第21話 全てを
「リ、リカ、ごめん…火魔術で灯りを付けてくれない?」
切羽詰まったモモの声で起こされた。部屋は真っ暗だ。今は何時頃なのだろう?
「…どうしたの? おトイレ?」
「…気持ち、悪くて。お腹も…いろいろと、その…うぷっ」
大変! 早く橘花くんを!
「起きて! モモが具合悪いの!」
「ショ、ショウくんは魔力が…」
「そんなことを言っている場合じゃないでしょ!」
橘花くんは、すぐに飛び起きて指先を【発光】で光らせながら傍に来てくれた。彼もベストを脱いでベルトを外しただけで、服を着たまま寝ている。
「モモさん、症状は?」
「…さ、寒気があって、吐き気がして…お腹も…ごろごろする…」
「食中毒でしょうね。消化管の粘膜を【深癒】します」
モモのお腹からお尻の方までを白い光が包む。
「あ、楽になった?…うっ、で、でも…おっおええっ!」
…大惨事になってしまった…
わたしは泣きじゃくるモモに付き添って「浄化便所」にいた。上は大変なことになってしまった。でも下は不幸中の幸いで…慌ててブーツに足を突っ込んだだけで急いだので転んだりしたけれど…少し汚れただけで何とか間に合った。橘花くんの光治療が効かなかったの? 魔法だから確実に効果を発揮しそうなのに…。
いえ、胃腸の粘膜が治っても既にあったものは消えなくて、出すものは出してしまわないと、治まらなかったということかも。寧ろ内臓が健康になったからこそ、積極的に排出しようとしたのかもしれない。宿の「浄化便所」は組合出張所とほぼ同じで、手洗い場もあって便器部分と配管が繋がっていた。
そう言えば「浄化便所」は青い光に当たると一瞬で汚物が消えるから、水で流す必要もない筈なのに。故障や魔石切れした時のために水道も通っているのだろうか。三階なのに水道があるのも進んでいると思う。それにしても、便器部分に差し入れたモモの肌着に【浄化】の青い光が当たると忽ち綺麗になるのは不思議…。
「うっ…うっ…私…もう死んでしまいたい…」
「モモ、馬鹿なこと言わないでよ。せっかく生き返って、新しい人生が始まったばかりなのよ?」
わたしはショックが治まらずに震えている彼女が服を着るのを手伝いながら、懸命に慰めていた。
「で、でも…ど、どんな顔をして、ショウくんの前に…絶対、嫌われて…」
「…モモ。あなたのセリフをそのままお返しするよ? まさか彼を信じられないとでも言うの? こんなことであなたを嫌いになるような男性ではないのよ?」
「ううっ…そ、そうだと…いいけど…どうせ、私なんか…」
「さ、もう戻りましょう? 大切なモモのことを心配して首を長くしているから」
宥め賺してやっとのことで部屋に戻ってきた。朧げに揺れる角灯の光の元でも、どこにも惨状の跡はないことが分かった。橘花くんが魔法で清掃してくれたのだろう。ひんやりしているから、窓を開けて空気も入れ替えてくれたのね。匂いもなかった。風魔術の【操風】も使ったかもしれない。
わたしはモモを誘導してベッドに座らせた。橘花くんが水筒を三つとも持って近付いてきて、隣のベッドにドサリと腰を落とす。青い光がモモを包んだ。杖先が震えている。また、魔力が…。
「…モモさん、水分を摂った方がいいです。三つとも甘苦茶入りにしてあります」
「うう…私…ぐすっ…」
「…モモ、飲める?」
わたしは下を向いたままのモモの隣に座り、対面の橘花くんから水筒を受け取ってモモに飲ませた。彼女は震える手で水筒を受け取ると、少しずつ口に含んでコクリ、コクリと飲んでいった。
「…モモさん。申し訳ない。僕の責任です」
橘花くんが震え声で深々と頭を下げている。
