5
魔王アダムスは激怒している。エヴァリンだって負けていない。白魚のような両手で、魔王アダムスの逞しい首を締めながら怒鳴った。
「テメェは……テメェはよォ! なにしてくれやがるんだ、本当に!
本気でぶち殺されてぇのか、アアン!? 無神経で不躾で、まるでダメな男だとわかってはいましたが、まさかこれほどとは……! この娘のこのありさまはいったいどういうことなのです!」
黒い爪に飾られたエヴァリンの指先がマキュリーを指し示す。魔王アダムスは、ビクビクしているマキュリーをしげしげと見つめてから、エヴァリンを宙づりにして揺さぶった。
「なんだ! マキュリーのなにが気に入らぬ!? 最高に可愛らしい娘だ。この俺様にそっくりで! この完璧な俺様の完璧な愛娘に、不満や不足があるのなら言ってみろ!」
エヴァリンはカッと双眸を見開いた。その目は怒り猛り、血走っている。
「てめぇの子育てには不満と不足しかねぇンだよ! あの娘をよくよくご覧なさい! 艶がなく痛んでボサボサの御髪! まったく体格にあっていない流行遅れのネグリジェ! 挙動不審で洗練されていない立ち振る舞い! 高貴な客人を迎える良家の令嬢にあるまじき体たらくですよ、これは! 気高く美しい薔薇であることは、七司族に生まれたレディの高貴なる義務。この娘は貴方の、魔王アダムスの息女なのですから、この月雲ノ上の誰もが憧れる淑女になるべきなのです! この娘ならなれるのです! それを、貴方という魔人は……! 貴方だって、おバカさんではありますけれど、そこのところはしっかりしているでしょうに。どうして、いざ我が子を育てるとなると、こうなってしまうのでしょうね!? わたくしと致しましては、育児放棄を疑ってしまうんですが!?」
散々な言われようである。マキュリーは恥ずかしくて、玉座の背凭れに隠れた。
野の草のように伸び放題の蓬髪を、手櫛でとかしてみるけれど、強情な癖っ毛はちっとも素直になってくれない。おさえつけようとすれば余計に反発して、あっちこっちへ跳ね返る。
着古して、よれよれになって、くたびれてしまったネグリジェの皺を伸ばそうとしてみるけれど、徒労に終わる。ネグリジェの裾を引っ張って、棒きれのような脚と飛び出した膝小僧を出来る限り隠しながら、マキュリーはひとりで煩悶する。
とても恥ずかしい。マキュリーは魔王アダムスの娘なのに、あまりにも無様で惨めだ。魔王アダムスに強く諫言するエヴァリンの指摘にマキュリーは返す言葉もない。何故なら、それが的を射ているから。しかし、魔王アダムスは違った。
「何を言うか! こどもはやりたいようにやらせておくのが一番良いのだ! この襤褸はマキュリーのお気に入りで、おどおどビクビクするのはマキュリーの趣味なのだ!
なぁ、マキュリー。そうであろう?」
マキュリーは玉座の背凭れの陰で膝を抱えた。
本当は綺麗に着飾りたいし、堂々としていたい。だけど、自信がなくて、そうしたくても出来ないのだから、どうしようもない。ほとほと情けない。ぎゅっと目をとじ唇をかみしめていないと、涙と嗚咽が漏れてしまいそうだ。
魔王アダムスはマキュリーが返事をしなくても気にせずに、ぺらぺらと喋っている。魔王アダムスが絶好調な長口舌をふるうのを、エヴァリンの叫びが鋭く遮った。
「マキュリー、貴女まさか、鷲獅子人の間抜けどもに苛められているんじゃ……!? オイコラ、この抜け作魔王! てめぇがついていながら、いったいぜんたい、どうしてそうなる!? この目は節穴か! 本当に節穴にしてやろうか!」
「ウグッ……貴様ァ! 俺様のご高説を遮った挙げ句、目潰しとは、なんたる暴挙……! これとはどれだ、何の話だ!? 貴様が何をそんなにカリカリしておるのか、俺様にはさっぱりわからぬ! 俺様のやり方に不満があるのなら、貴様がさっさと嫁いできて、好き放題すればよかろう!」
「望むところよ、無能魔王! 貴方に任せておいたら、この娘は世を儚んで早まってしまいかねません!」
魔王アダムスとエヴァリンはとうとう取っ組み合いの喧嘩を始めた。怖くて見ていられないので、マキュリーは引き寄せた膝に顔を埋めてめそめそしていた。
そんなマキュリーの肩を誰かがとんとんと叩く。マキュリーは吃驚仰天して飛び上がった。
マキュリーのあまりの怯えっぷりに、驚いて手を引っ込めたのはプルトーだった。切れ長の垂れ目を丸くしている。プルトーはいつのまにか、玉座に隠れているマキュリーの傍へ来ていた。しかし、何のために来たのか、マキュリーにはわからない。
マキュリーはなにも言えずに、プルトーと目を合わせることも出来ずに震えた。プルトーは怪訝そうに眉をひそめる。銀鱗に覆われた右手を差し出して、プルトーは儀礼的に微笑んだ。
