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鴉の朝 そして崩壊

作者: 飯島和男

その朝は、鈍色の雲が立ち込めていた。

駅のプラットホームは上り電車が出たばかりだったので、疎らだった。私は下り電車を待っていた。ふと眼の前の電線にカラスが一羽止まっているのに気がついた。珍しいね、こんな時間にと思った。そして何気に辺りに眼をやると他にもカラスが止まっているではないか! さらに見回すと向かいにビルなどの建物などにも何羽、十数羽はいた。そして恐ろしいことに私を見つめているのだ。


私は立ち尽くしていた。プラットホームのコンクリートが妙に柔らかく感じられる。否、それは私の足が沈んでいるのだ。視線を落とすと、靴の縁が地面に飲まれていた。


——時間が柔らかくなったのかもしれない。


思考が泡のように弾けていく。ふと見上げると、電線の鴉がいつの間にか増えていた。三羽、七羽、いや……もはや電線そのものが鴉の連なりで編まれている。黒い編み目が空を横切る。


「乗りますか?」


声がした。振り返ると、駅員がいた。だが彼は制服を着ていなかった。羽毛のような、黒い何かに全身を覆われている。顔は見えない。眼だけが、まるで煤けたガラス越しのように、私の心の奥を覗き込んでいる。


「どこへ?」


「それは、乗ってから考えることになっています」


私は頷いた。考えることは、後回しにできる。


列車が来た。否、それは列車ではなかった。鉄の塊に見えたが、近づくにつれ、それが巨大な鴉の群れであることがわかる。互いに羽を組み、くちばしを嚙み合わせ、車体のかたちを模している。


