第64話 狼狽
翌日。朝から失敗ばかりしていた。朝食では口の中を噛んでしまった。桟橋では段差に躓いて転んだ。「玄奥の森」に入って早々に遭遇した2頭の牛頭鬼や8匹の藪小鬼の討伐でこそ【火矢】を外さなかったものの、その後の解体作業ではナイフの手が滑って指を派手に切ってしまった。
わたしがミスをする度にショウくんの手を煩わせることになるのが恥ずかしくて情けなくて…優しい眼差しで杖を向けてくれる彼を見ることすらできなかった。そして、何かと気を遣ってくれる彼とモモが怖かった。だって、二人は昨日の夕方に揃って階段を上がってきたときから…。
悶々としながらも、周囲の警戒を怠らずに森の中を歩く。「玄奥の森」の木々には、日一日と若葉が増え続けている。幾筋もの木漏れ日が差し込んで縞模様を作る穏やかな気候だ。それなのに、息を吸うと空気が肺に閊える感じがして、胸の奥が鈍く痛む。そんなに冷たい空気でもないと思うのに。
「ね、ショウ。狩りはうまくいったし、リカが本調子じゃないから、夕方の治療はパスして早上がりしようよ」
「そうだね、モモ。…リカさん、その方がいいですよね?」
「…あの、わたしは…うん…お願い。ごめんね」
「リカ、あなたの火魔術と魔具術が頼りだもの。調子悪いときは遠慮しないでね」
「…有難う、モモ。ショウくんも…」
二人は呼び捨てで会話を交わしている。明らかに距離が近くなっている。ねえ、昨日は何を話し合ったの?…聞きたいけれど、聞くのは怖い…そして、モモが彼にくっついて歩くなら納得もするのに。彼女は逆に遠慮するように距離を取って、わたしを彼の傍に追いやろうとしてくるのだ。
「反応あり! 牛頭鬼が1頭、藪小鬼1匹を追跡中!」
そろそろ森を抜け木々の間隔も広がってきたところで、さっと後ろを振り向いた彼が告げる。こんな浅層で!
「私の剣で。ショウ、リカを守って!」
「任せて!」「あ、あの…」
モモが背袋を放り出して前に出ると、滑らかな動きで抜剣する。彼は半身になって右手に棒投剣を構え、わたしを庇って立ち塞かってくれた。整った左手がわたしの肩に触れる。心臓が大きく波打った瞬間に、温かで優しい、それでいて頼もしい心が流れ込んできた気がした。起動操作でもないのに…。
「ゲシャアア!」「ヴモオオオオ!」
わたしたちを認めた藪小鬼と牛頭鬼は、白目のない暗黒の眼をぎらつかせ、我を忘れたようにモモに殺到する。先に到達した小鬼が棍棒を振り降ろす。ゴキッ!
「ゲアッ?」
さっと身を躱したモモの左手の丸盾が小鬼の伸びた肘にぶち当たり、棍棒の振り下ろしの勢いを加速させるように薙ぎ払った。魔物はきれいに回転して転がる。そこに後ろから突進してきた牛頭鬼が引掛か…なんと陸上競技のハードル選手のように小鬼を飛び越えてモモの剣撃を空振らせ、こちらへ向かってくる!
バシュッ!
