10
「大丈夫だった?」
オリヴィアが自身に与えられている部屋に戻って間もなくして、サイラスがやってきた。
テイラーがお茶を用意して控室に去ると、サイラスは心配そうな顔でそう問いかけてくる。
オリヴィアはピンときた。
「もしかして、王妃様のお部屋にティアナ嬢を連れてきたのは――」
「連れてきたわけじゃないよ。ただ、遣いをやって母上とオリヴィアがお茶会をしているという情報を与えただけ」
「……サイラス殿下」
「ごめん。でも急いでいたんだ」
(急いでいた?)
オリヴィアは首をひねる。
サイラスは茶請けのスコーンを手に取ると、二つに割ってクロテッドクリームを塗った。さすが親子。王妃と塗り方や塗ったクリームの量がほぼ同じだ。
「単刀直入に訊くけど、母上について『どう』思った?」
「頭のよろしい方かと」
「本音は?」
「……腹の底が見えない方です」
「そう。その通り!」
サイラスはぱちんと指を鳴らした。
「母上はタヌキなんだ。昔から。そして、何よりも兄上を溺愛している」
「溺愛?」
「そう」
サイラスはスコーンを咀嚼すると、どこか拗ねたように口を尖らせた。
「だから、母上は兄上の将来の地盤が少しでも揺るぐことを是としない。つまり、今回の婚約破棄の騒動と、レモーネ伯爵令嬢との兄上の婚約を、面白く思っていない」
「と、言うと?」
「あわよくば、君と兄上を再婚約させるつもりでいる」
「え……」
そんな馬鹿な。一度婚約破棄をして、もう一度婚約を結びなおすなんて、それ相応の理由がない限りは認められないだろう。今回の強引な婚約破棄騒動で、王太子への批判が集まっているとも聞く。この状況でオリヴィアとの再婚約を押し切ろうものなら、議会が荒れる。下手をうてば廃太子の可能性だってあるだろう。
だが、サイラスの言うとおりであれば、王妃は「王太子の将来の地盤が少しでも揺るぐことを是としない」。廃太子にならない方法は考えているのだろう。
サイラスは肩をすくめた。
「もし君が母上の前で馬鹿をやってくれれば、状況は変わったかもしれないけれど……、君がそうしてくれるはずはなかったから、だから手っ取り早くレモーネ伯爵令嬢を使って邪魔をさせたんだ」
なるほど。あの場でオリヴィアは「馬鹿」を演じることが正解だったのだ。王妃の問いにすべて不合格で返していればよかったのだ。……まさか王妃がそのようなことを考えているとは知らず、選択を間違えた。
(ずっと『馬鹿』を演じていたのに、一番大事なところで失敗するなんて……)
王妃は試していたのだろう。オリヴィアの言った、「王太子の欠点を補えるもの」にオリヴィア自身が値するかどうかを。
サイラスはきゅっと唇を引き結ぶと、テーブル越しにオリヴィアの手をとった。
「僕と婚約して」
「殿下……」
「待つつもりでいたけれど、うかうかしていたら母上に全部持っていかれる」
サイラスが顔をゆがめる。それほどまでに王妃は厄介な人物なのだろうか。
サイラスに本気で求婚されては、オリヴィアだって断れない。王子の求婚をあっさり断ることなどできるはずがないからだ。
だが、その気にさせて見せると言ったサイラスの言葉は、オリヴィアには未知でまだ理解が及ばない。貴族は政略結婚が常。公爵家にとってこの結婚以上の良縁はないだろう。王太子アランはお断りだ。ならば――
「待ちなさい」
オリヴィアが頷きそうになったそのとき、低い声とともに静かに扉が開いた。
苦笑を浮かべて部屋に入ってきた相手を見て、オリヴィアは息を呑む。
「……陛下」
「サイラス、強引な真似はいけないな」
泰然と部屋の中に入ってきた国王に、サイラスが苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた。
オリヴィアは立ち上がり、呼び鈴で侍女のテイラーを呼ぶと、国王のためのティーセットを用意するように告げる。
王はサイラスの隣に腰を下ろすと、不貞腐れたような表情をしている息子の額を小突いた。
「私との賭けはどうした。まったく」
「……賭け?」
オリヴィアが首をひねると、国王はにやりと笑って、そして種明かしをはじめた。
「まず、どうして私がそなたとアランの婚約破棄を承認したか気にならなかったか?」
王は優雅に紅茶を口へと運びながら、いたずらっ子のような表情で訊ねてきた。
「それは、まあ……」
普通に考えて醜聞以外の何でもない王太子の婚約破棄。それを王が認めたのには、多少なりとも疑問を持っていた。オリヴィアは確かに馬鹿のふりはしていたが、大きなミスは何もしていない。婚約破棄されるような失敗は何もなかったのだ。
何の非もない婚約者を、強引な理由で婚約破棄に持ち込むのは、さすがにまずい。一見それなりに取り繕った罪状も、ゆっくり考えればおかしいところばかりだ。
(というか、内容ちょっとおかしかったし。あれ、殿下とティアナのどちらが考えたのかしら?)
