止んだ。ただ、男が喉を鳴らして流し込む酒の音と、荒い息づかいだけが響く。
「……お客さん、飲みすぎだよ。今日はもうこの辺にしといたら? 体が持たんって」
店主の小柄な老人が、恐る恐る近づき、震える声で諭す。男はゆっくりと顔を上げた。充血した目が、焦点を定めようともがいている。
「あぁん!? うるせぇ!金払ってんだ!飲ませろィ、おぉ!?」
唾を飛ばす怒声が、張り詰めた空気を引き裂く。
「おっさんキモんだよ!」
若い男が顰め面で吐き捨てる。
「何してんの? ほんと迷惑」
隣の席のOLが眉をひそめる。
「ぶっ殺していいか?」
筋骨隆々の男が拳を握りしめ、立ち上がりかける。
「止めとけ、世の中にあんなのいっぱいいるから! 手を汚す価値もねえよ」
その仲間が慌てて制止する。
「あーあ、大人って嫌だよね!何かあるとすぐお酒に逃げちゃうんだから!」
女子高生風の少女が鼻で笑う。
「いいか?将来はああいう大人にだけはなるなよ? 見てろ、ろくな死に方できねえからな」
父親らしき男が息子の頭を軽く叩いた。
罵詈雑言の矢が容赦なく降り注ぐ。しかし、男の耳には届かない。彼の意識は、喉を灼く安い焼酎の感覚と、押し寄せる自己嫌悪の波にのみ支配されていた。ただ、無になるために、もう一杯、もう一本。空き瓶の列がまた一本、増えた。
「お客さん……!」
店主の声が悲痛だった。
「うちの店にはもう、あんたに出す酒なんて置いてないよ! せめて明日…いや、出ていってくれ!頼む!」
その言葉が、男の中で最後の理性を断ち切った。
「クソが!だぁれが、てめぇんとこみてぇな馬のションベンかも分からんモン出す店に来るかぁ!」
男はぐらつきながら立ち上がり、カウンターを拳で叩きつけた。ガラスが軋む。
「出てってやるわい! ウッ! オェェェェェェッ!」
胃の中身が逆流し、床に飛び散る。悪臭とともに店内に悲鳴が上がった。
「あいつやりやがった!チクショウ! 掃除代よこせよ!」
店主が泣き声混じりに叫ぶ。
「ウッ! もらっちまった……オロロロロロ」
男は意味不明の声を上げながら、よろめいて店のドアを押し開けた。冷たい夜風が、熱くなった顔を撫でる。
外の暗がりで、数人の影が蠢いていた。いかにも危険な空気を纏った男たちだ。酔いの勢いで、男はその集団に突っ込むようにしてぶつかった。
「てめぇ、この野郎! 歩き方もできねえのかよ!」
「あぁ〜? なんだとコラァ?」
男は逆上して絡みかかるが、足元がふらつき、その場に崩れ落ちた。
「おい、酔っ払い相手に何してんだよ、時間の無駄だろ」
一人が呆れたように言う。
「それより、明日は『定例会』があるだろ? 準備に急ごうぜ? 親分に遅れたら、ただじゃ済まねえぞ!」
「けどよぉ! このクソジジイ、舐めやがって!」
最初の男が倒れた男を蹴ろうとする。
「おい! どうなっても知らないからな! ほっとけっての!」
別の男が強く制止した。
「安心しろよ」
別の、少し落ち着いた声の男が近づき、倒れた男の首筋を素早く撫でるように触れた。
「…ほら、酔いすぎてるみたいだ。まだ温かいし、金持ってそうな格好だ。ちょっとだけ介抱しとくからさ。ついでに、『感謝の印』も貰おっか」
悪そうな男たちは互いに目配せすると、最初に文句を言った男が不貞腐れた顔で、酔っぱらい男の片腕を引っ掛けた。落ち着いた声の男が反対側の肩を担ぐ。
「さあさあ、大将、こっちだよ。少し休ませてやるからな」
「へっへっへっ! これで、誰にも邪魔されなくなるなぁ〜」
彼らは重い足取りの男を半ば引きずりながら、明かりのない路地裏へと消えていった。闇が三人の姿を瞬く間に飲み込んだ。
路地の奥、ゴミが散らかる死んだような空間で、男は地面に放り出された。冷たいコンクリートの感触が頬に伝わる。
「さて、お楽しみの時間だぜ」
落ち着いた声の男が、手慣れた動作で男の上着の内ポケットを探る。ガサゴソ。革の財布を取り出した。期待に胸を膨らませて開くが、その表情はすぐに失望と怒りに歪んだ。
