記憶を失った婚約者は変わってしまった
王太子殿下の命により、辺境の地に赴いていた私の婚約者アレクシス・ヴァレンティヌが頭を打ち、記憶喪失になった、という報せを受けたのが一カ月前。
その彼が戻ってくる、と聞いたのが三日前。
そして今日。私は彼の帰りを出迎えるべく、ヴァレンティヌ伯爵家を訪れていた。
正門前には、私とアレクシスの弟カイン。そして、数名の使用人たちが小伯爵の帰りを今か今かと待っている。
「なあなあセレス~。もし、兄上がセレスのことも忘れてたらどうする?」
紫色の瞳を愉しそうに歪ませ、話しかけてくるカイン。
(こんな時でさえこの人は……)
呆れて物も言えないとはこのこと。
実の兄が怪我を負い、しかも記憶喪失。こうして帰ってこれるようになるまで一カ月もかかった。というのに、カインは心配するどころか喜んでいる。
不快感が込み上げて来る。
睨みつければ、カインはさらに楽しそうに笑った。調子に乗って肩に手を回そうとしてくる。
その手を容赦なく叩き落とした。
(本当にアレクシスと血が繋がっているのかと疑いたくなるくらい軽薄だわ)
アレクシスは生真面目を絵に描いたような男だ。いつも口角を上げうっすらと笑みを浮かべているが、その瞳は冷ややかで感情が読めない。そんな彼を『かっこいい』という人もいれば、『恐ろしい』という人もいる。けれど、私は彼のそんな理知的なところを好意的に捉えていた。カインのような何もかもがいい加減な男よりよほど信用できる。
性格は真逆な兄弟だが、見た目はわりと似ている。アレクシスもカインも一見すると黒髪にしか見えないほどの暗い茶髪で、瞳の色は紫。よく見れば、髪色はアレクシスの方がより濃く、瞳はカインの方が濃い。しかし、それも些細な違い。にもかかわらず、受ける印象は全く違うのだから不思議なものだ。
「お、きたぞ」
カインの声に反応し、顔を上げた。正門の前にベルジュラック辺境伯家の紋章が入った馬車が到着する。扉が開き中から人が降りてきた。
馬車から降りてきたのは紛れもなくアレクシスだ。少し髪は伸びているようだが、記憶に違いはない。続いて降りてきたのは小柄な女性。
(彼女がこの一カ月間記憶を失ったアレクシスを献身的に支えたというエルナ様)
今回のことを抜きにしても、私は辺境伯の一人娘であるエルナ様の名前を知っていた。というのも、彼女は王都でも耳にするくらいの有名人なのだ。辺境の地にいながらも、流行の最先端を行く女性。
(噂以上だわ……)
艶々の栗毛は見たこともない編み込みスタイルでまとめ上げられており、ドレスは今から王城に行くのかというほど華美なものだがそれが彼女にぴたりとあっている。
不意に彼女が口を開いた。
「ねえ、アレクシス様。私、ひとりでは降りれそうもないわ」
ああ、困ったと頬に手を当て、眉尻を下げるエルナ様。それに対し、アレクシスは彼女を一瞥すると、近くにいた騎士を呼び寄せた。
「彼女に手を貸してあげてください」
無感情に淡々と告げる。沈黙がその場に満ちた。
(え……?)
私は思わず、エルナ様とアレクシスを見比べる。
二人の噂は王都にいても聞こえてきたし、わざわざこうしてついてきたくらいだからてっきり記憶を失っている間に二人がそういう間柄になっている可能性は……まあなきにしもあらず?(アレクシスが女性に好意を抱くっていうのが想像できないけど、記憶を失ったのならありえるかも)くらいには思っていた。
しかし、想定していた雰囲気は二人の間にはない。いや、正確に言えば、エルナ様側にはアレクシスへの好意があるように見える。けれど、アレクシスからは……。
(どうなっているの?)
