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森の嘘つき

作者: つたの葉

 むかしむかし、とある国の大きな火山の麓に長閑な村がありました。

 村には火山の裾野に広がる森には入ってはいけないという掟がありました。

 その森の奥には、ドラゴンの子供が住んでいたのです。

 寂しがりやの子竜は村の人間といつもお話をしたいと思っていました。

 けれど、村の子供たちは言います。

 怖いドラゴンに近づいたら食べられちゃうんだ。

 子竜は東の森に住む魔女に、あるお願いをしました。

 それから百年、村の人々は一度もドラゴンの姿を見ていません。







「暗いよう、怖いよう」

 チャロは鬱蒼とした森の中を泣きながら歩いていました。

 もう十三歳になるというのに泣き虫だと普段から馬鹿にされてるチャロですが、大人でも怖がる森の獣道を一人で歩いているのですから今ばかりは誰も彼女を責めることは出来ません。

 今日はいつものように隣村まで荷馬車に乗って父親と一緒に育てた作物を売りに行っていました。ところが帰り道森の中での休憩中、川べりまで水を飲みにいったチャロに気づかず父親はそのまま出発してしまったのです。

 気づいたときには荷馬車も父親の姿もなく途方に暮れたチャロでしたが、何度か通った道だと自分を勇気づけて歩き出しました。けれどいつの間にやら見知らぬ獣道へと迷い込んでしまったのです。

「どうしよう、森の奥には悪い魔女が住んでるって言ってた……」

 不老不死の魔術を使い、森に迷い込んだ者を騙して惑わせると村で噂される森の魔女。

 もしや自分が今まさに迷い込んでしまっているのも魔女の不思議な魔術のせいだろうかとチャロは背筋を寒くします。すると、前方に木々のない開けた空間が見えてきました。

「あっ、家がある!」

 歩き疲れもあってか、チャロはつい軽い気持ちで家の戸を叩こうとしました。ですが、すぐ気づきます。こんなところに民家があるなんて聞いたことがありません。深い森の奥に住む魔女の家ではないのでしょうか。

 チャロがきびすを返して逃げようとすると、今度は周囲の森から不気味な唸り声が聞こえてきました。野犬の群れが木々の隙間から目を光らせていたのです。

 慌ててチャロは戸を開けて中に入ってしまいました。すると今度は魔女の家に勝手に入ってしまったことに気づき大慌てです。

「そこにいるのは誰?」

 部屋の奥から聞こえた少女の声に、チャロは思わず肩を竦めました。けれど冷静になってみて、どこかおかしいことに気づきます。魔女の家だと思って入った中は暖炉の火が暖かく灯るごく普通の部屋でした。骸骨や不思議で不気味な魔法の瓶が並ぶ棚はどこにも無く、かわりにあるのは整頓された本棚と花瓶に生けられた周囲の森で見られる美しい花だったのです。

