エルフの竪琴
ジンジャー峡谷に近い沢のほとりに、一人のエルフが居を構えていた。
彼女の齢は三百歳を越えていたが、見た目は普通のうら若き乙女のようだった。
彼女は自然とともに生きることを愛していた。
多くの人が住む街にはなんの興味もなかった。
久しく人と会っていなかった。
彼女は、美しい小川の水や、清浄な泉の湧き水を飲み、暮らしていた。
たまに木の実を食べるくらいで、それだけで元気にしているのだった。
彼女は素敵な音色を奏でる竪琴を持っていた。
精霊界の職人が作ったもので、長年の時を経ても、壊れることなく、素敵な音色を奏でるのだった。
彼女がその竪琴を奏でると、その音色は風に乗って、森をめぐり、川をめぐり、谷をめぐり、やがて人里まで達するのだった。
人々はその竪琴を、エルフの竪琴と呼んだ。
ある時、一人の旅人が、ある村でエルフの竪琴の噂を聞いた。
ジンジャー峡谷には一人の美しいエルフが住んでいて、さみしい時に竪琴を奏でるのだという。
その音色は、この世のものとは思われぬほどの素晴らしさだという。
ただ、数年前に聞いた人がいるが、それっきりだという。
人々は、エルフがいなくなり、竪琴だけが残されているのではないかと噂していたのだった。
旅人は本当にエルフがいるのなら、会いたい、そして近くで竪琴を聞かせてほしいと思った。
旅人は村人にジンジャー峡谷への道を尋ねると、まっすぐ向かっていった。
ジンジャー峡谷へは、整備された道はなく、けもの道をかき分けながら進んでいくしかなかった。
ジンジャー峡谷に人が訪れない理由はそんなところにもあった。
道の険しさに辟易しながら、旅人は黙って前に進んでいった。
いくつもの昼と夜を、山や森の中で過ごした末に、旅人はある沢のほとりにたどり着いた。
そこには清流がさらさらと流れ、風は肌に心地よくそよいでいた。
沢の近くには、見たこともないような美しい花々が咲き乱れる野原があり、そこでは野うさぎたちがじゃれあっていた。
沢を下ると、滝になっており、滝の下は視界が届かぬほどの深い谷になっていた。
おそらく、この谷がジンジャー峡谷なんだろうと旅人は思った。
だとすれば、エルフが住まうのは、あの沢の近くに違いない。
旅人は、沢まで戻ると、そこにテントを張った。
当分は警戒して出てこないだろうが、こちらに敵意がないことがわかれば、いずれエルフの方から姿を現すだろう。
旅人は長期戦を覚悟していたが、果たしてそれから一ヶ月ほどはなんの気配も感じられなかった。
旅人は、自炊して、川の水を飲み、木の実や果物を食べて過ごした。
肉食はエルフが嫌がるだろうと考えて、極力しないようにしたが、たまに釣りをして、とれた魚を焼いて食べたりもした。
そんなある日。
この日は、いつもと様子が違っていた。
一ヶ月も、きれいな沢の水を飲んで暮らしていたためか、体調はすこぶるよく、気持ちは清々しかった。
旅人は、沢の音を聞きながら、岩の上で座禅を組み、瞑想した。
何かが起こる。そんな予感がした。
今日こそはエルフに会えるかもしれない。そんな思いが頭をよぎったが、その思考にとらわれないようにしようと思った。
すべては流れるままに、あるがままに…。
すると、旅人の耳に、沢のせせらぎや、谷を渡る風の音、森にこだまする鳥のさえずりがひときわ大きく聞こえてきた。
旅人は無我の境地となり、体は岩の上に鎮座したまま、心は体の束縛を抜け出し、自由になった。
旅人の心は、蝶になって花から花へと飛び回った。
旅人の心は、野うさぎになって、野原を駆け回った。
旅人の心は、魚になって、清流を泳いだ。
そのすべてが、平和で、幸福に満ちていた。
これこそが、自然とともに生きるということだ。旅人はそう感じた。
ずいぶん長い間、忘れていた感覚だった。
子供の頃に、時間を忘れて野山を駆け回っていた、あの感じ。
それを取り戻したかのような気分だった。
旅人の心は満ち足りていた。
エルフのことは頭から消えていた。
自分の体に戻ってくると、旅人は、ここに来てよかったと、自然に感謝した。
そして、人間は、もっと自然とともに生きなければならないと痛感した。
旅人は、また、この地にやって来ることを誓って、沢をあとにしようとした。
すると、どうであろう。
沢のせせらぎに混じって、竪琴の音色がどこからか聞こえてくるではないか。
その澄んだ音色を聞いているうちに、旅人は顔をクシャクシャにして泣き始めた。
哀切をおびた竪琴の調べに心を揺り動かされ、旅人は嗚咽した。
そんな旅人の脳裏に、エルフの言葉が響いてきた。
「旅人よ。ようこそ、この谷へ参られました。