「はじめまして。僕はプルトー・ラースです。よろしくどうぞ」
マキュリーは食い入るようにプルトーを見つめる。こっそりと、感嘆の溜め息を漏らした。
なんて綺麗な子なんだろう。頭の先からつま先までぴかぴかで、一挙手一投足がとても優雅だ。と、マキュリーは夢心地で見惚れていた。痺れを切らしたプルトーが、マキュリーの手をとったとき、夢から覚めた。
マキュリーはみっともない。伸び放題の金髪は色褪せていてぼさぼさで、身嗜みはまるでなっていない。怒濤のダメ出しを食らったのに返す言葉もなく、おどおどしてびくびくしている。
無様で惨めな女の子。それが、プルトーの目にうつるマキュリーだ。
プルトーが王子様みたいに素敵な男の子でも、マキュリーはこんなにも無様だ。王子さまに手をとって貰えるお姫様にはなれない。
プルトーは手を差し伸べてくれるけれど、本心ではきっと、マキュリーと握手なんてしたくないのだろう。マキュリーが魔王アダムスの娘だからと、大魔人たちに事情を言い含められて、嫌々やらされているに違いない。
これ以上惨めになりたくなくて、マキュリーはプルトーの手を振り払ってしまった。
しまった、と後悔してももう遅い。プルトーは愕然としているようだ。マキュリーは口をぱくぱくさせた。謝らなきゃいけないのに、言うべき言葉が見つからない。針のような沈黙を破ったのは、魔王アダムスの髪を引っ張っていたエヴァリンの怒声だった。
「おのれ、アダムス! あなたはあの娘に、挨拶さえ躾てないのですか!? あなたから、あの娘にちゃんと教えておいてくれたことが、なにかひとつでもあるのかしら!」
エヴァリンの頬を引っ張ってスライムのように伸ばしていた魔王アダムスが、誇らし気に胸を張って答える。
「大魔王アダムス様の娘が知るべきことは、一通り教えてあるぞ。俺様が偉大な魔王であるということをな! 俺様の華麗なる半生と数々の武勇伝、趣味、好きな食べ物、嫌いな食べ物。マイブーム……」
魔王アダムスの、まだまだ続きそうだった俺様語りは、エヴァリンの平手打ちに粉砕された。魔王アダムスは、柱を二本破壊し、壁を突き破って、謁見の間から姿を消してしまった。エヴァリンは額を押さえ、唸るようにひとりごちる。
「もう結構ですよ。バカにマキュリーを託した、わたくしが愚かでした」
大慌てでかけつけた衛兵を綿帽子のように蹴散らして、行きとは別の穴を穿って帰ってきた魔王アダムスは、びしっと立てた親指で胸の彼自身を何度も何度も指示した。
「貴様ァ……俺様をバカにしているのか……? 俺様が何様わかっているのか!? 俺様だぞ! 俺様と言えば魔王アダムス様だぞ! 魔王アダムス様と言えば、今この瞬間、貴様の目の前にいる、この俺様のことなのだぞ!」
「俺様俺様俺様うるせぇ! お黙りなさい、口だけのビックマウス木偶の坊!」
エヴァリンは魔王アダムスに踊りかかった。二人は組つ解れつ、床の上をごろごろ転がりまわる。いい歳をした大人たちの子供じみた大喧嘩を呆れ顔で眺めているプルトーに気付かれないようにそっと立ち上がると、マキュリーは尻尾をまいて逃げ出した。
プルトーが大声で何か言ったが、しっかりと耳をふさいでいたマキュリーには聞こえなかった。自分が嫌われ者だということは、諦めて認めているけれど、彼の口唇から、嫌悪や失望のこめられた罵声は聞きたくなかった。
マキュリーは謁見の間を飛び出して、列柱廊下をひたはしった。妖女の蔦薔薇が咲き誇る庭園に滑り込み、東屋を取り囲む灌木の茂みに身を潜める。五月蠅く鼓動する心臓を胸の上から押さえつけ、耳をそばだてた。
プルトーは追いかけてこないだろう。ほんの少しの間に、マキュリーのことが嫌いになったに違いない。
きっと、マキュリーがいなくなってせいせいしている。そうとわかっていても、こそこそと逃げ隠れして、びくびくと警戒するのが癖になっていた。従兄たちに追い回されたときはいつもそうしているから。
茂みを掻き分けてプルトーがぬっと顔を出したとき、マキュリーは声にならない悲鳴を上げて卒倒しそうになった。
プルトーは牙を剥いて、凶悪な面相をつくると、地を這うような声音で言った。
「……こんなところに隠れてやがったか」
マキュリーは恐怖した。逃げなきゃ。殺されちゃう! と本能が警鐘を鳴らす。しかし、腰が抜けてしまった。マキュリーはしゃくりあげながら床を這って逃げようとするけれど、プルトーはマキュリーの背中を踏みつけて、逃がしてくれない。ぴいぴい泣いているマキュリーを見下ろして冷笑するプルトーは、とっても楽しそうだった。
