金木犀
「こんにちは」
話し掛けて来たのは、真っ白な服の男の子。
「あなたは天使?」
ぷっかり雲が浮かぶ青い空。
風が心地良い草原。
川の向こう岸には色とりどりの花が咲くお花畑。
こんな所にいるその子は天使に違いないって、思った。
「違うよ。君と同じ。向こう岸に行きたいんだ。」
にっこり笑って彼は言う。
穏やかな流れの川の向こう。私も行きたい。
「なら、一緒に行く?」
彼は首を横に振る。
「行けないんだ。」
「どうして?」
「まだ完全じゃないから。」
「私は、いけるかな?」
「どうだろうね。」
彼にじっと見られながら、私は川に向かう。
だけど何かが邪魔をする。
「行けない。」
「僕と一緒だね。」
私が行けない事、彼はなんだか嬉しそう。
ぶすっと頬を膨らませて、私は彼の隣に腰を下ろした。
「あなたはいつからここにいるの?」
「ずっといる。」
「なら、私もずっと?」
「どうだろうね。」
ずっとは困る。
溜息を吐いて、私は寝転がる。
「でも多分、じきにどっちかに行けるよ。」
彼の呟きで、私は彼を見上げた。
彼は穏やかに微笑んでる。
「どうしてそう思うの?」
「ずっと、ここにいたから。来る人はみんな、少しするとどっちかに行く。」
「なら、あなたは?」
「僕はずっと、どっちにも行けないんだ。」
「それは、辛い?」
「そうだね。」
ふーんって呟いて、私はまた起き上がる。
退屈だから、お話をしようって思った。
「君が言おうとしてる事、当てようか?」
私が口を開く前に彼がそう言って、私は首を傾げる。
「どうしてここにいるのって、聞きたいんじゃない?」
びっくり。正解。
私の表情を見て、彼はふふって、小さく笑う。
「今までここで会った人、ほとんどに聞かれたから。」
「ふーん。それで?」
「君は?」
「私から話すの?」
「うん。僕は今までたくさんの人に話したから。」
「でも私は初めてよ?」
にっこり笑った彼は、それ以上は答えない。
私の話を待っているんだと思ったから、まぁいいかって思って私は話す。
「殺されたの。」
「誰に。」
「お父さん。無理心中。」
「それにしては、君は明るいね。」
「そろそろ危ないのかなって思ってたし。そういえば、私の前に私の家族が来なかった?」
ゆるゆる彼は首を振る。
来てないみたい。
「生きてるのかな?」
「そうとも限らない。」
「どうして?」
「ここは、狭間だから。即死は来ない。」
「なら、あなたはまだ生きてるの?」
「そうだよ。」
「どうして戻らないの?」
「戻りたくないから。」
「どうして?」
突然、彼は噴き出して笑い始めた。
嫌な笑い方じゃないし、笑顔が可愛いから私は眺める事にする。
「君は、どうしてばかりだね。」
「だって、暇なんだもの。」
ぷくっと頬を膨らませる私に、彼が手を伸ばして来た。
彼の手で挟まれて、ほっぺから空気が抜ける。
くすくすと彼が楽しそうだから、私はまた空気を含む。
そしてまた、ぶふーって音と一緒に空気を抜かれた。
「ねぇ、あなたの名前は?」
「君は?」
「また私から?」
唇を尖らせる私を促すように、彼が見つめてる。
ほんわり笑顔が可愛いから、答えてあげようって思った。
「柑奈。あなたは?」
「礼司。」
「礼司は何歳?私は15歳。」
君はって言われる前に先回り。
そんな私を彼は微笑んで見つめてる。
「僕は、ここに来たのは14歳。でも何年経ってるのかはわからない。」
「14歳に見えないわ。」
彼の見た目は、高校生くらいかなって感じ。
声も低いし、私よりも大人だと思う。
「なら、今の年齢は見た目と同じなのかもしれない。」
「ふーん。ほんとに長い事ここにいるのね。どうして戻りたくないの?」
「……君は聞きたがりだね?」
「言いたくないの?」
私に手を伸ばして、今度は彼は私の髪に触れる。
長い私の髪が彼の手の中で遊ばれる。
「綺麗な髪だね。」
「ありがとう。触っててもいいわよ?」
さらりさらりと、彼は髪が落ちる度に手を伸ばして、何度も私の髪に触れた。
遠くて触りづらそうだから、私は彼に近付いてあげる。なんとなく、私も彼に触れていて欲しかった。
「ねぇ礼司?」
「なにかな?」
「私も戻りたくないの。ずっとここにいられる?」
「それは、僕にはわからない。」
「向こう岸に渡れるかしら?」
「それも、僕にはわからない。」
「一人だと寂しいから、一緒に行かない?」
「行きたいけど、行けないんだよ。」
私の髪で遊びながら彼が微笑む。
