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 ヴァレリアン・ギー・カストネルは叔父であるショロン伯爵家の広大な庭を、朝からすでに三周していた。

 十三歳になっても縦に成長せず横ばかり膨張している、と周囲から陰口を叩かれる体型が恨めしくなったのは、今日が初めてだ。柔らかな芝生で覆われた地面をおろしたての靴で歩いているせいか、ふくらはぎと足の裏がしびれるように痛い。

 ふう、と大きな溜息を吐き、着ていた上着を緩慢な動作で脱ぐ。

 全身は汗だくで、額から流れる汗は滝のようだ。ポケットに手を突っ込み、ハンカチを探すが、見つからなかった。使用人が彼のポケットに入れるのを忘れたようだ。

 いつもならここで舌打ちをするところだが、今日の彼は軽く顔を歪めただけだ。

(マリー・ルーを探さないと)

 たかが五歳の少女とかくれんぼうをするのに、これほど歩かされることになるとは、今朝の食事の時点では予想だにしなかった。こんなことなら、パンに塗るバターとジャムの量は三倍にしておくべきだった、と悔やむ。

 すでに太陽は中天に達していた。

 昼を知らせる近所の教会の鐘の音が、風に乗って聞こえてくる。

 ぐうっと腹の虫が空腹を訴えたが、ヴァレリアンは両手で腹を押さえて顔を顰めたものの、珍しくズボンのポケットに入っている飴には手を伸ばさなかった。

(この飴はマリー・ルーに渡さないと)

 ポケットの中の飴は七つだ。

 どれも色と味が違う。

 マリー・ルーにあげたときの輝くような笑顔を想像し、ヴァレリアンは自分で食べることを我慢する。

 メイユール男爵の一粒種である彼は、幼い頃から甘やかされて育ってきた。

 欲しい物はねだればすぐに手に入ったが、特に食べることが好きな彼は甘い物に目がなかった。空腹になると機嫌が悪くなる彼に、両親や使用人たちは次々と菓子を与えた。少しでも彼が癇癪を起こすと、きっと腹を空かせているに違いない、と使用人たちは飴、焼き菓子、チョコレートなどを次々と食べさせた。

 結果、彼の体型は見事な卵形を完成させた。

 寄宿学校に進学した彼が体型を理由に同級生たちからからかわれることになるとは、男爵家の誰も想像していなかったようだが、十代の少年たちの社会ではごくごく当然の成り行きだった。

 入学早々同級生と大げんかをしたヴァレリアンは一ヶ月のに停学処分となったが、この不名誉な事実はお喋りな叔母によって親戚中に知れ渡ってしまった。

 夏休みのこの時期、避暑をかねて毎年のように母の弟であるショロン伯爵家へ両親とともに訪れているが、今年ほど訪ねるのが嫌だと思ったことは無かった。

 マリー・ルーと出会うまでは。

 ヴァレリアンにとって義理の叔母であるショロン伯爵夫人の実兄・ラバーレ伯爵の令嬢であるマリー・ルーは五歳だ。

 亜麻色の髪に榛色の大きな瞳、真っ白い肌に薔薇色の頬と、まるで人形のように愛らしい。

 誰もが口を揃えて、可愛らしい、と誉めそやす。

 ショロン伯爵夫人は実の娘のように、このマリー・ルーを溺愛している。

 ヴァレリアンの母も口には出さないが、こんな娘が欲しかった、と羨ましげにマリー・ルーを見つめている。子供が息子ひとりであることを、多少残念がっているようだが、ヴァレリアンだってできれば弟か妹が欲しかった。

 彼が一人っ子なのは、別に彼のせいではないのだが、ヴァレリアンが生まれた直後から、彼の母親は次の出産は命の危険を伴うからできれば避けるべきだ、と医者から止められたのだという。

 いまショロン伯爵邸に集まっている子供たちの中では、マリー・ルーが一番年下だ。

 ヴァレリアンと歳が近いいとこたちは、幼いマリー・ルーを相手にしない。

 マリー・ルーの兄であるエクトルは、ショロン伯爵邸に到着して以来、ずっと図書室に籠もりきりだ。

 マリー・ルーについてきた子守りは、マリー・ルーの世話もそこそこに、使用人部屋で世間話に花を咲かせている。ラバーレ伯爵家の使用人たちは主人夫妻の子供たちの世話に熱心だという話だったが、この子守りは例外らしい。

 そんなわけで、マリー・ルーはひとりで庭を探検していることが多い。

 ここ二日ほどは、庭師の息子ニコラがお供をしている姿を見かけた。

 悪ふざけに興じるいとこたちによって池に突き落とされたヴァレリアンが、自力で池から這い上がれずもがいているところを、ニコラはマリー・ルーと一緒に通りがかり、自分もずぶ濡れになりながら助けてくれたのが一昨日のことだ。

