第62話 白油
いつの間にか朝になっている。わたしは慌てて周りを確かめた。ショウくんはいつも通りに起きていて、窓の外を眺めている。モモも目覚めたばかりらしい。示し合わせたように同時に起き出して鏡台へ向かった。幸い二人とも酷い顔はしていない、と思う。無言で髪を梳かし、水が張られている小盥と手拭で顔を拭いた。
「…お二人とも、おはようございます」
「お、おはよう…ショウくん…」
「あの…おはよう…ショウくん…」
三人とも声が小さかった。何も無かったのに、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。わたしは心の中で激しく頭を振った。彼を支えないと。一番悲しいのは彼なのだ。董ちゃんとの約束を果たさないと。
「ショウくん、【浄化】をお願いね」
「ショウくん…いつも有難う」
二人して傍に寄って光魔術を使ってもらう。昨日からお互いの顔を見ながらになっている。まだ照れてしまう…。
「ごめんなさい。寝坊しちゃったから、治療には間に合いそうにないよね」
「ショウくん、リカ。今日は狩りも控えた方がいいと思う」
「いや、僕は…申し訳ない。朝食をいただいて、訓練だけはしましょう」
会話の少ない朝食を済ませ、装備を整えて離れの陰でいつもの日課を熟した。今日は今にも降り出しそうな曇天だった。ひと休みした後、南門の先で魔法の練習でもしようということになり、組合前の広場に到達したところで雨粒が落ちてきたので、仕方なく重い扉を押した。
「おや、皆さん…?」
クンディ様は不審そうな表情だ。いつもと違う雰囲気と思われたのかな…。
「雨が降ってきましたので」
ショウくんが努めて普通の声音で伝える。
「ああ、そうでしたか。…今日は狩りに出る隊も少ないでしょう。応接室で一緒に休憩しませんか?」
クンディ様が笑顔で誘ってくれる。ここは有難くお誘いに乗ろう。
「…いえ、お恥ずかしいことに、広いばかりの弱小男爵家で。大綿に甘苦茶に…せいぜい堅果や竹製品が特産とは言いましても、どれも安値です。蜂蜜は少量ですし。砂地や石灰岩の土地が多いので売るほどは穀物を収穫できなくて…」
わたしたちは応接室で、防水の装備について聞いた後…マントやフードに油を塗ることが多いらしい…クンディ様のご実家であるグラフェル男爵家の話を伺っていた。わたしとモモはソファの後ろに立っている。
グラフェル家は「貴家収攬」に拠ると、魔物の大発生からの復興などの功績で叙された新興の男爵家だ。叙爵されて百年くらいで、領町の他は三十四の村を統治しているらしい。「うちは男爵家としては最小ですから…何しろ神殿に神官補さえ常駐していませんからね」と彼女は自嘲気味に付け足した。
資料室の「貴家収攬」には明記されていないけれど、クンディ様の口振りから判断すると、帝国の男爵家は平均で五十程の村を治めているらしい。そして領地貴族家の数だけでも八百近い。四協帝国は大国とは思っていたけれど…ローマ帝国どころではない、欧州全土とか中国大陸とか、そういうレベルかもしれない。
「…そう言えば、この町の灯火油や食用油は菜種の種油だと思いますが、綿実油は使わないのですか?」
ショウくんが興味深げな笑顔でクンディ様に尋ねる。
「ええ、ご存じの通り、綿実油は赤黒いですし灯の付きも良くないですから。領内で使うくらいですね」
「この世界…失礼、この辺りでは、綿実油の脱色技術は知られていないのかな。簡単に脱色できますよ。琥珀色の種油などよりは、ずっと透明になります」
彼が何気なく言った言葉に、クンディ様は大きく反応した。
「な、何ですって!…失礼しました。ショウ様、あ、油が…綿実油が透明になるというのは本当ですか!?」
「……ええ。極薄い黄色に、ですが。アルカリ…その、消石灰を混ぜればいい筈です。もし、ご領地に白い粘土質の土があれば、より効率的に脱色できる可能性がありますが。まずは石灰で試されては」
「と、透明な植物油が有れば、どれ程の…!」
クンディ様が驚愕されている。透明な油って、少なくとも帝国では珍しいのね。
「しかし…こ、これは森人の秘法ではありませんか? 他家に…普人に漏らされては、ショウ様のお立場が…」
