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第6章「静かな傘の中で」(05/End)

  ――視点:絵美

 春光フェスティバル当日。

  朝の陽はやわらかく、昨日までの雨が嘘のように空気を澄ませていた。

 絵美は、早朝の校舎に立ち寄っていた。

  理由もなく、でも何か確かめたくなって。

 廊下を抜けて、誰もいない旧教室の前で立ち止まる。

  その扉の窓から中をのぞくと、そこには、かつて子どもたちと過ごした風景の“残り香”が静かに漂っていた。

 後ろの壁――

  あの「ありがとうポスト」が置かれていた場所は、いまは空白になっていた。

  けれど、その“空いた場所”にこそ、思い出がちゃんと居場所を持っている気がした。



 午前十時。

  絵美は図書館に向かった。

  今日から始まる「ありがとう文庫」の本格展示が、町の公式プログラムに組み込まれていた。

 入口には、慎吾が書いた丁寧な言葉が掲げられている。

「声にならなかったありがとう、

   そして、これから声にしようとするありがとうへ。

   静かに、どうぞ。」

 絵美は、設置された棚の横に立ち、

  静かに訪れる人々を迎えながら、決して“説明”しなかった。

  代わりに、慎吾と同じように「受け取ること」に集中した。



 昼過ぎ。

  朗読イベントの時間が近づくと、絵美は子どもたちと合流した。

  作文を書いた代表の生徒たちが、緊張した面持ちで会場へ向かう。

 ふと、ひとりの女の子が手を挙げる。

「先生、あの、“うまく読めなかったらどうしよう”って思ってる子もいるけど、

  ……ちゃんと“ありがとう”って、伝わりますか?」

 絵美は、ほんの一拍だけ間をあけて、微笑んだ。

「“伝える”って、相手の心のなかに、“あなたがいた証拠”を残すことだよ。

  声がふるえても、言葉をつまらせても、

  その“想ってること”は、ちゃんと届く」

 子どもたちは、口には出さないけれど、そのまま頷いて歩き出した。



 夕方。

  イベントの熱気が少し落ち着いた時間、絵美は再び図書館を訪れた。

  そして、慎吾とふたりで「ありがとう文庫」の棚の前に並んで立った。

「……これ、続けていけますかね?」

 慎吾は一度うなずき、それから初めて小さく笑った。

「“言葉の居場所”って、図書館そのものですから」

 その言葉に、絵美は静かにうなずいた。

(そうだ。学校も図書館も、

  “何者でもない自分”を受け入れてくれる場所であってほしい)

 慎吾がそっと、封筒の束を差し出した。

 その一番上には、こう書かれていた。

「未来の“ありがとう”たちへ」

 それは、まだ言えない誰かのために、

  まだ出会わない誰かに向けて、

  町が用意した“静かな傘”だった。



 帰り道。

  空には、雨上がりの青が広がっていた。

 絵美は、胸ポケットの中に忍ばせた一通の手紙を、指先でそっと確かめた。

「ありがとう」と、ようやく声にできる気がした。

 それは誰かのためであると同時に――

  今まで声を出せなかった自分自身に向けての、

  最初の“感謝の一歩”だった。


 第6章「静かな傘の中で」完

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