2話【人外覚醒】泥を啜り、鉄を纏う
泥と粘液にまみれた、アシッド・スラッグ《ナメクジ》を口の中で噛み潰した瞬間、鼻を突くような悪臭と、強酸が喉を焼いた。
《ユニークスキル【適応吸収】が発動します》
《警告:対象モンスターのランクが低すぎます。通常、人型を維持したままの吸収は推奨されません》
《……個体名『カイト』の生命維持が限界を突破。緊急生存モードへ移行します》
《――【人間】の種族定義を一部破棄。魔物情報を優先上書きします》
《異形化が大幅に進行中。それに伴いアシッド・スラッグの全スキルを完全習得します》
「が、はっ……あ、あああああああああああッ!!!」
全身の骨が、意志に反して内側から組み変わる。
抉られた脇腹から、どろりとした灰色の粘液が噴き出し、欠損した肉を強引に繋ぎ止めていく。肌は青白く透け、血管を流れる血液がドロドロとした強酸へと変質していった。
スキル【自己再生(液状)】を獲得
スキル【強酸分泌】を獲得
スキル【柔軟化(軟体)】を獲得
「ギ、……ガアア……?」
目の前で、処刑人 ギロチン・レクスが不快そうに胸の口を歪めた。
死に体だったはずの獲物から立ち上る、濃密な魔物の気配
処刑人は巨大な錆びた大斧を、今度こそトドメとばかりに振り下ろした。
――だが、その動作は異様なほど緩慢だった まるで、獲物を仕留めることすら「面倒だ」と言わんばかりの怠惰な死神。
その一撃の長い間こそが、俺に残された唯一の生存圏だった。
今の俺の体は、この怠惰な間のお陰で、アシッド・スラッグの特性を得て変化を完了していた。
ドシュッ!!
鋭い刃が俺の胴体を断つはずだった。
しかし、鋼鉄をも容易く断つ大斧の刃は、俺の肉に食い込んだ瞬間、泥沼に沈むように《滑った》。
軟質化した肉が衝撃を逃がし、致命傷を避ける。
それと同時に、傷口から溢れ出した俺の血液――【強酸】が、斧の刃を激しく焼き焦がした。
ジジジジジッ!!
「ギ、……ガアアア!?!?」
処刑人が驚愕に咆哮した。
攻撃を当てたはずの獲物は死なず、逆に自分の武器である大斧が腐食し、ボロボロに溶けていく。
さらに、俺の体から溢れ出す粘液が闘技場に広がり、処刑人の巨体を足元を溶かし始めた。
勝負をする気はない。
今の俺に、レベル99以上のネームドを倒しきる力はない。だが、この怠惰な死神が、次の一撃を繰り出すまでの数秒があれば、俺はこの異形の体を使って、逃げられる。
「……ア、……ア……ッ」
俺は地面を這い、闘技場の隅にある崩落した瓦礫の隙間を目指した。
人一人が通れるはずもない、わずか20センチほどの細い裂け目。
だが、ナメクジの特性を得て骨格すらも自在に歪む今の俺なら――。
ズルリ、ズルリと、俺は自分の体を無理やりその暗い裂け目へと押し込んでいく。
処刑人がようやく重い腰を上げ、溶けかけた斧を振り上げたが、その一撃が届く前に、俺はなんとか深淵の奥底へと体を全て入れる事ができた。
その直後、背後で、凄まじい破壊音が響く。
処刑人が逃げ込んだ俺を仕留めようと、壁に大斧を叩きつけたのだ。
「ガガァッ!!」
地響きと共に瓦礫が降り注ぎ、隙間が激しく揺れる。一撃、二撃。
……だが、その衝撃それ以上続かなかった。 奴は怠惰な死神だ。逃げ込んだネズミ一匹を深追いするために壁を切り開くような熱意など、あいつには最初から備わっていないのだろう。
それでも、俺は止まらなかった。少しでもあの死神から離れたくて、ただひたすらに、湿った粘液を滴らせながら裂け目の奥へと這い進んだ。
***
どれくらい進んだろうか。やがて、わずかに開けた小部屋のような空間に行き着いた。
暗闇の中、俺は荒い息を吐きながらそこに蹲った。
アシッド・スラッグを取り込んだお陰で、傷は塞がった。
だが、代償はあまりにも大きかった。
自分の手を見る。
指先は癒着し、肌はぬらぬらとした灰色の粘膜に覆われている。