「誰?」

 再度問いただす声の方に目を向けると、そこにはチャロと同じくらいの歳と思われる少女が立っていました。

 その白磁のような肌とよく合う艶やかな銀髪、村の人間では見たことのない空色のような澄んだ青い瞳にチャロは一瞬で目を奪われます。

 こんなに美しい少女は見たことがありませんでした。

「わ、私はチャロ。森で迷子になってしまったの」

 どうやら想像した魔女とはかけ離れた外観の少女に安心してか、チャロはちょっとおっかなびっくりしながらも事情を話しました。

「……そう」

 聞き終わった少女は呟くように言うとぷいと背を向けて部屋の隅まで行ってしまいました。怪訝に思ったチャロが近づこうとすると、少女は凛とした声で言います。

「出てって」

 思わぬ拒絶の言葉にチャロは戸惑いました。勝手に家に入ってしまったのは申し訳なかったけれど、外は野犬がいるので怖くて出ることができません。

「お願い、少しの間でいいからここにいさせて」

「知らない。野犬に食べられちゃえば」

「そんな……」

 少女は辛辣な言葉をチャロに投げつけてきましたが、振り返った時にはティーカップふたつと暖かそうな紅茶のポットをお盆に乗せて立っていました。

「え?」

「そうやってずっと突っ立ってればいいのよ」

 そう言いながら少女はテーブルの椅子を引き、自分はその向かいの椅子に座ります。

 言っていることとやっていることがあまりにもちぐはぐだったので、チャロは思わず吹き出してしまいました。

「ほんと、美味しくないの。このお茶」

 少女はティーカップに注いだ紅茶を一口飲んでそんなことを言いました。チャロは恐る恐る椅子に座り(突っ立ってろと言われたけれど)ふんわりと香りのよい紅茶を口に付けます。

「えー、美味しいじゃない!」

 鼻孔を抜ける香りはベルガモットのようで、森を歩き詰めで疲れたチャロにはとても優しい味でした。

「あっ、忘れてた。あなたのお名前まだ聞いてないよ」

 一息ついたところでチャロはぽんと手をたたきました。すっかりくつろいでしまったようです。

 ところが期待を込めたチャロの視線の先で少女は眉一つ動かさず、

「私に名前はないの」

 とあっけなく言い放ちました。

「えー嘘ぉ」

「私は嘘をつかないもの」

 連れない態度にチャロも少々困りましたが仕方なく次の話題を考えます。便宜上、心の中で銀髪なのでギンちゃんと呼ぶことにしました。

「あなたはここで一人で住んでるの?」

「いいえ」

「じゃあ他に誰か……」

「あなたがいるじゃない」

「え? 私は今来たばっかりだよ」

「昨日からいるじゃない」

「いないよー!」

「ほんとは私はここに住んでいないの」

「えっ」

「私は魔女だから実はこの家はお菓子で出来ているの」

「ええっ」

 チャロは思わず近くの壁をぺろりと舐めてみましたが土っぽい味しかしませんでした。冷静に考えてお菓子で出来ているはずはありません。童話の読みすぎです。

「もーう、ギンちゃんたらさっきから嘘ばっかりだよー!」

 チャロが困り果てて天を仰ぐと少女は首を傾げました。

「あっ、なんでもない」

 照れ隠しに紅茶をぐぐっと煽ると、すっかり飲み干してしまいます。すると少女はポッドに新しくお茶を作りおかわりを入れてくれました。言葉とは裏腹にとても気の利く女の子です。

 よくよく少女を見ると美しい容姿なのに着ているローブはつぎはぎだらけのとても見窄らしいものでした。こんな森の奥で暮らしているのですから、人と関わることも少ないのでしょう。人との接し方に慣れていないのかもしれません。

「あのね。あなたがここに住んでるなら森の出口までの道を教えてほしいんだけど」

「だめ」

「うーん、お父さん心配してるから明日には帰りたいなぁ」

「絶対に帰さない」

「ええっ」

 チャロは少女のなんだか怖い言葉に驚いてしまいましたが、当の少女はなぜかずっと首を横に振っています。チャロにはその意味がいまいち理解できません。

 少女の不可解な行動に訝しむもそれ以上恐ろしいことは口にしませんでした。ただなんとなく、少女の言ってるいることは大体嘘だろうと思うことにしました。

「え? ベッドも貸してくれるの?」

 紅茶で体が暖まったところで眠くなってきたチャロをひっぱり、少女は寝室のベッドに寝かせてくれました。丁寧に首までちゃんと布団をかけてくれます。少女はどうするのかと問おうとしましたが止める間もなくさっさと出ていってしまいました。