「おいおい兄上。女性に対してそれはないぜ」
アレクシスのフォローをするようにすかさずカインがエルナ様に手を差し出した。我に返ったエルナ様は取り繕い、彼の手を取って馬車から降りる。
カインがやれやれと首を振りながらアレクシスへと近づく。
「どうやら兄上は記憶とともにマナーも忘れてしまったみたいだな。それで次期当主としてやっていけるのか?」
紫色の瞳がぐっと濁り、挑発するようにアレクシスに向けられる。
しかし、当の本人はカインの顔を見て、首を傾げた。
「あなたは……どちら様でしょう?」
その言葉に周囲がざわつく。カインも頬をぴくつかせている。
「な、なに言ってんだよ。記憶を失ってるって言ってもここ数年間分だけだろ。俺が誰だかわからないなんてそんなわけ……」
(あら……だから、さっきカインは私にあんな質問をしてきたのね。数年分の記憶がないということは……きっと私のことも記憶にはない)
アレクシスはフッと笑う。
「嘘ですよ。さすがに弟のカインのことは覚えてますよ」
「……チッ。そういうところ変わってねえのかよ」
カインが忌々しそうに表情を歪め、視線を逸らした。その際、目があう。途端にニヤリと嫌な笑みを浮かべるカイン。
「じゃあ、彼女のことは覚えてるのか?」
そう言って私の両肩を後ろから押し、アレクシスの前に突き出した。いきなりだったので抵抗できず、かなり近づいてしまった。
彼の目が大きく見開き、固まる。彼の瞳に私が映っているのが見えるくらいに近い。
「あ、あの……」
(ここは自己紹介からすべきかしら……)
彼は震える声で尋ねてきた。
「あ……あ、あなたはどこのご令嬢でしょうか。今日ここにいるということは私の知り合い、ということでしょうか?」
「え、ええ。まあ……」
(あら……なにか様子が……)
「なんてことだ!」
ガバッと口を片手で覆う。
「え?」
「こんなっ私の理想を体現したかのようなご令嬢と知り合いだったにもかかわらず、私は彼女のことが思い出せないなんてっ!」
絶望感を滲ませ、嘆く彼に私は絶句せざるを得なかった。それは私だけではなくこの場にいる全員がそうだったようで、皆固まっている。
「どうした? 皆、様子が変だが……何か問題でもあったのか?」
止まった時を動かしたのは遅れてやってきたヴァレンティヌ伯爵。彼の後ろには夫人もいる。二人とも怪訝な顔をしている。
誰も答えを出せない中、アレクシスが「ひとまず場所を変えましょう」と提案した。
ヴァレンティヌ伯爵家の応接室にて。
「改めまして、私はセレスティーヌ・クロワ。クロワ侯爵家の三女であり……そのアレクシス……様の婚約者ですわ」
アレクシスと一応エルナ様にも向けて挨拶をする。
エルナ様からの明らかな敵意を含んだ視線が気になり、私は途中からよそよそしい口調に変えた。まあ、彼女がいなかったとしてもきっと同じ口調になっていただろうが。
(だって……私、こんなアレクシス知らないもの)
頬を赤く染め、キラキラ、いやギラギラ(?)した瞳でずっと私だけを見つめてくるアレクシス。
困惑しているのは彼の両親も同じようで、先ほどからアレクシスと私の顔を交互に見ている。
「君が私の婚約者っ。まさか、こんな夢のようなことが現実にあるなんてっ」
感極まっているように瞳を潤ませ、声どころか体までも震わせているアレクシス。私はなんだかいたたまれなくなり、この場から逃げ出したいような気持ちになった。
「アレクシス様!」
我慢の限界だとでもいうように横槍を入れたのはエルナ様。彼女はいきなり立ち上がったかと思うとずんずんと歩き始め、アレクシスの隣に腰を下ろした。そして、彼の腕にすがるように距離を詰める。淑女らしからぬ行動に思わずぎょっと目をむいた。この場には彼の両親もいるのにすごい勇気だ。いや、彼女の場合はアレクシス以外が目に入っていないだけかもしれないが。
エルナ様は甘ったるい声色でアレクシスに語りかける。
「まだ本調子ではないのね? そうでなければこんな……きっと変なところを頭に打ち付けてしまったのだわ。記憶喪失になるだけではなく、性格まで変わっちゃうなんて……」