「嘘だろ〜? 見なり良さそうなのに、なんで42円しかねぇんだよ! コイツ、カードも何も入ってねえ! あ〜、この野郎…!」
彼は財布を男の顔に叩きつけた。
「腹立ってきた。てめえのせいだ! 殴らせろ!」
最初の怒りっぽい男が待ってましたとばかりに飛び出した。「いいぜ、兄貴! 思いっきりぶん殴ってやる!」
無言の暴力が始まった。靴底が腹部を蹴り上げる鈍い音。拳骨が顔面を打ち付ける乾いた音。倒れた男は最初、呻き声を上げたが、すぐにかすれる。意識は遠く、体は麻痺し、抵抗する力さえも奪われていた。ただ、無機質な衝撃が骨に響き、内臓を揺さぶる。殴る側の男も次第に息が上がり、動作が鈍ってきた。
「…ふぅ〜、ハァ…ハァ…」
男は手を止め、背筋を伸ばして大きく息を吐いた。
「…これぐらいにしとくか、さすがに死なれても困るしな。警察がうるせえからよ」
彼はポケットから煙草の箱とライターを取り出した。チャカッ。火が灯り、煙草の先端が暗闇で赤く輝く。男は深く、長く煙を吸い込み、肺に溜めてから吐き出した。白い煙が汚れた空気に溶けていく。
「…つまんねえ獲物だったな」
もう一口吸い終えると、男はその火のついた煙草を、倒れた男の脇のコンクリート上に無造作に投げ捨てた。火の粉が散る。
「…さ、行くぞ。明日の『定例会』に遅れねえようにな」
足音が遠ざかる。路地裏には、微かに燻る煙草の火と、微動だにしない男の姿だけが残された。煙草の火は次第に小さくなり、やがて消え、冷たい闇だけが支配する。時だけが容赦なく過ぎていく。
「…ウッ…」
意識が、深い泥沼の底からゆっくりと浮かび上がる。重い。鉛のように重い。全身が、特に頭が、激しい鈍痛に包まれている。まるで巨大な金槌で何度も叩かれたような痛みだ。目を開けようとするが、瞼が強力な接着剤で固定されているかのように重い。
俺は…誰だ? ここは…どこだ? 何を…している?
思考は断片的で、まるで砂を掴むように、すぐに指の間から零れ落ちていく。記憶が霞んでいる。最後に鮮明に覚えているのは…あの店のカウンター。安い焼酎。罵声。それから…外の冷たい空気。暗闇。何か…何かが起きた…。
「…うっ…」
呻き声が漏れる。自分の声だ。しかし、それはどこか違和感がある。低く、少し嗄れているように聞こえる。昨日…確か昨日は…友達数人と飲みに行ったんだよな? 久しぶりの再会で、つい調子に乗って…飲みすぎた。帰り道…確か、足元がふらついて、何かに躓いて…派手に転んだ。アスファルトの冷たさと、膝を擦りむいた痛みは覚えている。だが…そこからどうやって家まで帰ったのか? どうやってこの…ベッド? にたどり着いたのか? 全く記憶がない。謎だ。
二日酔い…にしては尋常じゃない。頭痛は激烈だし、体の節々、特に顔の左側や腹、肋骨のあたりがひどく痛む。まるで全身をトラックに轢かれたような感覚だ。風邪…? いや、それ以上に酷い。意識はまだ朦朧としている。思考がまとまらない。とにかく…体調が最悪だ。こんな状態で目覚める場所は、自分のアパートの狭い部屋のベッド以外にないはずなのに…なぜか違和感が拭えない。
運んでくれた人がいるんだろうか? だとしたら…本当に感謝しなきゃな。命の恩人だ。まずは…お礼を言わなきゃ。だが、今は…動くのも辛い。もう少し…休もう。ゆっくり目を開けてみよう…。
「将軍! 起きてくださいよ! お願いします!」
突然、耳元で甲高い声が響いた。若い、いかにも元気そうな声だ。近くにいる。しかも…「将軍」? 誰が将軍だ? 俺はただのサラリーマンだぞ? 夢か? 悪い夢か? うるさいな…。
「まったく! 起きないと、あっしらが困るんです! 早く起きて、一緒に戦場で暴れ回りたいんですがねぇ!」
「…うるせぇ…」
声にならない呟きが漏れた。
「…誰が、将軍だ…そんな…大層な身分じゃ…ない…」