「……うーんあったかい」

 少女の服装と同様に決して高くて良いものというわけではありませんでしたが、清潔なベッドと布団は太陽の匂いがしてチャロは次第にゆっくりと目を閉じていきました。



 翌朝、チャロは身体が波に揺られているような感覚で目を覚ましました。更にそこが自分の家ではないことに狼狽え魔女の家に迷い込んでしまったことを思い出します。

「……っと、なんだぁ。ただの地震か」

 けれどすぐにその原因に気づき、ほっと胸を撫で下ろしました。火山が近くにあるこの土地では地震なんてここ最近ではしょっちゅう起こることだったのです。

「あの子は魔女じゃないよね」

 口は悪くとも親切におもてなしして一晩泊まらせてくれる魔女なんて聞いたことがありません。

 昨晩の脅し文句などなかったようにチャロは少女に手を引かれて無事に森の出口までたどり着くことが出来ました。

「ありがとう、お世話になりました」

「もう、二度とこないで」

 少女はそれだけ言うとまた森の中へ消えていきました。最後まで少女はちゃんとした言葉で接してくれなかった気がします。チャロはそれが心残りで、村へ無事帰ったあと再び少女のもとへ訪ねてみようと思いました。

「森に住む女の子? そいつは魔女じゃないのかね」

 村の人で少女について知っている人がいないか聞いてみると皆首を傾げます。唯一、長老だけ少女のことを知っていました。

「あれはれっきとした魔女じゃよ。ずっと子供の姿のまま、嘘を吐いて人間を惑わすんじゃ」

 でも親切にしてくれました、と言いましたが長老は首を振るばかりです。

「昔はあれの虚言を信じて森で迷う輩が多かったのでな、馬車道以外には森に入らないようにさせていたんじゃが」

 長老は渋い顔をしてチャロを諭しました。けれど、チャロにとっては迷子になったときの恩人なので聞き入れがたい話でもありました。

 結局チャロは再び森の中へ足を踏み入れたのです。

 今度は案内してくれた道をこっそり覚えてきたのでそれほど苦労せずに少女の家にたどり着きました。今は昼間なので野犬もおらず、森は木々を風に揺らしており空からは爽やかな日差しが降り注いでいます。

「どうして、また……」

 少女は家のすぐ近くに拵えた庭で花に水をやっていました。前回来たときには気づかなかったけれど、可憐な花が咲き誇る立派な花壇です。部屋に生けていた花もきっとここから摘んだのでしょう。蝶が花たちの間を楽しげに踊っています。