ドアの代わりに一羽の鴉が口を開けた。吸い込まれるように、私は乗り込んだ。中には誰もいない。座席の形をした何かが、柔らかくうごめいていた。


車内アナウンスが流れる。


「次は、自己の喪失、自己の喪失です」


車窓の外には、かつて私だった何かが、ホームに佇んでいた。


鴉が笑った気がした。


私は座ることにしたが、座席は私を歓迎しなかった。むしろ、こちらの方が座られているようだった。体が沈むのではなく、座席が私の内側に入り込んでくる。

肉と発泡スチロールのあいだのような、記憶の重みを吸収する素材でできている。


車内の照明はなく、けれど暗くもなかった。光源が自分の内部にあるのだと気づいた。

胃の裏あたりがかすかに発光しており、それが骨を透かして手元を照らしている。


「切符を拝見」と、声がした。


ふり向くと、検札係がいた。いや、眼が三つあったから、たぶん係だったのだと思う。

腕がなかった。だが、切符を差し出す私の手が、自然と彼のポケットを探り始めた。


「そこには何もありませんよ」と三つの眼が言った。


私はもう一度、探った。すると、自分の過去が二つ折りになって、薄い紙片になっていた。

そこには、日付も行き先も書かれていなかった。ただ「ここではない」とだけ印字されていた。


「充分です」と係は言い、顔をひとつ取り外して去っていった。


車窓の外はすでに風景ではなくなっていた。

スライドのように、別々の部屋が一瞬ずつ映る。

畳の部屋、病室、教室、警察署、廃墟、私の顔が映る鏡のなか。

それらがすべて、同じ温度を持っていた。凍っていた。記憶が冷凍保存されているのだ。


「次は、責任転嫁、責任転嫁です」


再びアナウンスが流れた。声は徐々に私の声になっていった。

私は言葉を発していないのに、口の中に次の停車駅が湧き上がる。


——転校、離婚、辞職、逃亡、入院、死。


全部、通過駅のようだった。


ふと、座席の前を見ると、鴉がひとつだけ、椅子のように丸くなっていた。

その鴉が言った。


「お乗りになった瞬間から、あなたは運転手です」


私は立ち上がろうとした。だが脚がなかった。

あったはずの足は、座席の下に残っていた。まるで靴のように脱ぎ捨てられて。


次の駅の名前を、私はまだ知らない。



つり革がひとつ、ゆれていた。

だが車両はまったく揺れていない。

つまり、それはつり革ではなく、私の記憶の残骸なのだろう。

あの時、誰かに助けを求めようとした右手の、最終形態かもしれなかった。


「次は、名前の返却、名前の返却です」


アナウンスが、ひときわはっきりと響いた。

車内にどこからともなくカウンターが出現し、窓口には受付係がいた。

彼はまるで郵便局員のようで、無地のネクタイをしていた。だが、顔の位置に封筒が貼りついていた。


「お名前をお返しください」


私は戸惑った。名前はポケットにはなかったし、財布にも入れていなかった。

けれど受付係は、穏やかな動作で私の喉元に指を差し入れると、喉仏のあたりを軽く引っ張った。


ずるり と、名前が抜き取られた。

長い。粘膜のように湿った、その“名前”は、無数の字画と意味を含んでいるようだった。


「この名前は、再使用できません」


受付係は封筒の口を開け、その“名前”を入れて封をした。

それが彼の顔になった。封筒は、私の名を記録したまま、私を見ていた。


私は、何者でもなくなった。いや、より正確には——

私が私だったという記録だけが、他人の顔になった。


電車は減速を始めた。


「次は……該当者なし、該当者なしです」


車体がきしむ。

ドアが開く。そこには駅ではなく、虚無があった。


空間がすりガラスのようにゆがみ、音は水中のようにこもっている。

鴉の列車は、それでも停車した。車内の照明は完全に消えた——ただし、私の内側の発光も同時に。


「お降りになりますか?」


そう聞いたのは、先ほどの駅員ではなかった。

それは私自身の声だった。いや、私ではない。私だったものの、別の発話器官。

車内の壁が鏡のように変化し、そこに映った自分がこちらを問いかけている。


私は答えなかった。

というより、言語という仕組みがもう、自分の中に存在しなかった。

意味のある単語はすべて車窓に置いてきた気がする。

それでも私は立ち上がり、失われた脚の代わりに、椅子から伸びる触手のようなものに支えられながら、虚無の方へと一歩、踏み出した。


外の世界は、きわめて静かだった。

音は消え、色も匂いもなかった。ただ、可能性だけが漂っていた。


そして、その可能性のひとつに、私は歩き出した。


——次の目的地が、まだ私の中に到着していないことを知りながら。


虚無の駅に立った私は、風のない風景を見渡した。

地面のようなものはあったが、それが「下」であるという確証はなかった。

空のようなものも見えたが、それが「上」であるという理由は、どこにもなかった。


