前世持ちの少女が願うこと
「王宮より通達があった。ハロルド王太子殿下はお前との婚約を白紙にし、妹のナキアとの婚約を望まれるそうだ。」
父、ルイス・レーヴェン侯爵の言葉に、私はああやっぱり、と胸の中でため息をついた。
セリア・レーヴェン、それが今世における私の名前だ。
今目の前で私に、我が子に向けるものとは思えないほど冷たい目を向けている男、ルイス・レーヴェン侯爵の長女であり、この国、ファルゼン王国の王太子であるハロルド・ファルゼン殿下の婚約者でもある。いや、だったと言うべきか。
今世、という言葉からわかると思うが、私には前世の記憶がある。
いつからそれがあったのかはよく分からない。たぶんセリアとしてこの世界に生を受けた時からあったのだろう。
4歳頃に物心つくと同時にはっきりとそれを自覚し、自然に受け入れてしまった。
前世の私は地球という星の日本という国で生まれ育った一般人だった。父、母、兄、妹の4人と極普通の家庭で幸せに暮らしていた。
しかし、17歳の時に歩道に突っ込んできた暴走車にはねられてあっさり死んでしまった。
「我が侯爵家としてはこの申し出を受けるつもりだ。お前は学園を卒業するまでに新たな結婚相手なり勤め先なり見つけておけ。よいな」
(つまりもうお前のために侯爵家として何かしてやる気はないから、学園を卒業したらさっさと出て行けということね)
そう内心でこぼすが実際に口にできるはずもない。私は静かに了承の言葉を返し、礼をすると父親の執務室の出口に向かった。
しかし、ドアの前に立つと同時にそのドアが外からノックされた。
「お父様、ナキアです。お呼びでしょうか?」
「おお来たか。入りなさい」
「失礼します」
先ほどとは打って変わって嬉しげな父の声に促され、金髪の美少女が部屋に入ってくる。まあ私の妹なのだけど…。
少しウェーブのかかった美しい金髪に緑色の大きな瞳、薄いバラ色に染まる頬、紅をさしたわけでもないのに桜色の唇、小柄ではあるけれど女性らしい起伏に富んだ肉体。身内の贔屓目抜きにとても可愛らしい美少女である。前世の学校にいたなら学園のアイドルになれただろう。
ちなみにこの妹は非常に母親似であり、父親似の私とは似ても似つかない。私はといえばくせの無いストレートな銀髪に水色の瞳、頬も唇も色素が薄く、背丈も女性にしては高い。妹が春の暖かさや優しさを体現しているなら、私はさしずめ冬の冷たさや厳しさを体現しているのではないか。
「お父様、何の御用でしょう?」
「実はな…」
チラリとこちらを見た後、興味無いとばかりにさっさと視線を切って父親に歩み寄っていく妹と、それを嬉しそうに迎える父親を尻目に、私は部屋を出て行った。
自分が王太子の新たな婚約者となったことを聞いたのだろう。部屋を出て間もなく、部屋の中から妹の歓声が聞こえた。
ハロルド殿下との婚約破棄、予期していなかった訳ではない。いや、むしろよくここまでもったというべきなのだろう。だから別にそれほどショックではない。今はむしろ、言いようのない喪失感と、これからどうしたらいいのだろうという思いだけが頭の中で渦巻いている。突然親から手を離された迷子の心境といったところか。
とりあえず自分の部屋で感情と思考の整理をしようと思い、僅かにうつむきながら自室へと向かっていた私の視界に、あまり会いたくない人物が映った。
「お兄様…」
リゼル・レーヴェン、私の今世の兄であり、レーヴェン侯爵家の次期当主である。
私と同じで父親似の色素の薄い外見を持った、クールな印象を受ける美青年であるが、私はこの兄が大の苦手である。
なぜなら、先ほど自分の外見を冬に例えたが、この兄はわたしにとって冬以上に冷たく、厳しい存在だからだ。
「ハロルド殿下との婚約が破棄されたそうだな」
明確な侮蔑と嘲笑の含まれた言葉に、私はますます俯くしかない。
「何とか言ったらどうだ?まあ私に言わせればむしろ今回の申し出は遅過ぎたくらいだが…。陛下も王妃様も、ようやくお前がどうしようもないできそこないだということをご理解されたらしい。もう少し早くにお前に見切りをつけて下さっていれば、お前という侯爵家の恥を無駄に長くさらし続けることもなかったのだがな」
その後もなお続く兄の嘲りの言葉を、私はただ黙って受け止め続けるしかない。
反論などしようものならさらなる罵声を浴びせられるのが分かっていたし、なにより兄が言っていることは否定のしようもない事実だからだ。
この世界には前世の地球と違って、神術という超常の技術が存在している。
前世の知識を持つ私からすると魔法のようなものという感想になるが、“魔”ではなく“神”などという名がついているのは当然それ相応の理由がある。
神話の領域になるが、歴史を紐解くと、神術が生まれたのは今から大昔、人間が天災や害獣などによって多くの犠牲を払っていた頃だという。
害獣といっても、前世でいうところの熊や猪、サメやライオンとは訳が違う。この世界における害獣とは、前世でいう恐竜やら伝説上の怪物の類だ。別に超常の力を振るう訳ではないが(まあ火を吹いたり酸を吐いたりするのもいるが、それは規模に大きく差はあれ前世でもないことはなかった)、人間を大きく上回る体躯に怪力、鋭い爪や牙だけで十分すぎる脅威である。
人々を救うため、一部の神職に就いていた祈祷師たちが、大規模な儀式を用いて神に祈りを捧げたらしい。その結果、その儀式に参加した祈祷師たちに神力と呼ばれる謎の力が宿り、ある者は天災を鎮める力を、ある者は害獣を打ち倒す力を、またある者はけがや病気を治す力を得たという。彼らこそ後に神術師と呼ばれる初めての存在である。
その祈祷師たちの子孫がこのファルゼン王国の貴族であり、王族は儀式を取り仕切った祈祷師たちの代表者の子孫であるとされている。
つまり、神術は貴族の証であり、より強力な神術を扱える者ほど神の祝福を受ける者とされるという訳だ。
当然、侯爵家に生まれた私も神術を使える。しかし、私は侯爵家という家柄に相応しくない、正直言えば貴族として最下位である準男爵家の人間と同程度のレベルの神術しか使えないのである。
いや、もし単に神術の腕が拙いというだけであれば、むしろここまで兄や父に疎まれることはなかったのかもしれない。私がこの家族に疎まれることになった最たる原因はもっと別の部分にある。
私は神術の腕は拙いが…この身に宿す神力の量は桁違いに膨大なのだ。