「あら? 将軍、起きましたかぁ?」
別の声、今度は少し年配の、柔らかい、しかし芯のある女性の声がした。
「おお、良かった良かった。ちょっと待っててくださいや。すぐに先生を呼んできますやすんで」
「…いや、待て…」
言いたいことは山ほどあるが、喉が渇いて声がかすれ、体は言うことを聞かない。
「…うーむ…」
これは…ただの風邪や二日酔いじゃない。何か…おかしい。
意識が少しずつ、しかし確実にはっきりしてくる。ベッド…ではない。固い。布団のようなものはあるが、その下は堅い地面のような感触だ。匂いも変だ。埃っぽい、草のような、それに…獣のような…動物の毛皮の匂い? そして、天井…見上げてみる。丸い。太い木材が放射状に組まれ、その上に何か…フェルトか布のようなものが張られている。まるで…モンゴルのゲル? テント?
「…!?」
理解が追いつかない。
先程の年配の女性の声の主が戻ってきた。裾の長い、地味な服を着た小柄な女性だ。彼女の後ろには、初老の男が立っている。髭を蓄え、質素だが清潔な服を着て、背筋がピンと伸びている。医者…先生というのはこの人か。彼の目は鋭く、しかしどこか温かみも感じられる。
「将軍、入りますよー。先生をお連れしやした!」
女性が声を弾ませる。
初老の医者が一歩前に出て、じっと横たわる俺を見つめる。その視線は診察しているようだった。
「高将軍、お加減いかがですかな?」
声は低く、落ち着いている。
高…将軍? 誰のことだ? 俺は…? はっきり言いたい。良くはない。そして、俺は役者じゃない。何かのドッキリか?
「…うむ…」
口が動く。自分の意思とは少し違う、自然に出てくる言葉がある。
「…目が覚めた時よりは…良くなった…」
医者は微かに頷き、傍らに置かれた鞄のような物から、細長い竹筒と筆を取り出した。墨を含ませると、小さな木簡か、何かの薄い板の上に、流れるような筆致で文字をしたため始めた。集中した静かな時間が流れる。
「…これが、薬の名前と処方箋じゃ」
医者は書き終えると、それを傍にいた若い男——さっき「起きてくださいよ!」と叫んでいた張五らしき人物——に渡した。「早う薬屋へ持って行き、調合して持って参れ。急ぎじゃ」
「分かりやした! すぐ戻ります!」張五は木簡をしっかり握りしめ、風のように帳外へ駆け出していった。
「…あの…」
俺は喉の渇きを必死に抑え、医者に話しかけた。
「…すみません…一つ…尋ねても…よろしいでしょうか…?」
「はっ!」
医者は思わず小さく跳ねるように驚いた。
「将軍! どうか安静にしてくだされ! 熱は引いておりますが、まだまだ油断ならぬ。風邪を患い、大いなる労咳でおられたのですぞ。無理は禁物じゃ!」
「…すみません…」
もう少し強く言う必要がある。
「…自分のこと…自分のことを…忘れてしまいましたので…お教えください…」
医者の鋭い目が、俺の瞳を真っ直ぐに見つめた。その視線には一瞬、戸惑いと深い憐れみが浮かんだように思えた。そして、ため息とも言えない静かな息を吐くと、彼はゆっくりと語り始めた。
「…高順将軍。呂布呂奉先様の御配下にあって、『陥陣営』を率いられる、勇猛にして忠義厚きお方…。ここは、董卓太師の軍営の一角、将軍が御配下の兵を率いておられる陣営でござる…」
高順…? 呂布…? 董卓…? 三国志…? まさか…ありえない。冗談だろ? しかし、この天幕の構造、医者の言葉遣い、張五や女性の服装…全てが現実味を帯びて迫ってくる。医者の説明は続いた。今は初平元年、反董卓連合軍が迫り、陽人という地で戦いが近いこと…。高順は数日前、厳しい寒さの中で陣営の巡察中に倒れ、高熱と激しい咳に苦しんでいたこと…。
情報が洪水のように押し寄せ、混乱の渦の中で、一つだけ確かなことが浮かび上がった。これは夢でもドッキリでもない。ありえないことが起きている。俺は…死んだ? あの路地裏で? そして、三国志の時代に…高順として…転生した?
