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 部屋に入った瞬間は、違和感を感じなかった。

 庭を散歩している間に使用人が部屋を掃除したらしく、朝よりも片付いている。

 長椅子の上に放り出してあった上着はきちんと畳まれ、寝室の衣装櫃の上に置かれている。

 なにか焦げ臭い、と思った瞬間、暖炉の中に紙の燃え滓があることに気付いた。

 初秋であるいまの季節は、まだ暖炉に火は入っていない。暖炉の前には衝立が置かれている部屋もあるが、客間であるこの部屋は特になにもなく、空っぽの暖炉があるだけだ。炭はなくよく掃除をされた暖炉の中に、マッチと紙の燃え滓があった。

 燃え損ねた紙の隅には、わずかに文字が見える。

 暖炉の床には、封筒が溶けて落ちていた。

(フランツのしわざだ)

 書き物机のひきだしの中にしまってあった、ショロン伯爵による推薦状が燃やされたことは、一目瞭然だ。

 フランツか、彼に頼まれた使用人のしわざであることは明らかだ。

 暖炉の中を睨み付け、ヴァレリアンは両手を強く握り締めた。

(叔父上に、もう一度書いてくれなんて頼めるわけがない)

 いくら夫人の頼みで書いてくれたとはいえ、ヴァレリアンは叔父にとってそれほど可愛い甥ではないのだ。いまはヴァレリアンがマリー・ルーのお気に入りになっているから、夫人も自分のために動いてくれただけであって、本来は自分など叔母に気に入られるような者ではないのだ。

 母親に話すべきだろうか、と思案しているうちに、午後の茶会の時間だと使用人が呼びに来た。

 ショロン伯爵夫人が主催する午後の茶会は、強制ではないがほぼ全員参加が必須だ。

 エクトルは読書を中断するのが嫌らしく、本を片手に現れる。彼は妹が余計なことを言わないよう、見張っているのが自分の役目だと考えているふしがある。

 仕方なく服を着替え、中庭へと向かった。

 茶会は昨日とは異なり、石の四阿ではなく葡萄棚の下で催された。

 深緑の葡萄の葉が茂る一角は、葡萄の蔓で天井が覆われた植物の四阿となっていた。

 ヴァレリアンが向かうと、どうやら彼が最後だったらしく、着席すると同時に使用人たちが菓子や茶を配り始める。

 今日は干し葡萄と胡桃がたっぷりはいった焼き菓子、生クリームとラズベリーのジャムを添えたスコーンなどが振る舞われた。

「テレーズ。あなたのおかげでヴァレリアンはアルカッション寄宿学校に入れるわ。本当にありがとう」

 茶会が始まると同時に、ヴァレリアンの母親は義妹に礼を言った。

 すでに午前中、わざわざ伯爵夫人の部屋を訪ねて礼を述べているはずだが、この茶会の参加者たちの前でも言いたくて仕方なかったのだろう。自分の息子がアルカッション寄宿学校に入るとなれば、常日頃は控えめな母親も周囲に吹聴したい気持ちになるらしい。

「伯爵に推薦状を書いていただいたのか?」

 珍しくフランツが自分からヴァレリアンに話し掛けてきた。その歪んだ口元やにやけた顔がやたらと気持ち悪い。

「……うん」

 おずおずとヴァレリアンは頷く。

 フランツは推薦状が話題になることを待ち構えていたに違いない。いつまで経っても話題にならなければ、自ら話題を振っていたことだろう。

「見せてくれよ。アルカッション寄宿学校への推薦状なんて、滅多に見られるものじゃないからな。僕も是非拝んでみたいな」

「あれは人に見せる物じゃない」

 自分で焼いておきながら、と唇を噛み締めながら、ヴァレリアンは抵抗した。

「良いじゃないか。せっかく伯爵に書いていただいたんだ。アルカッション寄宿学校の校長の手元に渡ったら、あとは誰も見る機会なんてないんだぞ。あとは永遠に校長室の書類箱にしまわれたままだ」

「見せておあげなさいな、ヴァレリアン」

 珍しく母親が口を挟んだ。

「しかし……」

 戸惑いながらヴァレリアンは母親に視線を向けるが、母親は息子がなにを困っているのかわからない様子だ。あれはフランツの奴が、と訴えても、フランツのことだからしらばっくれることだろう。それどころか、ヴァレリアンが不注意で燃やしてしまっただの、アルカッション寄宿学校に入りたくないものだから捨てたんだろうと言い出しかねない。

