第57話 追憶
「また、あの空間をイメージしようと思います。明暗も軽重も広狭もありませんでしたが、恐らく時間も止まっているというか…そもそも時間の概念も存在しなかったように思いますから。一応【完全】と言いますね」
ショウくんの隣に座っているモモと顔を見合わせて頷き合う。そう言われれば、あの空間は時間すら流れていなかったのかも。地球と「我等世」は双子のように似ているとして、惑星誕生からの経過時間は、どれくらい差があるのかな…いえ、今は起動操作に集中しないと。
この世界の魔法には呪文も発動句も必要ない。飽く迄も発動したい魔法をイメージすることが重要だ。でも魔具の起動操作の場合は合図になるから、何か言ってもらった方がいい。完全版「魔法袋」用の本体は、お店で売っていた一番大きな大綿製の袋(縦50cm横60cmくらい)を利用している。
「ショウくん、準備いい? それでは。3、2、1…」
「【定着】【完全】」
!!!
気が付くとわたしは手を放してしまっていた。
「…申し訳ない。イメージが足りないのかな…」
「魔法陣は一瞬光ったけど、すぐに消えたね…」
「!…!!…………」
ショウくんに寄り添うように座って見守っていたモモが、残念そうな表情で可愛らしい顔を彼に寄せている。
…いつも優しいあなた。今も気遣ってくれて、とても嬉しいの…そして、あなたは…わ、た、し、を…!
そんな筈は…いや、嫌われているとは思わないけれど。でも、でも…この先に思い至ってしまったら…自分の心と向き合わなければならなくなる…駄目よ!…モモの気持ちを…ぐるぐると渦巻く感情に囚われたわたしは、走馬灯のように溢れ出す橘花くんとの馴れ初めの追憶に心を任せていた。
―――――
忘れもしない。あなたと出会ったのは、臺高に入学して間もない図書室。わたしと百桃は図書委員だった。でも同時に委員になった男子が大の苦手で…せっかく本に囲まれる一石二鳥の委員活動ができると思ったのに…と、気分が乗らないままに黙々と当番を熟していたときだった。
(璃花、あのひと!…すごい美少年よ。それに、とても優しそう…)
(ほんと、誠実さが滲み出ていて…同じ一年生よね。何組なのかな)
驚くほど端正なそのひとは『指輪物語』を手にしていた。百桃は運命の人に出会ったという顔をして、毎日、読書する彼の周りを徘徊した。そして終に『終わらざりし物語』を捲っていた彼に震え声を掛けたのだ。転生前の控え目でお淑やかな彼女にとっては、それこそ「清水の舞台から飛び降りる」思いだったろう。
同好の士を見付けた橘花くんも嬉しそうに相手をしてくれて、直ぐにわたしたちは『指輪物語』から始まって、様々な本について語り合うようになった。勿論、図書室では大して話も出来ないから、放課後に待ち伏せして公園や喫茶店などで会い、自習室で一緒に勉強するようにもなった。
初めの頃は男子と話すなんて恥ずかしかったし、クラスも別だったし、彼は急いで帰る日も結構あったから、一年生の時は本当に薄皮を剥ぐようにしか仲良くならなかった。それでも百桃は会うたびに惚れ込んでいき、お料理を特訓しだして、編み物などにも挑戦し始めた。
あなたは本当に優しくて、誠実で、何より紳士だった。わたしたちは何時も男の人の嫌な視線を感じていたけれど、あなたは決して変な目を向けて来なかったもの。遠慮がちに、穏やかで、そして眩しそうな瞳を覗かせるだけ。眩しいのはあなただったのに。百桃は、あなたの瞳を見ることもできなかったのに。
関係が急進したのは高一の冬。百桃のおばあちゃんが一時入院していた病院に彼の妹の董ちゃんも入院していて、廊下で偶然、ばったり会ったのだ。急いで帰るのも、ひとつ下の董ちゃんの面倒を、特に高校入試の勉強を見るためだった。そんな中でも、あなたは出来るだけわたしたちに時間を割いてくれていたのだ…。