理解するまでに、長い沈黙が続いた。医者は心配そうに俺の様子を窺っている。頭の中は混乱と拒絶でいっぱいだった。信じられない。受け入れられない。
「…ってことは…」
声が震える。
「…俺は…三国時代に転生か〜…って…! なんで俺なの? おい! 神様よぉ! いるんだったら…返事しやがれってんだ! クソ…ゴミ野郎…!」
医者は目を見開き、慌てて手を振った。
「将軍! 将軍! お落ち着きを! 熱がまた…!」
「…はぁ〜…」
深い、深いため息が漏れた。現実を直視せざるを得ない。待てよ? 高順って…確かあれだよな? あの…呂布と一緒に最後は処刑された、呂布の数少ない忠臣…。嘘やん! 曹操や劉備、袁紹とか、天下の諸侯と戦うって? えええぇ〜! 辛いわ〜。無理だろ…。急に風邪がぶり返したような、悪寒と脱力感が全身を襲う。
「…そうか…俺は…高順…なのか…」
そう呟くと、医者の顔に安堵の色が走った。
「…おお、将軍、お思い出しになられましたか!」
「…うむ…少しずつ…な」そう答えるしかなかった。
張五が息を切らせて戻ってきた。
「大将! 先生! 戻ってきやした! 薬はこれで合ってるんですかい?」
医者は張五が差し出した包みを受け取り、慎重に開いて中身を確認し、匂いを嗅いだ。
「うむ、間違いない。良いものじゃ」
彼は張五に薬草の束を渡す。「これを、文火で一時辰は煎じるのじゃ。ゆっくりと、少しずつ飲ませよ。決して急いではいかん」
「へい! と、ところで文火って何ですかい?」
張五は真剣な顔で首を傾げた。
医者は思わず小さく笑った。
「ほっほっほ、これはワシの伝え方が悪かったのかのう? 弱い火、とろ火でな。一時辰、じっくり煮詰めて薬の力を引き出すのじゃ」
「分かりやした! ありがとうござんす!」
張五は薬草を抱え、再び駆け出していった。
俺は身体が鉛のように重く、ただ横たわり、やり取りを見ているだけだった。頭の中では、嵐が吹き荒れていた。高順…高順…。知っている限りの知識を必死にかき集める。呂布配下の将。実直で勇猛。特に精鋭部隊「陥陣営」の指揮官として知られる。濮陽の戦いでは曹操を追い詰め、陳宮と共に徐州強奪や劉備攻めに加わり、関羽、張飛を相手に戦術で破ったこともある…。夏侯惇を撃退したことも…。呂布の危機を何度も救った忠臣…。そして最後は…呂布と共に曹操に捕らえられ、処刑された。五、六年後には…斬首される…。
「…チッ…」
思わず舌打ちが漏れた。過酷すぎる。転生するなら、曹操や劉備、孫権みたいな主君か、せめてチート能力でもくれよ! なんで呂布の部下だよ! しかも、部下の中でも侯成や宋憲みたいに、最後に呂布を裏切って生き延びた連中じゃなくて、忠義を貫いて死ぬ方かよ! ああ…侯成たちの気持ち、痛いほど分かるわ…。でも、今の俺に裏切る勇気があるか? 呂布の怖さは半端ないだろうし…。
「…しゃあねぇ…」
小さな声で呟いた。後ろ向きに悩んでいても仕方がない。目の前の現実……まずは、この風邪から回復し、そして間近に迫る「陽人の戦い」を生き延びることだ。正史の細かい流れはよく分からない。演義の知識が頼りだが、それすら怪しい。陽人の戦い…確か、孫堅が華雄や呂布を破った戦いだ。負け戦だ。どうやってこの体と、高順の部隊を生きて帰すか…。
「張五…」
声を絞り出す。
「はっ! 大将、何でしょう?」
張五がすぐに近くに駆け寄った。
「…済まぬが…これから…戦の準備に…取り掛かれ…」
「けど、大将!」
張五の目が大きく見開かれた。
「その体じゃ…! まだ立てるんですかい?」
「…そんな事…言ってられるか…!」
少し強く言おうとしたら、激しい咳が込み上げた。
「ゴホッ!ゴホッ!…江東の虎…孫堅が…来るのだ…!」