私が生まれた時、レーヴェン侯爵家は未来の大神術師の誕生に歓喜の渦に包まれたらしい。それからというもの幼い私は、長子であり侯爵家の次期当主である兄よりも大事に大事に育てられた。そしてその神力は王家の目に留まり、同い年であったこともあって、僅か4歳にして王太子殿下の婚約者となったのだ。
それからますます侯爵家における私の扱いは特別になっていった。当時6歳であり、私が生まれるまでは両親の愛情も期待も独占していた兄が、私を疎ましく思うのも無理からぬことだったのだろう。そして、侯爵家の人間として並み程度の神力しか持たずに生まれた1つ下の妹が、自分よりもちやほやされている姉を嫌うことも、また。
風向きが変わったのは、私が6歳になって家庭教師が付き、神術の訓練が始まった頃だ。
最初はまだ未熟なせいだと思われていた。しかし、時が経つほどに両親の期待は失望へと変わっていった。
「ゆっくりやっていけばいい、おまえはいずれ偉大な神術師になるんだ」そういった言葉はやがて、「何でできない、お前は侯爵家の恥だ」といった言葉へとすり替わっていった。
その果てが今のこの状況だ。両親にはできそこない扱いされ、なまじ王太子の婚約者になどなっていたものだから、他の貴族や王家にまで恥を晒すことになったと言われる始末だ。
ないがしろにされがちだった兄と妹は、私の不出来が明らかになるに連れ、ここぞとばかりに私をこき下ろし、それに比較して自分の優秀さをアピールした。両親も不出来で愛想もない私よりも、優秀な兄や可愛げのある妹を愛するようになった。屋敷の使用人も当主夫妻に疎まれる私を腫れ物に触るように扱うようになった。
「おい、聞いているのか?」
兄の不機嫌そうな声に現実に引き戻された。
(聞いているわけないでしょ?何でただの嫌味を一生懸命聞かないといけないわけ?私はあんたと違ってメンタル弱いのよ。心無い言葉を向けられれば人一倍傷付くし、後で何度も思い返してはその傷を自分で掻き毟ってしまう程度には繊細なのよ。だから意識を無理矢理別のところに飛ばして何とか聞き流そうとしているんじゃない。だいたい仮にも10年以上連れ添った相手に婚約破棄された妹を欠片でも気遣う気持ちはないわけ?ここぞとばかりに追い打ちかけるとか性格悪すぎでしょ。そんなんだから婚約者とも上手くいかないのよ。あんたも婚約破棄されてしまえばいいのに)
そんな罵声が内心で溢れかえるが、これ以上話を長引かせてメンタルにダメージを負いたくないので、おとなしく頭を下げる。
「お兄様の仰る通りです。私が至らなかったばかりに多くの方に御迷惑をおかけしたことを深く陳謝いたします」
「ふん…まあいいお前なぞ相手にしていても時間の無駄だ。私ならばお前のような恥さらしはさっさと廃嫡するところだが、父上は慈悲深くも学園を卒業するまでは面倒を見るおつもりらしい。せいぜい父上のお情けに感謝することだ」
言いたいことを言って兄はさっさと行ってしまった。
(…時間の無駄ならわざわざ嫌味言うんじゃないわよこの暇人)
内心でささやかな反撃をすると、1つため息を落とし、自分の部屋へと戻った。
* * * * * * *
自室に戻り、使用人を追い出して1人になると、私は崩れ落ちるように椅子に座った。本当はベッドに頭からダイブしたいのだが、ドレスが乱れてしまうのでぐっと我慢した。
家族との話で弱った心を癒すために何か楽しいことを思い出そうとするが、今日はいまいち上手くいかない。いつもであれば前世のことを思い出して傷心を癒していた。前世の家族との温かな思い出は、いつも冷え切った心を温めてくれた。
少し親バカなところがあった父、そんな父に呆れながらもいつも優しく明るかった母、いつもは無関心な感じなのに、いざとなれば面倒そうにしながらも必ず助けてくれた兄、そして周囲からシスコン姉妹と言われるほどに仲が良かった可愛い妹。
今世とは全く違う優しい家族、もう…二度と会えない…家族…。
これ以上はますます気分が落ち込む予感がして、頭を振って思考を切り替えた。
そうすると今度はさっきまで婚約者だった男の顔が浮かんできた。
「ハロルド…」
ハロルドは私にとって今世で唯一心を許せる相手だった。私はこの冷たい容貌と無愛想な態度のせいで周囲の人間には冷たい人間だと思われているようだが、自分では違うと思っている。前世では数は少ないが友人だっていたし、その友人や家族の前では普通に明るい人間だった。
私は単純に人見知りで臆病なのだ。人との距離感が分からず、上手く心を開くことができない。自分の素を出すのが怖い。だから親しい人間以外と接する時は無表情という仮面を被り、口数も少なく、無愛想になってしまうのだ。
ハロルドは王太子という立場でありながら、小さい頃から気さくで、ほどなく私もハロルドと2人きりの時は素の自分を出せるようになった。
貴族としては相応しくないのだろう私の素を見ても、「普段からそうやって笑っていた方がいいと思うよ?」と優しく微笑んでくれた。「それは無理!」と力強く断言した私にも、「いやそこはもう少し努力しようよ」と笑ってくれた。
無論、家族相手には何度か心を開こうと試したのだ。しかし、少し砕けた態度を取ろうとする度に、「なんだその態度は、もっと貴族に相応しい振る舞いをしろ」と叱責されたり、「何なの?気持ちが悪い」などと突き放されて心が折れた。
別に今世の家族が全て悪いと言うつもりはない、人と接するのが苦手な私の自業自得でもあるし、何より…私が彼らを本当の家族だと思っていないのも悪いのだろう。
私にとっては家族とは前世の家族なのだ。私を生んでくれた両親は、前世のあの優しかった両親なのだ。今世の両親の私に対する態度が冷たくなるほどにその思いは強くなった。
いや、もしかしたらそう思うことで自分を守っていたのかもしれない。いくら嫌われたって構わない、どうせあの人たちは本当の両親じゃない、だから別に辛くなんてないんだ、と。
もしかしたら私のそんな内心が表に滲み出ていて、ますます可愛げがない娘になっていたのかもしれない。私がもっと妹のナキアのように甘え上手で可愛げのある性格をしていれば、ここまで両親に疎まれることはなかったのかもしれない。まあ自分の人見知りな性格が文字通り死んでも治らなかった以上、いくら考えても詮無いことだが。
そんな風にしてどんどん両親との確執が広がっていっても、ハロルドとの仲は良好だった。神術の腕が上がらず、何人もの家庭教師に匙を投げられ、両親に厳しい言葉を浴びせられるようになっても、ハロルドだけは優しく励ましてくれた。私の報われることのなかった努力を認めてくれた。