「きれいなお花だね」

「帰って」

 相変わらず少女には突っぱねられましたがチャロはめげずに花壇の前までやってきました。近くまで来ると花とはまた違った香りに包まれます。

「あ、ハーブもあるんだ。この間飲んだお茶もここのやつだったんだね」

「…………」

 再びやってきたチャロに少女は戸惑っているようでした。なにも言えなくなってしまい如雨露を両手に抱きしめます。

「こんなに綺麗なお花を誰にも見せないなんてもったいないよ!」

「……べつに、見てくれなくていい」

「それ、嘘でしょ?」

 チャロはいつの間にか俯いてしまった少女を覗き込みました。

「あなたはずっと嘘しかついてないけど、優しかったもの」

 チャロはにっこりと笑ってから少女の手を取りました。少女はびっくりして如雨露をそのまま落としてしまいます。

 少女の手はひんやりとしていましたがチャロはしっかりと自分の体温を伝えるよう握りました。

「ずっと、一人でここにいるんだよね?」

「ちがう」

「ひとりぼっちだったんだよね?」

「……ちがうっ」

「だから、私がお友達になってあげる」

 その言葉に思わず少女が顔を上げます。チャロは満面の笑みで握った手をぶんぶんと振りました。

「お友達の第一歩! あなたのお名前は?」

 しばしの逡巡のあと、少女はやはり俯きがちにぼそりと呟きます。

「アレキサンダー」

「えっ」

「……二世」

「……それも嘘でしょ」

「じゃあ、チャロ。……私の名前はチャロ」

「それは私の名前ー!」

 二人は終わらない問答を繰り返して、チャロは「とりあえずギンちゃんね」と勝手に呼ぶことに落ち着きました。

 森に住む偏屈な友達はそれで少しだけ初めて笑ったのでした。



 チャロが少女のところへ通うようになってしばらくの時が経ちました。

 最初こそ不毛な会話にならない会話に悩まされましたが、少女は最初から最後まで嘘しか言わないと考えれば思ったよりも意志疎通を計れることが出来たのです。

「うー暑い。最近はほんと日差しが強いなぁ」

「明日は雪が降るよ」

「もーう、今夏でしょー。それとも気分だけでも涼しい気持ちになろうって意味かな?」

 心なしか暑さに負けてしょんぼりとしている花たちに水をやりながらそんな軽口のようなやりとりも出来るようになりました。

「太陽は西から昇るの。亀は三日しか生きないし、猪は蛇行しながら走る。知ってる? このハーブには凄い猛毒が」

「その猛毒のお茶を毎日飲んでる私はどうなるのー」  

 少女は銀髪を揺らしながら楽しげに微笑みます。日差しの強い屋外で光を煌めいて反射するその髪をチャロはとても美しいと思い、自分の焦げ茶色の髪の毛を思い出して羨ましくも思いました。

「なあに?」

 ずっと見ていたためか不思議そうに少女が見返すとチャロは慌ててそっぽを向きました。

「うーあー、えっと、私と違ってギンちゃんは綺麗だなあって、思ってさ」

「……そう。私はなによりも美しいもの」

「うーんそれは否定できないかも」

 言ってから再び視線を戻すと、なんと少女は泣いていました。慌ててチャロが駆け寄ると少女ははっとして首を振ります。

「なんでもない」

「なんでもなくないよ!」

 チャロがポケットからハンカチを探している間に少女は少し立ち直ったようで、ハンカチを差し出したチャロの手を制して今度は自分がそっぽを向いてしまいました。

「だいじょうぶ?」

「へいき」

 少女は再び足下の花たちに水をやり始めます。チャロも戸惑いつつもなんだか居心地が悪くなってしまい、きびすを返して花壇の端までとぼとぼと歩いていきました。

「向こうの方にもお水やってくるね」

 花壇は家の周りをぐるっと囲むように作られていたので、裏手の花にも水をあげなくてはいけません。

 チャロがしばらく水を撒いていると如雨露の中がからっぽになりました。この家に井戸はないので、少し離れた小川から水を汲んで水瓶に溜めています。どうやらそちらも貯水分が無くなっているようでした。

「汲みにいっちゃおうかな」

 いつもなら少女と二人で小川まで行きますが今日は思い切って一人で水汲みに行くことにしました。水瓶をこっそり満タンにしておいたら少女が喜んでくれると思ったのです。

「どうしてギンちゃんは嘘ばっかり言うのかな」

 チャロは瓶の中を水で満たしていきながら川面に映った焦げ茶色の髪をした女の子を見つめます。その顔は悲しげでした。

「ほんとのことを言ってくれないと、友達としてやっぱりさびしいよ」

 少女が抱えている寂しさはそのままチャロの彼女に対する寂しさにつながります。気持ちを分かってあげたいから少女の寂しさ、悲しみを知りたい。けれど少女は頑なに本当の言葉を伝えない。それが、とても寂しいのです。

「うー重いよう」

 満タンになった水瓶は予想以上に重く、チャロは顔を真っ赤にしながら引きずるように歩きました。普段は二人で一緒に持っていたのでなんとかなったのですが、一人では骨の折れる作業です。

 けれど、もうすぐ家への分かれ道といったところで、不穏な唸り声が森にこだましました。野犬よりも低いその声はチャロを怯えさせるのに充分でした。

「あっ」

 チャロの目の前を大きな影が横切りました。俊敏な動きにチャロの目が追いつかず右往左往と視線を巡らせます。すると大きな影は一本の老木の前で止まりました。その姿にチャロは目を丸くします。

「お、オオカミだあ……」

 へなへなとその場に尻餅をついてしまいました。漆黒の毛並み、むき出しの牙とそこから垣間見える真っ赤な口、爛々と光る目は獲物を捕らえています。チャロほどの小柄な少女などまるでひと飲みできそうな巨躯でした。野犬よりも相当大きく、チャロはこんな獣を見たことがありません。

