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「マリー・ルーがいないなんて、どういうことだい?」

 ラバーレ伯爵邸に到着するなり、ヴァレリアンはエクトルに対して盛大に文句を垂れた。

「しかも、僕が到着する直前にショロン伯爵邸へ行っただって? 酷いな。まさか、最初から僕に会わせないつもりだったんじゃないだろうね」

 十年前は鮮やかな赤毛だったが、いまは白金に近い癖毛を指で掻き上げつつ、ヴァレリアンは親友を睨む。

 アルカッション寄宿学校に入ると同時に減量に励み、子供の頃の面影など残らないくらいの変身を遂げた。まるで芋虫が揚羽蝶に成長したようだ、とかつての彼を知る人々は口を揃えて言う。

 体型が変わるにつれて、内向的だった性格も社交的になった。いまでは初対面の人ともすぐに親しくなれるほどの話術の持ち主となった。

「仕方ないだろう。叔母は妹が大のお気に入りなんだ。叔母のご機嫌取りのために、妹を派遣したんだ」

 軽く肩を竦め、悪怯れた様子もなくエクトルは答える。

 アルカッション寄宿学校へ入ってすぐにわかったことだが、エクトルは真面目な顔をして、事実を隠蔽するのが得意だ。また、人の弱みを幾つも握っており、いざというときに相手と交渉する材料にしている。

 かつてショロン伯爵邸に滞在していたおり、マリー・ルーの子守りは真面目に仕事をせずに使用人部屋で世間話ばかりしていたが、あれも子守りに情報収集をさせていたのだという。主にフランツの弱みを探らせていたらしい。

 道理でフランツもエクトルには近づこうとしなかったわけだ、と納得した。

「僕が訪ねるって、マリー・ルーに話してくれた?」

「いいや。まったく話していない」

 しれっとした顔でエクトルは首を横に振る。

「なんで! あれほど、マリー・ルーに話しておいてくれるよう頼んだじゃないか。君は、『検討する』の一点張りだったけどさ」

 エクトルの『検討する』とは、聞くだけ聞いて聞き流す、と同義語だ。

「妹は、君のことを覚えていない。それに、いまの君は、妹がもっとも嫌いな部類の男だ」

「嫌いって、どこが?」

「軽薄で、浮気性で、女とみればすぐに口説きたがるところだ」

「誉め上手と言ってくれないか? まぁ、マリー・ルーも君みたいな堅物と一緒に暮らしていたのでは、自分の魅力を言葉にして誉めてくれる男の存在に戸惑うだろうけれど」

「死んだ私の祖父や父のようなことを言うな。ちなみに、妹が嫌いな男は、女に媚びる奴だ」

「僕は媚びているわけではないのだけれど」

 十代前半の肥満体型が嘘のように、十代後半には痩せて、身長も伸びた。

 いつの間にか父親そっくりの美男子だと誉めそやされるようになり、社交界でも様々な貴婦人たちが自ら声をかけてくれるようになった。いまは軍隊に所属しているフランツなどは、子供の頃のあいつは太っていて醜くて、といまでも平気でヴァレリアンを罵るが、その態度が裏目にでて女性から顰蹙を買ってばかりいる。

 一方のエクトルは、最近では領地デュフォーに籠もって、こつこつと領地の経営にいそしんでいる。父親が亡くなり、爵位を継いでみれば膨大な借金が残されていたため、返済に追われているらしい。その返済も、彼の情報網を利用すれば、期限を延ばして貰うことも可能だという話だから、どれだけ人の秘密を握っているのか、想像もしたくない。

 ヴァレリアンはエクトルに、幾度かマリー・ルーに会わせてくれるよう頼んだが、一度として領地に招いてくれたことがなかった。

 今回、ヴァレリアンの醜聞がなければ、半ば強引にデュフォーへ押し掛ける機会も作れなかっただろう。

「ようやく会えると期待していたのに」

 これまで社交界の数々の女性たちを相手に練習を積んできた成果が見せられるはずだったのに、とヴァレリアンは肩を落とす。

「いま、君と妹を会わせたら、叔母に怒られるのは私だ。君の悪評は叔母の耳にも届いている」

「ショロン伯爵夫人が僕の評判を耳にしたところで僕にとっては痛くも痒くもないが……マリー・ルーの耳に入ったら、拙いな」

 ほうっと溜息を吐き、腕組みをして考える。

 世間を知らないマリー・ルーは、派手な女性関係で世間を賑わしている自分のことを、良く思っていないかもしれない。多分彼女は、幼い頃に結婚を約束したギーがメイユール男爵だということに気付いていないだろうが。