「…あの、ごめんなさい。忙しかったのに…わたしたちに付き合ってもらって…」
「いえ! お二人に会うのは何よりの楽しみ…あ、いやその…『指輪物語』の話をできる友人は他にいなくて…僕こそ、何度も付き合わせてご迷惑ではと…」
「そ、そんな。私たちも橘花くんと過ごすのはとても…そ、そうよね、璃花」
事情を聞いた百桃は心を固めていた。少女の淡い憧れに過ぎなかった夢を、実現に向けて密やかに歩み進める乙女の目標に変えて。董ちゃんのお見舞いにも行きたがっていたけれど、こちらからは言い出し難いし…それでも春休み中は董ちゃんも退院したから、あなたと何度か会えた百桃は幸せそうだった。
そして高二の春。百桃の念願叶って三人は同じクラスになった。直ぐに登下校を待ち合わせ、一緒にお弁当を食べ、と常に行動を共にするようになった。不思議と揶揄われることもなく…そして、ひとりの例外を除いて他の女子が近付かなくなった頃、「妹のお見舞いに来てくれませんか」と深々と頭を下げられたのだ。
董ちゃんは美しいのは勿論、大変によく出来た子だった。兄妹は百桃が羨ましがるほどに慕い合っていた。そしてお見舞いの帰りに、なんと百桃が「董ちゃんのお洗濯を手伝う」と強引にご両親が留守だった橘花宅に上がり…二度目の清水の舞台だ…それが切掛けで、お互いの家を行き来して勉強するようになった。
何時の間にか三人一緒に校外で会うことも増え…美術館に博物館、観劇や演奏会、時にはテーマパークまで…わたしは遠慮しようとしたのに、あなたはいつも「ご迷惑でなければ、真榊さんも一緒に」と誘ってくれた。百桃も「璃花がいないと駄目だから」と、決して二人で会おうとはしなかった。
でも一番楽しかったのは、勉強の合間や、お買い物やお食事などの何気ない日常の触れ合いだったかもしれない。あなたは女の子の長い買い物も平気だし、話題が飛び回る会話にも付いて来てくれるし、瞳が合ってしまった百桃が頬を染めて沈黙が訪れると、空かさず楽しい知識を披露して場を繋いでくれた。そして…
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「リカ?…ショウくんが聞いているのよ?」
「いや、もう今日は…」
「ご、ごめんなさい! か、考え事をしてしまって!」
ショウくんが気落ちした面持ちで下を向いている。モモは…ああそんな…この時ばかりは、六年もの長きに渡る大親友という深い関係が恨めしかった。彼女の表情が語ることが分かってしまったから。
…来るべきものが来たのね…
彼女は寂し気な微笑みを湛えながらわたしに視線を寄越し、一度顔を伏せたものの、すぐに明るく告げた。
「リカ。ショウくん。私はお手洗いに行くけど、もう一度、試すなら頑張ってね」
「えっ、ちょ、ちょっと…わたしも…」
今、ショウくんと二人にされたら!
「リカ…彼と話すこと、あるでしょ?」
その目に光るものを見付けてしまったわたしは、それ以上何も言えずにモモが出て行くのを呆然と見守った。
「あ、あの、わたし、寝室で…」
「…リカさん」
「は、はいっ!…な、なに?」
耳元で心音がドクン、ドクン、と脈打つのが聞こえる。それしか聞こえない。ショウくんは、わたしを見ようとして顔を伏せてしまった。わたしも顔を上げられない。まさか…ど、どうしよう…。
静寂が場を包む。どれほど時間が過ぎたのだろう? いえ、殆ど時は歩んでいないに違いない。だって、心臓の音がひとつずつ、ゆっくりとしか聞こえないもの。やがて彼は微かに溜息を吐き、顔を上げてそっと告げた。
「モモさんのことで、ご相談が」
J.R.R.トールキン『終わらざりし物語』同『指輪物語』(題名)
※次回の更新は、3/7(土)を予定しています