「へぇ…? 孫堅…?」
張五の顔に困惑が走ったが、俺の必死の形相を見て、すぐに頷いた。
「へ、へい! わかりやした!」
張五が走り去ると、しばらくして、重々しい足音と甲冑の触れ合う音が帳内に響いた。六人の男が入ってきた。皆、武人の精悍な面持ちで、甲冑の上に戦闘服を着込み、腰に刀や剣を佩いている。彼らが一礼すると、帳内の空気が引き締まった。呉資、章誑、汎嶷、張弘、高雅、趙庶張五がさっき教えてくれた高順直属の隊長たちだ。
「皆、済まぬな…」
俺は無理に体を起こそうとしたが、女性に押さえられた。
「…病により…しばらくは…迷惑をかけた…」
「いえいえ、とんでもございません!」
がっしりした体格の呉資が深く頭を下げた。
「将軍の病が治られただけでも、我が『陥陣営』の士気はぐんと上がります! どうかご無理をなされませぬよう!」
「その通りでございます!」
細身で眼光鋭い章誑が続く。
「我らは高将軍の御指揮の下でこそ、真価を発揮できるのです!」
「早く戦場に戻りたいですな!」
若々しい顔の趙庶が拳を握りしめた。
「次は、どのような戦いでしょうか?」
落ち着いた口調の汎嶷が問う。
皆の熱い視線が俺に注がれる。張弘と高雅も深く頷いている。期待と信頼の重みが、逆に恐怖となってのしかかる。俺は軍事の素人だ。戦争なんて、テレビゲームや小説の中だけのものだ。喧嘩すらまともにしたことがない。こんな連中を率いて戦えるわけがない!
「…我が部隊は…何人いる…?」
まずは現状把握だ。
高雅が答えた。
「はい、将軍。歩卒合わせて三千人はおりますが、『陥陣営』の精鋭は七百余騎。呂都尉(呂布)様の直属精鋭『幷州騎兵』に次ぐ、本軍随一の戦力でございます!」
三千…! しかも精鋭の騎兵七百! 責任重大すぎる。乗れるか、馬に! 俺が乗れるのは、せいぜい自転車か、四輪のオートマセダンまでだ! ここは中世だぞ! 馬は意思を持った生き物だ!
「…そうか…分かった…」
必死で平静を装う。
「…皆…それぞれ百騎…いや、百人ずつ…率いて…戦に備えよ…」
騎兵の指揮などできるはずがない。細分化して、各隊長の裁量に任せるしかない。
「「ははっ!」」
六人が一斉に力強く応えた。
「…張五…残れ…」
「へい、何でしょう?」
皆が退出し、帳内に張五だけが残った。緊張が一気に高まる。
「…今から…」
声が詰まる。恥ずかしいが、命に関わる。
「…馬の…乗り方を…教えてくれ…」
「へい!」
張五は即座に、むしろ嬉しそうに応えた。
ああ…こいつ、絶対に頭が単純すぎる! 疑えよ! 大将が突然馬の乗り方を忘れたなんて、おかしいだろ! まあ…良い奴かもしれないけど…ここは一度、ちゃんと疑うべき場面なんじゃないのか…?
張五に支えられ、よろめきながら帳外に出る。冷たい外気が頬を刺す。陣営は活気に満ちていた。馬の嘶き、武器を研ぐ音、兵士たちの練武や談笑する声。巨大なテントがいくつも立ち並び、各所に炊事の煙が立ち上っている。張五が一頭の逞しい栗毛の軍馬を引いてきた。
「大将、これが愛馬の『驍風』でやす。相変わらずお見事なお馬ですな!」
見るからに猛々しい馬だ。大きな目で俺をじっと見ている。足がすくむ。張五の補助でなんとか鐙に足をかけ、鞍に跨ろうとする。ぎこちない動作。しかし、不思議なことに、鞍に腰を下ろした瞬間、体が自然に反応した。足が自然に鐙を踏み込み、手綱を持つ手に力が入る。重心の取り方、姿勢…まるで長年染みついた習慣のように、体が覚えているのだ。
「おお! 流石は大将!」
張五が感嘆の声を上げた。
「病み上がりとは思えねえ、見事なお乗りっぷりです!」
「…む…」
驚きと安堵が入り混じる。もしかして…高順の体の記憶が…?