 いまは見せられる状態ではないのだ、と母親に目で訴えるが、一向に相手に伝わらず、「誰かに持ってこさせましょうか」と言い出す始末だ。

 「自分で取ってきます」と慌てて椅子から立ち上がったものの、背中には冷や汗が流れ、手足は冷え、頭は真っ白になって、まったく歩けない状態になっていた。

「どうしたんだ? 早く取ってきて、見せてくれよ。僕も待ってるからさ」

 下卑た笑みを浮かべ、フランツが急かす。

 明らかに彼はヴァレリアンが困っている理由を知っていた。

「あれはいま……手元になくて」

 小さな声でぼそぼそとヴァレリアンが告白すると、母親とショロン伯爵夫人は同時に首を傾げた。

「どうして?」

 母親に尋ねられ、ヴァレリアンは口の中が一気に乾くのを感じた。手足が震え、目の前が真っ赤に染まる。

 フランツのせいだ、と怒鳴り散らしたかったが、彼がやったという証拠はない。ヴァレリアンがフランツを糾弾すれば、すぐにフランツとその母親が逆に名誉毀損を訴えるだろう。証拠もなく人を非難した自分が、周囲から責めるのはわかりきっていた。

「それは……」

 どう答えれば良いのかわからず、口籠もる。

 膝が震え、目眩がしそうだ。

「さっき部屋に戻ったら……なくなっていて……」

 必死にヴァレリアンは言葉を紡ぐ。

「まさか、なくしたのか!? 最悪だな!」

 声高にフランツがわざとらしく叫ぶ。

「……っ!」

 おまえが犯人じゃないか、と食ってかかろうとしたときだった。

「――マリー・ルー、お前が持っているんじゃないか? 今朝、彼から見せてもらっただろう」

 なぜかエクトルの凛とした声が耳に響いた。

「わたし、もっていないわ。兄様がギーにかえしなさいっていって、わたしからとりあげたじゃないの」

 スコーンを頬張っていたマリー・ルーは、不服そうに訴えた。

「もっているのは兄様よ」

「そうだったかな?」

 しらばっくれるように、エクトルが首を傾げる。

「私はあの封書を彼に返したつもりでいたんだが」

「兄様はギーにかえしていないわ」

 ヴァレリアンは口を開いたまま、兄妹の会話を呆然と聞いていた。

 この二人がなにを喋っているのか、わけがわからない。

 今朝、エクトルから封筒を返してもらったことは間違いない。その封筒を、自分の部屋の書き物机のひきだしの中にしまったことも確かだ。自分が、鍵のかかるひきだしにしまわなかったのがいけないのであり、部屋に鍵をしなかったことも自分の失策だ。

 フランツの性格を考えれば、推薦状を燃やすような嫌がらせくらい、すぐに思いつきそうなものなのに。

 エクトルが事情を察して自分を庇ってくれていることはわかった。

 マリー・ルーの相手をしてあげた自分への礼なのだろうか。

 しかし、どうせ数日後にはアルカッション寄宿学校へ提出しなければならない物だ。遅かれ早かれ、焼かれてしまったことは明らかになる。それがヴァレリアンの不注意となるか、フランツの仕業であることを証明できるかの違いはあるが。

「エクトル……」

 いいんだ、と告げようとしたヴァレリアンは、エクトルの手元にある物を目にして固まった。

 それはフランツも同じだったらしく、驚きのあまり彼も椅子から立ち上がった。

「あぁ、こんなところに封筒を挟んだままにしてあった。すまない、ヴァレリアン。私は大切な推薦状を栞代わりにしていたようだ」

 本の間に挟んであった封筒を取り出すと、それをヴァレリアンに差し出す。

 ショロン伯爵家の紋章が蝋で押された封筒は、まぎれもなくショロン伯爵直筆の推薦状だ。子供の落書きよりも下手くそな文字は見間違えようがない。

「……う、嘘だ。それが本物のはずが――」

 大きく目を見開いたフランツが呻く。

「嘘? なぜ君がそんなことを言うんだ? 君はヴァレリアンからこれを見せてもらったことがあるのか?」

 エクトルが冷ややかな視線をフランツに向ける。

 一方のマリー・ルーは「ほーら。やっぱりお兄様がもっていたじゃないの」と勝ち誇ったような表情を浮かべている。

 どうやら彼女は、エクトルが推薦状を持っていたことに気付いていたらしい。

 しかし、ヴァレリアンには黙っていた。二人で庭へ行く前に部屋へ寄ったときも、書き物机のひきだしに封筒をしまうときも、彼女はひとことも封筒に関して言及しなかった。彼女はヴァレリアンにとって推薦状がいかに大切なものであるか、わかっていなかったのだろうか。

(いや、わかっていながら、エクトルがしていることを黙って見ていたんだ)

 考えられるのは、エクトルが短時間で偽の推薦状と封筒を作り、ヴァレリアンには偽物を渡していたということだ。ヴァレリアンはマリー・ルーに推薦状を三度も読まされていたのだから、時間がなかったわけではない。封筒と便箋はショロン伯爵家の紋章入りだが、図書室にも同じ物が置いてあるので、偽装は簡単だ。封筒の封蝋も適当にその辺りにあるものを代用したのかもしれない。

(マリー・ルーは、エクトルが推薦状の偽物を準備する時間稼ぎのために、三回も推薦状を読ませたんだろうか?)