「遊びはおわりだ、金ぴか芋虫女。さっきは、よくも叔母さまの前で恥をかかせてくれたね。今度こそ、握手して貰おうか」
プルトーはうつ伏せになったマキュリーの背に馬乗りになり、マキュリーの右腕を捻りあげた。マキュリーが泣き喚くと、プルトーはほくそ笑み、苦しむマキュリーに握手を強要する。「よろしくどうぞ」と笑いながら、千切れそうなマキュリーの右手を握って揺さぶった。
マキュリーはこれまで、従兄たちに苛められてきたから、甚振られることには慣れているつもりだった。けれど、プルトーの暴力はこどもの遊びの領域にはない。拷問の域にまで達している。マキュリーは恥も外聞もなく泣き叫んだ。プルトーはマキュリーの悲鳴に興奮したようで、しつこく握手を続けた。
そうしていると、マキュリーの従兄弟が騒ぎを聞き付けてやって来た。いつもマキュリーを苛めて楽しんでいる、意地悪な二人組だ。マキュリーを助けに来たのではないことは確実である。
従兄たちは、マキュリーを甚振るプルトーを指差して、騒ぎ立てた。
「お前、プルトー・ラースだろ! 憤怒の龍の家督の!」
見知らぬ二人組に横槍を入れられて、興がそがれたらしい。プルトーは鋭く舌打ちをして、渋々立ち上がる。マキュリーはほっとしたけれど、ほっとしてもいられない。天敵の出現にマキュリーは戦いた。
従兄たちは学になど見向きもしない。従兄たちの関心はプルトーに向いている。ところが、プルトーの対応は素っ気なかった。
「だとしたら?」
と、従兄弟達に一瞥もくれず、つっけんどんに言い放つ。従兄たちはプルトーのつれない態度などおかまいなしだ。お互いの脇腹を小突いて楽しそうに笑いあう。
「ほら、言った通りだろ! ラースの跡取りが、近いうちに顔を出すってさ」
「すげぇ、マジで本物かよ! こいつがあの、プッツンサディスト龍人のお坊ちゃまか!」
ラースと言えば、プライドと双璧を成す名家である。鷲獅子人なら、いや、魔人なら誰だって、ラースに関心をもって当然だ。
プルトーについても、従兄たちは度々話題にあげていた。マキュリーは従兄たちの与太話をいつも陰から盗み聞きしていたから知っている。楽しそうな輪の中に入ることはできなくても、和気藹藹とした雰囲気だけでも味わいたくて。たいていの場合、盗み聞きがばれてこてんぱんに熨されてしまうのだけれど、やめられなかった。
従兄たちは、冷めた目をしているプルトーに歩み寄り、マキュリーには見せたことがない友好的な笑顔をむけた。
「オマエは知らないみたいだから、親切に教えてやるよ。そいつは魔王様の娘だけど、プライドの跡取なんて、務まりっこない出来損ないなんだぜ」
そいつ、と顎でさししめされたのはマキュリーである。マキュリーが俯いて小さくなると、従兄たちの軽蔑はますます強くなった。剥くべき牙さえない唾棄すべき臆病者を睨みつけて、従兄は声高にマキュリーを貶す。
「跡取りになるどころか、そのうちプライドから放逐されるんじゃねぇかって、みんな噂してるんだ。そんなの仲良くしてたら、オマエまで腰ぬけだってバカにされるぜ。退屈なら、オレらが遊んでやる。来いよ、他の奴らにも紹介してやるから」
従兄たちは朗らかにプルトーを誘い、プルトーの手を引こうとする。
プルトーは彼らの手をとって、行ってしまうだろう。マキュリーと一緒にといるよりも従兄たちについて行った方がずっと楽しめる。ひとりぼっちのマキュリーより、いつもにぎやかにふざけて笑い合う、あの輪の中のほうが良いにきまっている。
仕方がないとわかっているのにやるせなくなって、マキュリーはプルトーの綺麗な横顔を未練がましく見つめた。プルトーはマキュリーには見向きもしない。けれど、従兄たちについて行かなかった。それどころか、従兄たちの手を邪険に振り払ったのだ。
呆気にとられる従兄たちを嘲笑い、プルトーは毒の滴る言葉を吐き捨てた。
「下郎の分際で、このプルトー・ラースと交誼を結べると思ったか。思い上がるなよ、ゴミクズが。目障りだ、失せろ」
従兄たちはあんぐりと口を開けている。好意的に接した相手からこんな仕打ちをうけるなんて、思ってもみなかったに違いない。
末端のこどもとは言え、傲慢の鷲獅子に連なる者を傲慢で圧倒したプルトーは、従兄たちをまるで路傍の石ころであるかのように捨て置いて、くるりと踵を返して歩き出す。おろおろしているマキュリーの手をすれ違いざまにとって、ぐいっと引っ張った。前傾して躓きそうになるマキュリーを睨み付け、ぶっきらぼうに言う。
「ぼうっとするんじゃない。ほら、一緒に戻るぞ」
マキュリーはプルトーに引き摺られるように庭園を後にした。従兄たちは呆然として、プルトーとマキュリーの後ろ姿を見送っていた。