硝子玉
訃報が届いたのはちょうど新年を迎えるべく、女たちが家のあちこちの手入れに殺気だっているときだった。無遠慮な目線たちに見送られるようにして配達夫がサーヤの前にやってきたとき、サーヤは土間の片隅でランプを磨いていた。
渡されたのは、驚くほどちっぽけな箱。渡されるときに中でかさかさと淋しい音がした。
慌てて前掛けで手を拭いて、一通の書状を受け取る。それは目に痛いほど白い紙で、煤だらけの手で受け取るのが罪深く思えるほどだった。
ふるえる手で書状をひらく。読まずとも、内容ははじめから見当がついていた。いや、わかっていた。わかりたくなくて、予想が外れていることを祈って、サーヤは読んだ。お手本のようなうつくしい筆跡で日付と、「呪」の一文字。死んだ日付と、死因。箱が小さいのは、遺体を炎で清めたあかし。かさかさ鳴っていたのは、骨。
次々と突きつけられた事実に、泣くこともできなかった。気がついたら横になっていて、ランプは全部きれいに磨かれてしまっていた。
サーヤの夫は、都でやとわれて門衛をしていた。
どこの門だったのかは知らない、彼もサーヤに知らせようとはしなかった。門衛はただ、門の内側にあるものを守ればいい。そういう仕事のようだった。
まじないごとに長けた一族の出だった彼は、たいそう評判がよかったらしい。たまに帰ってくるときは、いつも両手にサーヤへのみやげものを抱えていた。寡黙で、特に仕事に関することはほとんど話そうとしないひとだったけれども、目の前にひろげられたみやげものにどぎまぎするサーヤを前にすると、とても嬉しそうにわらったものだった。そして次に帰ってくるときも、やはりサーヤをびっくりさせるようなものを携えて帰ってくる。はじめてサーヤにみやげものをもってきたとき、彼女があんまり驚いて、また固辞したものだから、彼はそのときだけ自分の仕事の評判がいいこと、たくさんのごほうびがもらえていることなどを言葉すくなく語ったのだった。
だから、サーヤは彼が門衛をしていたのは知っていたが、門衛がどういう仕事なのかは知らなかった。ただおぼろげに、「まもる」仕事なんだろうな、と思っていた。それでよかった。
彼がこうしてものいわぬむくろとなって帰ってくるとは、思いもよらなかったのだから。
遺骨の入った箱を抱きしめてうずくまるサーヤに、やさしい声がかかった。
「サーヤ」
サーヤは差し出された手を拒んで、ただただ首をふった。抱き込めるように、守るように。ぎゅっと箱を抱きしめる手をつよめて。おどろくほど肉のけはいのない、骨としわしわの皮ばかりの手は、それでもサーヤにむかってやさしく伸ばされた。
「いやです」
涙声なのに、サーヤの声はきっぱりとしていて濁りがなかった。うつむいたまま、ただ拒絶の言葉をくりかえす。
「サーヤ。ファジはそろそろ、やすませてやらんとならんのよ」
ファジというのは、サーヤの夫の名前だった。炎で清められた骨は、安息を待っている。母なる土のもとにおかえししなければならないのはサーヤももちろん承知していた。けれど別れがたくて、サーヤはファジの遺骨を手放そうとはしなかった。
はじめは女たちだった。口々に「おまえもわかっているんだろう」とサーヤを促そうとした。けれどサーヤはますます頑なになって、はじめ傍に置いておくだけだった箱を膝に乗せた。つぎにファジの一族のものが急ぎ足でやってきた。まじないごとを扱う立場から、安息を与えられないのが死者にとってどんなにつらいかを説いた。けれど今のサーヤはファジと別れる以上につらいことなどないように思われたから、ファジと別れずにすむように膝の箱を抱き寄せた。そうして今はファジの祖父にあたる長老が静かに説得にあたっていた。
「サーヤ。頼むよ……。孫がそのままでいるのを見るのは…、ちとわしには、せつなすぎる」
「じじさま」
サーヤははじめて顔をあげた。
「…ごめんなさい。だけど、サーヤはまだ、考えていたいのです」
そう言って無意識の仕草だろうが、ぎゅっと箱を抱きしめた。そのふるえる指先を、老爺はかなしそうに見つめた。
数えるほどしかまだ会ったことのなかったこの長老は、荒げたようすなど想像もできないやさしい表情とやわらかい声音、そしてしなやかな人柄の持ち主だった。最近は足がきかなくなって、ほとんど家から出ないのだと女たちの噂で耳にした。そのひとが目の前にこうしてやさしく佇んでいることの意味を察せないほど、サーヤはばかではなかった。だからこそ苦しかった。
「そうか。ではわしにも、考えさせてくれるかな」
その声がたとえようもなくやさしかったので、サーヤは無性にすがりつきたくなってしまった。けれど箱を手放すことがどうしてもできなくて、ぽろりと涙をこぼした。
「ああ、ああ。そんなに泣いて。サーヤが考えねば動けないならせめて、わしもいっしょに考えさせておくれ」