張五が槍を持ってきた。長く重そうな鉄槍だ。ためらいながら手に取る。すると、またしても…手首が自然に回り、重さを巧みに分散し、安定して構えることができた。剣を抜けば、鞘を払う動作が滑らかで、刃筋が自然に定まる。弓を引けば、弦を引く指の位置や、的を見据える目線が、意識せずとも決まっていく。
「…よし…」
小さく呟いた。これは…使えるかもしれない。少なくとも、見せかけだけは…。
「張五、張五!」
呼びかけると、すぐに駆け寄ってきた。
「ゴフッ!ゴホッ!」
「大将! 大丈夫ですかい⁉︎ 無理は禁物で…!」
「…俺は…どれほど…寝ていた…?」
張五の顔が曇った。
「…丸三日…でございます」
三日…結構寝たな。まあ、今はそれどころじゃない。むしろ…この先、五、六年後には斬首されるかもしれないんだ。過酷すぎる…。転生するなら曹操や劉備のような主役級か、せめてチート能力をくれよ! 呂布の部下なんてやってられるか! ああ…侯成や宋憲の気持ち、痛いほど分かる…。でも、今は目の前の戦いをどうにかしなければ。陽人の戦い…負け戦だ。どう撤退するか…。
「…急げ! 呉資ら六人を…再び…俺の営帳に…呼んで参れ…!」
「へ、へい!」
再び六人の隊長が集まった。彼らの顔には、早くも具体的な指示を期待する熱意が漲っている。俺の心臓は高鳴り、冷や汗が背中を伝う。この体の中身が入れ替わっている偽物だ…。バレたら終わりだ。どうしよう…。
「…皆…済まぬな…」
声を震わせずに話すのに必死だ。
「…病み上がりで…万全ではないが…これから…どう動くかを…指示出す…きっちり…聞け…」
「「はっ!」」
斉唱のような返事が返る。
「…まず…」
覚悟を決める。
「…今回は…負け戦だ…」
一瞬、帳内の空気が凍りついた。六人の顔に驚愕と疑念が走る。高順が負けを前提に話すことなど、まずありえないからだ。
「…将兵の…ほとんどは…死ぬだろう…」
重い言葉を続ける。
「…ならば…我々は…いかに…少ない死傷者で…軍を退かせるか…にかかっている…!」
呉資が口を開こうとしたが、俺は遮った。
「…良いか…?」
目を見開き、一人ひとりの顔をしっかり見据える。
「…戦場で…一番みっともないのは…死ぬことだ…! 逃げること…ではない…! 人間…生きてれば…いつでも…巻き返せる…! いかなる時も…死ぬことは…許さん…! 戦うのは…どうしようもない時…だけだ…!」
沈黙が支配した。六人の表情は複雑だった。困惑、驚き、そして…従来の高順のイメージとは違うが、兵を思うその言葉に、どこか納得しつつあるような…。
「…は、はっ…!」
返事は前ほど力強くはなかったが、皆が頷いた。
「…張弘、高雅…!」
「はっ!」
「…砦周辺の…地形を見てこい…」
頭をフル回転させる。撤退戦の知識は乏しいが、ゲームや映画の記憶を頼りに…。
「…退路の確保と…敵の撹乱に…役立つ地形…谷道や…森…を探せ…」
「畏まりました!」
「…呉資、章誑、汎嶷、趙庶…」
「…お前たちは…胡軫将軍の…部隊に…紛れ込め…」
胡軫は総大将だが、華雄や呂布との確執で有名だ。彼の部隊は混乱しやすいはず…。
「…張五に…合図を…させる…そこから…撤退しろ…良いな…!」
「はっ!」
「…以上だ…」疲労が一気に押し寄せた。「…休息しつつ…いつでも…動けるように…」