「少しは君も日頃のおこないを反省し、ここでおとなしく謹慎生活を送ることだ。まったく、君の恋愛騒動の後始末をする身にもなってくれ」

「それはそれは、お手数をおかけしまして」

 ヴァレリアンはいつも疑似恋愛のつもりで女性と付き合っているというのに、相手が勝手に本気になるのだ。困って相談する先は、決まってエクトルだった。

 女性関係に関してはまったく噂を聞かないエクトルだが、後始末はとても巧いため、ついつい頼りにしてしまうのだ。

「まぁ、いいよ。僕はここで、マリー・ルーが帰ってくるまでおとなしく待つことにするよ。どうせ、時間はいくらでもあるんだ。一ヶ月でも半年でも、君に追い出されそうになっても居座るからね」

 通された客間の長椅子に寝転び、居候を宣言する。

「勝手にしろ。しかし、都の美女を見慣れたいまの君が妹を見たら、期待はずれだと思うかもしれないぞ」

「そんなわけがないじゃないか! いや……都のあの派手派手しいご婦人方をそっくり同じになっていたら、さすがに多少は残念に思うかもしれないが」

「それはない。あんな洗練した雰囲気は一切ない。子供の頃と変わらず、田舎娘だ」

「酷い言い方だな。変に都会の色に染まっていないと言うべきだよ」

「……物は言いようだな。君と話していると、私は価値観を見失いそうだよ」

「心配しなくても、僕の基準は常にマリー・ルーだよ」

「そうか」

 諦めた様子でエクトルはひらひらと手を振りながら部屋を出て行こうとした。

「あぁ、そうだ。この屋敷の庭には、薔薇が咲いているかい?」

 長椅子から起き上がると、ヴァレリアンはエクトルの背中に声を掛けた。

「薔薇? まぁ、いくつかは咲いているぞ。四季咲きの薔薇を何種類か植えてあるから、この季節でも花は見られる」

「そうか。じゃあ、後で庭でも散歩しようかな」

「好きにしろ」

 大袈裟も歓待することもなく、エクトルは部屋から出て行った。

 マリー・ルーと出会って以来、庭の散歩はヴァレリアンの日課となった。寄宿学校時代はさすがに学校の庭を愛でる暇などなかったが、薔薇は彼がもっとも愛する花だ。

 円卓の上に置かれた果物籠には、リンゴやオレンジが盛られている。

 その隣に、薄紅色の薔薇が花瓶いっぱいに飾られていた。

(マリー・ルーの頬みたいだ)

 さすがにショロン伯爵邸へ出向くわけにはいかないから、ここでおとなしく彼女の帰還を待つしかないが、彼女が暮らす屋敷の中を散策するのも楽しそうだ。

 エクトルは滅多に妹の話をしないから、彼女がどのような女性に成長したのか知ることができずにいる。

せめて最近の彼女の肖像画でもないものかとエクトルに尋ねたが、そんな金のかかる物はない、と一蹴された。画家を雇うのがそれほど高額だろうか、とヴァレリアンは首を捻る。

 滅多に使われない客間に飾られている絵は、色褪せた風景画だ。

 こういうときはマリー・ルーの幼い頃の肖像画でも飾ってくれれば良かったのに、と開口一番にヴァレリアンが注文を付けると、「馬鹿か、お前は」とエクトルを呆れさせたばかりだ。

 リンゴをかじりながら、ヴァレリアンは窓の外に広がる庭を眺めた。

 糸杉の木が立ち並ぶ庭を彼女と散策することを想像するだけで、胸が躍る。

(早く会いたいな)

 まさか、その願いが数刻後に叶えられることになるとは、さすがにヴァレリアンも考えてはいなかった。

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