第1話「名無しの姫と外の世界」
初っ端からバトります。
しばらくおつきあいいただければ嬉しいです。
そのシルエットは異様であった。
身の丈ほどの巨大な白銀の十字架は彼女の右手首を覆い、短辺の両端から伸びる鎖が肩にかけられていた。その重さゆえの負担を少しでも軽減させるかのように、或いはそれもまた戒めか…。
そしてそれを少しでも覆い隠そうとするかのような左右非対称のマントも、自慢の豪奢だった金髪も、徒の旅で砂にまみれ薄汚れていた。それでもそのみすぼらしい身なりには似合わぬほどの強い光を湛える碧の双眸で高い岩場から周りを見渡していた。
空が青い。大地は広大で、もちろん太陽もさんさんと照りつけている。
…ただ、村のひとつ、いやせめて村人のひとりくらい見つかってもいいんじゃないかと、儚い望みと分かっていても思ってしまう。
見渡すかぎり岩、岩、土、岩、土、岩、岩、草(ほんの少し)、岩、岩、土――……。
要するに。見渡す限りの眼下は、ほぼまっ茶色。人っ子ひとりどころかネズミの1匹すら見当たらない。
『ぎゅるるるるるぅぅ~~…』
情けなくも盛大な音に、思わず腹部を左手で強く押さえため息をついた。
城を出てから2日、まったく飲食していない。そりゃ腹も減れば喉も渇く。
城の抜け道から城壁を取り囲む森をひたすらに歩いてきた。進むにつれ、植生の変化も目の当たりにした。
王城近くは樹高の高い常緑樹。これは茂る葉に紛らせて遠見のできる上部に監視兵を置く為に。
城下町辺りはそれよりやや低い灌木。城下町から少し離れた農地までそれは続いている。城壁のない街に害獣が侵入しにくいよう、硬い棘だらけのものや、獣の嫌う薬効を持つものを、王家が都市計画の一端として植樹したものだ。実際、害獣被害はそれ以前とは格段に減ったので、王家はその責を果たしていると言えよう。ちなみに城下町と農地が多少離れているのは、新鮮な食材は欲しいが、そこで発生する臭いを嫌がる者たちへの配慮で、緩衝地帯を設けたからだ。王家も金持ちには弱い。
さらに離れ、下層民――街に住める財も、生産系の手職も、それ以外の伝手もなく、農地を確保することもできずにいる者たち――の住まう辺りにはもう木はなく、それでもまだ草が茂っていた。つまりは、細々とでも食物を育てられるはする程度の土壌はある。彼らはそのわずかな恵みと、農地への日雇いで糊口を凌いでいる。
けれど、そこすら抜けてしまえば――この荒地だ。
森ではどこかに実の生っている木はないかと――果実なら多少は腹も膨れ、喉も潤せる――探し求めながら歩いたが、見事になかった。時季のせいではなく、敵兵や害獣に食料を与えないために実の生らないものだけを植えたのだろうと、彼女は進むうちに理解した。城壁内には果樹園があったから、そういうものだと思い込んでいた己の甘さだ。だからといって、民が丹精こめた作物を奪うことはできなかった。そしてこの荒地では食料調達は望めない。
まぁ【ジンガイ】――人間ではなくなった私の肉体に『餓死』はないし、そもそも『死』という選択肢が存在しない。外見年齢も13歳の頃と変わらない。
そう……それはまるで不老不死。
でも空腹は少々勝手が違う。飢えは他人を傷つける。
抗いがたい生存本能が、周りの命を吸い尽くしても己を生かそうとしてしまうから……。
(地下牢じゃ3食付きだったから良かったが……本当、面倒な身体にしてくれたもんだ)
嘆息し、再び辺りを見渡してみる。
「せめてヤギの一頭でもいてくれれば、この際生肉でも…――っ!?」
気づけばいつの間にか岩場の下に人がいて、あきらかにこちらを見ている。
歳の頃は16、7ほどか。深い紫の光沢を含んだ、腰に届く長い黒髪の少女。
東方特有の『キモノ』やらいう装束だろうが、文献で見たものとは少々感じが違う。
だが、美しい。
上から下へ段々と濃くなってゆく地色は白から闇のような漆黒へ。その裾から舞い上がる真紅の蝶は、上へゆくほど小さくなっている。白い扇を挿した帯は綾織の黒繻子か。光を受けて輝く金色の帯締が華を添えている。
(…旅には向かなかろうが)
東方辺境の島国特有の衣装だ、中央大陸の中央に位置するアセリアのはずれで見かけるのが珍しい。というより、おかしい。
各地を巡る旅芸人の衣装ならまだ分かる。
国の来賓というのでも、まだ。
だが、前者なら一座が、後者なら供がいない。どちらにせよ、見目麗しい女が単独で旅をするなどありえない。
感受性の乏しさどころか欠如はともかくとして、冷静な観察眼を持ってはいた彼女は本能的な警戒感を抱いた。何者だ? と。
それでも。
美醜にさして価値を見出さない自分にさえ、その少女がまるで人形であるかのような錯覚をもたらしたのは、そびえる岩の上と下という距離感だけではないのだろう。
やがてその少女はにこやかに会釈し、ゆっくりと口を開いた。
「初めまして。出会えて幸運ですわ、神聖アセリア王国の【名無しの姫】様」
国を追われた身。いまさら姫と呼ばれたところで感慨はないが、あからさまに【名無し】を強調した物言いにはカチンとくる。
見た目と違い、なかなかイイ根性をしている。
「わたくしは東方辺境にある小さな島国の姫、朧音冴月と申します」
抑揚を抑えた、だが優しい物言い。声も耳に快い柔らかさだ。王族としての教育を受けた者のそれは、しかし別の思惑が言葉に態度に見え隠れしている――敗者へのあからさまな侮蔑、だ。
「…何故、私のことを知っている?」
「知っているもなにも、手首にそれだけ大きな十字架を架していれば、その辺の駄馬だとて気づきますわ。まさか本気でそんなボロマントで隠しきれているとでも?」
それまで無表情をつくろっていた頬がひくついた。怒りの臨界点まであと一歩といったところだ。…まぁ、元来沸点は極めて低い自覚もあるが。
「それに……伝え聞いておりましたもの」
冴月と名乗った少女は帯に挟んだ扇を取り出し広げ、口元を覆った。白地の扇には『粉砕』の墨文字。実際には見えずとも、その唇に浮かぶ嘲笑が透けている、と彼女は思う。無意識に釣り上った右の口角の上、頬が痙攣といっていいほどにひくひく動いている。
冴月はなおもにこやかに続けた。
「アセリアの名無しの姫は、その奇怪奇矯な十字架がなくては人の姿も保てぬバケモノだ、とね」
「 ……教団の手の者か?」
「さぁ、どうかしらね。力づくで吐かせますか?」
「 ……そうでなくとも、テメェは即行敵認定だ」
宣言しながら、羽織っていたマントを背に跳ね上げ、その右手首に架せられた白銀の十字架を陽光の下に曝した。
冴月は開いていた扇をピシャリと閉じ、押し殺していた何かを徐々に解放させるかのように歓喜の笑みを浮かべた。
「……すり潰し甲斐がありそうですわ」