「「はっ!」」
六人が退出した。帳内に独り残り、深いため息をついた。病み上がりの体に、精神的な重圧がどっとのしかかる。これで最低限の布陣はできた…か? あとは、総大将の胡軫、副将の華雄、そして最強の呂布がどう動くかだ。呂布はワンマンで動き、胡軫や華雄と反発する…。考えるのもかったるい…。
「…ふぅ…」
もう…寝るしかない。高順になった男は、そのまま硬い寝床に倒れ込んだ。緊張と疲労が限界だった。意識が遠のく。奇妙なことに、汗が噴き出し、熱が引いていくような感覚があった。
目を覚ますと、辺りは薄暗かった。陣営の外からは、早朝の気配——鳥の声や、遠くの練武の声が聞こえる。熱はすっかり引いている。体はまだ重いが、動けないほどではない。むしろ、寝汗でべとつき、動きたくなった。昨日の緊張が嘘のように、体が軽い。
「…よし…」
起き上がる。少しふらつくが、立てる。
帳外に出る。空はまだ薄墨色で、東の山際がほんのり白み始めている。冷たい空気が肺に染みる。何人かの兵士が、武器を手入れしたり、馬に水をやったりしている。皆、一様に驚いた顔で俺を見る。
「おお! 大将! 起きておられたんですかい!」
張五が駆け寄ってきた。彼も槍を磨いていたようだ。
「…む…少し…筋骨をほぐそうと…な…」
「へぇ〜! 流石です!」
張五が目を輝かせる。
「でも普段は、呂都尉のお相手なさってるもんですから、てっきりだいぶお強いと思いますが? あっしなんか、槍の素振りだけで息切れしちまいますよ」
「…!?」
呂布…と手合わせ? そんな事あったのか! 知らなかったぞ! いざ「高順、手合わせだ」とか言われて、素人丸出しだったら即バレ確定じゃないか! 「…聞いてねぇよ…」とキレそうになる自分が目に浮かぶ。
「…だからこそ…よ…」
必死で取り繕う。
「…都尉と…いつ…手合わせを…するか分からぬ…寸分の…油断も…できん…」
「へぇ…」
張五は感心したように頷いたが、すぐに顔を曇らせ、地面を蹴る。
「…だったら…あっし、大将に一つお願いがありやして…聞いて頂けやすかい?」
「…言ってみろ…」
「あっしは…」
張五は俯き加減で、声を潜めた。
「…自分の武芸に…自信がなくて…正直…怖くて…」
「…ほう…?」
少し意外だった。
「…それで…良く…今日まで…生きてこれたな…?」
「へい…」
張五は自嘲気味に笑った。
「…情けねぇ話なんですがね…戦場でいつも…後ろの方で…震えてるだけなんです…死ぬのが…怖くて…」
「…そうか…」
彼の率直な告白に、逆に親近感が湧いた。俺も同じだ。死にたくない。
「…だから…大将!」
張五が突然、顔を上げ、真剣な眼差しで俺を見据えた。
「…俺に! 槍の扱い方を教えてくだせぇ! 少しでも…強くなりてえ! 生き残りてえんです!」
その切実な願いに胸を打たれた。教える自信など全くない。しかし、教えなければ、彼は確実に死ぬ。彼の立場は、高順直属とはいえ、精鋭「陥陣営」の中でも下っ端だ。戦場では消耗品同然…。
「…よし…」
頷いた。一人で悩むよりも、動いていた方が気が紛れる。
「…一人で…やるより…人がいた方が…良いしな…」
陣営の片隅の空き地に立つ。張五に槍を持たせる。まずは基本…刺す、払う、受け…だろ?
