5話【初陣】奈落の捕食者
新宿ダンジョン最深部、第45層。
そこはわずかな光しかない、濃厚な魔力の奔流と死臭だけが支配する場所だ。
かつてお荷物と呼ばれた俺は今、漆黒のフルプレートアーマーという殻の中で、一匹の捕食者として静かに、深く、呼吸を整えていた。
「……、……ギ、ガ……」
バイザーから漏れるのは、もはや人間のそれではない、擦れた金属音のようなノイズ。
だが、俺の思考はかつてないほどに研ぎ澄まされていた。
脳裏には、叔母・凛の厳しい声が響いている。
『いいか? カイト。深層で生き残りたければ、まずはこいつに注意しな』
20年前の惨劇、その数少ない生存者である、元S級冒険者の凛さんは、深層モンスターの特性を、俺の脳に叩き込んでいた。
ゴウシたちが、ギロチン・レクスの姿すら知らずに絶望したのは、ギルドが重要な情報のほとんどを隠蔽した、公式の薄い資料しか彼らが見ていなかったからだ。
だが、俺は違う。俺はこの地獄の歩き方を、幼い頃から教わっていた。
(――いた。天井だ。地上10メートル、鍾乳石の影)
【捕食者の潜伏】
鎧の表面から染み出した黒い魔力が、周囲の闇を《食って》同調する。
俺という存在の輪郭が曖昧になり、暗闇の一部へと溶けていく。
狙うは、直径二メートルはあろうかという巨大な眼球の化け物、Aランクモンスター、ディープ・ウォッチャー。
体力、防御力こそ低いが、視界に入ったあらゆる生命を焼き殺す強力な魔眼を持つこのモンスターは、今、無防備にその瞳を晒していた。
本来、視覚を奪われたこの闇の中でこいつを見つけるのは不可能に近い。
だが、凛さんから、熱源と魔力の揺らぎを察知する訓練を受けていた俺には、その不気味な視線がどこを向いているか、手に取るように分かった。
今の俺に最も足りないのは、この奈落を見通す視界だ。だから、こいつを選んだ。
俺は地面を蹴った。
【三次元適応歩法】
本来なら数十キロの鋼鉄が壁を叩けば、凄まじい破壊音とともに位置が露呈するはずだ。
だが、鎧の足裏に宿る魔力の吸着層が、その衝撃を音として放つ前に壁面へ吸い付かせる。
さらに、【金剛不壊の運搬体】によって、フルプレートの重みは、俺の肉体にとって、羽のようなとは行かないまでも、行動を阻害しない程度の重みへと変わっていた。
カサリ、とも音を立てず、垂直な壁を駆け上がり、天井へと張り付いた。
視界が上下反転するが、平衡感覚を司るスキルがそれを瞬時に補正する。
(あと、十五メートル……)
ウォッチャーがスキャンするように瞳を動かす。
俺は岩の影で静止した。
【捕食者の潜伏】によって、俺はただの「無機質な岩」として、その鋭敏な魔眼の認識から完全に外れている。
(今だ。凛さんの教え通り、瞬膜が開く瞬間を叩く!)
俺は天井を走り、右の籠手の隙間に、中身である俺自身の意識を集中させた。
(……食らえ)
籠手の隙間から、ナメクジとしての軟体の一部と、ドロリとした黒い粘液が噴出する。
それは空中で瞬時に収束し、一本の漆黒の鞭へと変貌した。
鞭の表面には、ナメクジの特性である【強酸分泌】がドロドロに纏わりつき、周囲の空気を焼いて白い煙を上げている。
――シュッ!!
空気を切り裂く衝撃音が響く。
しならせた触手が、脚力の慣性と、初撃の加護影響で、敵が自分を認識していない状態での最初の一撃に、わずかな攻撃補正が加わった状態で、ウォッチャーの巨大な瞳孔を真っ二つにする勢いで叩きつけられた。
「ギ、アアアアアアアアア!!」
直撃。
強酸を纏った音速の一撃は、ウォッチャーの魔力障壁をバターのように切り裂いた。
ジュウウウ、と生臭い煙が上がり、化け物が超音波の様な悲鳴を上げ、地面に落ちる。
だが、Aランクは伊達じゃなかった。
「……ッ!?」
仕留めたと思って近づいた瞬間、ウォッチャーの瞳の周囲にある無数の細かな触手が、俺の鎧を絡め取った。
さらに、潰れたはずの瞳の奥から、ドロリとした負の魔力が収束していく。
(しまっ――!)