「あ、ああ。そのようだな! 以前の兄上とはまるで別人のようだ。頭を打っておかしくなったに違いない。父上!」
「……なんだ?」
「今の兄上に次期当主の座は荷が重いと思います!」
「そ、それは……」
と、言いよどむ伯爵。明らかに様子のおかしいアレクシスを前にして、否定の言葉が出てこなかったのだろう。興奮した様子でカインは己の胸を叩く。
「俺に任せてください! 伯爵家の未来を思えば、俺が継ぐのが一番自然でしょう!」
「おまえが?」
「はい! 俺は兄上ほど頭はよくありませんが、外交は得意です。それにやる気もあります!」
「だが……」
言いよどむ伯爵に、今度はエルナ様が話しかける。
「私も良いアイデアだと思いますわ! ヴァレンティヌ伯爵家はカイン様が継いで……そして、アレクシス様は私のお婿さんになるのはどうでしょう?!」
名案だとばかりに両手を合わせ、小首を傾げ、キラキラした目で伯爵を見上げるエルナ様。
しかし、その案をアレクシスは真顔でぶった切った。――「それは最悪の案ですね」の一言で。
エルナ様は一瞬固まった後、頬を引きつらせ、アレクシスに視線を向ける。
「どうして?」
エルナ様の質問に対し、アレクシスは「わざわざ聞かなければわからないのですか?」とでも言うようにクスリと笑う。エルナ様の頬に朱が走った。
アレクシスは笑っていない目でエルナ様を見つめる。
「確かに私の記憶は一部喪失しています。ですが、それがどの程度影響を及ぼすか、その確認はまだされていません。判断するのは早計すぎるかと」
確かにと伯爵は頷き返す。
「だ、だが記憶喪失だぞ! 重大な欠陥だろう!」
「そうですか? だとしても、カインに当主の座がふさわしいとは思えませんが……。父上、カインの当主教育はどの程度済んでいるのでしょうか?」
「いや。そもそもカインには当主教育は施していない」
「ですよね。だとしたら、現段階ではどちらもふさわしいとは言えないのでは? 幸いなことに私の記憶が抜けているのはここ数年間分のみ。当主教育で教わった基礎は覚えています。であれば、一から学ぶカインよりも私の方が早くものになると思うのですが……自分で言うのもなんですが、私はそこそこ優秀なので」
「確かに」と思いながら軽く頷いていると、アレクシスは照れたような笑みを浮かべた。その笑みはまるで母親に褒められた子供のようで、なんだかキュンとしてしまう。そして、そんな自分にも驚く。
(ア、アレクシスに対して可愛いなんて感情を覚える日がくるなんて……)
カインが顔を真っ赤にして下唇を嚙んでいると、今度はエルナ様が吼えた。
「そんなものセレスティーヌ様がなんとかしてくれるわよ!」
「私?」と思わず目をむく。ギッとエルナ様から睨まれる。
「クロワ侯爵家は文官の家系で娘のセレスティーヌ様もとても優秀だと聞くわ。だったら、カイン様のお手伝いも楽勝でしょう?!」
「それは……ですが、私は……」
「夫婦は支え合って生きるもの! そうよね?」
エルナ様の勢いに押され、私は頷き返す。たしかにそれはそうだが……彼女は何を言いたいのだろうか。
「私はベルジュラック辺境伯家の一人娘なの」
「え、ええ。それは存じておりますが」
「だから、優秀な婿を取らなければならないの!」
「は、はあ……」
それはつまり、『自分は無能だから、代わりに働いてくれる優秀な婿が必要』と堂々と宣言しているようなものではないだろうか。
「ベルジュラック辺境伯にアレクシス様が婿入り、ヴァレンティヌ伯爵家はカイン様が継いで、セレスティーヌ様がそれを支える。ほら、完璧でしょう?!」
「いいえ。やはり、どう考えても最悪なアイデアですね」
再びアレクシスが一刀両断する。エルナ様が「どうして?!」と叫んだ。近いところで叫ばれたのがよほど疎ましかったのか、アレクシスの眉間には深い皺が刻まれている。彼はいきなり立ち上がると、私の隣に座った。
(……距離が近すぎないかしら)
とは思ったが、それを今口にするのは違う気がして黙って受け入れた。
「評価していただけるのは光栄ですが、あいにく私の知識には偏りがあります。ヴァレンティヌ伯爵家の当主になるための知識はあっても、辺境伯をまとめる知識はありません」