ほろほろと涙の粒を落としながら。歯を食いしばって嗚咽をねじふせながら。サーヤは何度もうなずいた。箱を抱いたふるえる肩を、老いさらばえたかさかさの両手がやさしく包んだ。
「孫をいたんでくれてありがとう」
こらえることを忘れられた涙を流し嗚咽に肩をふるわせながら、サーヤは言った。
「あんなに笑っていたのに。門衛とは、死ななければならないようなお仕事だったのでしょうか」
「どうしてあのひとは死ななければならなかったのでしょうか」
脈絡もなく、抑揚もとぼしく。ぽつりぽつりと投げかけられるサーヤの問いに老爺はいちいち頷いてみせた。
「のろいころされなければならないような、そんなわるいことをあのひとはしていたのでしょうか」
「いいや」
老爺はきっぱりと言った。その目にはやさしい表情でも隠し切れない、言いようのない険のするどいひかりがあった。
「いや、そんなことは決してない。たしかに門衛はたいせつなものをおまもりする危険な仕事だが、お役目で命をおとしたものの訃報は『殉』と書かれるのがならい。ファジは、あのやさしいこがのろいころされたのは、おそらくは、私怨のため」
その声音はあまりにも低くするどかったのでサーヤは思わず息をのんだ。毒をはらんだことばがその、のみこんだ空気といっしょにサーヤのなかを巡っていきわたったとき思わずサーヤは叫んでいた。
「誰が、だれがだれがだれがあのひとをころしたの…」
薄暗い部屋の片隅に、毒がしみわたるように。
サーヤは懐疑と呪詛の言葉をくちびるにのせた。
どれほどの時間が経ったのか。
サーヤの喉が嗄れたとき。サーヤの涙が尽きたとき。
奇妙な声がサーヤの耳のなかで反響した。
「のろいたいか」
「ころしたいか」
「のろってしまえばたやすいぞ」
「のろってしまえばらくになれるぞ」
「のろいころしてしまえばいい」
「のろいころしたやつなんかのろわれてしまえばいい」
「のろいころしたやつなんかのろわれてあたりまえだ」
「のろいころしたやつをころしたいんだろう」
「のろいころしたやつをのろいころしてしまいたいんだろう」
「のろってしまえばいいんだ」
「のろってしまえばいいのさ」
「のろってしまいたい…」
つぶやきをこぼすや否やサーヤは立ち上がり、老爺につめよって、頭を下げて、泣きくるわんばかりに泣き落とした。のろいを教えてほしいのだと。
老爺ははじめ血相を変えてサーヤを思いとどまらせようとした。まじないをなりわいとする一族であるからこそ、のろいは禁じられているのだと。のろったものはのろったが最後、まともな生きかたも死にかたも辿れなくなってしまうのだと。そんなことをしたところでファジは生き返ったりしないし、ましては決してよろこんだりなどしないだろうということ。ありとあらゆることばを尽くしてサーヤをさとそうとした。けれどサーヤは変節するそぶりさえもみせなかった。
復讐のための呪術はひどく簡単だった。
まずは前掛けを燃やす。結婚のとき母親に贈られる、主婦のあかしを灰にする。日常を捨て去り、二度と「女」には戻らぬという決意を示すために。復讐者になる宣言だと老爺は渋い顔でつぶやいた。
そして身をきよめ装束をととのえて、呪術のためにととのえられた場に立つ。
なんてあっけないの。サーヤはつめたくつぶやいた。こんなもののためにあのひとはころされてしまったの。
老爺はあくまでもやさしかった。最後の最後まで渋るそぶりをみせ、根負けしたようにくらい喜悦にくちびるを歪めながら、とめどなく涙を流すサーヤにのろいをささやいたのだった。
(さけべ。そしてのろうのだ。おまえのすべてがのろいにかわってしまうくらいに)
サーヤはほほえんでうなずくと、のろいをはじめた。いとしい夫のために。
さけぶ、さけぶ、さけぶ。
哀号。哀悼。哀願。
ありとあらゆるかなしみと、ありとあらゆるにくしみで。
妻であった女はのろいになった。かなしみとにくしみだけの存在に。
もう、ひとにはもどれない。
それでも叫ぶ。それでも呪う。だからこそ呪う。
それが復讐にくるう女のさだめ。
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「おお。帰ったか」
「ああ。ただいま爺様」
「サーヤの呪いはどうだったかな」
「上々だったよ。すぐに死んだ。苦しんでね。女の呪いは便利でいい」
「それは重畳。だがのうファジ」
「なんだい」
「サーヤは生きているときもよい妻であったよ。かわゆい娘だった」
「そうかい」
「だからの、せめて大事につかっておやり。
騙すわしのなけなしの良心を軋ませても猶、余るほどにあの娘はおまえを愛していた」
「…そうかい」
ファジは手にずっともて遊んでいた硝子玉を撫でた。先ほどより少しはやさしげに。
若干のいとおしささえ、にじませて。
「そうさせてもらうよ」