そうめん紳士
結局一匹の蚊を退治するのに朝までかかってしまった。
退治した後は糸の切れた操り人形のようにフローリングに倒れ込んだ。そこに母さんが入って来たのだ。
俺は事情を説明し、とりあえず空き巣の疑いは晴らした。説明が終わると母さんはゲラゲラと笑いながら部屋を後にした。
家族からは一体いつまでこのネタでバカにされるんだろうか…。
考えただけで憂鬱になってくる。だが尋常ではない睡魔のせいでこれ以上頭を働かせるのも億劫だ。
俺は片付けもほったらかし崩れるようにベッドに倒れ込み、数秒としないうちに現実世界から切り離された。
目が覚め時計を見ると昼の12時を回っていた。
ベッドからのそりと起き上がる。散らばった本や服が視界にくっきりと写り自分がやったことの間抜けさを改めて痛感した。
ようやく頭が働いて来たようだ。
机の上に置いてあるスマートフォンがピカピカと点滅している。歩ける隙間を使って机に近づきスマホを見るとどうやらメールが入っているようだ。
友人の家倉清一からだ。メールの内容はたった一文。
『早く来ないと無くなるよ』
俺は首を傾げた。
どういう意味だ?
早くどこに行かないといけないのか、何が無くなるのか全くわからない。
そんな事をぼんやり考えているとお腹から空腹を告げる音が鳴る。
そういえば朝ご飯を食べてないから腹減ったな。
お腹をさすり部屋を出て、食事をするために一階へ向かった。
だが何にも身構えてなかった俺は階段を降りて衝撃の光景を目にすることになった。
居間にはテーブルがあるのだが、いつも俺が座っている場所に青いシャツを着た長身の男が正座で座っているのだ。しかも何の違和感も無くそうめんを食べている。
俺の気配を感じた青シャツ男はそうめんを食べる手を止め、サラサラの髪をなびかせながらこちらを振り返りはじけるような笑顔で言った。
「やあ、おはよう正信。今朝の出来事は君の母上から聞いたよ。災難だったね」
俺は青シャツ男にすたすたと歩いて行き。上から下に頭をはたいた。青シャツ男はその衝撃で口から勢いよくそうめんを床に吐き出した。
「何するんだい!せっかく作っていただいたそうめんを吐き出しちゃったじゃないか!」
青シャツは非難の声を上げる。
「何するんだじゃねーんだよ!何でお前は家族みたいに違和感なく昼飯食ってんだ!」
青シャツ男こと家倉清一は布巾でそうめんを片付けながら言う。
「今日は久しぶりにカラオケに行きたい気分だったから君の家に来たんだよ。チャイムを押したら君の母上が玄関から出て来て今朝の出来事を話してくれたんだ。しばらくは起きないだろうから帰ろうとしたら昼食を作ってくれると言ってくれるじゃないか。だから僕はお言葉に甘えてそうめんを食べてたんだよ」
清一は吐き出したそうめんを布巾で拭き取り。台所で洗い物をしている母さんの所へ持って行った。清一は申し訳なさそうにしている。
「申し訳ありません。とても美味しいそうめんをこぼしてしまいました」
「いいのよ気にしないで。そんなに美味しかったならいっぱい食べて行ってね」
母さんは美味しそうに食べてくれるのと清一がイケメンなのが合わさり、上機嫌だ。
俺はそんな母さんの姿を見てため息をついた。
イケメンには弱いな…。
そんな事を思っていると。「全く。叩くことないでしょう。ほらあんたも食べなさい」とそっけなく言われる。
妙に納得いかない気持ちを持ちながらも仕方なく清一の前の席に箸とめんつゆを持って行き座って食べ始めた。
清一は俺が頭を叩いたことなどすっかり忘れたようににこやかに言う。
「いやー君の母上は料理が上手だね。こんなに美味しいそうめんは生まれて初めて食べたよ」
俺はそうめんをすすりながら思う。
いやむしろマズイそうめんをどうやって作るのか俺にはわからないんだが。
「そういえば珍しくカラオケに行きたいと言ってたな。どうしたんだ急に」
俺は食べながら聞いた。
「実はね。昨日テレビでカラオケの得点を競う番組を観たんだ。それで久しぶりに行きたくなってね」
ああ。そういえば昨日そんなのがあってた気がするな。
俺は清一に気づかれないよう心の中で溜息をつく。
正直行きたくないな…。
清一は音痴と言うわけではない。むしろ歌は上手い方だと思う。問題は選曲だ。清一は高校生には珍しく演歌を歌うのが好きなのだ。
カラオケは基本的に俺と交互に歌うのだが、俺が盛り上がる曲を歌った後に大人の悲恋の歌や亡くなった愛する人に向ける歌などを歌われると、極度の温度差による化学反応でどういうテンションでいれば良いのかわからなくなる。
母さんが台所から声をかけて来た。
「あら楽しそうね。あたしも最近歌ってないな〜」
まさか来る気じゃないだろうな!
俺はそうめんを口に運ぼうとしていた手を止め、ギョッとした顔で母さんを見た。その意味を理解したのか。
「流石に来ないわよ…」
声が若干残念そうなのは気のせいだろうか。
「それで?行くのかい行かないのかい?」
そうめんを食べ終わった清一が聞いてきた。その目はもちろん行くだろう?とでも言っているかの様にキラキラと輝いている。
台所の方から「行ってあげなさいよ」という無言の圧力を感じとった。
わかったよ。行けばいいんだろ…。
俺にNoという選択は許されなかった。