ただ、私という観測者が立っている——

そのことが、かろうじて「世界」を成立させているだけだった。


ふと、足元に影があった。

だが光源はなかった。

つまりその影は、存在しなかったものの痕跡かもしれなかった。


「あなたは誰ですか?」


声がした。

どこからともなく。あるいは、私の脳の内側から。

私は答えようとしたが、もう名前は返却してしまっていた。


「私は……」


言葉が崩れる。

発音とは、意味を音に変換する装置だが、

意味が消滅すれば、ただの呼気にすぎない。


「あなたは、あなたという形式の空き地です」


声の主が姿を現した。

それは、椅子のかたちをしていた。

脚が四本あり、背もたれがあり、ただしそこに座っている者は誰もいない。


「私は、可能性の器です。あなたが今ここにいるという事実は、誰かが“あなたであろうとした”という、ひとつの意志にすぎません」


私は問い返した。


「その“誰か”とは?」


椅子は沈黙した。

その沈黙が、まるで応答のようだった。


——そうか、問いが問いそのものに還元されていく。


「私が私である必要はあるのか?」

「この場所が、世界である必要はあるのか?」


すると、空にカラスが現れた。

一羽だけ。

翼を広げて、ゆっくりと静止していた。


飛んでもいなければ、止まってもいない。

ただ、“そこにある”という事実だけが、宙に浮かんでいた。


それを見て、私はふと気づいた。

あの列車、あの駅、あの鴉、そしてあの名もなき自分。

すべては「世界が私を見ている」という構造の裏返しだったのではないか。


私が世界を見ていたのではない。

世界が、私という器を借りて、自身を観察していたのだ。


その瞬間、地面が剥がれた。

風景が崩れ落ち、視覚も聴覚も、触覚さえも、輪郭を失っていった。

ただ、最後に残ったのはひとつの概念——


「観測されることによってしか、存在は確認できない」


だからこそ、鴉たちは見ていたのだ。

あの朝、駅にいた私を。

まだ世界が、私という装置を必要としていたからだ。


そして今、私は「見られていない」。

そのことが、かえって自由だった。

誰の視線にも縛られない“無記名の自己”が、ここにはあった。


私は、歩き出す。

重力も方向もない場所で、ただ「進む」という意志だけが、運動を生む。


そして思った。


この場所が、いちばん“私らしい”かもしれない。


私は、進んでいた。

だが「どこへ」と問うことに、もはや意味はなかった。

目的地とは、空間の一点ではなく、意識の濃度の差異であることを、私は直感していた。


そして突然、それはやってきた。

空間が、言語のように畳まれたのだ。


足元に広がっていた“ここ”が、まるで書物のページのようにめくれ、

「次の段落」が、目前に現れた。


そこには、円卓がひとつ、置かれていた。

その周囲に、人影のようなものが六つ。

いや、人ではなかった。概念だった。


第一の影は「自己」

第二の影は「他者」

第三の影は「時間」

第四の影は「空間」

第五の影は「意味」

そして第六の影は「否定」


彼らは私を見た。

いや、感じた。

いや、立ち上がった。


そして口々に語り出した。


「あなたは、私なしでは始まらなかった」と、自己が言った。

「だが、私だけでは終わることもできない」と、他者が返す。


「あなたが誰であるかは、私が何時であるかに依存する」と、時間がささやき、

「私がなければ、あなたはどこにも立っていない」と、空間が怒鳴る。


「私が介在しなければ、あなたは考えたことにならない」と、意味が冷たく断じた。


だが最後に、否定が微笑んだ。


「でも、全部が嘘だったとしても、それもまたひとつの真実ですね」


私は思わず、座った。

円卓の中央には、黒い羽根が一枚、置かれていた。


それは——選択肢だった。


「触れれば、戻れる」と概念たちは言った。

「触れなければ、このまま“純粋な在り方”として漂える」


私は迷った。

迷うということは、まだ「自分」がある証拠だった。

だが、すでにその“自分”は形も名前も持っていなかった。


羽根に手を伸ばしかけたとき、不意にこう聞こえた。


「おまえは、まだ“誰かに見られたい”のか?」


——そうだ。

鴉たちの眼差し。駅の監視。車内の鏡。切符の検札。

私の存在は、常に観測されることで証明されてきた。


だが、今ここには、それがない。


ここには、“誰もいない”。

それが、最高の自由であり、同時に最も深い孤独だった。


私は、羽根を取らなかった。


それが、答えだった。


概念たちは黙り、円卓は溶け、空間は再び書物のページのように閉じていった。

私は、“在る”ということの余韻だけを残して、消えていった。


——存在が、自己を必要としなくなった瞬間だった。

気づくと、私は駅のベンチに座っていた。


……いつの駅だ?