そんなハロルドを私も好きになった。恋かどうかは正直よく分からなかったが、この人と家族になりたいと思うようになった。
しかし、10歳になり、貴族の子息子女が集まり、勉学と神術の訓練に励む6年制の学園に入って、状況は変わってしまった。
神術の授業が行われ、今まで家族がひた隠しにしていた私の拙い神術の技量が公のものとなってしまったのだ。他の貴族、特に王太子妃の座を狙える同年代の令嬢とその親は、ここぞとばかりに私が王太子に相応しくないと主張し始めた。
学年が上がり、それでもなお一向に上がらない私の神術の腕に、その声はどんどん大きくなった。ハロルドの両親である国王陛下と王妃様も無視できないほどに。
ハロルドは小さいながらも私をよく守ってくれていた。私の前ではそんな素振りを見せなかったが、きっと陛下夫妻の私に対する不信感から、私をかばってくれていたのだろう。私は遅咲きなのだと、きっといつかその才能を開花させ、立派な神術師になると。
しかし学園に入学して3年が経った頃から、ハロルドは少しずつ私から離れていった。神術師として既に一流の腕を持っていたハロルドと私の授業が完全に分けられてしまい、学園で一緒になる機会が減ったこと、また王太子としての公務が増えたこともあったのだろうが、それにしても会う機会が減っていった。
以前は月に一度はお茶会を開いていたのが、やがて2月、3月に一度になり、ここ最近ではお茶会どころか手紙のやり取りすらなくなった。以前は頻繁にやり取りしていた手紙も一切送られて来ない。こちらから送った手紙にも返信が来ることはなかった。
さらにお茶会の機会が減り始めた頃から、何故か私とハロルドのお茶会に妹のナキアが参加するようになった。いや、何故かなど分かっている。私が婚約破棄される可能性が高いと察した両親が、侯爵家から王太子妃を出すという栄誉を手放さないために、妹を替え玉にしようとしたのだろう。
そしてナキアもまた両親の意図を察していながら乗り気のようだった。まあハロルドは容姿端麗、文武両道、おまけに性格もよい未来を嘱望される王太子様だ。女性ならば誰でも憧れを抱くだろうし、婚約者となれるチャンスが目の前に差し出されれば跳び付いてもおかしくないだろう。
そして、人見知りな私のことだ。妹とはいえナキアと私の関係は他人以上に冷め切ったものだ。そんな人間が一緒にいるだけで、私はたちまち無表情の仮面を被り、口数が少なくなってしまう。
結局、ナキアがお茶会に参加するようになって以来、話し上手で聞き上手なナキアがハロルドと楽しげにお喋りし、時々私に気を遣ったハロルドが私に話を振るが、人見知りモードの私は相槌を打つくらいで話が続かず、またナキアが話し始めるという形になってしまった。
以前はあんなに楽しかったお茶会は、私にとって酷く身の置き所の無い居心地の悪いものになった。ハロルドの婚約者は私の筈なのに、楽しげに話すどう見てもお似合いな2人を見ていると、自分がお邪魔虫のような気がして只々居た堪れなかった。
そして学園に入学して5年と少しが経った今日、心のどこかで予期していたことが起きた。ハロルドは私に愛想を尽かし、神術師としても女としても私より優れた妹の手を取った。
仕方がないことだと思う。できそこないの私といることはハロルドにとって負担にしかならない。
私自身、ハロルドの負担となっていることが申し訳なかった。
だからだろうか?今の私にはハロルドに対する恨みはまったくなかった。むしろ今までこんな私を守り、一緒にいてくれたことへの感謝と、負担になることしかできなかったことを申し訳なく思う気持ちがあるだけだった。
――― 今までありがとう。負担にしかなれなくてごめんなさい。私のことは気にせず、ナキアと幸せになってください ―――
そう心から囁くと、そっと目を閉じた。
閉じた瞼から流れた一筋の涙の理由が私には分からなかった。
* * * * * * * *
「セリア・レーヴェンが願う 猛る風よ 吹き荒れ 鉄槌となりて打ち倒せ!」
私の神術の詠唱に合わせ、中級の風属性神術が、地面から伸びた鉄の棒の先に取り付けられた的に向かって発動する。
しかし、巻き起こった風は鉄槌などというものではなく、本来なら粉々になるか、最低でも2つに割れるはずの木の板でできた的を、僅かに揺らしただけだった。
途端、同じ授業を受けている生徒たちから失笑が漏れる。
この学園では生徒たちが神術の成績によって3つのクラスに分けられており、私が所属しているこのクラスは一番下のクラスである。神術の技量の高さは基本的に貴族位の高さに比例するので、本来であればこのクラスは上から、
王家、公爵家、侯爵家のクラス
伯爵家、子爵家のクラス
男爵家、準男爵家のクラス
このように分けられるはずなのだ。実際、個人的な資質によってクラスが1つ上下することは多少あれど、ほとんどの人間はこの通りになっている。本来いるべきクラスの2つ下のクラスにいるのなんて全学年通しても私だけだ。
当然、このクラスは準男爵家と男爵家の子息子女が大半を占めており、それ以外など私を除けば子爵家の子息が2人いるだけである。
流石に下手なことを言えば不敬罪に当たるため、露骨な侮蔑や嘲りの言葉が向けられることはないが、視線と雰囲気はそういった感情に満ち満ちている。
もうこの5年と少しずっと同じ視線を浴びているが、一向に強くなる気配のない私のメンタルは、5年前から変わることなくじりじりとした痛みを発生させる。
王宮から婚約破棄の通達があったのが昨日、どうやら王家としてはハロルドとナキアの婚約が正式に決まるまで公表は避けるつもりのようで、まだ学園に私が婚約破棄されたことは広まっていないらしい。
(婚約破棄の件が広まればこの程度の針の筵じゃ済まないんだろうなあ)
内心でため息をつきながら、次の生徒が神術を放つのをぼんやりと眺める。
ちなみに、神力を持つかどうかは血統によって決まるが、神術を使えるかどうかはまた別の話である。実際のところ、廃嫡されて市井に降りた貴族も過去には一定数いるので、そういった者たちの子孫で、平民でありながら神力を持つ者はいる。
しかし、この学園には平民はいない。それは、神術が使えるようになるには、かつて始まりの神術師たちが神に祈りを捧げた場所(今は聖地と呼ばれ、王家の直轄地として厳重に管理されている)にて、“名奉じの儀”という儀式を経なければならないからである。
