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午後になって、庭にある四阿でショロン伯爵夫人主催の茶会が開かれた。
今日はショロン伯爵の親類縁者だけではなく、近所の貴族や名士など上流階級に属する人々も招かれ、賑やかな様相を呈している。
「ねぇ、マリー・ルー。あなた、ギーのどこが気に入ったの?」
ショロン伯爵夫人は自分の隣の椅子に座ってリンゴのパイを頬張る姪に尋ねた。
「ギーってラファイエットにとってもにてるのよ」
はきはきと答えるマリー・ルーの横で、兄のエクトルが顔を顰めた。
「ラファイエットってどなた?」
伯爵夫人がさらに尋ねると、マリー・ルーは無邪気に声を張り上げる。
「わたしのペットよ。とってもかわいいの」
「犬かしら。それとも、猫?」
「ぶたよ。まえはわたしでもだっこできたんだけど、いまはとってもおおきくなったから、ぎゅってしてもだめなの」
『豚』の一言に、人々はどっと沸き上がった。
「妹が大変失礼を……」
エクトルが真正面に座るヴァレリアンに対して謝罪した。
「失礼? 別に僕は失礼なことを言われたとは思っていないから、貴方が謝る必要はない」
素っ気ない口調でヴァレリアンが答えると、エクトルは多少意外そうな顔をした。
「マリー・ルーはただ事実を言っただけだろう。彼女から見れば、僕はその可愛い飼い豚に似ているわけだ。犬に例えた場合は良くて、豚の場合は駄目だなんて変じゃないか」
「しかし……」
「学校で同級生から豚に似ていると言われれば侮辱されたと感じるが、マリー・ルーは僕を貶したわけではなく、純粋に感じたままを言っただけだろう?」
ヴァレリアンと同い年だというエクトルは、やたらと大人びた少年だ。落ち着いた言動は、いとこたちとはまったく異なっている。
食事や茶話会の際には妹の隣に座っているが、マリー・ルーの兄とは思えないくらい寡黙だった。
いまも、伯爵夫人と妹の会話にはまったく加わらない。
「ところで、なぜ犬や猫ではなく豚を飼うんだ?」
伯爵夫人と熱心に話し込んでいるマリー・ルーに尋ねるわけにはいかず、ヴァレリアンはエクトルに尋ねた。
「母が病がちなものだから、屋敷の中で犬や猫を飼うのは止めた方がいいと医師に言われているんだ。それで、屋敷の外で飼う動物でマリー・ルーが世話をしやすい動物はいないものかと探したところ、豚がいいだろうということになったんだ」
「馬や鳥などは考えなかったのか?」
「馬は、マリー・ルーがいつ蹴られるのではないかと母が心配するものだから、すぐに却下された。鳥は服に羽が付いて母の寝室に持ち込むことになってはいけないからと、こちらも却下された。山羊や羊でも良かったんだが、毎日乳搾りをしたり毛を刈ったりする作業はマリー・ルーには難しいだろうから、いざというときには食用にできる豚にしたんだ」
「いざというとき?」
「マリー・ルーが世話に飽きたときだ」
「……食べるのか?」
「食べるんだ。豚なら、子豚のうちから美味しく食べられる。いつマリー・ルーが子豚の世話に飽きるだろうかと楽しみに待っていたんだが、一年経っても残念なことに食べる機会が巡ってこない」
エクトルは本気で残念がった。
「可愛がっているのか?」
「それはもう、人形よりも可愛がっている。暇さえあれば、豚舎でラファイエットに餌をやったり、身体をブラシで梳いてやっている。子豚の頃は、首輪と紐をつけて庭を散歩をしていたくらいだ。いまはもう、大きく成長しすぎて散歩はしていないが」
「……へぇ、そう」
愛豚と同じように可愛いとマリー・ルーに言われるのは良いが、その豚を食べようと虎視眈々と狙っているエクトルのヴァレリアンに対する視線は、いささか食用豚に向ける眼差しと同じもののような気がして薄ら寒くなる。
この兄妹の言動に嫌味はないが、素直すぎるのも困りものだ。