 オオカミは唸り声を上げながらゆっくりとチャロに近づいてきました。品定めをするように赤い舌を出して口元を舐めています。

「うあ……たすけて……」

 すっかり腰の抜けたチャロが水瓶にすがりつきました。がくがくと震える身体で水瓶を抱くと、瓶は重心が傾いたのか大きな音をたてて倒れてしまいます。中の水が勢いよく地面に撒かれてしまいました。

 するとそれに驚いたオオカミがにわかに敵意をむき出しにしてチャロの方へ飛びかかって来たのです。

「やめて!」

 思わず目を瞑ったチャロの耳に甲高い声が響きます。目を開けるとオオカミの目の前に立ちふさがった少女がいました。背中で揺れる銀髪と荒い息は今し方走ってきたことを伺わせます。

「やめなさい」

 今度は諭すように落ち着いた声で少女がオオカミに向かって言いました。そんなことで獣を止められるわけがないとチャロはますます怯えましたが、どういうわけかオオカミは機先を挫かれたように一歩後ずさりました。

「帰りなさい」

 なおも言い含めるように少女の声が響くと、とうとうオオカミは尻尾を垂らし森の奥へと消えていったのでした。

「すごい、ギンちゃんすごい!」

 見事オオカミを追い払った少女にチャロは大喜びです。恐れもすっかり消えて少女の元へ駆け寄ると振り返った少女は怒ったように言いました。

「オオカミに食べられちゃえばよかったのに」

 いつもの嘘だとわかるのに、どうしてか感情のこもったその言い方はチャロの胸に刺さりました。

「もうチャロなんて知らない」

 少女はチャロに背を向けました。肩を震わせているさまは怒ったようにも泣いているようにも見えます。

「チャロなんて……きらい」

 嘘だと思いたいのに、チャロにはその言葉が真意のようにも聞こえました。彼女の気持ちはやっぱりなにも分からないままなのです。

「ギンちゃ……」

 チャロの手が少女に触れようとした瞬間、今までになく大きな地震がふたりを襲いました。もはや波のような揺れではなく、縦に横にと世界がひっくり返るんじゃないかというほどのものです。

 チャロは地面を転がりながら同じく地面に伏している少女の方を見てぎょっとしました。少女の方へ向かって激しい揺れによって折れてしまった老木が倒れようとしていたのです。

「ギンちゃん!」

 チャロは渾身の力で地を蹴りました。どうすることもあまり考えてはいません。ただ少女に被さるはずだった木が自分の背中を打ったことを感じたチャロは安心して意識を手放しました。