「…まず…腰を落として…構えて…見ろ…」
張五は素直に腰を落とし、槍を中段に構えた。しかし、その形はどこか頼りない。
「…で、でも大将…」
張五が申し訳なさそうに言う。
「…これ…いつもやってる事だと思いやすが…なんか…違うんですかい…?」
「…基本が…何だ…!」
少し強く言う。焦っているのは俺の方だ。
「…お前は…あれか…? うちの…呂都尉より…強いのか…?」
「い、いえ! とんでもねえ!」
張五が慌てて首を振る。
「…じゃあ…やれ…」
俺も槍を取る。体が自然に構える。
「…俺も…一緒に…やる…」
「へい!」
張五の槍が前に突き出される。遅い。軌道も単純だ。俺の体が反応する。軽く左に踏み込み、張五の槍を自分の槍で外側から払い流す。ガシャン! 金属の触れ合う鋭い音が朝の空気に響く。
「ほおっ…!」
張五が驚いた声を上げる。
「…次…受け…だ…」
俺が槍を上段から振り下ろすふりをする。張五が必死に槍を横に構えて受けようとする。ガシャン! 重い衝撃が走る。張五の足がぐらつく。
「…腰を…入れる…!」
自然に言葉が出る。
「…足を…踏ん張れ…!」
「は、はい!」
張五が歯を食いしばる。
刺突、払い、受け…基本動作を繰り返す。張五は不器用だが、真剣だ。目が必死に動きを追っている。徐々に、彼の動きに無駄が減り、力の入れ方にコツが生まれてきた。センスは悪くない…。さすが呂布軍の一兵卒だ。「強将の下に弱卒なし」という言葉が頭をよぎる。
「ぜぇー……ぜぇー……大将ぉ…」
張五は汗だくで息を切らせている。
「…どうでしょう…?」
「…うむ…」
少し驚いた。彼の上達ぶりに。
「…筋が…良いな…!」
これは本心だ。
「…鍛錬を…怠るなよ…?」
「へい…!」
張五の疲れ切った顔に、満足そうな笑みが浮かんだ。
「…ありがとう…ございます!」
「大将! 大将! 起きてくだせぇ!」
激しい揺さぶりで目が覚める。張五の必死な顔がすぐ近くにあった。帳内はまだ薄暗い。
「…うーん…」
「呂都尉がお見えになられましたぞ! 本営からお呼びです!」
「…誰…?」
次の瞬間、帳幕が勢いよく開かれた。外の明るさが差し込み、そこに立つのは…。
背が高い。異常なほど背が高く、肩幅が広い。漆黒の甲冑が、鍛え抜かれた肉体を覆い、朝日に微かに光る。顔は端正だが、その双眸は、鋭い鷹のような眼光を宿している。
「……ほう?」
低く、冷たい声が響いた。
「貴様、いい度胸しておるではないか! 我が呼び出しに即応せぬとはな!」
「…!?」
全身の血の気が引く。呂布だ…! 本物の呂布が目の前にいる…! 圧倒的な存在感と殺気が、帳内の空気を一瞬で凍りつかせた。ゴキブリの触角…ねぇじゃん!
「…フォウ!?」
思わず変な声が出た。
呂布の細い目がさらに鋭くなる。
「ほう? 風邪を患ったと聞いたが…」
彼が一歩、帳内に踏み込む。張五が思わず後ずさる。
「…思ったより、元気そうだな?」
「…!」
必死で平静を装う。心臓が口から飛び出そうだ。
「…良き…医者に…巡り会えたものでして…」
声がかすれる。
「…良くなり…申した…」
「…そうか」
呂布の視線が、俺の全身をじっと見下ろす。評価しているのか、疑っているのか。数秒間の沈黙が、永遠のように長く感じられた。
「…間もなく胡将軍が昇帳する。貴様も本営に来い」
「はっ!」
反射的に答えた。
呂布は何も言わず、くるりと背を向け、帳外へと去っていった。重い空気がふわりと抜ける。張五がへたり込みそうになっている。
「…ふう…」
思わず深い息を吐いた。
「大、大将…こりゃ行かなきゃまずいッスね…」
張五の声が震えている。
「…うむ…」
頷く。行きたくない。死ぬほど行きたくない。しかし、行かなければ死ぬ。呂布を無視すれば、即座に処刑されかねない。
「…行きたくは…ないがな…」
帳外に出る。空は明るくなり、陣営は完全に目を覚ましていた。兵士たちの動きが活発だ。本営…総大将胡軫の陣幕は、一段高い場所にあり、巨大な呂字の旗がはためいている。
足を進める。固い地面の感触。冷たい朝の空気。馬の匂い。武器の軋む音。全てが現実だ。いつまでも夢だと思っていては、永遠に夢の中に囚われたまま死ぬ。まずは…生き残る。この一瞬、この一日を生き延びる。それだけだ。
たとえこの先、下邳の城門で斬首される運命が待っていようとも。
一応、反董卓連合から開始になります。
風寒は風邪、肺炎です。この時代医療技術も現在と比べたら無いも同然なので風邪一つでも命取りです。