何故だか悔しい気持ちになって、私は彼に擦り寄って、首に腕を回した。
ぴったり体を寄せた私の背中に、彼も腕を回してくれる。
「こうやってくっついていたら、一緒に行ける?」
「どうかな。連れて行って欲しいけど。」
「ねぇ、礼司はどうしてここにいるの?私は答えた。」
私を抱き締めて、また髪で遊んでいる彼は、小さく笑う。
ふふって笑った息が当たって、くすぐったい。
「心がね、壊れかけて、身体と離れたんだ。」
「どうして壊れかけたの?」
「ある日、学校から家に帰ったら、両親が血の海の中で倒れてた。僕を置いて、二人だけで行ってしまったんだ。」
「寂しかったの?」
「そうだね。」
「誰もいないから、戻りたくないの?」
「そうだよ。」
「でも、あなたは生きてるわ。」
「そう。生かされてるんだ。」
「何年も?」
「何年も。」
「……それは、大変ね。」
「そうだね。」
髪を梳かれているのが気持ち良くて、私は目を閉じる。
黙ってそうしていたら、ふと彼から花の香りがする事に気が付いた。
「金木犀の香りがする。」
「そうだね。」
「どうして?」
「多分、僕の身体の側に金木犀があるんだ。」
「病院じゃないの?」
「……おじさんがね、医者なんだ。僕を生かしているのはきっと彼で、金木犀も彼の仕業だと思う。」
「礼司は金木犀が好き?」
「好きだよ。」
「ふーん。良い香り。」
鼻を寄せて、すんすん香りを楽しむ。
彼の身体からは、ずっと金木犀の良い香りがする。
「礼司。お願いがあるの。」
「なんだい?」
「完全に死ぬ前に、キスしてみたい。した事ないの。」
彼が髪を梳く手がぴたりと止まった。
表情が見たくなって、私は体を少し離して彼の顔を見る。
「恥ずかしいの?」
彼の顔は赤く染まってる。
びっくりした顔が可愛い。
「迷惑なら、諦める。」
「……迷惑、ではないけれど、驚いた。」
「ならしてもいい?」
じっと見つめていたら、彼は肩を竦めた。
どうぞって意味かなと思って、私は彼の唇に自分の唇を重ねた。
柔らかくて、ドキドキして、気持ちが良い。
「い、一回じゃないの?」
何回も唇を押し付けていたら、彼に止められた。
「だって、気持ち良い。」
そのまま再開したら、今度は彼も答えてくれた。
ぎゅって抱き締め合って、飽きずに私と彼はキスをする。
「確かに、気持ちが良いね。」
「礼司も初めて?」
「うん。今まで、そんな事言いだす人には会わなかったし。」
今度はきゅうって抱き締め合って、私と彼はじっとしていた。
そしたら、突然何かに引っ張られた。
「礼司。何か、引っ張ってる。」
私が言うと、彼は悲しそうに笑う。
「戻るんだ。良かったね。」
「良くない。戻りたくない。怖い。助けて、礼司!」
どんどん引っ張る力が強くなって来て、私は必死で彼にしがみ付いた。
彼もぎゅって抱き返してくれるけど、引っ張る力の方が強い。
「相田礼司。多分、僕は相田病院って所にいる。金木犀がたくさん植えられてる病院。寂しくなったら、僕を探して。」
「探す!探すから!礼司も戻って来て!」
にっこり笑った彼が最後にキスをくれて、そのまま私は引き戻された。
目が覚めたそこは、病院だった。
父親に刺された所は、穴が塞がってる。
体はギシギシ動かし辛くて、私はゆっくり、体を慣らした。
なんとか起き上がれるようになって、周りを見回す。
開いてる窓から入って来た風は、金木犀の香り。
よろよろと、ベッドや壁に捕まりながら窓の方へ行く。窓から見えた景色は、金木犀のオレンジ色の花がたくさん。
礼司を探さないと。
私は、体にたくさん付いてるチューブを引っこ抜いて歩き出す。電子音がうるさいけれど、気にしていられない。
庭だ。庭に行こう。
歩いて、庭に出て、金木犀の香りに包まれる。
一本一本確かめて、見つけた。
車椅子の男の子。後ろに看護婦さんがいて何か話し掛けているけど、目を開けていても、彼の瞳に意思はない。
痩せ細っているけど、礼司だ。
「礼司。」
私は息を切らせてなんとか辿り着く。
彼の膝に縋り付いた。
「礼司。柑奈だよ。戻って来て?寂しいよ。一緒にいて。礼司…」
看護婦さんに何か言われてる。
でも、耳に入って来ない。よくわからない。
手を伸ばして、私は礼司の頬に触れた。
「礼司。」
見つめた先で、礼司の瞳が揺れた気がした。
ゆらりと動いた瞳が私を捉える。
「礼司?」
「か、んな…」
「お帰りなさい。礼司。」
「ただ、いま。」
ぎこちないけれど、ふわりと可愛いあの笑顔。
回復したら寄り添い合って、二人一緒に生きるんだ。