(――痩せようかな)
これまで一度として、太っていることで身の危険を感じたことはないが、いま初めて、太っていることで命を狙われるのではないかという気がしてきた。
(あいつの前世は、密林の人狩り族に違いない。きっと、毎日人を狩って食べていた頃の記憶が脳裏にうっすらと蘇るものだから、太った人間を見ると前世の血が騒ぐんだろうな)
勝手にエクトルの前世を想像し、ヴァレリアンは自分の腹の肉に視線を落とした。
腹回りだけではなく、手足も充分食べ応えがあるくらい育っている。
「マリー・ルー、僕の分も食べるといい」
急に食欲がなくなったヴァレリアンは、自分の目の前に置かれていた焼き菓子が盛られた皿をマリー・ルーに差し出した。
「まぁ、ヴァレリアン、どうしたの? お腹の調子でも悪いのかしら」
すぐさま母親が表情を曇らせる。
食事よりも菓子が大好きな息子が食べないことに心配したようだ。
「いえ、僕はどこも具合は悪くありません。マリー・ルーに食べて欲しいと思ったから、あげるだけです」
母親を気遣いヴァレリアンが答えると、伯爵夫人がやたらと感激した様子で胸を両手で押さえる。
「ヴァレリアンはなんて良い子なのかしら!」
「大袈裟ですよ、叔母上」
ヴァレリアンが謙遜すると、ますます感動した様子で伯爵夫人は義姉に対して手放しで褒め称える。
「お義姉様。ヴァレリアンはとても優しく素晴らしいご子息ですわね」
「ありがとう、テレーズ」
ヴァレリアンの母は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、ギー。おれいにわたし、ギーのおよめさんになってあげてもいいわよ」
「そんなお礼は聞いたことがないぞ」
横からエクトルが突っ込むが、マリー・ルーは兄の言葉には耳を貸さない。
「良かったわね、ヴァレリアン。マリー・ルーのお婿さん候補一号よ」
伯爵夫人は「うふふ」とからかうような笑みを浮かべた。
一方のマリー・ルーといえば、給仕係の使用人がヴァレリアンの皿を彼女の前に置くと同時に、「ありがとう」と早口で礼を言ったかと思うと、焼き菓子を食べることに意識が集中してしまっている。
そんな妹の姿を、エクトルは呆れた様子で黙って眺めている。
(そういえば、エクトルとまともに喋ったのはこれが初めてだ)
目の前に座るエクトルの憮然とした顔を眺めつつ、ヴァレリアンはぼんやりと考えた。
他のいとこたちのようにヴァレリアンの体格を嘲笑ったりしないが、彼らの嫌がらせを止めるわけでもなく、遠くから俯瞰しているように見える。あまり関わり合いたくないのだろう。自ら、歳の近い子供たちに話し掛けることもしない。たまに妹の手を引いて、嫌がる妹を無理矢理部屋まで連れ帰っている姿を見かけるが、あとは図書室に籠もって本ばかり読んでいるという話だ。
華やかな噂が絶えないラバーレ伯爵の子息にしては、おとなしい。
病弱で、屋敷で療養生活を送っているという母親に似たのかもしれない。
かといって、身体が弱いわけではないようだ。
ヴァレリアンよりも背は高く、体格も痩せすぎず太っていることもなく、適度にがっしりとしている。
「――なにか?」
ヴァレリアンの視線を感じたのか、エクトルが低い声で尋ねてきた。
人付き合いはあまり得意としないのか、面倒臭そうな気持ちが表情に現れている。
「君は、どこの学校で学んでいるんだい?」
特に質問はなかったが、折角エクトルが声を掛けてくれたのだからと、世間話のつもりで尋ねてみた。
「アルカッション寄宿学校だ」
「へぇ。君、優秀なんだね」
アルカッション寄宿学校と言えば、王都からほど近い田園地帯にある学問都市ミヤスでも有名な男子寄宿学校だ。この学校から王立大学へ進学する者も多い。
「推薦入学でなんとか滑り込めただけだ」