わたしの【火矢】が牛頭鬼の喉を貫き、沈黙させた。二本足の牛もどきは、壊れた水栓のように鮮血を巻き散らしながら転がった。棒投剣も額に刺さっている。
「ごめんなさい! 牛頭鬼を転ばせられると思ったの!」
いつの間にか藪小鬼の首を刈り取っていたモモが謝る。
「いや、牛頭鬼の身体能力を確認できて良かった。一筋縄では行かないな」
「油断大敵よね。毎日、怪我をする魔物狩さんたちが絶えない筈ね…」
「…リカさん、助かりました。有難うございます」
「う、ううん。…ショウくんこそ。あなたの後ろからだったから、落ち着いて【火矢】を発動できたと思う」
「ふふ、そうね、リカ。…急いで解体しちゃおう! ショウ、他の魔物とそれから魔物狩の【探知】をお願いね?」
「了解。リカさん、解体が辛そうだったら言ってください」
残念ながら、と言うべきか、だいたい解体を終えたところで他の魔物狩に出会ってしまった。何度か治療をしたことのある…魔狩隊名は何だっけ。止むを得ず、モモが綱麻布を巻き付けた半丸枝肉を両肩に担ぎ、わたしとショウくんが残りの半丸を分割して持ち帰ることになった。森の出口近くで良かった。
「…ショウ、大丈夫?」
「…重いけれど以外と…意識が分散する方が…」
「…ショウくん、ごめんなさい…」
「いや、両方同時に軽くできないことが分かって良かったですし、いい訓練です」
そうなのだ。彼とわたしの荷物を両方とも【軽量】で軽くすることはできなかった。必死に懇願して遠慮しようとしたのに、彼は頑としてわたしの方を軽くし続けた。分割しない方が良かった…。
わたしたちは魔法袋の有難さを痛感しながら北砦へと戻った。担いできた1頭は北側の出張所で卸し、「実用袋」に収まっている残りの2頭は南側の支部へ持ち込む。今日は初めて3頭も狩れたので、南側で卸した2頭の中型魔石は売らずに確保しておくことにした。小鬼素材もあったから、それでも金貨に届いた。
離れに戻って遅めのお弁当をいただいたあと、何とモモの発案で三度目の「完全版」魔法袋の起動を試すことになった。そして魔法袋の周囲に陣取ったところで、わたしは狼狽を隠せなかった。今までもモモは彼の隣に座っていたけれど、今日は肘を密着させて寄り添うように収まったから。そして、彼の姿勢も少しだけモモの方に傾いていたから…。
「リカ、頑張ってね」
「リカさん。本当に大丈夫ですか?」
「…う、うん。ショウくん、お願い」
「それでは。3、2、1、【完全】」「…【定着】」
タイミングがずれた。それでも彼の心が流れ込んで来る。…ああ、わたしを心配してくれている…温かい。ほっとする。そして、これは、きっと…!!
「…ごめん…なさい…」
わたしは震える声で謝罪した。また、手を放してしまった。最後まで、できなかった。だって、あなたは、わたしを…? ああ、本当ならどんなに!…でも…。
「…リカ?」
「ご、ごめん…な、なに?」
「…董ちゃんとの約束を思い出してね…」
モモが穏やかに微笑んでいる。一欠片の陰りも無い純粋な笑顔。彼女はショウくんにも天使の笑みを向けて軽く頷きかけると、静かに控え間を後にした。
「「…………」」
静寂に包まれた控え間に鼓動の音だけが響く。誰かがわたしの耳の傍に心臓を当てているに違いない。ずっと下を向いたままなのに、あなたの視線を感じる。あなたがわたしを見ている。あなたは迷いながら口を開こうとしている。
「リカさん…」
わたしは無意識のうちに逃げ出してしまっていた。
その晩。お風呂の順番を最後にしてもらって、わたしは長湯をした。魔具の白い光がお湯に反射して揺らめいている。水面の下に、我ながら驚くほどの曲線美の肢体が佇んでいる。あなたのことを考えると、胸の奥がぎゅっと重くなる。離れの頑丈な石造りの土台を壊してしまいそうな程に。
ああ、起動操作で流れ込んできたあなたの心は…信じてもいいのだろうか。それとも、あれはわたしの願望なの…? 怖い。怖いの。怖くて堪らないけれど、いつまでもこんな状態を引き摺る訳にはいかない。二人に迷惑を掛けるだけだもの。…どんな結論になろうとも、あなたの言葉で確かめたい。
あなたは、わたしをどう思っているのか。あなたは、モモをどう想っているのか。あなたは、これから三人でどのように暮らしていきたいのか。わたしは、長い、とても長くて、そして重い溜息を吐いた。儚げな白い光を吸収して壁に揺れる影は、魔物のように黒く不安げに蠢いていた。