 酷い鈍痛がチャロの体中を蝕んでいました。

 寝かされたベッドの感触も、熱い背中のせいで現実味のないものになっています。

 ふと額に冷たい感触を覚えそれがとても気持ちいいものだと認識すると不思議とチャロの痛みは無くなっていきました。ただ全身に気だるいような疲労が残っているだけです。

 ひんやりとして気持ちがいい。チャロが重い瞼を上げようとすると、今度は違うものがそっと目を覆うのが分かりました。

「これ……ギンちゃんの手だ」

「チャロ」

 耳元を少女の声がくすぐり、チャロは彼女の無事を喜びました。怪我もないようです。

「無事でよかったよぉ」

 答えるように柔らかで冷えた指がチャロの額を撫でます。相変わらず瞼は片方の手で塞がれたままでした。

「私は……チャロとさよならすることにしたの」

「なに、また嘘でしょ」

「嘘じゃないよ。もう、嘘はつかないもの」

 穏やかな声と塞がれた瞼にチャロは不安を覚えます。

「私と友達になってくれてありがとう」

「まって、ちょっとまって」

 チャロがなんとか腕を上げて少女の手を掴もうとしたとき、部屋に一陣の風が吹きました。その一瞬の後、残り香のように少女の言葉がチャロの耳元に届きます。

「きらいなんかじゃない。だいすきだよ、チャロ」

 チャロが目を開けたとき、そこにはもう少女の姿はありませんでした。



 チャロは夕方になるまで家の周辺で少女を探しましたがとうとう見つけることは出来ませんでした。

 これ以上森に居ても夜になってしまい出歩くのが危険です。チャロは落胆しながら村へと戻りました。

「おお、チャロ! どこに行っていたんだ、無事だったか!」

 すっかり日の暮れた村に入るとそこら中に人が溢れ騒然としていました。その中からチャロの父親が人をかき分けてやってきます。

「いったいどうしたの?」

 チャロは父親に問いました。村中がお祭り騒ぎのようなのです。そしてそれはよくない類のものでした。

「火山が噴火したんだ」

 今やってきた森から村を挟んで遠くない場所にある火山は百年前にはすでに活動が停止していました。人々はすっかり休火山だと思って暮らしていましたが度重なる地震により一気に噴火にまで至ったのです。

「それはおかしいよ。だって山から火は出てないし村は無事じゃない」

 チャロが担がれたような気分になるのは無理もありません。村から見える火山は穏やかであり、もし噴火が起こった場合、麓のこの村は流れ出る溶岩と火砕流でめちゃくちゃになっていたことでしょう。

「それが……噴火の直後にどこからかドラゴンが現れてな……妙な魔術で火山の噴火を止めてしまったんだ」

 少女でも言わないような大嘘に聞こえる話でした。けれど神妙そうな父親の顔はとても嘘をついているように見えません。

「また噴火するんじゃないかね」

「どうでしょうな。アンタはそのドラゴン見たんだろ?」

 他の村人の会話が耳に入ります。話を振られた旅商人の男が思い出すように目を細めました。

「真っ白な鱗に覆われた青い目のドラゴンでなあ。怪物相手に言うもんじゃないが、その、綺麗だったよ」

 今度は違う人が隣りでうんうんと同意します。商人の連れのようでした。

「口から吐いた白い炎がまるで火山を凍らせちまったみたいだった。あいつは火山の番人なのかもな」

「そのドラゴン、どこへいったの?」

 チャロは息巻いて尋ねます。

「火山より向こう側へ行っちまったよ。あっちはこちら側より深い森が広がってるからなあ。巣でもあるんじゃないか。いやだなあ、俺たち明日は向こう側の町に商売しに行くのになあ」

 チャロは父親に知られないよう、こっそりと商人にお願いしました。商人も最初は頑なに断っていたものの、根負けしたのか呆れたようにため息をつきました。

「しょうがない。向こう側の町まで一緒につれていってやるよ」



 翌日、品物が沢山詰まった荷馬車の隅っこにチャロは乗っていました。

 夜が明けてから見ると確かに火山の火口には一度噴火したらしき跡が残っており、途中まで溶岩が流れ出て冷えて固まったコブが出来ていました。

「ここでいいよ」

 町まであと少しという街道を走っていたところ、チャロは商人にそう告げて荷馬車を降りてしまいました。

「ここでって……こんな何もないところでいいのか?」

「私が用があるのはあっちの森だから」

 そう指さす先には昼間だというのに霧が立ちこめる暗い森の入り口が見えます。その深い森は火山の裾野まで広がり全体の規模は計り知れません。どんな凶暴な獣がいても不思議ではない雰囲気でした。