軽く目を伏せエクトルは謙遜したが、推薦枠というのがただの縁故入学ではないことくらい、ヴァレリアンも知っていた。アルカッション寄宿学校の推薦入学は、推薦状の他に面接という名目の口頭試問がおこなわれる。一説には、筆記試験よりも難しいという噂だ。
「君だって入れるさ」
エクトルが事も無げに答えると、すこし離れた席で会話を聞いていたいとこのフランツがくすくすと笑い声を上げた。
「無理無理」
いとこのフランツはそばかすだらけの顔を歪め、腹を抱えて笑い転げる。
むっとヴァレリアンが顔を顰めると、フランツは母親に窘められて両手で口を押さえたが、まだ笑い足りないといった様子だ。
「入れるさ。マリー・ルーの相手ができるくらい柔軟な考えができる君なら、簡単に入れる」
「どういう意味だ?」
「妹の相手は難しく、面倒だ。そして疲れる。それを二日間もやりとげられた忍耐力の持ち主である君は、充分アルカッションで学ぶ資格を持っている。アルカッションの講師陣は、私の妹に比べれば遙かに扱いやすい」
「僕は……マリー・ルーの相手をするよりも、同級生と話をする方が難しく感じる」
「そうか?」
怪訝な表情を浮かべたエクトルは、隣に座るマリー・ルーに視線を向けた。
「妹と会話を成立させる方が、至難の業だと思うが……。人には向き不向きがあるのかもしれないな」
自分を納得させるように、エクトルは呟く。
「まぁ、ヴァレリアンはエクトルとお友だちになったの? それは良かったわね」
白い手袋をはめた手で口元を覆いながら、ショロン伯爵夫人が楽しそうに笑い声を上げる。
「ヴァレリアンはラモリー寄宿学校に入ったのだけれど、学校が合わなくていまは休学しているんですって。ねぇ、お義姉様。せっかくですから、ヴァレリアンもアルカッション寄宿学校に入れてはどうかしら。エクトルもいることですし、環境を変えた方がヴァレリアンも勉学に励めるんじゃないかしら」
余計なお節介を、とヴァレリアンが心の中で叫ぶと同時に、彼の隣で母親が、そうねぇ、と同意を示す。
(あんな天才と秀才だらけの学校に入ったら、僕はますます落ちこぼれるじゃないか)
さすがにここは抵抗しなければ、とヴァレリアンは母親に抗議しようとしたときだった。
「ヴァレリアン。アルカッションに入りなさいな。いまなら、テレーズに頼んでわたくしの弟の推薦状を手に入れられるわ。あの学校、フランツが入試を受けて落ちているのよ。これはフランツを見返す絶好の機会よ」
ぼそぼそと耳元で母親に囁かれ、ヴァレリアンは黙り込んだ。
「アルカッションに入れば、貴族の子弟や将来の大臣候補とも知り合いになれるのよ。メイユール男爵家の次期当主として、頑張ってみてはどうかしら」
意外な母の一言に、ヴァレリアンは黙り込んだ。
メイユール男爵家は裕福ではあるものの、宮廷での地位は低い。
両親は大恋愛の末に結婚したが、ショロン伯爵はいまでのこの結婚には内心反対していると使用人たちは噂している。ヴァレリアンは亡くなった母方の祖父母に会ったことが無く、叔父の代になって初めて、ショロン伯爵家への出入りが認められたことを最近になって知った。
いとこを見返そうなんて、これまで一度も考えたことがなかった。
(母様は、僕がフランツたちにからかわれて、嫌がらせをされているのを知っているんだろうか? それとも、フランツの母親に、僕のことを馬鹿にされたりしたんだろうか)
大人たちの関係はよくわからないが、これまでヴァレリアンに対して甘やかす一方だった母親が、自分の希望を口にするのは初めてだ。
「僕でも入れますか?」
ヴァレリアンは、母親ではなくショロン伯爵夫人に尋ねた。
「もちろん、入れますとも。推薦状を書くよう、夫に頼みますから、安心してちょうだいね」
にこやかな笑顔を浮かべ、ショロン伯爵夫人が請け負ってくれた。
隣では母親が胸を撫で下ろしている。
フランツとその母親が、悔しそうに顔を顰めているのが視界に入った。