貴族に生まれた全ての子供は、生まれた年に名奉じの儀に参加し、神の前で自らの魂に自身の名を刻み付けなければならない。そして、その名を宣言して神への祝詞を捧げるのが神術の詠唱であり、そうして初めて神術は発動する。
よって、この名奉じの儀に参加できない平民は神力を持っていても神術を使えない。また、貴族位を剥奪され、家名を取り上げられた元貴族も神術が使えなくなる。
(このまま行き先が見つからないまま卒業を迎えれば、私もそうなるんだろうけど)
結婚して家名が変わればもう一度“名奉じの儀”に参加できるが、王族から婚約破棄を突き付けられた訳アリの女などを妻に欲する貴族はそういないだろう。そもそも親しい貴族の子息などハロルド以外に存在しない。
ならば神術の腕を活かして就職するしかないが、この世界では女性の就職は難しい。せめて一流の神術の腕があるなら、宮廷神術師として王家に使えたり、戦闘神術師として軍に仕官することもできたかもしれないが、へぼ神術師の私では到底無理だ。
しかし、まともな行き先を見つけられなければ、家名を取り上げられて放逐されるだろう。神術師として身を立てることができない以上、王太子妃教育で得た知識を活かして文官にでもなるしかない。だが、あの両親が平民でもなれる職業に就く娘に、誇り高き侯爵家の名を名乗らせ続けるとは思えなかった。
まあ精々下級の神術までしかまともに使えないのが、全く使えなくなったところでそこまで惜しくもないが、今まで積み上げた血の滲むような努力が完全に無駄になるのは少し、いや、かなり悔しいし、むなしい。
(なんとかしないとなあ)
教師が集合の指示を出すのを聞きながら、どう考えても一筋の光明も見出せない自分の未来を思って、また内心で深いため息をついた。
* * * * * * *
その数日後、私は校外学習の授業で、クラスメートと共にとある辺境伯の領地へとやって来ていた。
これから向かうのは、この辺境伯領に存在する聖人アレキスの遺跡と呼ばれる場所である。
過去に現れた大神術師の中でも、聖人、聖女と呼ばれる、特に優れた力を持っていた人物の遺跡が、この大陸にはあちらこちらに存在する。
この世界では地球に比べて人類の生活圏は狭い。この大陸には複数の国家が存在しており、多くの神術師を有するこのファルゼン王国はその中でも圧倒的な広さの国土を有しているが、いくら神術師が害獣に対抗できるからと言って、神術師の絶対数が少ない以上、凶暴な害獣の縄張りに侵攻し、国土を広げることなどそうそうできない。
しかし、聖人や聖女と呼ばれる存在は、そんな凶暴な害獣の領域に単身で飛び込めるような存在なのだ。
彼らは各地に様々な伝説を残し、彼らの多くが、害獣の領域にて未知の植物や鉱物、中には聖地のように特殊な力が宿った土地を発見し、そこに住居や研究施設といったものを遺している。
聖人アレキスの遺跡はその中でも最古のものであり、元は害獣の領域にあったものが、数百年に渡る国土の拡大に伴って、今はファルゼン王国内に取り込まれている。
基本的に侯爵家の領地か王都にずっといた私は、前世を合わせても人生初となる遺跡見学を少なからず楽しみにしていたのだが…
(遺跡なんて言うからもっと壮大なものなのかと思ってたのに…、これじゃただの住居跡じゃない)
聖人アレキスの遺跡を見た正直な感想はこれだった。
遺跡というからには、洞窟を掘り抜いて作られた建造物や、未知の儀式場が設置された神殿のようなものかと思っていたが、実際には所々が崩れかけている土で作られた住居であった。
しかも、聖人アレキスが遺した価値のある遺物などは残らず回収されて、研究機関やどこぞの貴族の宝物庫行きとなってしまったというのだから、本当にここには観光地以上の価値はなさそうだった。
(どうせならその遺物の方に興味があったんだけど、ね)
この遺跡を管理している人間に住居の中を案内されながら、まあ前世の校外学習もこんな感じだったかも、と妙な納得をしていると、案内人が立ち止った。
どうしたのだろうと思って眺めていると、案内人が今私が思ったことと同じことを語り出した。
「さて、皆様に色々とご紹介して参りましたが、これまでの部屋は歴史的な価値はあれど、聖人の遺跡としての価値はない住居跡に過ぎませんでした。しかし…」
そこで案内人は私たちの顔をぐるりと見回した。
「この次に案内する部屋は違います」
ずいぶんと勿体ぶった言い方だ。おそらくこの次の部屋がこの遺跡一番の見どころだということだろう。
「聖人や聖女と呼ばれる方々に限らず、歴史に名を残す大神術師の多くが、自らの秘術や研究結果というものを暗号という形で残しています。歴史学者や研究者の手によってその多くが解読されておりますが…、聖人や聖女が残した暗号の中には極めて解読が困難なものが存在しております。この先の聖人アレキスの寝室の壁面に刻まれた文章もその1つです。」
それはこんなところに残しておいていい物なのか?という私の疑問を察したわけでもないだろうが、案内人がちょうどその疑問に答えてくれた。
「その壁面は未知の技術によって保護され、長い年月の中でも一切風化することも傷付くこともなく、またそれどころかどんな手段をもってしても、その壁面を切り出すことも移動させることもできないのです。これぞまさに聖人が遺した神秘の片鱗と言えるでしょう」
大仰な身振り手振りを交え、案内人はここぞとばかりにこちらの期待を煽ってくる。
「今まで多くの神術師や学者がこの地を訪れ、この神秘に挑んできましたが、未だこの壁面の謎も暗号の内容も解き明かすことができた者はおりません」
そろそろ気の短い者が痺れを切らすをじゃないかという絶妙なタイミングで、案内人が部屋の入り口を開け、私たちを招き入れた。
「聖人アレキスの碑文、どうぞご覧下さい」
クラスメートに続いて部屋に入り、中をざっと見渡す。
何もない部屋だった。おそらく部屋にあった物のほとんどが運び出されてしまったのだろうが、部屋の端に寝台らしきものがある以外は本当に何もなかった。しかし、その寝台がある側とは反対側の壁に刻まれた文章を見た途端、私の思考は停止した。
(は?なん、え?いや、ま、でも、これ、え?でも、これ、なん、で)
意味のない言葉が頭の中をぐるぐる回る。
クラスメートたちが話す声がひどく遠くで聞こえる。耳だけでなく体の感覚まで遠のき、色褪せた視界の中で壁面に刻まれた文字だけが浮き上がってくるような感覚に陥る。
(ありえない、でもあれはどう見ても、間違い、ない?)