わたしはモモと目配せし合う。エルフと音訳される森人は、やはり優秀で且つ閉鎖的な人種なのかもしれない。
「秘法かどうかは分かりませんが、単なる科学ですから問題ありませんよ」
「…さいえん?」
ショウくんは少し考えを巡らせてから、いつもの笑顔で続けた。
「…そうですね。こうしてください。蔵に綿実油の壺を保管していた。その隣に蔵の壁を塗り直すために積んでいた消石灰の袋が、夜の間に崩れて油壺の中に入ってしまった。翌朝、油壺を見ると透明になっていた。驚いて綿実油に消石灰を混ぜる割合を色々と試して、脱色技術を確立した。…ただの偶然の出来事です」
「ショ、ショウ様…!」
「油に対して百分の一くらいから試すのが良いですね。種油より遥かに透明になりますから、「白油」とでも名付けられて売り出されては如何でしょうか」
「…な、何故、ここまでわたしに…」
「…クンディ様には大変にお世話になっています。それこそ命の恩人とも…そして厚かましいことですが、姉のようにも慕っております。ほんの細やかではありますが、少しでも恩返しをさせていただきたいのです」
ショウくんは丁寧に例の挨拶をした。慌ててわたしたちも倣う。ソファから降りて跪いて挨拶を返してきたクンディ様を立たせて、それでも頭を下げたままの彼女に驚きつつ、三人は資料室に向かった。
「ね、ショウくん…あれは…」
「申し訳ない。却って恩着せがましくなってしまって。でもクンディ様には何かお礼をしたいと話していましたし…」
「ううん、恩着せがましいなんてことはないと思う」
「私、感動しちゃった。でも、どうして?」
「…僕たちはこの世界では異物ですから、影響を与えない方が良いのかもしれませんが。でも、綿実油の脱色は江戸時代初期に発見されたものですからね。この世界でも既に誰かが思い付いていても、不思議は無いくらいでしょう」
「江戸時代か。いつも思うけれど、よく、こんなことまで知っているのね?」
「…偶々です。本当にクンディ様に伝えた通りのエピソードで発見された技術です。それなのに百科事典サイトには記載が無くて、英語版でも19世紀に米国で初めて商業利用が始まった、と間違っていたので、記憶に残っていただけです」
「…これって、異世界あるあるの「現代知識無双」?…江戸時代知識だから違うかな。ううん、あなただからこそ、よね、ショウくん。ね、リカ。クンディ様へのお礼として丁度良かったよね?」
「うん、そうね…有難う、ショウくん」
江戸時代は、菜種油…「水油」と呼んでいたそうです…の大量生産に加えて、綿実油…本当に「白油」でした…の脱色に成功したからこそ、広く油を使えるようになって天婦羅の屋台なんかも出るように…脱色すると灯の付きもよくなって臭いも煤も減りますから、高値で売れると思いますよ…等と更なる知識を披露してくれるショウくんに脱帽しながら、わたしは昨夜のことを思い返していた。
あなたの頭を掻き抱いて泣いていた筈が、いつの間にか二人ともあなたの胸に顔を埋めて咽んでいた。そして、それに気付いたことで涙が止まった。恥ずかしさに打ちのめされながらも頭を起こし、三人で何度も謝罪とお礼の言葉を交わし…気が付くと部屋を静寂が支配していた。
そっと優しく二人の背中を撫でてくれていた両の手も、とっくに離れている。あなたが何かを迷っているのを感じた。何かを。そう、あなたとだって二年近い付き合いがあるのだ。わたしもモモも、ひたすらあなたに恋焦がれてきたのだ。それくらいは分かる。起動操作の触れ合いなど無くとも…。
やがて、部屋の空気が変わろうとした瞬間。モモが跳兎のように自分のベッドに飛び込み、あっという間に毛布に包まってしまった。わたしも弾かれるように離れて自分のベッドに駆け込んだ。心臓が凄まじい速度で走っている。モモは角耳まで真っ赤に違いない。わたしもどこまで赤いのだろう。
ショウくんが無言で部屋を後にする音が聞こえた。わたしは中々寝付かれなかった。もし、あのまま傍にいたら…もし、二人だけだったら…モモをあなたの元に残していたら…あなたが何かを迷わなかったら…部屋に帰って来る音を聞いた記憶は無い。あなたは、ちゃんと自分のベッドに戻って寝たの…?
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