聖女はもういない
かつて聖女と呼ばれた女は、今はただの農婦として森の端れで暮らしていた。彼女の名はエリア。百年の時が経っても、彼女の銀髪にはかつての輝きが微かに残っていたが、瞳には深い影が宿っていた。
「また悪夢を見たのですか?」
隣の畑を耕していた老農夫が心配そうに声をかけた。エリアは無言でうなずき、鍬を握る手に力を込めた。彼女の手のひらには、かつて結界を支えた時に刻まれた古傷がまだくっきりと残っていた。
百年の時が流れても、彼女はあの日を忘れられなかった。
聖女として砦の最前線に立っていた日々。彼女一人が巨大な結界を支え、魔物の侵攻を食い止めていた。人間たちは彼女の背後で平穏に暮らし、子供たちは笑いながら遊んでいた。彼らは聖女がいる限り安全だと信じていた。
だが、人間たちの言葉は次第に変わっていった。
「聖女様はなぜもっと強力な結界を張らないのか?」
「昨日、隣村が魔物に襲われたのに、なぜ助けに行かなかった?」
「聖女なのだから、もっとできるはずだ」
彼らはエリアも人間であることを忘れていた。食事も睡眠もほとんど取らずに結界を維持する彼女の苦しみを、誰一人として気にかけなかった。むしろ、聖女である以上、苦しむことなどあってはならないと思っていた。
そしてあの夜、疲労で倒れかけたエリアに、最後の一言が突き刺さった。
「聖女のくせに、情けない」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の心の中で何かが壊れた。百年経った今でも、その声は耳から離れない。
次の朝、人々は砦でエリアの亡骸を見つけた。少なくとも、そう信じた。実際には、彼女はただ深い昏睡状態に落ち、誰もが彼女が死んだと思い込んだのだ。
結界が消え、魔物が押し寄せた時、人々は初めて彼女の存在の重さに気づいた。だが、もう遅かった。
エリアが目を覚ましたのは、それから一月後のことだった。森の中の小さな小屋で、一人の男が彼女を介抱していた。世界はすでに変わり果て、人間の領域は魔物に侵食され始めていた。
「なぜ私を助けたのですか?」エリアが聞いた。
男は静かに答えた。「あなたは死ななかった。人々の無関心が、あなたを生かす気力を奪っただけだ」
それから百年。エリアは森の農婦として静かに暮らしていた。時折、魔物が近づいてくることがあったが、彼女はかつての力の片鱗を見せて追い払った。彼女はもう人間たちを守ろうとは思わなかった。守る価値があるかどうか、わからなくなっていたからだ。
ある夕暮れ、傷ついた騎士が彼女の小屋にたどり着いた。
「水を…お願いします」騎士はかすれた声で言った。
エリアは無言で水差しを渡した。騎士はがぶがぶと水を飲み干すと、疲れ切った様子で言った。
「私は…聖女を探している。伝説によれば、聖女は死んでおらず、どこかで生きているという。彼女がいなければ、人類に未来はない」
エリアは窓の外を見つめた。夕陽が森を赤く染めていた。
「その聖女は、もう人間を守る気力はないでしょう」彼女は静かに言った。「彼女を傷つけたのは魔物ではなく、守るべきだった人間たちですから」
騎士はエリアの銀髪と、彼女の手の古傷に気づいた。目を見開き、息をのんだ。
「まさか…あなたが…」
エリアは微笑んだ。百年ぶりの、悲しみに満ちた微笑みだった。
「聖女は百年前に死にました。今ここにいるのは、ただの農婦です」
彼女は鍬を手に取り、再び畑に向かった。背後で騎士が何か叫んだが、彼女は振り向かなかった。
夕闇が森を包み始め、遠くで魔物の吠え声が聞こえた。エリアは空を見上げ、百年ぶりにわずかな力を振り絞って、小屋の周りだけに小さな結界を張った。
自分を守るための、小さな結界。
彼女はもう、広い世界を守ることはしない。人間たちが彼女に気づき、過ちを認め、変わるときが来るまで――もしその時が来るならば――彼女はただこの小さな森で、静かに時を待つだけだった。
風がそっと銀髪を揺らし、百年の孤独を運んでいった。
一応聖女は自分に不老不死の奇跡を自分にかけてる設定です。
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