「昨日のドラゴンがいるかもしれんよ。それに恐ろしい獣だっている、子供一人で危ないぞ」

 それでもチャロは商人が止めるのも構わず森の方へ歩いていきます。後ろから戻りなさいと呼ぶ声が聞こえましたがあえて振り返ることもせずチャロは言います。

「だいじょうぶ、友達に会いに行くだけだから」

 その声は商人には届きませんでしたが、知らず臆病になっていた自分の心に勇気を灯す言葉でした。

 一歩森に踏み込むと、心なしか気温が下がったように感じられ、チャロは自分の腕を思わず抱きました。遠くから鳥とも獣ともつかない鳴き声が聞こえてきます。

 今までこんな怖い森に一人で入ったことはなく、そうでなくともきっと恐ろしくて泣き出してしまっていたでしょう。ですが、これはチャロにとって泣くほどのことではありません。恐がりで泣き虫だったチャロは友達に会いに行くために後込みするような女の子ではなくなっていたのです。

 森に入ってから半時、いまや周囲はすっかり暗く淀んだ森深くに来ていました。

「……ぅ、いたた」

 しばらく足場の悪いぬかるみを進んでいたせいか体に知らず知らず負担が掛かってしまったようでチャロの背中がずきずきと痛み出しました。少女をかばって老木に打たれた傷が疼いてきたのです。

 チャロは少女の優しい手を思い出しました。ひんやりとした感触が蘇り、不思議と痛みが和らいでいくのです。

「ギンちゃんはやっぱりここにいるんだ」

 少女の面影を追って、チャロは森を進みます。

 てらてらと光る廃油を思わせる不気味な沼の淵を恐る恐る進んでいると斜め前方の木々から何かが飛び出してきました。チャロは思わず身構えましたが背中の痛みが体を鈍らせ思わずその場に尻餅をついてしまいます。

「い、イノシシだあ」

 犬よりもずんぐりとしたお腹、豚よりも一回り大きい肢体はまさしく鼻息荒ぶる猪でした。近くの木まで突進してきたかと思うと今度はチャロの方に体を向けます。あんなものに襲われたらひとたまりもありません。

「う、わわわ」

 起き上がろうとするも泥に足を取られてなかなか立ち上がることができません。

 半ばパニックになりそうなチャロの脳裏に少女の言葉が浮かびました。彼女は嘘つきですが、物知りでもあるのです。

「えっと、イノシシは……」

 思いついた起死回生の案はチャロにとっては恐ろしい作戦でした。ですが、泣き虫チャロはもういないのです。

 獲物を見つけた猪が興奮気味に体を揺すりました。次の瞬間、全身をバネのようにしてチャロの方へ、

「……あいつはまっすぐ突っ込んでくる。だからすぐ近くまで引きつけて……」

 泥をけたてながら猪が眼前に迫ります。

「かわすっ!」

 間一髪、チャロが思い切り身を捩らせて脇の草むらへ飛び込むと軌道修正できなくなった猪はまっすぐ沼の淵まで走っていき、とうとう止まることなくその底なしの油沼へ呑まれてしまいました。

 冷や汗を拭いながら泥だらけになった自分の体を鑑みます。なんだか安心したせいか思わず笑いがこみ上げてきました。

 チャロにとっては初めての勇気で危機を脱したのです。きっと今から会いに行く友達に話したらびっくりして、もしかしたら褒めてくれるかも知れません。

 胸に灯った勇気を糧に、チャロは再び森の奥へと歩みを進めました。



「わあ……」

 しばらく霧のかかる森を歩いていたら開けた場所に辿り着きました。木々も薄くそこだけ光が射しているその場所はぬかるんだ湿地のような印象の森の中で異彩を放っていました。不穏な獣の鳴き声もそこだけは届かないのではないかと思えるほどです。

 そのまま日差しの中を進んでいくと一際大きな大木がありました。周囲の木々とは一線を画する巨大さは大きな国のお城を思わせます。そのお城の背後では何事もなく穏やかな火山の姿が背景となって、まるで一枚の絵のようでした。細かく分かれた枝からは青青とした広葉樹の葉がそれぞれ空へ向かって延びており、その大木の内部を伺い知れないものにしています。