ベンチの下から新聞紙がはみ出していた。日付を見たが、数字がすべて“0”になっていた。

目を凝らすと、その文字がゆっくりと羽ばたき始め、紙ごと宙に舞った。

新聞は鴉だったのかもしれない。

あるいは、私の理解が新聞に擬態していただけかもしれない。


周囲には、誰もいなかった。

だが、誰もいないのに「他人の気配」がある。

足音。咳払い。スマホのバイブ音。改札のチャイム。

どれも音だけがあって、姿がない。


——もしかして、ここにいるのは私だけではない。

ただ、「視界の外」にいるだけで。


振り返ろうとすると、首が回らなかった。

いや、物理的に回らないのではない。回す理由が消えていたのだ。


何かを確かめるための動作には、「確かめたいという動機」が必要だ。

それが今、どこにもなかった。


目の前のホームには、かつて乗った“鴉の列車”のようなものが、もう一度近づいてきた。

だが、今度は明らかにそれは普通の電車だった。

車両には「37号車」と書いてある。

そんな番号、聞いたことがない。


ドアが開いた。

中には人がいた。普通の服を着て、スマホを見ている者、弁当を食べている者。

ただ、皆の顔が真っ黒だった。

のっぺらぼうではない。単に顔だけが真っ黒く塗りつぶされているのだ。


私は乗った。

誰も私に気づかない。

視線がない。会話がない。

あるのは“行動だけの群れ”だ。


私は吊り革に手をかける。吊り革は冷たく、滑らかな感触だった。


車内アナウンスが流れる。


「次は、御身不明、御身不明です」


一瞬、聞き間違いかと思った。

「身元不明」ではない。「御身不明」——つまり、誰かが誰かとして敬われることすら、もう不明なのだ。


窓に映った自分の顔を見た。

——黒く塗りつぶされていた。


「あなたも、ようやくこちら側ですね」


となりに座っていた人間が、そう言った。

声は聞こえたが、口は動いていなかった。


私は思わず問うた。


「ここは……どこなんですか?」


「あなたが自分を見失った場所です」


その瞬間、車内がカタリと揺れた。

天井から、黒い羽根が一枚、ふわりと舞い降りた。

私は、それを見つめることしかできなかった。


電車は次の駅に着いた。

駅名は——「正常」。


しかし誰も降りなかった。

正常を、誰も必要としていなかった。


電車は「正常」を通過した。

車内では相変わらず、人々がスマートフォンを操作している。

だがその画面は、すべて裏側だった。

タップする指は宙を撫で、通知音だけが響いている。


私は思わず、自分のポケットからスマホを取り出した。

画面を開くと、ロック解除の数字がすべて「9」になっていた。

9、9、9、9。

どの順番で押しても、ロックは解除されなかった。


私が顔を上げると、車内のモニターにこう表示されていた。


「本日は通常通り、異常が発生しております」


ふと、隣の乗客がくしゃみをした。

その瞬間、彼の鼻が落ちた。

床に、鼻だけがころがり、誰も拾わなかった。


しばらくすると、鼻はスルスルと自力で網棚に這い上がり、荷物と一緒に鎮座した。

それを誰も気に留めない。

他の乗客たちも、どこか身体の部品が足りない。

耳のない男。腕のない女性。だが彼らは日常的にそこにいる。

“なにかがない”ことが、もう“あること”になっている。


私は不意に立ち上がった。足はまだ私のものであるようだった。

ドアの外を見る。駅名表示が変わった。


「窓口閉鎖」駅


私は降りた。

プラットホームには駅員がいた。だが彼は手だけの存在だった。

制服の袖から先しかなく、その手がリズミカルに改札を操作している。


「切符を拝見します」


そう言って、私の口元に指を入れてきた。


「ここに、あなたの正当性があるはずです」


手は喉奥から、なにか紙片のようなものを引きずり出す。

それは、今日の予定表だった。

だが予定はすべて、「未定」と書かれていた。


「たいへん失礼いたしました、正常な未定でございます」


そう言って手は深々と一礼した。


改札を出ると、街だった。

いつもの商店街。見慣れた並び。

だが、看板の文字が全部「たとえば」になっていた。


たとえば文具

たとえば理容

たとえば食堂

たとえば不動産


人々はその「たとえば」で買い物をし、「たとえば」で髪を切ってもらい、「たとえば」で食事をしていた。


この世界では、すべてが仮定で成立していた。


道端の自動販売機で飲み物を買おうとした。

ラインナップはこうだった。


おそらくコーヒー


きっと水


おそらくりんご風味


未確認ホット


ボタンを押すと、紙が出てきた。

「飲んだ気がする権利」と書かれていた。


私はそれを飲んだ。


味は、どこにもなかった。


いつのまにか、駅の構内放送が変わっていた。


「仮定電車、到着のお知らせです。本日は仮定一号が仮定のダイヤに従い、仮定の時間に仮定のホームへ到着する予定です。仮定乗車券をお持ちの方は、仮定的にご乗車ください」