視界も色を失い、眼球すらも変質しているのだろう。
かろうじて人型を保っているだけで、もはや人間の面影はどこにもなかった。
ミサキが、……俺の初恋だった女の子が、最も気持ち悪いと忌み嫌ったその姿に、俺は成り果てた。
「……ギ、……ア……」
声を出そうとしても、喉の構造が変わり、ただ不気味な咆哮が漏れるだけ。
言葉を失い、姿を失い。
……俺は本当に一人になった。
気を抜けば流れそうになる涙を必死に堪えながら、俺は暗闇の中で辺りを見回した。
逃げ込んだ瓦礫の奥――そこはかつてこの階層で命を落とした冒険者たちの墓場だった。
数多の白骨と、風化した武具。
その死の静寂の中に、異様な存在感を放つ一式があった。
それは、かつて深淵を攻略せんとした伝説的な冒険者が愛用したという、魔物素材の重厚なフルプレートアーマーだ。
深層の酸の海に棲む魔物の殻を削り出して作られたというその鎧は、鉄を凌駕する防御力を持ちながら、あらゆる腐食を無効化する。
それどころか、強酸に触れることで硬度を増し、破損個所も修復するという、今の俺のために用意されたような呪われた傑作だった。
持ち主はとっくにモンスターに喰われたのだろう。中身の消え失せた漆黒の殻だけが、主を待つようにそこに鎮座していた。
(……これ、なら……)
俺は震える手で、その冷たい黒殻の塊を抱き寄せた。
指先から滴る強酸の粘液が鎧に触れる。ジジッ、と音がして、鎧の表面が濡羽色の深い艶を帯び、より一層禍々しく、より一層強固に、俺の異形を受け入れていく。
この中なら、俺は醜い姿を隠せる。
この硬い壁があれば、誰にも俺の異形を見られずに済む。
そして何より――この重厚な鎧は、形を失いかけた俺の肉体を繋ぎ止める、新しい皮膚になるんだ。
カシャリ、カシャリと、冷たい感触がドロドロの肉を包み込んでいく。
もはや鏡を見る必要はない。
中にいるのがどんな化け物であれ、外から見れば、それはただの不気味で無口な黒騎士だ。
俺は、地面に落ちていた一振りの小剣を拾い上げた。鞘から引き抜けば、鈍色の刃は恐ろしいほどの切れ味を予感させた。
これなら狭い場所でも取り回しに苦労することはないだろう。俺はこの相棒を鎧の隙間に直接固定した。
スマホはない。仲間もいない。
あるのは、自分を裏切った奴らへの、底なしの殺意と――人外に至ったことで研ぎ澄まされた五感だけ。
「……ギ、……ガア……」
やはり、もう人の言葉を喋ることはできなくなったようだ。
だが、俺は確信していた。
次に地上でアイツらに会う時、俺は言葉など使わない。
アイツらが誇る幸せな未来を、俺のこの強酸で、一滴残らずドロドロに溶かしてやる。
漆黒のフルプレートが、闇の中を静かに歩き出す。
一歩、歩くごとに、鎧の隙間から灰色の粘液が滴り、石畳を真っ黒に焼いていった。
新宿ダンジョン深層、第45層。
最弱のナメクジを喰らった復讐者が、ここに産声を上げた。
――その時、俺の脳内に、今まで聞いたこともない「システムアナウンス」が響き渡る。
《称号【死を超越せし者】を獲得しました》
《固有スキル【適応吸収】が進化します》
《――条件達成:レベル差50以上のネームドモンスターに傷を負わせ、生還しました》
《真・ユニークスキル【暴食の王】を開放します》
視界に浮かび上がったのは、黄金色に輝くステータスウィンドウだった。
そこに躍る文字列――【暴食の王】の効果はこの世界の常識を根底から覆す、あまりにも暴力的で絶対的な力だった。
俺は、冷たい鎧の中でニタリと笑った。
……まずは、このダンジョンのモンスターを片端から取り込んで、地上へ戻るための力を蓄えてやる。
待ってろよ、ゴウシ、ミサキ、タイガ、ユイ。
お前たちの平和な日常を、必ず極上の地獄に変えてやる。
まずは【暴食の王】――。
このスキルが、自分をどこまで導き、高めてくれるのか。それをよく調べなくては。