 チャロは確信しました。初めて少女の森に迷い込んだときと同じ感覚を感じたのです。

「ギンちゃん」

 大木の下までやってきて、その巨大な緑のドームを見上げます。

「ギンちゃん」

 もう一度、呼びかけます。

 どれくらいの時間が経ったのか、チャロの見上げる首が痛くなってきた頃、一番太い幹の突端がざわりと揺れました。

「……チャロ」

 その揺らめきは白い影となって段々と形を成していきます。木漏れ日を反射してなお美しく煌めく鱗、広げた翼は大木の半分ほどを覆いその端正な顔立ちはとても怪物と呼べるものではありませんでした。澄んだ空色のような青い瞳がじっとチャロを見つめます。

「こんな恐ろしくて醜い姿、チャロには見せたくなかった」

 黒オオカミよりもよほど鋭利な牙を覗かせる口が苦しげに歪みました。

「私はね。この火山が噴火しないようにここに巣を張る守神だったの。百年に一度活動するこの火山の抑止力」

 ドラゴンの首が目の前に迫る火山の方へ向きます。

「でもずっとひとりぼっち。話す言葉はあるのに、人間たちはずっと私を怖がってたの」

 細めた目は遠い過去の出来事を思い出しているようでした。チャロは黙って話を促します。

「魔女に唆されて人間の姿になったのに、私は呪いで嘘をつくことしか出来なくなっていた。本当のことを喋るとまたこの姿に戻ってしまうから」

 ドラゴンは翼を広げるとふわりと宙に浮きました。そうして段々と高度を下げていき、最後にはチャロの目の高さほどの幹へ身を預けます。

「それでも人間と話せるのが最初は嬉しかった。ひ弱な少女の姿の私は彼らにとって恐怖の対象ではなかったから」

 チャロはすっと一歩踏み出しました。見上げるドラゴンの姿がゆっくりと大きくなっていき、そのきめ細やかな鱗や銀色に輝く鋭い爪がはっきりと見て取れるようになります。恐怖は感じませんでした。

「でも私が嘘つきで、いくら年を重ねても少女のままであることは人と同じ姿形をしていても異端だったのね」

 ドラゴンはその綺麗な空色の瞳を伏せます。

「だからまた、ひとりぼっち」

「ちがうよ」

 チャロは両手をドラゴンに向かって広げました。おいで、というように首を傾げます。

 けれど、ドラゴンは首を振りそれ以上チャロに近づこうとしません。

「……チャロがうちに来てくれるようになったのは嬉かった。でも、もう危険な森に来てはだめ」

「あのお花たちはどうするの? 水をあげないと枯れちゃうのに」

「それは、仕方ないことだもの」

「私はどうすればいいの? せっかくあなたと本当の言葉を交わせるのに」

「こんな醜いドラゴンと話すことなんて、」

「あるよ! いっぱいあるよ! 話し足りないくらい、お喋りしたい! また一緒にお花を育てたい!」

「……私は人間じゃないもの」

「いーよ、そんなの」

 チャロはドラゴンの鼻先まで近づくと、その長い首を思いっきり両手で抱きしめました。太い首筋はとてもチャロの腕に収まり切るものではなかったので、抱くというよりも抱きつくと言った方が正しいでしょう。ひんやりとした鱗は蛇の表皮のようで、けれど体内でゆっくりと蠕動する息づかいと暖かさを感じました。

「……ずっと、一人でここにいるんだよね?」

 チャロは首筋に埋めた顔を上げるとドラゴンがよく見えるように体を離しました。

 ドラゴンは戸惑ったようにチャロを見つめます。

「ひとりぼっちだったんだよね?」

 差し出したチャロの手がドラゴンの頬に触れました。出来るだけ優しくその白磁のような肌を撫でます。

「お友達の第一歩。……あなたのお名前は?」

 チャロの手に、空色の涙が一筋こぼれ落ちました。


「……私の、名前は――」







 むかしむかし、とある国の大きな火山の麓に長閑な村がありました。

 村は火山の噴火から白くて美しいドラゴンよって守られていました。

 そのドラゴンの傍らにはいつも一人の少女がいたそうです。

 

 めでたしめでたし。

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