周囲を見渡せば、いつのまにか乗客たちの服装も微妙に変わっていた。全員、黒いカーディガンを着て、胸元には「仮定通勤者」と書かれたワッペンが縫い付けられている。私だけが違う。私は仮定ではなく、現実に出勤しようとしていたのだ。


ホームに入ってきた電車は、車体に「可能性」と記されていた。車窓のガラスは不透明で、乗客の姿は見えない。ドアが開いたが、誰も乗り降りしない。にもかかわらず、周囲の通勤者たちは次々とその中に吸い込まれていく。私の目には、彼らがドアの脇にある張り紙を読むたびに、自らの存在が透明になっていくように見えた。


張り紙には、こうあった。


「この仮定に乗ることで、あなたの出勤は正当化されます。正当な出勤の証明書は発行されませんが、誰も確認しないので問題ありません。全ては形式の問題です」


私はそのドアの前に立ち、乗るべきかどうか迷った。だが、心のどこかでこう思っていた。


「もし仮定に乗ることが常識ならば、私が現実を生きようとすることが非常識になる。では非常識とは何だ?」


プラットホームの端に、例のカラスが止まっていた。今度は一羽だけだった。だが、そのカラスは言葉を発した。


「現実とは、いちばんよく使われる仮定の名前だよ」


私は思わず口を開いた。


「じゃあ、仮定の中で現実を選ぶこともできるのか?」


「もちろんさ」とカラスは言った。「だが、その選択が正しいと証明される頃には、君は別の仮定に乗っているだろう」


電車のベルが鳴った。乗らなければ日常は始まらない。だが乗ってしまえば、仮定としての自分が社会に参加することになる。私は一歩後ろに下がった。


するとホームの床に、うっすらと亀裂が見えた。亀裂の中から何かがこちらを覗いている。否、それはまだ発見されていない仮定だったのかもしれない。


──仮定で動く街と、崩壊する主体


電車はいつまで経っても来なかった。

時刻表は設置されていなかった。いや、あったのかもしれないが、見るという行為が思いつかなかったのだ。ホームに立つ私自身の存在が、まず本当に「前提」としてあったのかさえ、怪しかった。