 五歳児がそのようなことができるだろうか、と考え、心の中で否定する。

 エクトルはマリー・ルーを思い通りに動かすことなどできないはずだ。子供は気紛れな生き物だ。とくに女の子は。

「申し訳ない。これは君に返すよ。――大切な物は、肌身離さず持つか、鍵のかかる場所にしまっておくことをお薦めするよ」

「あ、あぁ。そうだね」

 まるで夢を見ている心地だった。

 封筒を受け取ったものの、しっかりと指で掴めている感触がない。

 悔しげに顔を歪めるフランツは、エクトルを睨み付けている。

 封筒には、ショロン伯爵家の紋章が蝋で押されていた。紛れもなく、今朝ショロン伯爵から渡された本物だ。

「マリー・ルーに落書きされるといけないから、誰にも見せずにしまっておいたらどうだ?」

「わたし、らくがきなんてしないわ! しつれいしちゃうわね」

 頬を膨らませてマリー・ルーは怒ったが、フランツに見せない口実にはなった。そのまま封筒は上着の内ポケットにしまう。

「それよりもヴァレリアン、いまから郵便局へ行って、その手紙はアルカッション寄宿学校へ送ってしまってはどうかしら。早めに校長の手元に届いた方が、すぐに転学の手続きが取れるのではないかしら? ねぇ、お義姉様」

 ショロン伯爵夫人が横から口を挟む。

「そ、そうね。ヴァレリアン。いまからわたくしと一緒に郵便局へ行きましょうか」

 ヴァレリアンの母も慌てた様子で頷く。

 フランツの態度から、なにかを察したのかもしれない。

「はい。そうします」

 神妙な表情でヴァレリアンが頷くと、母親はほっと強張っていた顔を緩めた。

     *

 村の郵便局へ向かう馬車の中で、ヴァレリアンは母親に茶会の前に起きた出来事を説明した。

 部屋に帰ると誰かによって書き物机のひきだしから推薦状が取り出され、暖炉の中で燃やされたこと。庭へ散歩に出掛ける前、エクトルとマリー・ルーに推薦状を見せたこと。そこでエクトルはこっそりと推薦状をすり替えていたようであること。

 エクトルがなぜ自分のためにそのようなことをしてくれたのかは謎だ。

 もしかしたらフランツがしようとしていることを察して、先回りをしてあのようなことをしたのかもしれないし、フランツが手出ししなければヴァレリアンをからかいたかっただけなのかもしれない。

 エクトルがなにを考えているのかはわからないが、マリー・ルーも多少なりとも協力していたことは間違いない。

「ねぇ、ヴァレリアン。新しい学校では、せめてエクトルと仲良くしてはどうかしら。お友だちをたくさんつくる必要はないけれど、エクトルのようなお友だちは大切だと思うの」

「――そうですね」

 彼は多少変わっている。

 ヴァレリアンの容姿をからかうことなく、ただ事実だけを指摘してくる。彼は真面目な顔をして、ヴァレリアンに偽の推薦状を渡すような少年だが、自分を騙して陰で笑うような人ではないことだけは確かだ。

「僕、減量しようと思います」

 容姿のことで卑屈にならなくても良いように。エクトルが自分と話をしているときに、他の同級生から嘲笑されることがないように。

「もっと体力をつけて、リンゴの木にも登れるようになります」

 愛豚のラファイエットみたいで可愛い、とマリー・ルーが誉めてくれるのだって、あと一、二年だろう。やがては彼女も年頃になり、見目の良い青年の方が良いと考えるようになるはずだ。自分のことを嫌いになったりはしないかもしれないが、別の青年をヴァレリアンと比べたとき、別の男を選ぶ可能性だってある。

「勉強もします」

 メイユール男爵家の跡継ぎに恥じない男になろう、と心に誓った。

 村に出掛けたついでに、郵便局だけではなく、母親の買い物にも付き合った。雑貨店に寄り、伯爵家に滞在する間に足りなくなったものを購入した。

 それでは戻りましょうか、と微笑む母とともに馬車に乗ろうとしたときだった。

 街道を二頭立ての馬車が一台、都へ向かって勢いよく掛けていった。黒塗りで紋章はないが、どこかの屋敷の箱馬車だ。

「ずいぶんとお急ぎのようだね」

 車輪の音を響かせ、土煙を巻き上げる馬車を見送りながら、ヴァレリアンたちの馬車の御者が呟く。

 それがマリー・ルーとエクトルを乗せた馬車だったと知ったのは、伯爵家に戻ってすぐのことだった。

 二人の母親の容態が思わしくなく、ラバーレ伯爵家から迎えの馬車がやってきたという話だった。


 翌年になって、ヴァレリアンはエクトルから、ラバーレ伯爵夫人が亡くなったことを知らされた。

 彼がアルカッション寄宿学校に馴染み始めた頃のことだった。

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