混乱した頭で必死に状況を把握しようとする。ありえないことだと現実を否定しようとするが、僅かに取り戻した自分の冷静な部分がどうしようもない真実を突き付けてくる。
その壁面に刻まれていた文字は暗号などではなかった。
それは私の知識にある文字、前世の私が散々苦労して学んだ言語、
英語
だったのだ。
(間違いない。ほとんど読めないけど、いくつか知ってる単語がある。ということはこれを書いたのは私と同じ地球の知識を持つ、おそらくは前世持ちの転生者。待って、聖人や聖女の遺した文章には極めて難解な暗号がある?もしかしてそれらも全部地球の言語で書かれたもの?もしそうなら聖人や聖女の多くは、ううんもしかしたら全員が前世持ちってことに…)
現実を認めた瞬間、一気に思考が加速していく。そしてそこまで考えたところで、ふと自分自身のことに思い至り、電気が走ったかのように体が芯から震えた。
(歴史上の聖人や聖女が前世持ちなら、同じ私も彼らと同じくらい神術が扱える可能性があるということ?私は神力量だけなら聖女と呼ばれてもおかしくないと言われていた。ならなぜ神術が上手く使えないの?何か根本的な部分に問題があるんじゃ…)
今まで私が神術を上手く使えないのは、自分の努力や才能が足りないのだと思っていた。しかし、今考えてみると、それにしては不自然なほどに私の神術の腕は上達しなかった。
もし、その原因が全く他のところにあるとしたら?
今まで考えたこともなかった疑問に直面し、思考の坩堝に飲み込まれた私は、案内人に何度も声をかけられ、仕舞には目の前で手を振られて退出を促されるまで、ただただその場で立ち尽くしていた。
* * * * * * *
日が地平線に沈み、人気の無くなった学園の神術の演習場に私は来ていた。
あの校外学習から数日間、私は侯爵家令嬢としての権力、王太子妃教育でできた伝手をフルに使い、王都に存在する聖人、聖女の遺した暗号文を片っ端から調べた。
その結果、私の中にあった仮説は確信へと変わった。
調べた暗号文のほとんどは私の読めない外国語だった。英語の他にも中国語や、ヨーロッパの国のものと思われるものまで様々あり、前世を高校生で終えた私には当然読めなかった。英語の方も転生してからの15年でだいぶ知識が薄れてしまい、ほとんど読めなかった。
しかし、結果的にそれらが読めなかったことは大した問題にはならなかった。調べたものの中に1つだけ、望んだものがあったのだ。
私が問題なく読める文字、そう、日本語で書かれた書物が。
王宮内の大図書館の最奥に厳重に保管されていたそれは、名を“聖女ルナの手記”といった。
古い日本語で書かれたそれは、日本で生まれ育った前世持ちの女性の日記のようなものだった。そしてそれを読み、私は自分のが神術を上手く扱えない理由について1つの仮説を立てた。ここにはその仮説を検証するために来たのだ。
大きく息を吐く。胸の中にあるのは神術が自在に扱えるようになるかもしれないという、大きな期待と同じくらい大きな恐れ。
失敗することに対する恐れではない。成功した、いや、成功してしまった場合に対する恐れだ。
この検証が成功することは、神術が自在に扱えるようになると同時に、私の今までの努力が全くの的外れで無意味なものであったことを証明することになる。それに対する、恐れだ。
吐いた分大きく息を吸い、よし、と一言気合を入れ、迷いを振り払う。
そして、目を閉じ、ゆっくりと神術の詠唱の起句を、自らの名を唱えた。
「更科梨沙が願う」
途端、今まで感じたことのない圧倒的な神力の充溢と全能感が全身を満たした。
予想を遥かに上回る劇的な反応に一瞬言葉に詰まるが、半ば無意識に、私の口はここ最近で一番使った神術の詠唱を行っていた。
「猛る風よ 吹き荒れ 鉄槌となりて打ち倒せ!」
その瞬間、耳を弄するような轟音と共に、視線の先の地面が爆ぜた。
それを認識した次の瞬間には、私の体は余波で発生した突風によって後方に大きく吹き飛ばされていた。
咄嗟のことでろくに受け身も取れず、背中から地面に叩き付けられる。しかもそこで止まらず、後方へ二転三転し、仰向けになったところでようやく止まった。
「ふ、ふふっ、あは、あぁーーはっは!!」
吹き飛ばされ、地面に大の字でぶっ倒れたまま、私は今世で一番ではないかというほど笑った。
おかしくて、どうしようもないくらいおかしくて、笑いが止まらなかった。
こんな、こんな簡単なことだったなんて、こんな簡単なことに気付かずに必死に努力していた私はなんて滑稽だったんだろう。そう思うと、笑い過ぎたのか涙まで出てきた。
答えは簡単だった。自分でずっと思っていたではないか、私の両親は前世の両親で、今世の両親はただの他人だと。
つまりそれは自分のことをセリア・レーヴェンではなく、更科梨沙だと認識していたということ。
私は他人に与えられた仮初の名前で神への祝詞を捧げていたという訳だ。そんな不誠実な祈りがまともに神に届くわけがなかった。
散々笑って、笑い疲れて、私は寝転がったままこれからのことを考えた。
まだたった1つの神術しか試していないが、今の私には知識にある全ての神術を完璧に扱えるという確信があった。
今の私は間違いなくこの国で一番力を持った神術師だろう。
なら、私はこの力を使ってどうしたいのだろう。
少し前の、まだハロルドの婚約者であった頃の私であれば、真っ先にこのことを王家に伝え、自分がハロルドの婚約者に相応しいということを存分に証明しただろう。
そして、胸を張ってハロルドの隣に並び立つことを願っただろう。
しかし今の私には、自分でも不思議なほどにハロルドとの復縁を望む気持ちが存在していなかった。
かつて様々な偉業を成し遂げたとされる大神術師たちと同等以上の力を手に入れた今、私が心から望むことは…
(帰りたい)
(前世の世界、日本へ帰りたい。そしてもし叶うならもう一度私の家族に会いたい)
できるかどうかなんて分からない。しかしそれは私の中にずっとあった狂おしいほどに強い願いだった。
できるわけがないと思っていた。私が調べた限り、この世界の神術には世界を移動する術どころか、瞬間移動の類すらなかったのだから。
しかし、かつてない力を手に入れ、圧倒的な全能感に包まれたことで、諦めと共に胸の奥に封じ込めていた願いが、凄まじい勢いで胸の中に溢れた。
ずっと疑問だった。なぜ私は前世を持って生まれたのかと。
二度と取り戻せない、失われてしまった幸せな家族の記憶。これがなければもっと今世でも上手く生きられたのではないかと何度も思った。
今世で辛いことがある度に思い出して、そして最後は必ず、それが失われてしまったことを思って涙を流した。
地面に手をついてゆっくりと上体を起こすと、周囲を見渡した。この学園に入ってから嘲りの視線を浴び続けた演習場を。
嫌な思い出しかない演習場から目を逸らし、満天の星空を見上げ、今世の生活を思った。
辛いことばかりだった。味方だと思えるのは、唯一の救いはハロルドだけだった。