「そんなもの今から勉強すればっ!」
「ええ、まあそうですね。知識面ではそうです。けれど、他はからっきしですよ。隣国との関係を円滑に築くための外交スキルもなければ、愛想もない。そういうのはどちらかというと弟のカイン向きです」
「俺?!」とぎょっと目を丸くするカイン。
「それに……」とアレクシスはエルナ様を見やった。
「私はあなたと良好な夫婦関係を築ける気が一つもしません」
「……は?」
「夫婦は支えあうもの、あなたはそう言っていましたが、私はあなたを支えたいとは思えないし、支えてほしいとも思わない」
「ど、どうして」
「どうして……ですか」
気まずそうに視線を逸らすアレクシス。
「い、言って! ダメなところがあるなら直すから。正直に言って!」
エルナ様の必死な言葉にアレクシスは溜息をついた。
「そこまでおっしゃるなら……。エルナ嬢……自分の容姿の良さに自信を持つのは構いませんが、過信しすぎるのは控えた方がいいかと。誰にでも通じるわけではありませんからね。私からしてみれば、計算されつくした愛嬌などむしろ興ざめです。後、頭が悪いのを自覚しているのはいいことですが、だからといって努力を怠っていい理由にはなりません。私、怠惰な馬鹿は嫌いなんです」
ストレートな物言いはなかなか強烈だったようで、エルナ様は愕然としている。けれど、エルナ様もなかなかの強者のようで、すぐに復活してきた。
「じゃ、じゃあ今言ったところ全部直したら私のお婿さんになってくれる?!」
「嫌です」
「なんで?!」
「私の妻になるのはセレスティーヌ嬢しかいないからです」
「つ、妻ってセレスティーヌ様と会ったのは実質今日が初めてでしょう?!」
「ええ、まあ。記憶を失ってからはそうですね」
「なのに、なんでっ」
「そうですね……結局、記憶を失っていても私は私ということでしょうか」
「ど、どういう意味?」
「私は何度だってセレスティーヌ嬢に恋をする――ということですよ」
「なっ。こ、恋って二人は政略的な関係……」
「父上」
「な、なんだ?」
「セレスティーヌ嬢との婚約は政略的なものですか?」
「あ、ああ。そうだが……」
「その婚約を提案したのは?」
「……おまえだ。おまえのプレゼンを聞いて私は確かに彼女との婚姻は我が家の利になると了承したんだ」
(伯爵家からの申し出なのは知っていたけれど……それは初耳だわ)
彼と出会ったのは両家の顔合わせの日が初めてだと思っていたのだが、違ったのだろうか。
私が思案している間に、話は進む。
「つまり、おまえは最初からセレスティーヌ嬢に好意を抱いていたということか」
「でしょう。でなければ、私が直接動くはずがない。なにより、私が彼女を知って動かないはずがありませんから」
「どうしてそこまで……」
思わず心の声が漏れた。
アレクシスの視線が私に向けられる。エルナたちに向けられた無機質なものではなく、とろりとした瞳。動揺して視線を泳がせてしまう。
「ああ、今この場に誰もいなければ抱きしめてしまいたい」
「え?」
「いえ。こちらの話です。そうですね……私があなたを好ましく思う理由についてですがいくつかあります。まず、見た目が私の好みです」
「見た目」
「はい。ああ、とは言ってもただの容姿の話ではありませんよ。もちろん、あなたのその艶めくプラチナブロンドの髪も、澄んだ湖を彷彿とさせるサファイアブルーの瞳も魅力的ですが、それだけではなく立ち振る舞いや表情を含めてのことです。セレスティーヌ嬢は文官として優秀という話ですが、ご実家でも普段から執務の手伝いなどをされていたのでしょう?」
「え、ええ。……なぜそれを?」
「指先にインクが」
「あ」
恥ずかしくなって隠そうとすると、手を取られ握られた。
「恥じることはありません。働き者の手です。それに、セレスティーヌ嬢は責任感も強く、懐も広い。まさに次期当主の妻にふさわしい気質。そして、私個人としても理想の女性です」
「……なぜ」
そんなことがわかるのだろうかと驚く。
(記憶はないはずよね?)