私は、久しく人間に会っておりませんでしたが、今、あなたにお会いできたことをうれしく思います。
私の竪琴を聞くことができるあなたは、素晴らしい感性をお持ちですね。
なぜなら、私は、今はもう、肉体を持たないスピリットの存在だからです。
私は、もう肉体を必要としなくなったので、自ら肉体を脱いで、スピリットの世界へと帰りました。
あなたがた人間で言えば、死んだということになるのかもしれませんが、肉体が精妙なものに変わったと言う方が正しいかもしれません。
私たちは(あなたがた人間もそうですが)、もともとスピリットの世界の住人なのです。
だから、地上での役割を終え、スピリットの世界に帰ることは自然なことなのです。
そして、こうして地上にいた時のように、竪琴を奏でているのですが、
私の竪琴は、精妙な波長で奏でられるために、人間の肉体の耳では聞き取ることは難しいのです。
でも、あなたのように、自分の意識を精妙な波動に合わせることができれば、聞こえるのですね。
私は、あなたに出会えて、うれしく思います。
私は、あなたにお伝えしたいことがあります。
それは人間という種族全体に関わることです。
それは、自然とともに生きなさい、ということです。
自然とともに生きる素晴らしさを、あなたはたった今、体験されたと思います。
それを是非、多くの方に伝えて頂きたいのです。
これから、人々はますます進化をとげることでしょう。
しかし、それは自然から遠ざかっていくことを意味します。
人間には、たゆまぬ歩みの中で、進化、成長、発展をしていきたいという本能があります。
その思いが創造力となって、あなたがたは自分の思い描く世界を現実化していくのです。
それは、私たちエルフが持たない、素晴らしい属性なのですが、
自分たちの生活を便利にするために、自然を我が物顔で破壊し、自分たちの都合のよいように作り変えてしまう、
そういうマイナスの一面を持っています。
そのようにして、人間の文明は興亡を繰り返してきたのです。
それは人間という種族が持つ業なのかもしれません。
けれど、そのツケは必ず人間自身に跳ね返ってきます。
自分の代には何もなくても、自分の子や孫の代に、その結果が現れてきます。
残念なことに、人間の目には、そうした長期的なビジョンは映らないようですが…。
人間は、もっと知らねばなりません。
この世は人間が考えている以上に、複雑で、精妙な作りになっています。
人間の目に見える世界は、この世の、いえ、この宇宙のほんの一部分にすぎないもの。
人間の限られた物差しで、地球環境を作り変えてはなりません。
自然を見て下さい。
この自然の調和、美しさは、何千年、何万年と受け継がれてきたものです。
そこに答えがあります。
エルフは、そのようにして与えられた地球の環境とともに暮らす種族です。
人間にエルフのように暮らせとは言いません。
それぞれ、種族によって神様に与えられた個性が違うからです。
今はもう、ほとんどのエルフがこの地球での学びを終え、スピリットの世界に帰っています。
そして、人間たちがどのような文明を作り上げるのかを見守っています。
自然とともに生きる素晴らしさを忘れないで下さい。
あなたがたがこれから切り開く文明が、自然との調和を忘れないことを祈ります。
自然との調和を、共生を、是非、あなたの子孫に伝えて下さい。
あなたがここで得た、悟りとともに。
沢の近くにある古木の中に、私が地上で使っていた竪琴が置いてあります。
それは、私が地上にいた証明でもあります。
あなたはそれを持って、人里に戻りなさい。
そして、時折、その竪琴をかなで、この沢のことを思い出して下さい。
そうすれば、あなたの心はいつでもここに帰ってくることができます。
もしかしたら、わたしの竪琴も聞こえるかもしれません。
あなたの心に自然を愛する思いがある限り、私たちは、時空を越えて、つながっていられるでしょう。
ありがとう。愛しています。」
エルフからの通信を受け取ったあと、旅人は、沢の近くにある木という木を一本一本見て回った。
そして、ある古木の根元に使い古された竪琴を見つけた。
旅人は、うやうやしく竪琴を押し頂くと、それを小脇に抱え、沢をあとにした。
それから、旅人は、彼の祖国に帰り、祖国の人々にエルフの竪琴の物語を伝え歩いた。
竪琴の音色を人々に聞かせると、エルフの思いが人々に伝わりやすいようだった。
旅人の地道な活動は、彼が死ぬまで続いた。
そして、彼が天寿を全うした時、スピリット界からあの美しいエルフがやって来て、彼の魂を迎え入れたのだった。
完