至近距離からの魔眼照射。
俺は反射的に、【暴食の王】の本質である闇を放出し、強制捕食を試みた。
強引に飲み込めば、この攻撃ごと無効化できる。そう踏んだのだ。
――だが、闇は弾かれた。
《警告:対象の生命力が一定値を上回っています》
《無理に捕食すると、精神に甚大な悪影響が出る可能性があります 捕食しますか? [YES/NO]》
《安全に捕食するには、対象をさらに弱体化させてください》
(……クソっ、そう簡単に強いモンスターは食えねぇって事か!)
目前に迫る、視界に入ったあらゆる生命を焼き殺す魔光。
俺は【三次元適応歩法】を無理やり駆動させ、絡みつく触手ごと自分の肉体を壁へと叩きつけるようにして軸をずらした。
ジリッ、とバイザーの端が魔光に焼かれ、鼻をつく金属の焼ける臭いが漂う。
死が、すぐ隣を通り過ぎた。
「ガ、ア……!」
のたうち回る化け物に、俺は二撃目を叩き込もうとするが、ウォッチャーは死に体になってもなお、正確に俺の動きを捉え続ける。
触手を伸ばせば弾かれ、捕食しようとすれば魔光で迎撃される。
削りきれない。
考えてみれば、そりゃそうだ。防御力が低いと言っても、こいつはAランク。数多のベテラン冒険者を葬ってきた、死の監視者なのだ。
(スキルの力を得て、舞い上がってた。相手は格上だぞ。落ち着け……凛さんの言った通りだ。動き出せば、必ず隙がある。……そこだ!)
激しい痛覚を、考察で塗りつぶす。
魔眼を放つ直前、ウォッチャーの核である中心部が、わずかに露出する。
俺は籠手を捨てた。
代わりに、鎧に固定位していた、小剣を逆手に取る。
(食らえ……化け物!)
魔眼の再充填。その僅か一秒の隙間に、俺は自らの肉体を弾丸のように撃ち出した。
放たれた魔光に左肩を焼かれ、鎧がひび割れる衝撃。
だが、俺は止まらない。
肉薄。
剥き出しになったウォッチャーの中枢へ、小剣を深々と突き立てた。
「ジュ、ガ、アアア……ッ!!」
小剣の刺さった隙間から、俺の本体である強酸の粘液を直接、化け物の脳へと流し込む。
内側からドロドロに溶ける音が聞こえ、ウォッチャーの巨躯が痙攣し、その魔眼から光が消えた。
(今だ。喰らい尽くせ――【暴食の王】)
再度、捕食の闇が展開される。
今度は抵抗はない。俺の闇から無数の口が発生し、巨大な目玉の化け物をボリボリと咀嚼し、飲み込んでいった。
脳内に、異物感が流れ込んでくる。
ウォッチャーが見てきた深層の光景、そいつが倒してきた魔物たちの断片。
そして、純粋な力の奔流。
《Aランクモンスター:ディープ・ウォッチャーを捕食……完了》
《経験値を獲得……Lv 41 → 50》
《スキル【魔力探知】【動体視覚】を掠奪……》
《権能【万象変換】により、上位互換スキル【真理の眼】を獲得》
脳の奥が、焼けるように熱い。
だが、変異したのは感覚だけではなかった。
【真理の眼】の獲得と同時に、俺の鎧の中では、人間としての構造が音を立てて崩壊していた。
ナメクジのように不定形化した肉体の表面に、無数の亀裂が走る。それは傷ではない。ディープ・ウォッチャーの性質を受け継いだ、新たな視覚器官の産声だった。
脳から伸びた視神経は、もはや全身の粘液の中を電線のようにのたうち回り、鎧の内壁を這う。
鎧を脱げば、そこにあるのは赤黒い光を放つ数百の瞳が、波打つ粘液の表面で不規則に瞬きを繰り返す悍ましい光景だろう。だが、この無数の眼が全方位を捉えることで、俺から《死角という概念》は消滅した。
骨はすべて溶けて魔力を帯びたゾル状の物質に変わり、感覚の統合が加速する。