訝しんでいる私の視線に気づき、アレクシスは苦笑する。
「あなたが私を出迎えてくれた時の様子からわかりました。私は記憶をなくし、他の女性を連れ帰ってきた婚約者ですよ? それなのに、セレスティーヌ嬢は私を見て、最初に安堵の表情を浮かべていました。その後は冷静に状況把握することに努めていましたね。そこに、余計な嫉妬心や疑念のようなものは混ざっていなかった。……嫉妬していただけなかったのは残念ですが、私はあなたから信頼されているのだと理解しました。そのことが嬉しかったのです。いくら記憶をなくしたとしても私は私。だというのに、周りはまるで私がすぐに別の女性に惹かれるような男だという目で見てくる。そんな中、あなたは違った。記憶がなくとも私は私だと理解してくれていた。私の本質を見抜いていました」
心底嬉しそうにほほ笑む彼に、私は狼狽えた。なんだか、そう説明されると私がすごい人のようだがそんなことはない。ただ、私は彼が女性に夢中になっている姿が想像できなかっただけだ。
それに、残念ながら私は彼の本質を見抜いていたとは言えない。だって、今こうして私に熱い視線を向けている彼がいるのだから。こんな彼を私は知らない。
「と、いうことで私はセレスティーヌ嬢と結婚して、この家を継ぎますので」
アレクシスはしれっと私の手を握ったまま、伯爵夫妻やカイン、エルナ様に笑顔を向ける。
伯爵夫妻はホッとしたようだった。それどころか、夫人はなぜか感動したような顔で私を見ている。
「そ、そんなの認められないわ!」
「そ、そうだそうだ!」
「私は記憶喪失のアレクシス様を献身的に支えたのよ?! 感謝して私を選ぶのが普通でしょう?!」
「そうだそうだ!」
どうしても受け入れようとしないカインとエルナ様にアレクシスは嘆息する。
「仕方ありませんね。この話は後でしようと思っていたのですが……そもそもなぜ私は記憶喪失になったのでしょうか?」
「え?」
うっすらと笑みを浮かべ、アレクシスはエルナを見つめる。
「そ、それは、倒れたはずみに頭を打ってそれで……」
「そうですね。たしかに私の頭には傷がありました」
「そう! それで」
「誰かに殴られた傷が」
アレクシスの言葉に全員が息を呑む。
「それと、私が倒れたという場所……私が連れていた護衛騎士に聞いたところ、ベルジュラック辺境伯家の応接間だったらしいですね。なぜ、そんなところで私は殴られたのでしょう? 誰が私を殴ったのでしょう?」
「そ、そんなの私は知らない……」
「そんなはずはありません。私が辺境伯に挨拶に行った日。屋敷には辺境伯が不在だったため、エルナ嬢が代わりに応対してくれたと聞きました。場所は私が倒れていたという応接間。私が倒れたのは、護衛の騎士があなたの母親に呼び出され部屋を出ている間。その時、部屋にはあなたと、私。そして、メイドのみがいた。……そういえば、辺境では自衛のため戦闘メイドも雇っているとか」
「それは……」
口ごもるエルナ様を見て、さらにアレクシスは笑みを深める。
「ちなみに、私が連れていた護衛騎士は伯爵家の騎士ではなく、王太子殿下からお借りした騎士でした。そのおかげで、私は彼を通して殿下と連絡を取り、記憶がないなりにいろんな情報を得ることができました」
その言葉を聞いて、エルナとカインの顔色が変わる。互いに焦った様子でちらちらと視線を合わせている。その様子をアレクシスは楽しそうに見つめていた。
「私が辺境伯の元を訪れたのは王太子殿下の命令でした。その理由と言うのが、とある人物の捜索だったんです」
「捜索……」
(王太子殿下とアレクシスの間に交流があることは知っていたけど、護衛騎士を借りる必要がある任務とは? そんな任務をなぜアレクシスが……)
思案する私を横目にアレクシスは続ける。
「数カ月前、王都で違法薬物の販売をしていた商人が姿を消しました。私は王太子殿下の命により、その商人の足取りを追って辺境の地に向かったらしいのですが……結果はこの通り、商人を捕まえるどころか、不覚にも記憶を失ってしまいました」
パッと目を輝かせるエルナ様とカイン。しかし、次のアレクシスの言葉で固まった。
「先日、殿下からその商人を無事捕まえたと連絡がありました」
「……え」
「用意周到な殿下は、私と連絡が途絶えた時点でなにかあったのだと察し……すぐに別の者を手配したそうです。あ、いや、そもそも私の方が囮だったんでしたか……まあ、どちらにしろ、さすが殿下ですね。そつがない。きっと、今頃城では尋問が行われ、商人と繋がっていた人物の情報も……」
「あー、ちょっと俺用事を思い出したわー」
「まあ! 奇遇ですわね。私も少々用事を思い出しましたわ」
「なら、途中まで俺がエスコートしますよ」
そう言ってカインが手を差し出し、エルナ様はその手を取って伯爵の許可も得ずに部屋を出て行く。怪しいことこの上ない。