でも、そのハロルドは私の手を放してしまった。
もう、私をこの世界に引き留めるものは何もなかった。
立ち上がり、軽く土汚れを払い落とし、もう一度空を見上げた時には私の決意は固まっていた。
(日本に帰ろう)
(できるかどうか分からない。できたとしても、時間の流れが違って浦島太郎状態になるかも知れない。仮に時間の流れが同じだとしても、もう両親は還暦を迎えてるだろうし、お兄ちゃんたちは結婚して家庭を持っているかもしれない)
(でも、できることならもう一度会いたい。会って、私は元気だと、生まれ変わっても私はお父さんとお母さんの娘だと、私の兄弟はずっと2人だけだと、伝えたい)
目を閉じて自分の進むべき道を定める。
(そう、きっと私が前世を持って生まれたのはこのためだったんだ)
決意を固めた後、冷静に、帰るための手段を模索しようとして、私はどこから手をつければいいのか分からず途方に暮れていた。
(王宮の図書館にも屋敷の図書室にも空間移動に関する神術の記載はなかったしな…)
拙い神術の技量をカバーしようと、私は神術の知識を片っ端から詰め込んだ。今では神術の知識に関しては学園の教師陣とも同等以上に語り合える自信があった。
しかし、その自分の知識の中にも、地球に帰るのに役立つような知識は無かった。
しかしそこで、ふと気付いた。
知らないなら、知っているであろう存在に聞けばいいではないか、と。
そのための神術は、知識の中にあった。
そう思い至ると、私は迷いなくその神術の詠唱を唱えた。
「更科梨沙が願う 神よ 我が声に答えたまえ」
もしここに他の神術師がいたなら、目を剥いて全力でセリア…いや、梨沙のことを止めようとしただろう。
それは神術の中の奥義中の奥義、本来なら王族が数十名の高位の神術師と共に、聖地にて三日三晩に渡る大規模な儀式を行って、それでもなお成功するかどうかわからないという秘術。
神の意志を呼び出し、直接願いを伝えるという、かつて始まりの神術師たちが成し遂げた奇跡の再現。
その神術の名を ――――― “神意召喚の儀” という。
学園の演習場、その上空に、夜天を切り裂き、莫大な神力の奔流が出現した。
* * * * * * *
時は少し遡り、王宮の国王の執務室にて、当代の国王ゼフォード・ファルゼンは、書類の山と向き合っていた。
そこに、執務室のドアをノックする音が響き渡った。すかさず部屋の隅に控えていたメイドがドアに向かい、来訪者に応対した。
「ハロルド殿下が参られました」
「通せ」
メイドがドアを開けるやいなや、挨拶もそこそこに、この国の王太子ハロルドが執務室に入ってきた。
そして、身の内から湧き上がる激情を抑え切れないまま、強い口調で父たる国王に言葉を投げかけた。
「父上、どういうことか説明して頂きたい」
いつも落ち着き払った息子らしからぬ態度に、ゼフォードは眉を顰めつつ「何がだ」ととぼけた。
「セリアとの婚約のことです!!なぜ私が隣国に行っている間に、私の許可もなしに婚約破棄などしたのですか!!」
分かっているだろうにこの期に及んでとぼける父に、とうとう抑える気もなくなったのか、ハロルドは感情を激発させた。
しかし、今まで見たことのない息子の激昂する姿を前にしても、ゼフォードは動揺を表に出すこともなく冷めた答えを返した。
「セリア嬢が未来の王太子妃として相応しくないと判断したから婚約を破棄した、ただそれだけのことだ。とはいえ今更他の家から婚約者を選出すると貴族のパワーバランスに無駄な混乱を引き起こしかねんからな。幸い妹のナキア嬢は王太子妃としての資質に問題はない。だから新しくナキア嬢をお前の婚約者とするようレーヴェン侯に打診した。レーヴェン侯もナキア嬢も快く了承したぞ?」
父親の冷めきった視線と流れるような説明に、ハロルドは言葉に詰まった。そこに追い打ちをかけるようにゼフォードは言葉を重ねた。
「それに、お前の許可なく、だと?この婚約はお前だけのものではない。未来の王妃となるであろうものを選出する、国の未来を左右する一大事だ。許可を出すべきは私であってお前ではない」
ゼフォードの冷徹ではあれど至極真っ当な答えに、しかしハロルドは納得できない。
「たしかに、セリアの神術の技量は歴代の王太子妃の水準に達していません。ですが、彼女には他の令嬢にはない優れた頭脳があります」
実は、梨沙はハロルドにだけ前世の知識を少し教えていた。
お茶会の会話の中で、ハロルドが学んだ行政や国の現状などに関する話に対して、前世の知識を基に軽くアドバイスしていたのだ。
アドバイスといっても、「こうしたらいいんじゃない?」という程度で、言った本人もほとんど覚えていないだろうほんの軽口だった。
しかし、小さい頃から聡明だったハロルドは、梨沙のそれらの言葉に一定の価値があることを見出し、自分の伝手使ってそれらを試し、いくつかでは一定の成果を挙げ、中には国政に反映されたものもあった。
ハロルドが非常に優秀な王太子として見做されているのには、実は梨沙の前世の知識が一役買っていたのである。
ではなぜ梨沙は自分でその知識を活かさなかったのかというと、それはやはり彼女の性格に起因する。
梨沙には、この世界で上手くいくかどうかも分からない、前世の中途半端な知識をこの世界の専門家に披露する勇気も積極性もなかったのだ。
子供の戯言と嗤われたり、頭のおかしな令嬢扱いされたりしたら間違いなく心が折れただろう。もし仮に実践して上手くいかなかったり、それどころか何らかの問題が発生しようものなら、心労で死ねる自信があった。
ハロルドに話したことだって、梨沙としてはほんの軽い雑談のつもりだったのだ。
しかし、ハロルドの中では、セリアは並外れた発想力と柔軟性を持った稀代の才女という認識になっていた。
そして、神術の技量という点で劣る彼女の、その非凡な才覚を示すことで、彼女の有能さを周囲に認めさせようと思っていた。
そう、梨沙はもうハロルドの気持ちが自分にないと思い込んでいたが、それは大きな間違いだったのだ。
ハロルドはセリアを愛していた。
人間関係で不器用なところがあって、常に他の人には固い態度で接してしまう彼女が、自分だけに見せてくれる柔らかく明るい笑顔が好きだった。
自分に相応しくあろうとして必死に努力する彼女を見て、自分も頑張らねばと思った。
1人でいる時に時々見せる、どこか遠くを見るような、悲しみ切なさに満ちた目を見る度に、胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
彼女がその目をする時、何を思っているのかをハロルドは知らない。ハロルドといる時はそんな素振りは見せないし、その目をしていてもハロルドが話しかければいつも通りに振る舞う。そして何を考えていたのか聞いても決して教えてくれないのだ。
そして、年を経るほどにそんな姿を見掛けることが増え、ハロルドは無力感に苛まれた。