外から見れば、ただの凄みのある黒騎士。だが、その鉄の皮一枚隔てた内側では、もはや人型を維持することすら放棄した、光り輝く粘液の怪物が脈動していた。
(身体は、もう戻れない。……だが、これでいい)
今までモノクロだった世界に、魔力の揺らぎという色彩が加わった。
俺は荒い息を吐きながら地面に膝をついた。
(……本当にあぶなかった)
レベルが上がったとはいえ、身体の芯はボロボロだ。
最強のスキルを手に入れたと思って、調子に乗っていた。
今の【暴食の王】は、万能の解決策じゃない。
自分の基礎能力が低すぎれば、掠奪の「口」すら届かずに終わる。
今回勝てたのは、凛さんの知識と、運が良かっただけだ。
このまま格上に挑み続ければ、次は間違いなく、俺が「餌」になる。
(……ハ、ハハ。急がば回れ、か。凛さんにまた怒られそうだな)
バイザーの奥で、俺は苦笑した。
復讐のために、最短距離を突っ走りたい。
だが、確実にゴウシたちの首を獲るためには、まずは自分の肉体という、この土台を怪物にする必要がある。
ふと、足元を見ると、一匹のアシッド・スラッグがのろのろと這っていた。
(……待ってろよ、ゴウシ、ミサキ。俺がそっちに行くまで、せいぜい最強の夢を見てろ)
俺は迷わず、そのアシッド・スラッグを拾い上げ、触手で包み込んだ。
晩餐は終わらない。
だが、次からのメニューは、俺を確実に最強へと鍛え上げる、退屈で過酷な泥の様な食事だ。
***
新宿ダンジョン・モニタールーム
地上の監視モニタールームでは、深夜勤務の若手職員が、端末の警告音に飛び起きていた。
「おい……これ、見ろ。不具合か?」
彼の視線の先にあるメイン・モニタ。
そこには、二日前に死亡判定グレーアウトを受け、最下位に沈んでいたはずの一人の冒険者のステータスが、異常な明滅を繰り返していた。
【登録名:カイト】
【状態:生存(ACTIVE)】
【レベル:41 → 50】
【現在位置:計測不能(SIGNAL LOST)】
【討伐履歴:解析不能(DATA ERROR)】
「……死んだはずの冒険者シグナルが再点灯した? しかも一気に9レベルアップ……!? 嘘だろ、何が起きてるんだ」
隣の席のベテラン職員が眉をひそめて画面を覗き込む。
「位置情報は? ダンジョン内のGPSビーコンはどうなってる」
「ダメです。信号が酷く乱れていて……深層のどこかだとは思うんですが、座標が特定できません。討伐履歴もログが壊れています。ただ、何か《強力な個体を単独で仕留めた》際の特有の経験値変動だけが記録されています。……ありえない、45層で死亡したはずのレベル40の荷物持ちが、何を倒したっていうんだ」
モニタールームに、形容しがたい不気味な空気が漂う。
レベルアップ。それは冒険者にとっての祝福だ。
だが、どこにいるか分からず、何を倒したかも不明な死者が、暗闇の中で着実に強くなっているという事実は、監視員たちの背筋を凍らせるのに十分だった。
「個人総合順位が、今もリアルタイムで更新されています。圏外から……一気に5,800位まで浮上。更新が止まりません!」
「……バケモノかよ」
ベテラン職員が即座に受話器を取る。
「すぐにギルドマスターに報告だ! カイトの過去資料をすべて洗え。いままでに取得したスキルの履歴、生家の情報、交友関係……何でもいい! 蔵善さんに至急繋げろ。これは……生存報告じゃない、異常事態だ!」
職員たちが戦慄しながら資料をかき集める中、漆黒のモニターにはただ一つ、カイトの名前だけが青白く、静かに輝き続けていた。