オリヴィアのことを「貴殿」と呼んでみたり、ティアナのことを「教養高き」と自分の父親に言わせてみたり。失笑を我慢した大臣たちも多かっただろうと思う。まさかあの罪状が大々的に出回っているとは思えないが、少なくとも高官たちはあの部屋にいた。つまり、全員が耳にしているのだ。王が何も言わなかったから誰も声を上げなかったが、王が一言でも待ったをかけていれば、口々に罵声が飛んでいただろう。それほどまでに、ひどかった。
だから、あれをそのままにしておいた国王は何かを「企んで」いたはずだった。けれどもオリヴィアはそれについて問うつもりはなかったし、自分には何ら関係のないことだと思っていたのだが。
(この口ぶりだと、わたしも思いっきり関係してくるのかしら……?)
知らないうちに面倒なことに巻き込まれていたらしい。全く迷惑な話だ。
「その種明かしをする前に、一つ、私と王妃の対立について話しておこう」
「対立?」
それは穏やかならぬ単語だ。けれども国王はにこにこ笑っている。
サイラスがあきれたようにため息をついた。
「対立と言っても、くだらない夫婦げんかの延長だよ。というか、この二人も賭け事をしているんだ。うちは両親ともに賭け事が好きでね」
「くだらないとかいうな。この国にとっての一大事だろう」
「その一大事を賭け事にしているんだから、くだらないんだよ」
サイラスは国王と王子という立場ではなく、すっかり父と息子の会話をしている。普段王の前では崩さない敬語も完全に取り払って。つまりこれは、公的であって公的ではない会話。いや、公的にはしてはいけない会話。そういうことだろう。
「そういうな。オリヴィア。端的に言えばだな、王妃はアランを、私はサイラスを王にしたい」
「……え」
そんな「今日はいいお天気ですね」と言わんばかりにのほほんとした口調で告げられるようなことではないだろう。オリヴィアは唖然とした。
「だが、そなたも知っての通り、アランは『一人』では王の器に足らん。少なくとも今は。そしてサイラスは王になりたくない。サイラスがこの様子なので私もあきらめかけて、王妃が賭けに勝ちそうだったが、ここにきて状況が変わった」
「殿下が、わたしとの婚約を破棄したからですか」
「そうだ」
なるほど。ということは、王は「わざと」今回の婚約破棄の騒動を王太子の好きにさせたということになる。それによって、次手で王手だった戦況が一気に振り出しに戻るからだ。だが、それだけでは王の有利にはならないだろう。なぜならサイラスは王になりたくない。つまり、アランがどれだけ不適合者のレッテルを貼られようと、代わりになるサイラスが拒否するかぎり、王の思い通りにはいかない。
オリヴィアがそう告げると、国王はにやりと笑った。
「そう思うだろう? だが、勝利の女神は私に微笑んだ」
「……何が勝利の女神なんだか」
「そういうな。第一賭けを持ち込んだのはお前だ」
また賭け。オリヴィアはあきれながらも、続きを促した。
サイラスがじろりと国王を睨んでから、渋々と言ったように口を開いた。
「ある条件下においてであれば、王になってもいいと言ったんだよ。それと引き換えに、あの場で君に求婚する許可を得た」
「ある条件……」
オリヴィアはゆるゆると目を見開いた。まさか――
「そう。君が僕と結婚してくれたら、僕は王になってもいいと言ったんだ。ただし、それは強引な命令ではなく、君が心の底から僕と結婚してもいいと思ったときに限るけれど」
オリヴィアは真っ赤になった。
サイラスは笑った。
「だから言っただろう。僕は『どんなことをしても君を手に入れる』。僕の将来なんて君が手に入るなら些細なことだよ」