セリアが周囲から孤立していることは知っていた。
神術が上手く使えないがために多くの悪意に晒されていることも。
自分がそういった周囲からセリアを守れていないのが原因だと思った。
セリアが王太子妃として相応しいと周囲の人間に認めさせ、自分がそばに寄り添って守り続ければ、いつかあんな目をすることもなくなると思っていたのだ。
そのために、学園に入ってしばらくしてから、ハロルドは動き出した。
セリアの有能さを周囲に認めさせるため、今まで試していたセリアの提案を、より大きな規模で試そうと思ったのだ。
セリアの出す提案はどれも画期的で、農業の方法や道具の改善案から、果ては行政や災害対策に関するものまで規模も種類も様々なものだった。
そのため、国内の各地を飛び回る羽目になり、セリアのそばにいられる時間がどんどん減ってしまったが、将来のためだと思って手紙を出すだけで我慢した。セリアは怒ってしまったのか、なかなか返事をくれなくて寂しかったがそれも我慢した。実のところ、その手紙はレーヴェン侯によって握り潰され、セリアの下には届いていなかったのだが。
そして、ついに隣国でもセリアの有能さをアピールし、地盤がある程度固まったと意気揚々と帰国したところに婚約破棄の件を聞いたのである。
王都に向かう馬車の中で最初にその話を聞いたときは愕然とした。
久しぶりに愛しい婚約者と会えることに浮き立っていた心を地の底に叩き落された気がした。
しばし呆然としていたが、やがて馬車が王都に入り、王宮に向かう頃には、勝手なことをした父親に対する怒りがふつふつと湧き上がって来ていた。
そして王宮に着くやいなや、湧き上がる怒りのままに父の下に押しかけたところだったのだ。
ハロルドは言葉を尽くしてセリアの提案を基にして生まれた成果を語ったが、ゼフォードの反応は鈍かった。
「たしかに、多少優れた知恵を持つことは認めよう。しかし、セリア嬢が神術師として大きな欠陥を抱えているのは疑いようもないことだ。セリア嬢は神に見放された存在ではないかという話まである」
「まさか!あんな噂はセリアを陥れようとする者たちが流した根も葉もない噂です!父上はあんな戯言を信じたというのですか!?」
「私が信じる信じないはこの際問題ではない。そのように思う者がおり、それを否定出来る者がいないということが問題なのだ。実際、あれほどの神力を有していながら一向に神術が上達しない者など聞いたことがない。そのような邪推をする者が現れるのも無理からぬことだろう。お前が言うからこれまで婚約は破棄せずに彼女の成長を待っていたが、これ以上猶予を与えることはできん」
その後もハロルドは必死に食い下がったが、ゼフォードの意志は変わらなかった。
「お前が何を言ったところでセリア嬢との婚約破棄は既に決まったことだ。今日の昼の会議で正式に決定し、既に上位の貴族には周知のこととなっている。明日には王都中の貴族に知れることになるだろう」
「なっ………」
既に婚約破棄が正式に決定していることに、ハロルドは絶句した。
何も言えなくなったハロルドに、ゼフォードは机の引き出しから1枚の書類を差し出した。
呆然としたまま反射的に書類を受け取ったハロルドは、それが何の書類か気付くと更なる驚愕に襲われた。
「なっ…これは!?」
「お前とナキア嬢の婚約の契約書だ。婚約破棄が知れ渡った今、一刻も早くこの婚約を正式のものとしなければならん。手の速い貴族はすぐにでも縁談を持ち込んでくるぞ?」
あまりにも自分の意思を無視した話に、硬直から回復したハロルドが声を上げようとしたその時、
王宮に衝撃が走った。
物理的なものではない。現に壁も床も揺れてはいない。
ただ、何か得体のしれない圧倒的なプレッシャーを突然外から浴びせられて、ハロルドはよろけて床に膝をついた。
一方、椅子に座っていながら体勢を崩し、机に両腕をついたゼフォードには、この現象に覚えがあった。
「馬鹿な…!?これは…この気配は……!?」
よろめくようにして執務室の窓に向かうと、そこからプレッシャーの発生源に目を遣り、魂が抜けたかのような表情で呆然と呟いた。
「ありえない…こんなことは……一体…」
常にない父親の様子を訝しんだハロルドは、父の隣に立って窓の外を見遣り、学園の上空にとんでもない量の神力を内包した、巨大でどこか神聖さを感じさせる光の渦が発生しているのを見て、目を見開いた。
言葉もなくその光を眺めるハロルドの耳に、父親の喘ぐかのような声が届いた。
「神意召喚…………なのか……?」
* * * * * * *
自分の頭上に渦巻く光の渦を、私は黙って見上げていた。
すると、やがてその渦の回転がゆっくりと安定したものになり、その中心から声が降り注いだ。
― 我を呼ぶか?人の子よ ―
その男とも女とも判別できない不思議な声は、鼓膜を震わせることなく私の頭の中に直接響いた。
しかし、不思議と不快な感じはしない。
「はい、私は…」
一瞬セリア・レーヴェンと名乗るべきかと思ったが、神術の詠唱に更科梨沙と唱えてしまったので今更かと思い、前世の名前を名乗ることにする。
「…更科梨沙、姓が更科で名が梨沙です。どうしてか前世の記憶を持ってこの世に生まれ落ちた者です。御身に伺いたいことがありまして神意召喚を行いました」
返答は無かったが、何となく先を促されているような気配がしたので率直に本題に入ることにする。
「私は自分が前世で生きていた地球の、日本という地に帰りたいのです。それを可能とする神術が存在するかどうかを、するならばその方法をお伺いしたく存じます」
息を潜めてじっと返答を待っていると、やがて再び声が響いた。
― 不可能ではない。だがその方法を教えることはできない ―
予想外の返答に息を呑んだ。自分の願いが全否定されなかったことには安堵したが、あまりにも煮え切らないというか要領を得ない回答だった。
「それはどういうことでしょうか?」
― お前たちが神術と呼ぶものは、お前たち自身の意思で世界の法則を捻じ曲げ、願った現象を具現化する力である。それがどのような願いであれ、そこに実現に足るだけの強い意思があり、条件が揃っていれば不可能ということはない ―
またしても予想外の返答に私は言葉を失ってしまった。
神術とは神に祈りを捧げ、神力を対価として超常現象を引き起こすものではなかったのか。
「…御身が我々の祈りに応え、願いを叶えて下さるのではないのですか?」
― 違う。神への祈りという形を取っているのは、それが、人間が雑念を排し、1つの意思に向けて精神を統一する上で最も簡単な方法であるからであって、それ以上の意味は無い。お前たちが意思を向ける先は我ではなく世界そのもの ―
― 我がお前たちの願いを聞き届けるのは、この儀式が行われた場合だけだ ―
自分の中の常識が音を立てて崩れ去るような感覚がした。それはつまり、確固たる意志さえあれば神術の詠唱は何でもいい…あるいは極論、詠唱など不要ということになるのではないか?