「時間的に、昼間の骨汁が原因でしょう。あのときは手だけ【浄化】して骨汁を【浄化】するのを忘れていました。それに、先程の治療も…青光系の魔法は体内に効かないとされていますが、歯垢が消えたのだから、体内の【浄化】を試みていれば或いは消化管内の不要物だって…本当に、何とお詫びすれば…」
「…そ、そんなこと! ショウくんは何も、何も…精一杯、やって、くれて…」
モモが再び泣き出しながら顔を上げた。
「…モモさんに、辛い思いを…」
「ち、違うの! そうじゃないの! ううっ…」
モモが嗚咽を上げながらも懸命に訴える。
「わ、私が馬鹿だから…ごめんなさい…獣人を選べば【耐性】は必要ないと、勝手に思っちゃったの!…ごめんさない…わ、私はいつもこうで…ごめんなさい…」
「…モモさんは、何も…」
「モモ…神様の説明が足りないせいよ…」
わたしは彼女の肩を抱いて背中を撫でた。心の震えまで伝わってくるようだ。
「わ、私…いつも、守ってもらってばかりで! 私、私だって、ショウくんの…ううっ…隣に、ふさわしい女性になろうと! 頑張ってきたのに…ううっ…に何もかも、敵わなくて!」
「「…………」」
「て、転生して…今度こそ、ショウくんを、支えられるように…全てを、私の全てを、あなたのために!…なのに、こんな…迷惑を…こんな…恥を…」
紫の瞳がわたしを見詰める。わたしは黙って彼女を押し出した。モモが泣きながら彼の胸に飛び込む。
「ショウくん…ううっ…私…うう…私は…」
橘花くんの両腕がモモを包み込んだ。壊れやすいガラス細工を愛おしむかのように、そっと優しくモモの肩と頭と…角耳を撫でる。わたしは黙って立ち上がると、窓の板戸を閉めに行った。空気が冷たい。ランタンの残り少ない油が無くなろうとしている。わたしは杖を掲げ、二人の衣服を穏やかに【加熱】した。
…火魔術の習得段階が第五だから、こんなに離れていても第二段階の【加熱】を作用させられるのね…わたしは暗闇に沈みつつある二人が抱き合う姿を、ぼんやりと眺めていた。嗚咽が止まらないモモに、橘花くんが何か言葉を囁きかけている。この距離では、わたしの耳にまでは届かない。
モモ、あなたは、そこまでの覚悟を決めて獣人に…わたしなんか、ゲーム感覚が抜けなかったのに…。
転生前のあの場所でキャラメイクした時、勿論、二人のことを考えた。橘花くんは間違いなく光魔法をとる。わたしが火魔法や魔具術や薬術を選んだのは、彼をサポートできるようにという理由が大きかった。慎重な彼なら極少数派の森人ではなく普人を選ぶと判断したから、そこは読み違えてしまったけれど。
モモは正直、意外だった。橘花くんを追うように光魔法使いになると思っていたから。【剣術】を限度まで上げた獣人になるとは思わなかった。暴力とは無縁で控え目な、あのモモが。なにしろ彼女は、体育でボールを他人に投げることさえ躊躇するのだ。それなのに…彼のため、彼を守り、彼に全てを捧げて…。
モモ、初めて橘花くんと抱き合えて良かったね。指一本、触れたことすらなかったのに。そう言えば、わたしも胸の奥が…変な気がする。わたしと橘花くんが平気なのは【耐性】をとったからだろう。モモが落ち着いたら、念のためわたしも治療してもらった方がいいかな。でも、これ以上魔力を使わせては…。
橘花くんが漸く落ち着いたモモをベッドに寝かせ、窓際の自分のベッドに…わたしの傍に…近付いてきた。わたしは結局、治療を頼むことはせずに、お互い目顔で「お休み」を言い合うと、それぞれのベッドに潜り込んだ。こうして、異世界最初の長い、本当に長くて濃い一日は、今度こそ終わりを告げたのだった。