「放っておいていいのか?」
と、伯爵がアレクシスに投げかける。
「ええ。すでに手配済みですから。ああ、ほら」
聞こえてきたのは二人の騒ぎ声。どうやらアレクシスが手配した――いや、もしかしたら王太子殿下かもしれない――者によって捕らえられたようだ。
ヴァレンティヌ伯爵夫妻が慌てて腰を上げる。それにアレクシスは待ったをかけた。
「父上。このままでかまいませんよね?」
アレクシスは私の手を握ったまま、掲げてみせる。
「おまえ……記憶喪失なのは嘘……ではないんだよな?」
「ええ」
「……そうか。まあ、それでも問題ないようだからいいだろう」
「セレスちゃん」
「は、はい」
不意に伯爵夫人に呼ばれて、背筋を正す。
「あらためて、アレクシスのことよろしくね」
「はい」
しっかりと頷き返すと伯爵夫人は嬉しそうにほほ笑んだ。そして、夫妻は足早に部屋を出ていく。この後が大変だろう。いや、それも込みできっとすでにアレクシスは手を打ってある。記憶を失っていても彼のそういうところは変わっていないのだと今の時間で十分確信を得た。
部屋にはアレクシスと私のみ。なぜかアレクシスが不安を滲ませ声をかけてきた。
「……いいんですか?」
「何のことです?」
「あんな安請け合いして……その……母のあの言葉は身勝手なもので……私も含め、母も父も見た目通りではないというか。一癖二癖あるといいますか……。弟がああ育ってしまったのも仕方ない環境といいますか……」
「わかっています。そして……決して安請け合いしたわけではありません。私はアレクシスの言う通り、責任感が強い人間ですから。皆さんが思っていた人とは違ったとしても、アレクシスが記憶を失った(まるで別人になった)としても、婚約は破棄するつもりはありません。……もっとも、さすがにあなたが大罪を働いたとか、伯爵家が取り潰される……なんていうのなら考えますけど。私も……あなたが私を選んだように、吟味し、あなたとの婚約を決めたのですからね」
驚いたようにアレクシスが目を丸くしている。
しかし、今言ったことは事実だ。私にはヴァレンティヌ伯爵家以外からも婚約の申し込みがあった。その中で、私は私なりに情報を集め、精査し、彼との婚約を決めたのだ。父も彼なら大丈夫だろうとお墨付きをくれた。その決定に後悔は今もない。……戸惑いはあるけれども。
私の言葉を聞いて、アレクシスは弱ったような、心底ホッとしたような表情で息を吐く。
「よかった……あなたに拒否されたら生涯独身を貫かなければいけないところでした」
「そんな大げさな」
「大げさではありません。知人に聞いたところ、記憶を失う前の私はあなたに対しても随分と冷たい態度を取っていたようですから。正直、婚約は破棄されるだろうなと思っていたんです。それも仕方ない。と思っていたのに、こうしてあなたに会ったらそれだけは絶対に嫌だという思いが込み上げてきて……」
(知人って誰かしら。私とアレクシスの共通の友人なんていた? もしかして、知らないところで注目されてた? というか、辺境の地にいたのにそんな情報をどうやって……まさかその知人って護衛騎士? ってことは殿下にも情報が……いや、これ以上は詮索しないようにしましょう)
「た、たしかに、今のアレクシスはまるで別人のようだけれど……ああ、でも他の人にはいつも通りだったような……」
「記憶を失ったことで、なぜかあなたの前でだけ感情のコントロールがうまくできなくなったようですね」
「私の前でだけ……」
「ええ。もしかしたら私は記憶を失う間際、あなたのことだけは絶対に忘れてなるものかと抵抗したのかもしれません。その反動だったのかも?」
首を傾げるアレクシスにおもわずクスッと笑ってしまった。途端に顔を真っ赤に染めるアレクシス。
「そんな可愛い顔で笑わないでくださいっ」
「可愛い顔なんて……というか、私のような女性なんてそこらへんに……」
「いませんよ。私の細かい好みにぴったり合い、かつ、どんな私でもすんなり受け入れてくれる懐の大きい女性なんてそうはいません」
「そ、そんなこと……」
「それに、こうしてすでに私の手の中にあなたがいるのに他の女性を選ぶ必要がどこに?」
それはそうだと黙り込む。
「セレスティーヌ嬢。いえ……セレスと呼んでも?」
「え、ええ。どうぞ」
なんでいきなりと思ったが、すぐにカインが呼んでいたのを気にしていたのかと理解した。どうやら独占欲もなかなか強いらしい。
「セレス。どうか、末永く私の側にいてくださいね」
私の両手を握りしめ、懇願するように見つめてくるアレクシス。
(どうしよう……やっぱりアレクシスが可愛く見えるわ。私、こういう男性がタイプだったのかしら?!)
胸がキュンキュンする自分に動揺しながらも、私は頷き返したのだった。