 酷いことをする人もいるものですねぇ、と呆れ顔でニコラはヴァレリアンの姿を見遣っていたが、マリー・ルーはなにが起きているのかよくわかっていない表情を浮かべていた。

 昨日、礼代わりにいつもズボンのポケットに入っている飴と、午後のお茶の時間に出た焼き菓子をニコラに持っていったところ、彼は一緒にいたマリー・ルーにそのほとんどを渡してしまった。彼が口に入れたのは、飴ひとつだけだ。

 甘い菓子が嫌いなのかと尋ねると、ヴァレリアンとほぼ歳が同じに見えるニコラは首を横に振った。

 その隣で、マリー・ルーが満面の笑顔を浮かべて焼き菓子を頬張っている。

「嬢ちゃんのこの美味しそうに食べる顔を見ていたら、俺が食べるより嬢ちゃんが食べるべきだって思ってしまうんですよ」

 どうやらマリー・ルーはニコラも懐柔していたらしい。

「それに、嬢ちゃんに気に入ってもらえたおかげで、奥様からお駄賃がいただけたんです。これでお袋の誕生日に贈り物ができます」

 どうせ銅貨一枚か二枚だろう、とヴァレリアンは心の中で呟いた。彼にとってははした金だが、庭師の息子のニコラにとっては大金なのだろう。

「叔母様はその子がお気に入りだからな」

「坊ちゃんもこの嬢ちゃんに気に入られれば、奥様のお気に入りに仲間入りですよ。他のお子様方から嫌がらせを受けることもなくなるんじゃないでしょうか」

「大きなお世話だ」

 ぷいっと顔を背けてヴァレリアンはニコラの意見を一蹴したが、半日後にはマリー・ルーの後ろをニコラと一緒に歩いていた。昼食後、いとこたちから魚釣りに行かないかと誘われたのを、素っ気なく断ったためだ。

 どうせあいつらは川に突き落とす魂胆で釣りに誘ったに違いない、とヴァレリアンは卑屈な気持ちで部屋から窓の外を眺めていたところ、マリー・ルーがひとりで庭を横切る姿を見つけた。

 どこかでニコラと待ち合わせをしているのだろうが、毎日ニコラだけが遊び相手では退屈だろう。

 普段なら五歳児など相手にしないヴァレリアンだが、叔母の印象が良くなるかもしれない、という打算も働き、ポケットに飴を詰め込んで部屋から走り出た。すぐにはマリー・ルーに追い付くことができなかったが(五歳児の歩く速さは、肥満体のヴァレリアンよりもはるかに早かった)、息が切れる寸前でなんとか合流することができた。

 その日の晩餐の席で、マリー・ルーは叔母にヴァレリアンが一緒に遊んでくれたことを報告してくれたおかげで、ヴァレリアンの株は急上昇した。

 マリー・ルーはヴァレリアンの一番目の名前を上手く発音することができず、二番目の名前である『ギー』とだけ呼んだのだが、これは後見人である叔父ショロン伯爵の命名によるものであったため、叔父も気分を良くしたらしい。

 ヴァレリアンは、マリー・ルーの次にショロン伯爵夫妻のお気に入りの子供の地位を得ることができた。

 他の子供たちからは、おべっか使いだの太っちょのくせにと陰口を叩かれたが、気にならなかった。

 ヴァレリアンは美男美女である両親にあまり似ていない。どちらかと言えば、父方の祖父に似た容貌だ。目は細く、唇は小さく、顔は丸い。髪は赤毛で癖があり、瞳は黒いというカストネル家の特徴をそっくり受け継いでいる。父の美貌はヴァレリアンの祖母から受け継いだものだが、これはヴァレリアンには受け継がれなかったらしい。父は、自分が本当にカストネル家の血を引いているのかと心配していただけに、生まれたばかりの息子がカストネル家の歴代当主によく似ていることに大変満足したと聞いたことがある。

 もうすこし両親に似ても良かったのに、と両親以外の者はヴァレリアンを見る度に囁くが、両親にとっては息子の容貌が美しいことよりも、カストネル家の当主に相応しい容姿をしていることが重要だったようだ。ヴァレリアンにとって唯一の救いは、両親に似ていないことを笑われることはあっても、まぎれもなくカストネル家の子供であることを誰も疑わないことだろう。

 そんなわけで、今日は午前中からマリー・ルーのかくれんぼうに付き合っている。

 普段なら家庭教師との勉強の時間だが、マリー・ルーと遊ぶことを優先すると母親に宣言したところ、今日の家庭教師による授業は休講となった。庭を三周する羽目にはなったが、あの痩身に眼鏡の陰険な目つきをした家庭教師から勉強を教わるよりは、ずっと楽しい。

(しかし、疲れたな)

 息は上がり、喉が渇く。

 近くに水飲み場はないものか、と辺りを見回したときだった。

「坊ちゃん、こんなところでなにをしているんですか」

 立ち止まって汗を拭いていたヴァレリアンは、頭上から聞こえてくる声に驚き、空を振り仰いだ。

「こっちですよ、こっち」

 こっちってどっちだよ、と心の中でつっこみながら、ヴァレリアンは声がする方へと視線を向ける。

 薄紅色に色づいたリンゴの実がなる木の上で、枝がわさわさと揺れていた。

 よくよく目を凝らすと、太い枝の上でニコラがまたがって座っている。

(僕が枝にぶら下がっただけで、折れそうだな)

