# -16
●焔月/四日
プリオール:ラースペント街境門前
……いつの間に気を失っていたのだろう。ゆっくりと目を開ける。やはり辺りは紫の霧に包まれていた。……もしかして死んだのか?ふとそう思い、体中に感覚を行き当たらせる。
痛みは無い。手元にはナイフの感触がある。この感覚が生きていると言うことは、どうやら死んではいないようだ。耳を澄ませば地響きも聞こえなくなっていた。
ゆっくりと体を起こす。というかなんで地べたで倒れているんだ?
「っ!?」
体を起こして、まず見えたのはあの大男だった。ボクは驚き、すぐさま立ち上がりナイフを構える。だが男は動かない。男の顔をよく見ると先程までの笑みは無く、目は虚ろで、苦痛でなのか顔を酷く歪ませていた。額からは大粒の脂汗がにじみ出ているが、それを拭おうという素振りはない。
《ど、どういうことだ………!? この神の力が―――》
男は意味深なセリフを残し、千切れた触手と同じように紫の霧となり霧散していった。
……一体気絶していた間に何が起きたのだろう?震える手を握り締める。
シュッルルルル
そうだった。触手が迫りくる音で我に返る。あの男が消えたと言っても、ここはまだ敵の領域内だ。飛来する触手にこれまでと同じようにナイフで切り付ける。
ガキッ!
まるで何か鉄を切りつけたような、そんな手ごたえを感じた。
「―――えっ!?」
触手にナイフが通らない……? 強度が増しているのか? ボクはなんとか触手を上に弾き、攻撃の軌道だけ変更させる。触手は霧の中に帰っていく。
ボクは切れなかった触手を追い、今まで通りに霧を切る。だが霧は何事も無かったかのように宙を漂う。……緑色に変色しない……。
「一体なにが……痛っ!?」
しまった……。足に触手が噛み付いている。
ボクはすぐさまもう片方の足で触手を踏みつけ、触手を圧し潰す。だが触手は足と地面の間をうまくすり抜け、霧の中に帰っていく。幸い大事には至らなかったが、服の下からは血が滲んでいる。
「全く……なにがなにやら」
流石にシステムを理解していないのに酷使しすぎたか……。未だに何が何にどう作用するか理解できていないが、恐らくエネルギー切れなのだろう。
しかし……。ボクはナイフを見つめる。これからどうやってこの目の前の霧に太刀打ちすればいいのだろう……。
霧の至る所から無数の触手が現れ、一斉に襲い掛かってくる。ボクはナイフで応戦するも弾くことすらままならず、腕が、脚が、肩が、そして首が喰い千切られる。
そんな錯覚にすら陥る。思わず体中が強張ってしまう。
「~♪」
そう途方に暮れていた矢先、笛か何かの、楽器の音色が聞こえて来た。ボクは音が聞こえる方向に体を向ける。
「げっ!」
どこからかゼブルの苦虫を噛み潰したような声が聞こえて来た。この笛の音を奏でている者とゼブルは知り合いなのか?
楽器の音色は、先ほどの笛の音を筆頭に次々と違う楽器の音色が引き連れ、収束し、やがて一つの音楽を紡いでいく。
「綺麗な音……」
率直な感想が口から零れ落ちる。音楽なんて素直に楽しんだことなんてないけど、音楽が好きな奴って毎回こんな斬新な感覚を味わってるのかな……。
《くっ……やめろっ! いますぐこの不快な音を止めろ!!》
その綺麗な音色を掻き消すようにどこからか男が悶え、怒鳴り上げる。だが音楽は止まらない。
しかし奏者はその感想に不快感を覚えたのか、すぐに抗議の声が飛んできた。
「不快な音とは失礼な。貴方、音楽を楽しむ心が成ってませんね?」
女性の声が男を諭す。どうやらこの音楽を奏でているのは女性のようだ。
「まぁ、別に止めてもいいんですよ? ですが、その前にこの霧消してくださらない?」
《黙れ!》
「ふふふ」と笑いながら女性は男にそう提案する。だが対する男は聞く耳を持とうとしない。女性の声がした方向から地面を殴る音が聞こえた。
「全く、女性に暴力を振るうなんて……なにかにつけてマナーがなってませんね」
女性の呆れ果てた声が響く。どうやら無事のようだ。女性の声と共に音楽の音がワントーン下がる。
「ほら、どうしますか? 私あんまり気が長い方ではないので、早くしないのなら、それ相応な状態になることは覚悟してください」
うん、ゼブルが恐れるのも頷ける。
男は怒りの色が混じったうねり声をあげる。八つ当たりでこちらに攻撃が飛んできてもおかしくない状態だ。
《……くそ……》
だが、どうやら無駄な抵抗をやめ、白旗を上げたようだ。男の捨て台詞が聞こえると共に紫の霧はゆっくりと晴れていった。