第8章「声にならなかった想い」(01)
――視点:紬葵
町役場の応接スペース。
書類と事務機の沈黙が支配するその空間で、紬葵はいつものように笑っていた。
けれど、その声は静かで、明らかにいつもの「飄々」としたものとは違っていた。
「……あのとき、見てましたよ。
中止になった春光フェスのこと。
私、中学の時でした。学校から戻ったら、会場が空っぽになってて」
明美は視線を逸らした。
その話題は、いま一番向き合いたくない部分を真っ直ぐに刺してきた。
「でも、それでも覚えてるんです。
あの日、明美さんが雨に濡れながらテント畳んでた姿。
泣いてるみたいだったけど、それ以上に、“誰にも近づかせたくない”顔してました」
沈黙。
紬葵は、懐からスケッチブックを取り出した。
ページを開くと、そこには町の風景が描かれていた。
河川敷。テント。青空。影を落とす木々。
「この絵、フェスがあった“はずの風景”を描いてみたんです。
思い出じゃない。“幻”でもない。
でも、ここに“あったらいいな”って風景を、描いてみたくて」
明美の指が、微かに動いた。
視線はまだ落とされたままだが、明らかに彼女の内側で何かが揺れていた。
「私は、描くことでしか“ありがとう”を言えないタイプで」
紬葵はぽつりと言った。
「言葉にすると照れくさいし、言葉って変に正確すぎるでしょ?
でも、“この空気よかったな”っていう瞬間って、形にしないと消えちゃうんですよね」
明美は、それに返事をしない。
けれど机の端に置かれた、あの段ボール箱の存在だけが妙に大きく感じられた。
紬葵は立ち上がり、箱の前まで歩く。
「……開けてみませんか? 私と一緒に」
「これは……私が、封印したものです」
「じゃあ、そろそろ“開ける勇気”が芽生えたんじゃないかな。
今日の明美さんの顔、なんか、少しだけ“向かってる顔”してたから」
静かな時間が流れた。
そして、明美はついに箱に手をかけた。
ガムテープが剥がれる音が、やけに大きく響いた。
中にあったのは、雨に濡れて歪んだ書類の束、旧ポスターの原画、
そして手書きでまとめられた“反省ノート”。
明美はそれを手に取ると、しばらくの間読み返した。
「……こんなに、いろいろ考えてたんだ、私。
忘れてた。でも、全部、残してたんだね」
「“残す”って、“未来の自分に託す”ってことだと思いますよ」
その夜。
明美は、紬葵とともに河原に立っていた。
当時のフェス会場。中止になったその日と同じ場所。
祭りの灯りはまだ何もない。
でも、そこには風があった。
「私、本当は、またやりたかったんです」
「……うん」
「でも、誰にも言えなかった。“あんな失敗した人間がまたやるの?”って言われるのが、怖かったから」
「だから、“声にならなかった想い”なんですね」
明美は笑った。
それは、とても静かで、でも確かな笑顔だった。
「ありがとう、紬葵さん。……言えて、よかった」
空には、一番星がにじんでいた。
ふたりの沈黙は、言葉にならなかった感謝を静かに肯定していた。
それは、かつて言えなかった「ありがとう」が、ようやく“風になる”瞬間だった。