 ヴァレリアンが手を伸ばしても到底届かないほど高い位置にある枝だが、十代前半でまだ成長期には突入していないニコラの体重なら充分耐えうる太さの枝だった。

「坊ちゃんもリンゴ食べますか?」

 枝の先に実るリンゴに手を伸ばしながらニコラが尋ねる。

「……も?」

 他に誰が食べるのか、と足下に視線を向けると、リンゴの木の幹の裏側ではマリー・ルーが無心でリンゴを頬張っていた。どうやら、かくれんぼうの途中で腹が空き、ニコラにリンゴを採ってくれるようねだったらしい。

「ギー、このリンゴ、とってもおいしいわよ」

 マリー・ルーのてのひらに収まった小さなリンゴは、半分ほど囓られていた。

 五歳児にしては大人びた口調で話すマリー・ルーは、かくれんぼうをしていたことなど忘れてしまっているようだ。

「じゃあ、僕もひとついただこうか」

 リンゴは特に好物でもなんでもないが、ちょうど空腹で立ち眩みがしそうになっていたところだ。できればりんごはパイやケーキになっている方が好みだが、この際腹に入ればなんでも良かった。

「じゃあどうぞ。受け取ってください」

 ニコラはそう言うと、枝に付いていたリンゴを両手でひとつずつもいで上から落とした。

 慌ててヴァレリアンは手を伸ばすが、ひとつを受け取るだけで精一杯だった。ふたつ目はあっさりと彼の両手を擦り抜け、地面に落ちる。

 すぐさま拾い上げてみると、草が生えた土の上だったことも幸いし、リンゴに傷は付いていなかった。

「嬢ちゃんも、もうひとつどうですか」

「いただくわ!」

 歓声を上げてマリー・ルーが返事をすると、ニコラはリンゴをひとつだけもいで、そのまま木から下りてきた。どうやらマリー・ルーにリンゴを落として渡すということはしないらしい。もしリンゴがマリー・ルーに当たったらおおごとになるからだろう。

「後で厨房にリンゴを籠一杯届けておきますよ。今日のお茶の時間には、リンゴを丸ごとパイで包んで焼いた菓子を作るって、菓子職人のバノンさんが言ってましたよ」

「ふうん」

 ヴァレリアンは気のない返事をしたが、マリー・ルーは目を輝かせた。

「パイ!? リンゴのパイ!?」

「ただのパイじゃなくて、リンゴをまるごと包んで焼いたものらしいですよ」

「すっごーい! わたし、そんなの食べたことがないわ!」

 歓声を上げるマリー・ルーは、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。

 マリー・ルーはラバーレ伯爵令嬢だが、ラバーレ伯爵家では食事を厳しく管理されているため、菓子は身体に悪いといってあまり食べさせてもらえないのだと、ショロン伯爵夫人が話しているのを幾度となく聞いている。

 ショロン伯爵家では、マリー・ルーの子守りがほとんどそばについていないこともあり、食べる物を制限されていないのだ。

 ヴァレリアンがショロン伯爵邸に到着する直前、伯爵夫人とともに近所の村で催された祭に出掛けて、屋台の匂いにつられてふらふらと歩き回り迷子になりかけたという話も聞いている。

「マリー・ルー。これ、君にあげるよ」

 ポケットから飴を取り出したヴァレリアンは、七つすべてをマリー・ルーの遊び着の白い前掛けについているポケットに入れた。

「これ、なぁに?」

 膨らんだポケットに目を遣り、マリー・ルーは首を傾げる。

「飴だよ」

「これぜんぶ?」

「ぜんぶ君にあげるよ」

「すごーい!」

 感激した様子のマリー・ルーは、頬を紅潮させて声を上げる。

「兄様にないしょにしておかなくちゃ。兄様ったら、おかしはむしばになるからだめだっていうのよ。ひどいでしょう?」

「ひどいね。僕はお菓子を毎日たくさん食べているけれど、きちんと歯磨きをしているから虫歯にはなってないよ。マリー・ルーも歯磨きをきちんとすればいいんだよ」

「そうね。そうよね。わたし、ちゃんとはみがきするわ」

 うんうんと大きく頷き、マリー・ルーはポケットを手で押さえた。こうしていれば、兄に見つかることなく飴を子供部屋まで持って帰れると考えたようだ。

「ギーってとってもいいひとね。わたし、ニコラもだいすきだけど、ギーもだいすきよ」

「坊ちゃん、嬢ちゃんを餌付けしましたね」

 リンゴと飴を手に入れて興奮状態のマリー・ルーを見下ろしながら、ニコラがぼそりと呟く。

「僕は、手段を選ばない主義なんだ」

 言い返しながらヴァレリアンはリンゴを囓る。

「そうですか。まぁ、悪くはない手ですよね」

 軽く肩を竦め、ニコラは真面目な顔で呟いた。

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