(私が神術を上手く使えなかったのは、その意思の元となる自分自身に対する認識が曖昧なままだったから…?そして名奉じの儀とは、その認識を確かなものとして定義するためのもの…?)
あまりにも衝撃的な情報に混乱する頭のままで、次の疑問を口にした。
「なぜ地球に帰還する方法を教えては頂けないのでしょうか?」
― お前たちが神力と呼ぶ力を与えたのは我だが、神術を編み出したのはお前たち人間自身だ。故に過去に行われた神術についてなら教えることはできても、過去に行われたことの無い神術について教えることはできない。過去にお前と同じことを試みた者はいたようだが ―
聞き捨てならない情報が出て、私は逸る心のままに尋ねた。
「そ、それは誰ですか?なぜ成功しなかったのですか?どこまで成し遂げたのですか!?」
― それ…ば……で…きず………
不意に声が遠のいた。
いや、声だけじゃない。
全身の感覚が遠のいていく。
気付くと視界に映る光景が変わっていた。光の渦を見上げていたはずなのに固い地面が視界を埋め尽くしている。
(あれ?私倒れ…?何、で、くら…)
* * * * * * *
ふと目を覚ますと、見覚えの無い天井が視界に入った。
(あれ?私どうして…?)
寝惚けた頭で状況を整理しようとしていると、ベッド脇から声をかけられた。
「ああ!お目覚めになりましたかセリア様!」
声の方に視線を向けると、王宮仕えの顔見知りのメイドがいた。
「私…どうして……?」
「昨夜学園で神力切れで倒れているところを発見されたのですよ?学園に向かった城の者に発見されてここに運び込まれたのです。軽い打ち身もされてましたので治療をしておきました。お加減はもうよろしいのですか?」
「神力切れ…」
なまじ膨大な神力を持って生まれたがために今まで経験がなかったが、なるほどあれが神力切れか。急に意識と感覚が遠のいたから一瞬死んだのかと思った。
ほっと安心し、上体を起こして自分の体の具合を確かめる。
特に問題は無さそうなので、メイドにそのように伝える。
「それはようございました。陛下を呼んで参りますので、少々お待ちください」
そう言うと、メイドは綺麗に一礼して部屋を出て行……え?陛下?
まだ少しボーっとしていた意識が一気に覚醒した。
そのまま急いで状況を整理する。
(陛下を呼びに行ったということは、私が昨日やったことはまず間違いなく陛下の耳に入っている。城の者が学園から私をここまで連れて来たということからもそれは明らか。ということは…)
この先の展開は容易に想像できる。
私が神術の才能を開花させたことは王家に、下手をすると侯爵家にももう伝わっているだろう。
となればあの家と王家が私を手放すとは思えなかった。ハロルドとの婚約を復活させるか、それでなくとも何らかの形で私をこの国に縛り付けようとするだろう。それは私にとって非常に不都合だった。
昨日、神は言っていた。過去に私と同じ異世界への帰還を試みた者がいると。それは十中八九聖人か聖女だろう。
地球への帰還の目途が立たない以上、まずはそこから手掛かりを探すべきだろう。
そして聖人や聖女の遺物や遺跡の多くは、国外の秘境に眠ったままとなっている。
そこまで考え、ちらりと部屋を見渡す。
部屋の中には先ほど出て行ったメイドの他に2名のメイドが控えていた。窓から見える景色からすると、ここは王宮で国賓などが泊まる部屋の一室らしい。
このままここでじっとしていれば、じきに国王陛下がやって来て何らかの処遇を言い渡されるだろう。そうなっては国外の、それも害獣がひしめく領域に行くことなど不可能となるだろう。つまり…
(逃げるなら…今)
そう決めると、ベッドから降り、窓へと向かい、窓を開け放った。
部屋にいるメイドが何やら声をかけてくるが無視し、意識を集中していく。
空を見上げ、そこに向かって手を伸ばすイメージ、王家も、侯爵家も、この国のありとあらゆる枷を振り払うイメージをする。
そのイメージのまま、自然に言葉を紡ぐ。
「私は願う…自由を」
体が神力で満たされ、重力の枷から解き放たれる感覚がした。
私は湧き上がる昂揚感のままに、窓の外へ、大空へと向かって飛び出していった。
これが後に白銀の聖女と呼ばれる少女の長い旅の始まりだった。
彼女は自由に空を駆け、訪れた地で様々な奇跡をもたらした。
時に害獣の群れを討伐し、時に天災を鎮め、時に流行り病に侵された村を救う。
各地で多くの人々を救い、放浪を続ける彼女の本当の目的は、彼女と神以外誰も知らない。
そして、その旅の果てに彼女の願いが叶い、異世界への帰還が果たせるのかどうかは、神すらも知らないことなのだ。
* * * * * * *
「セリア!!!」
父と共に、セリアが目覚めたことを聞いたハロルドは、普段の冷静さもかなぐり捨てて、父を置いてすぐに駆け出し、愛しい少女がいるはずの部屋に飛び込んだ。しかし…
「セリア…?」
そこに望んだ少女の姿は無く、開け放たれた窓と風に揺れるカーテン、そして窓の外を呆然と眺める2人のメイドの姿があるだけだった。
これがハロルドの、愛する少女を取り戻すための長い戦いの始まりだった。
各地を文字通り飛び回り、時にはパッタリ姿を消す少女ともう一度会い、自らの思いを伝えるため、ハロルドはあらゆる手を尽くすこととなる。
しかし、彼がもう一度少女に会うことはできるのか、できたとして彼女を翻意させ、この世界に留めることができるのかは、神すらも知らないことなのだ。