「お客様、仮定の列車にご乗車ですか?」


駅員の制服を着た男が現れた。が、彼の腕章には「仮定管理局」と記されていた。

聞けば、この街ではすべてが「仮定」で構成されているのだという。出勤も、結婚も、出生届も、すべては「〜であると仮定して処理」される。


「つまり、あなたは“出勤中”なのです。

“働いていることになっている”。“人生を歩んでいる”ことになっている。

ですが、実際にそれを確かめた人間は、ひとりもおりません」


男はにやけて言った。

私は笑えなかった。なぜなら、自分が「どこへ向かっていたか」「なぜここにいるのか」すら、誰にも確認されていなかったからだ。

私が私であるという証明も、あくまで“仮定”でしかなかった。


それから、私は“仮定”の世界をさまよった。

住民票は仮想登録で、市役所は「記録があることになっている」だけの空きビル。

交番の警官は、「治安が維持されていることを装うアクター」で、彼らもまた配役として存在していた。

誰もが自分の「役割」を信じて演じていたが、台本はない。


いや、あるにはあった。

だが、その台本もまた仮定で書かれており、ページを開くと「この場面は未定義のため、各自解釈して行動してください」と記されているだけだった。


私は、ある瞬間、自分の姿が鏡に映らないことに気づいた。

それは比喩ではない。本当に、反射しないのだ。

「あなたという概念が、いまこの街に登録されていないのです」と誰かが言った。

では、誰がその“誰か”だったのか。


──それも仮定だ。


私は鴉のことを思い出した。あの朝、電線にいた一羽。

あれだけが唯一、私を凝視していた。

本当は、彼らだけが“実在”していたのではないか。

いや、彼らもまた「観察者として仮定された存在」にすぎなかったのかもしれない。


世界は、崩れていくのではなかった。

もともと崩れたまま始まっていたのだ。

私たちは、それを“整っていたことにして”生活してきただけだった。


そのとき、私は自分の名を忘れた。

いや、名など最初からなかったのかもしれない。


そして、誰かがどこかで記録した。


「彼は存在したことになっている」


それが、この街の最後のログだった。

駅の改札はまだ閉まったままだった。いや、最初から開いていなかったのかもしれない。駅員の姿もない。カラスたちはひとつも鳴かず、ただじっと、私の一挙手一投足を監視していた。


「本日より、あなたは観察対象です」と、スピーカーから女の声がした。抑揚はなく、ただ文法だけが正確だった。


「え? 誰が?」


「本制度により、自動的に選出されました。詳細は通知されません。」


通知されないことが通知される。それがこの街の論理だったらしい。


ホームの先には、今まで見たことのない改札機が立ちはだかっていた。カードも切符もいらない。必要なのは、「仮定」だけだった。


『もし、あなたが乗客であるなら、通過を許可します。』


液晶にそう表示される。


「私は乗客だ」と心の中でつぶやくと、改札は開いた。だが、少しでも「私は乗客ではないかもしれない」と疑うと、ゲートは赤く閉じた。


仮定に乗る者だけが、制度に迎え入れられる。現実より仮定の方が上位なのだ。疑問は「非協力的」とみなされ、制度上の「事故」として処理されるという。


私は地下鉄の車内に乗り込んだ。乗客たちは一様に眠っていた。あるいは、眠っているふりをしていたのかもしれない。そこには他者の顔はなかった。どれも、鏡の中の自分の顔の変奏だった。


「本制度により、あなたは市民とみなされました」と、再びスピーカーが言った。


市民とはなにか?

名前も国籍も、思想も感情も必要なかった。

ただ、「みなされる」こと。

そして、それを否定しないこと。



窓の外に、カラスがいた。電車と並走して飛んでいた。無数の黒い影がビルの間を抜け、交差点をなぞり、私の目前で宙返りした。


カラスたちは制度に反抗しているわけではなかった。

むしろ、制度そのものだった。

誰かがつくった「想定」が、無数の視線となって空から降り注いでいた。


私は、自分の名前を思い出そうとしたが、無意味だった。

この社会では、名前とは認識されるための仮定に過ぎなかった。


電車の窓から見える街は、まるで舞台装置のようだった。

ビルの壁は薄く、紙でできているかのように、風に揺れている。

歩道を歩く人々は皆、同じ表情をしていた。

無表情。無声。無意味。


「あなたは今、何者ですか?」


声は車内放送からではなく、私の内側から響いた。

問われても答えられなかった。

答えるための「私」がどこにもいなかったからだ。


私は座席の隙間に沈み込むように崩れ、

自分の影すら薄れていった。

この街の制度は、名前も役割も剥奪して、ただ「仮定」という枠組みで人を管理していた。

そこに「主体」は要らなかった。


車内の空気は変わらず静かで、

それでも仮定された秩序は回り続けていた。

だが、その中心にあるはずの「個人」はどこにもいない。


私は完全に溶け、空間の隙間に消えた。

残ったのは、ただ一枚の黒い羽根。

それは、あの朝の電線に止まっていた鴉の羽根だった。


羽根は風に乗り、街の上をゆっくり舞い、

誰も知らないうちに消えていった。


世界は依然として「仮定」の網目を広げ、

人々はそこを歩き続ける。

名も無き制度の中で、

誰もが仮定された役割を演じて。


そして、私たちは今日も生きている。

意味を探しながら、

ただ「存在することになっている」だけで。



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